第32話 勇者様、会いに行く
いつもの朝より日が高くに昇り、オレンの顔に当たる暖かい日の光が目を覚まさせる。昨日はあれから、母の日記を読みながらいつの間にか寝ていたようだった。
オレンは、フアァ〜と大きな欠伸をして、昨晩の事を思い出す。母の日記にあった御伽噺の部分をまとめて書き出すという慣れない作業をしている最中に、ウトウトしてそのまま眠りこけてしまった。ここに書いてあることに価値があるのか、オレンは自信を持てなかったが、あるいは何かの手掛かりになればと、僅かな期待だけで何枚かに書き写した。日記の中の物語は断片的で、オレンの良く知らいない噺も多く、(ミーヤならこういう母の御伽噺をよく聞いていたのかな?) などと、思いを巡らしながら部屋から出て、いつも通りに食卓に向かった。
食卓では、ミーヤは食事を済ませくつろいでいた。休息日はミーヤの学校も休みとなるが、ミーヤにとって休みはあまり関係なく大抵は学校のお友達と遊んでいる。今やその遊びも、カカマジの打ち合わせになっていて、家に集まったり、カカミまで行ったり様々だ。
オレンはミーヤのやっていることに無関心というわけではなく、あえて気を使って、干渉しないようにしている。もうあと一年もすれば、ミーヤは学校を卒業し将来を決めることになる。オレンは、シュレの様にこの村を出て行くのだろうと想像するが、兄として、親代わりとして、ミーヤの決めた道を尊重しようと考えている。
遅く起きてきたオレンに、ミーヤが声をかける。
「おはよ、お兄ちゃん。遅かったけど、昨日何かしてたの?」
「おはよう。まあ色々ね、考え事してた。」
オレンは何気ない受け答えの中で、昨日の母の日記を思い出し、複雑な気分になる。多分ミーヤも当時のことなど覚えていないだろうが、いつもより会話を続けるのが難しい。
「えー、考え事ぉ? …。あー、なるほどね。えへへ。」
何ともいやらしい声で、悪戯っぽく嗤うミーヤは、オレンが何も言うことなく、自己完結する。それは多分に誤解を含んでいることを、オレンに理解させるが、訂正する気には至らなかった。むしろそんなミーヤの態度は、オレンに聞きにくいことを言わせるのを後押しした。
「…ミーヤはさ、小さい時お母さんと話したことって覚えてる?」
「え? 何よいきなり…。」
ミーヤは先ほどの笑顔から、怪訝な表情に切り替わり、オレンの突然の質問を不思議に思う。
「母さんからさ、水竜と火竜の物語とか、眠りの城とか、フェアリーの住む山とかさ、そんな御伽噺を聞いた記憶ない?」
意図が掴めない突然の質問に、ミーヤはあやふやながらも記憶をたどる。
「…んー。聞いたことがあるような、ないような…。」
「あー、なんかでも、竜の噺は聞いたことがある、かも? 確か、竜が喧嘩して都が焼けたとかなんとか? それが何?」
「…俺は小さい時から父さんの手伝いばっかりで、あんまり母さんと話してなかったから、ミーヤと母さんはどんな話してたのかって、ちょっと気になってさ。そんだけだよ。」
オレンはこの時何故、日記の事を話さず誤魔化したのだろうか、それは多分、オレン自身にも理由は分からない。今はまだ、ほんの砂粒のような些細な事で、こんな疑問すら頭に浮かぶこともないだろう。
「ふーん。それが御伽噺? まあいいけど…。」
「そう言えばお母さんは、この国で一番有名な『勇者伝説』の話はしなかった気がする。」
「…そうそう、私シュレちゃんに勇者伝説教えてもらって、それで勇者に夢中になったんだもん。」
勇者伝説とは、この国に住んでいれば誰もが知っている初代勇者エパの物語。物語の内容は嘘か誠か確かめようのない太古の伝承だが、勇者教団はこの物語を依り代とし勇者を崇め、この国の王族も勇者エパの末裔であることを名乗っている。オレンですら知っている物語だが、これまで見た母の日記の中には、確かにそれについて書かれている箇所はなかった。ただ単に、当たり前の事すぎてあえて取り上げる必要もなかった、というだけだろうと考えて、オレンは特に気に留めなかった。
「…そっか。ありがと、教えてくれて。」 「どういたしまして。」
ミーヤの返答は、オレンが期待するような確かなものに乏しかったが、一言添えておく。と同時に、これ以上自分が考えたところで無駄だと悟り、とりあえず食事を済ませることにした。
今日は出荷作業がない分、朝はゆっくりしてるが、ここ数日勇者たちに関わったせいで果樹園の手入れが疎かになっていた。だから今日のオレンは、休息日といってもあまり関係なくやるべき仕事が詰まっていた。
オレンは食事を終えると果樹園へ出て行った。オレンが暫く作業をしている間に、ミーヤもどこかへ出掛けた。オレンは父親のオーシュから習い、そして残してくれた農業日誌から学んだ事を元に、この果樹園を営んでいる。一緒に生活するミーヤに手伝ってもらってはいるが、それは遠く無い未来に終わりを迎えると覚悟している。ミーヤの将来を考えるとそれは当然のことで、同時にそれは、自分の将来にも繋がっていることだった。
オレンは自分の将来に不満があるわけではないが、この数日の勇者たちとの出会いから、様々な影響を受け内心では揺れ動いている。そんな心の内を照らすように、ノエルから貰った翡翠の指輪が光る。
(そうだよ…。あの時、決めたじゃないか。) その衝動だけがオレンを突き動かした。
あらかた作業を終えたその日の午後、オレンの打算も戦略も勝算すらない無謀な決意は、その足を火竜亭に向かわせた。火竜亭に向かう理由は、あそこが一番勇者に出会う確率が高いから、というだけの事である。そしてたったそれだけの事が、オレンを動かす。オレンが会いたいと願うのは勇者の中でもたった一人、そんな超低確率を狙って引き当てるなど無謀な賭けなのだが、オレンには得るリターンに対して、リスクは無いに等しい賭けでしかなかった。
幸いにも、この時のオレンは気づいていなかった。この賭けの本当のリスクは、引き当てた時にこそある事に。
休息日で市場が閉まっているせいもあり、宿場町であるカカミの人の流れは少なかった。火竜亭に着くと、店内の人込みも普段より少ない。騒がしくない火竜亭の雰囲気は、オレンを新鮮な気分にさせる。しかし一方で、店内の一角では相変わらず、酔っぱらい連中が屯していた。そんな中、オレンを見つけたシュレが声をかけてくる。
「あ! オレン。今日はどうしたの?」 「いや、ちょっとね。」
「そう、いつものでいい?」 「うん。お願い。」
簡単なやり取りをして、少し待つ。本当に何の変哲もない何気ない会話は、ここ数日で起こったことが夢であるかのような、これまでごく普通にあった日常風景だった。暫くして出てきたいつもの火竜定食を食べ始める。(そういや、ここ暫く食べれてなかったな) と思いつつ、オレンはこれまでと変わらない味を楽しむ。そんな当たり前の日常の中には、当然のように、勇者はいなかった。
食べるオレンを前にして、シュレが声をかける。
「オレン。手紙ありがとね。ショーゴから返事あってね、えへへ、今日仕事終わりでデートなんだ。」
オレンの食べる手が止まる。色々ありながらも三日遅れで届けた手紙が間に合ってよかった、と心底ホッとする。その安心感の傍らで、母の日記の記憶が、オレンの心をチクリと刺す。それは本人も気付かないほどの小さな針で、痛みともいえない僅かな違和感を与える傷だった。




