第77話 勇者様、気分転換する
エルフの森はどこまでも続いていた。
陽光が遮られた薄闇、苔むした倒木が横たわる湿った土の匂い、遠くで響く獣の遠吠え。この森に足を踏み入れたときには、どれもが不気味に思えた。しかし、そうしたものに慣れるにつれ、ルーナたちの歩速は増してゆく。それに合わせるように、森の影たちはぴったりと後をついてくる。付かず離れず何とも言えない距離を保ったまま、その奇妙な均衡を維持して、彼らは森を進んでいった。
やがて、彼らは導かれるように、ひときわ大きな大木の根元へと辿り着いた。その堂々とした樹幹は、まるでこのエルフの森を統べる主のような威厳に満ちていた。
「…、さてと。今日は、ここで休むとしましょう。」
ルーナは立ち止まり、二人に向かってそう告げた。
大木の根元には適度な窪みがあり、風雨をしのぐのにちょうど良い。敷き詰められた落ち葉の層が、地面の冷たい湿気を和らげる。日はまだ高かったが、森の深部では夜が早い。この森の中で、ここ以上の快適さを探すのは難しいことを、ルーナの古い記憶は知っていた。
「…、姐さん。あとどのくらいかかるんですかい?」
ハックナインは木の根元に腰を下ろすと、息をつきながら、森の行程を尋ねた。
「ん-…、明日の朝ここを立てば、その日のうちには着くかしら。」
ルーナはここまでの道のりに掛かった時間から、エルフの国に到着するまでの予測を答える。それを聞いたハックナインは、少し考えを巡らせて、もう一つ尋ねた。
「…、あいつらは、夜襲ってくるなんて事はないんスかね?」
「それもまあ…、大丈夫かな。」
ハックナインはここまでの道中で、森に潜む気配の正体に薄々感づいていた。そして、それをルーナは知っていて言わないことに対しても。そんなルーナに対して抱いた、一握りの懐疑を振り払うように、ハックナインは言葉を続けた。
「まっ、俺は、どこまでも姐さんに付いてきますがね。
お嬢ちゃんの方は大丈夫ですかい?」
ハックナインのヒナに向けたその言葉は、気遣いというよりも、紛らわしだった。見た目は少女でも、勇者としての力は自分より高いことは、アンシアのこともありよく知っている。ともすれば、それはお節介に受け止められかねないものだった。
「大丈夫…。」
その短くて、しかし素直な返答は、ハックナインの期待から外れていた。続く言葉がみつからず、その口からはそっけない言葉が漏れる。
「…、そっすか。」
声が鎮まる森に夜が近づく。森の影は深まり、重たい風が葉を低く鳴らし始める。静寂が深まる中、彼らは手際よく野宿の準備を進めた。焚き火を起こし、食事の用意を整える。炎が薪を弾けさせ、ちらちらと揺らめく橙色の炎が、彼らの顔を優しく照らした。
鍋の中から立ち上る香ばしい湯気が、あたりの冷えた空気を溶かし始めるころ、闇はすでに一帯を覆っていた。
「どうっスかね、今日のシチューは。
うちのエンビーの姐さんが持たせてくれた食材で作ってみたんスけど…。」
弾ける薪の火を囲み、ハックナインは努めて明るく振舞っていた。彼の声が夜の中に溶けると、火花のはぜる音がそれを継ぐ。これはこの荒涼とした西の大地を旅する中で、幾度か繰り返されてきた光景だった。しかしそれももう、ゆっくりと過ごせる夜はこれで最後になるかもしれない。そんな思いから、残しておいた取って置きを振舞った。
「いいんじゃない?
