所持金
小太郎と繋いだままの手をそっと離す。
ぐっしょりと濡れた手のひらに、有り得ないほど自分が緊張していたのが分かる。非常に不快だったろうに、抵抗することなく肉球を繋いでくれていた小太郎には頭が下がる。
ダンジョン帰還の☓(バツ)印を押すにあたり、雅世は寝そべった小太郎に寄りかかり、その手をずっと繋いでいたのだ。
震える指先でタブレットの右上をタップした雅世は気が気ではなかった。
”コア” はああ言ったものの、今、この指をタップしたら最後、小太郎との永遠の別れになってしまうのではないか、と。
二度目の別れが待ち受けているのではないかと。
これは自分の願望が見せた夢なのではないかと。
小太郎が死んだときの情景がよみがえる。もう二度と、あんな思いをするのはごめんだった。
生き返らせておいて、また殺す。
上げて落とすような真似をされたら今度こそ、自分は絶望から這い上がれない気がした。
「良かった」
見渡すと、小太郎さんを発見した家の敷地内、かつて犬小屋があったあたりの庭だった。
ずっと圏外だったスマホを確認すると、普通に時間が経過していた。日付も、西暦年も見間違いない。
無職で、ひとり暮らしである今、数日のずれを気にすることはなかったが、さすがに浦島花子になるのは全力で遠慮したい。
クゥーン、という悲しげな声に小太郎を見ると、荒れ果てた犬小屋をじっと見つめている。
地面をひとしきり嗅いだ後は、家の敷地を巡回し始める。久しぶりの我が家だ。変化を認識しようとしているのかもしれない。
「犬小屋、明日つくろう!」
日曜大工は苦手だが、畑仕事をするようになって少しは逞しくなったはずだ。
「…………」
小太郎が白けた視線をこちらへと送ってくる。
本当に表情豊かになったものだ。会話こそできないが、何を考えているのかほぼほぼ分かってしまう。
犬小屋をつくるにあたり、かつて散々な目にあったのを小太郎は覚えているらしかった。
慣れないことはするものじゃない。ホームセンターで犬小屋買ってきて、デコなどの改造にとどめよう、うん。
チェルシーも緑鳥もいない。
現実世界に一緒に戻ってこられたのは小太郎だけだった。
あれだけ懐いてくれたことに少しだけ淋しさを感じるが、ダンジョンに行けばまた会えるだろう。
その証拠に、
氏名 犬神雅世
年齢 23
レベル 107
職業 ?
スキル 魅了(ただし、獣に限る)
固有スキル 黄泉がえり
称号 獣に愛さし者
仲間 小太郎 チェルシー(ぬこ)※別行動中
従魔 緑鳥※別行動中
所持金 0 !!!日本円からの入金が可能
ふたりの状態に《※別行動中》が表示されるようになったのだ。
ダンジョン内も同じように時間が進むとして、ふたりは今頃何をしているのだろう。思い思いに餌を採って、眠りについている頃だろうか。
いや、どちらも夜行性かもしれない。
ちなみに小太郎、雅世ともに朝型である。
安心感から眠くなってきた目をこすり、タブレットの表示に視線をやる。
新たに追加された項目の《所持金》。
ゼロ、というのが何とも心もとない。確かにダンジョンではお金など持っていなかった。
日本円が使えるのだろうか?
使えたとして、お店などあるのだろうか。
少なくとも、あの大草原には見当たらなかった。隠れ店舗みたいなものが探せばあったかもしれないが、空腹を緑鳥に助けられたことも事実だ。
項目に触れると、ポップアップ表示された。
『日本円を入金して所持金を増やしますか? Yes,No』
「あ、はい」
反射的にそう返事してしまった。イエス、ノーに触れなくとも音声認識が可能とは驚いた。変なひとり言を拾われないようにしなければ。
『あなたの持つ全財産より、固定資産、光熱費その他、生命の維持に必需とする対象を除いた現金額を表示します』
表示された金額を見て雅世は頭を抱えた。
まったくもって正確であったのだ。
貯金額を知られているという驚きと、そのすべてを所持金に入金したらいったいどうなるのだろうという不安。
無論、そんな無謀なことはしない。
慎重に、小心者らしく無難な金額を入金することにした。
――――所持金 10,000(最低限の生活が可能)
ダンジョンで過ごす上での最低金額を満たしたということだろうか。
試しに半分に減らしてみる。
――――所持金 50,00 !!!日本円からの入金が可能
半分では無理らしい。
きっと今日のように空腹状態に陥ってしまうのだろう。それを事前に防いでくれるとは、とんでもなく親切設計だ。
ダンジョンで過ごせる最大24時間の中で必要となってくる金額と考えると、ずいぶんとコスパが悪い。
雅世はとりあえず元の10,000表示に戻してから、寝る準備を始めるのだった。