第76話 勇者様、思い悩む
ーエルフの国ー
アプルス王国から西へと広がる大地には、人の手が及ばぬ壮大な自然が広がっている。王国の領土は穏やかで肥沃な丘陵地帯に恵まれているが、西方に向かうにつれ風景は次第に姿を変え、やがて別世界のような厳しい大自然がその顔を覗かせる。
枯渇した荒れ地が続く不毛の荒野。陽の光が閉ざされ、無数の沼地に沈む濃霧の渓谷。獣の牙のごとき鋭利な断崖が連なる山岳地帯。人が生きるには過酷すぎるこれらの環境は、侵入者を拒み続けてきた。
だが、この過酷な大自然こそが、ある者たちにとっては理想の住処となる。砂漠に生き、雪原を駆ける亜人種たちは、この地を天然の要害とし、外敵からの脅威を退けながら自らの社会を築き上げてきた。人の立ち入らぬ未開の地にて、彼らは小規模な部族、あるいは国家と呼べるほどの勢力を形成するに至っている。
その中でも、大陸の西端に広がる大森林は最も広大な領域を有している。その森の奥深く、険しい山々に囲まれた神秘の森を住処とするのが、長命の種族エルフである。
エルフたちはその長い人生ゆえに、保守的な思想を持った種族である。彼らの大半は、西方の大森林から外の世界に出ることはない。故郷を離れ人の国で暮らすルーナは、勇者として秀でた力を有しているだけでなく、その点で例外的な存在といえる。
エルフの国は、その思想ゆえに侵入者には決して寛容ではない。それは一度国を捨てた同族すら、特別ではない。誰であれ入国には厳しい審査が課され、その審査を通過した者だけが、入国を許される。
勇者の持つ特権は彼らの審査に譲歩を引き出すことができるかもしれない。ただそれでも、もし勇者がダークエルフであるのなら、彼らは教団を敵に回しても全力で抵抗するだろう。それほどまでに、この二種族の間には長きにわたる憎悪と不信が横たわっている。
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ルーナたちがエルフの国へ向かい、すでに数日が経過していた。
魔弓ミストルティンの扱い方の手掛かりを求めて、ルーナはヒナとハックナインを連れて故郷へ向かう。彼らといえど、西方を横断するのは容易ではなく、過酷な自然環境を前にできることは限られていた。西方の大自然は、魔界にある世界樹の森よりも過酷ですらあった。
そしてようやく、険しい西の大地の苦難を乗り越え、エルフの大森林に辿り着いたのだった。
「ふぅ…。ようやく、辿り着きましたね、姐さん。」
荒涼とした西の大地を踏破したハックナインは、張り詰めていた息をゆっくりと吐く。まともな道もない不毛の大地を進みながら、いつ魔獣や外敵が襲ってくるとも知れぬ状況に身を置き続ける長旅は、たとえ勇者としての力を持つ彼であっても、じわじわと体力と気力を削っていた。
「ま、こっから先の方が大変なんだけどね、ナハハ…。」
肩をすくめて笑うルーナの笑顔には、どこか申し訳なさが滲んでいる。しかしその軽口とは裏腹に、目の前に広がる大森林から流れる気配は、息苦しいほどに重く感じられた。深い森の奥は薄暗く、密生した樹々は風の音さえも絡め取り、闇と無音が人の五感を曖昧にする。訪れる者の影を飲み込もうと待ち構えているような不吉な気配は、一度足を踏み入れれば、戻る事さえ容易ではないことを予感させた。
「……。」
その森の奥を、ヒナは無言で見据えていた。まるで、彼方に待ち構える何者かと視線を交わしているかのように、見えるはずのない存在を感じ取っていた。
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一般的に、森林の危険度は軽視されがちである。砂漠は灼熱が、雪山は極寒が危険だと肌で見て理解できる。しかし森林は、その理解を狙ったように奪い去り誤解をさせる。それは、静かに命を奪う暗殺者のような存在と言えるだろう。
人の手が及ばぬ大森林ともなれば、木々の迷宮は方角を奪い、足元には毒蛇や蟲が這い回る。容易に手に入る生水にすら、命を削る罠が用意されている。そして夜にもなれば、獣たちが闇に紛れ、獲物を求める襲撃者へと変貌する。