この変わった香辛料が効いてておいしいわよ。」
「うん。おいしい。」
二人の上々の反応に、ハックナインの口元も自然と緩んだ。
ハックナインにとってこの旅は、ルーナからの提案と、それをカラダリンが許可したことから始まっている。ハックナイン自身も、魔弓やエルフの国に興味があり、望んでこれを受け入れた。だが、この旅の中で、ハックナインにはどうにも引っかかることがあった。
ルーナの言葉は、どこかいつもとは違う雰囲気を纏っていた。それは最初、自分の都合に付き合わせた二人に対する気遣いなのかとも思ったが、この森に入って、それは間違いだったと確信した。
ルーナの意識は、この森に向けられていた。それは、この森に潜む影に対してもあるのだろうが、それよりももっと深くを見つめていた。何となく、ルーナの過去に関わる因縁めいたものだろうと想像はできたが、それが何なのかまでは触れられなかった。それは恐らく、自分の手には余る事なのだろうから。
ーーー
ハックナインは数ある勇者たちの中でも、異質な存在といえる。勇者として見出された彼が宿す魔子は、その純粋な強さだけを比べれば、カラダリンやアンシアより強い。にもかかわらず、彼は他の勇者たちのように、突出した才能に恵まれなかった。
通常、それほどの力を持つ者は、他を圧倒する何かしらの技量を備え、常人では到底不可能な領域に達する。しかし、彼にはそれが無かった。剣技を始めとする卓越した戦闘技術も、六属性のいずれかに突出した強力な魔法も、彼の手には届かなかった。その身に圧倒的な魔子を宿しながら、それを生かす術を持たぬ彼は、異端そのものだった。
であるにもかかわらず、カラダリンは己の勇者特権を用いて、彼を勇者として重用した。それは、ハックナイン自身ですら理解に苦しむことだった。
だが、カラダリンはその疑問をすぐに晴らした。
彼は、この世界では異端の武器を、ハックナインに託した。剣でもなければ、杖でもない、彼の為に造られたその武器は、何事にも囚われないハックナインに見事にはまった。
そして、その武器の扱い方を学ぶため、弓術の師としてルーナを頼ったことから、二人の関係は始まっている。
ーーー
食事を済ませた三人は、明日に備え早い眠りについた。焚き火が静かに揺らめき、夜は、なお深まっていく。
夜のエルフの森は、また異なる表情を見せる。昼間は薄闇に沈んでいた木々の隙間から、月光の直線が刺すように地面の苔を照らす。その光が突き刺さった箇所だけが青白く反射し、闇の中で淡く揺らめく。森に点在するそれらの光は、湯気のように生まれては、闇に飲まれて消えてゆく。
世界樹の森とは違い、何か特別な存在があるわけではない。ただ延々と広がる大森林は、ただ人の手が入っていないというだけで、エルフの森でしか見られない光と闇が織り成す幻想的な光景を作り出す。それだけのことが、この地がエルフにとって聖地であることを如実に表現していた。
エルフは、この世界において魔法の六属性精霊の祝福を最も享受する種族である。それは肉体の奥深くにまで及び、不変の存在であるエレメントの影響によって、他の種族にはありえぬほどの長命を得ている。生まれながらにしてエレメントと強く結びつき、魔法の素養に恵まれた彼らにとって、この森の環境は魔法の修練に最適な唯一無二の場所でもあった。
ゆえに、この聖域へと部外者が足を踏み入れることを、エルフは決して快くは思わない。だがそれでも、『許す』という選択を取るのは、彼らが聡明である証である。
知識は力であり、未知の情報は時に種の生存を左右する。外部との接触を拒み続ければ、彼らの安寧はやがて停滞へと変わり、気づけば世界から取り残され、閉ざされた森の中で滅びを待つこととなる。そうならない為に、外の世界の価値ある情報を見極め、受け入れる選択は彼らの生存戦略に繋がっている。それは、長い時を生きる彼らが編み出した狡猾さの証でもあった。
影に包まれた森の中、ハックナインは、途切れ途切れの浅い眠りを繰り返す。
周囲への警戒心と、この森が持つ緊張感が安息を許さない。それでも、長旅の疲労は彼を徐々に微睡へと誘い込んでいった。そして、長い夜の中で繰り返されるその何度目かに、ハックナインは、夢とも現ともつかぬ光景を目にした。
いつの間にか、ヒナが森の中に立っていた。
透き通るように溶け込んでいるヒナは、六色ワンドを音も無く振った。
すると、森に差す月光の銀糸が、草花の甘やかな香りに合わせて踊った。
銀色の光の細やかな明暗が風にほどけ、森の中に舞い散った。
途絶え途絶えの意識の中で、ただ眺めることしかできなかった。その光景はただ心地良く、ハックナインを深く深く夢の中に落としていった。
夢の底で、彼は思い出す。この旅のもう一つの目的を。
それは、ヒナの様子を見守ること。特に、彼女が魔法を使うとき、注意深く観察すること。
それは、アンシアから受けた、死からの復活を遂げた人間の調査依頼だった。