知識も経験も持たぬまま森に入るのは、何の備えもなく砂漠や雪山に挑むのと同義である。
それは、たとえ勇者であっても例外ではない。優れた身体能力、高い生命力、そして魔法の力を駆使すれば、森の迷宮を有利に進めることはできるだろう。しかし、森が勇者よりも弱いという保証はどこにも無いのである。
そして、このエルフの森に限っては、何よりも深刻な問題が侵入者に付きまとう。
ーーー
ルーナたちは森を進む。ルーナが故郷を離れたのは、もう数十年も前のこと。エルフの国への正確な道順など、とうの昔に忘れているが、大まかな方向と目的地は覚えている。それさえ分かっていれば、彼らの力と魔法を駆使して、この大森林を進むのに支障はなかった。さらに、ルーナはこの森に潜むものも覚えている。そして、それらが当面の間は姿を現さぬことも、心得ていた。
時間をかけ、彼らはさらに奥へと慎重に歩み進める。木々の密度は増して、鬱蒼とした森が空を覆い隠す。枝葉が絡み合い、光がまともに届かない闇の中、蛇の腹のように冷たい空気がまとわりつく。森の不気味さは、進むほどに色濃くなっていった。
それでも、森に潜む影は姿を見せない。だが、肌を撫でるようなじわりとした気配は触れる。
「…、姐さん、何かいますね…。」
それを最初に口にしたのはハックナインだった。彼は服の上から武器に手を置き、いつでも戦闘態勢に入れることを示唆した。
「…、まあ、そうね…。でも、安心しなさい、彼らは何もしないから。」
その『何か』の正体を知るルーナは、静かに呟く。その小さな声は、大人しくしていれば荒事にはならないことを示唆していた。
「……。」
二人の会話を聞いても、ヒナは何も言葉を発しなかった。その無言は、既に『何か』の正体に気付いていることを示唆している。
三人は影の気配を感じながらも、さらに影が濃く広がる深淵へと足を踏み入れていく。だが、ルーナが示したように、影は影のごとく、ただ付き従うだけだった。音ひとつ立てず、形すら見せぬまま、ただ彼らを追い続けていた。
これまで、西の大森林を抜け、エルフの国に辿り着いた者は数多い。それはエルフに限った話ではない。西の大地を越え、エルフの森を踏破することは極めて困難なことではあるが、それを成し遂げた者たちは確かにいた。エルフは決して、問答無用で侵入者を排除するわけではない。ただ、国に招く資格があるかどうかを見定めている。
この森に潜む『何か』の正体。それは、エルフの斥候である。
ルーナの言ったとおり、彼らは何もしない。少なくとも、直接的な攻撃を仕掛けてくることはない。しかし、それは同時に、こちらが森で迷い、飢えや乾きに苦しみ、死の淵にあっても、彼らが助けの手を差し伸べることは決してない、という意味でもある。
彼らはただ影となり、森と一体化して潜んでいる。これまでに、そんな彼らに気付くことなく、エルフの国に辿り着いた者もいた。それは、ある意味では幸運だったといえるだろう。
だがもし、侵入者が森を汚し、エルフの国に仇なす者と見なされたとき、彼らは自ら手を下す。しかし、その際に至っても、彼らのその手を目にすることは誰にも叶わない。
その時、彼らは森という地の利を最大限に利用し、静かに、執拗に、そして確実に獲物を追い詰める。まず道標を奪い、水と食料を腐らせ、侵入者が持つ森の知識すらも利用し、巧妙に隠された罠へと誘い込む。そして、周到に仕組まれた逃げ道には、容赦なく、残忍で、そしてえげつない結末が用意されている。
侵入者はその瞬間まで、それがエルフの仕業であると気付くこともなく、この世から消え去ることとなるだろう。その痕跡すら残さない手際は、まさに森に潜む暗殺者である。
それを知るルーナが、二人に何も説明しなかったのは、二人を信頼しているからだ。そして、それは同時に、おそらくは知った顔もいるであろう彼らへの信頼も意味している。
だが、彼らもまた同じであるかは、まだ分からない。




