チェルシー
「みゅー」
毒気を抜かれる愛らしい声。
丸々、もふもふとした乳白色の毛玉。
早くも警戒を解いた小太郎とは対照的に、雅世は顔を引き攣らせて思い切り一歩下がった。
なのに、その分、前方に転がり距離を詰めてくる毛玉。ついには後ろ足を蹴り上げ、凄まじい瞬発力でこちらへと突進してきた。
鳥肌が総毛立つ。目と鼻を庇い、必死に顔を背ける。
雅世は極度の猫アレルギーだった。
一度反応したが最後、目は潤み、鼻水が止まらなくなる。くしゃみが連続して起こり、その日は終日頭痛に悩まされるのだ。
腕で捉えた肉球の感触に、終わった……と覚悟を決める。
「みゃー、みゃー」
柔軟な手足が身体に巻き付き、信じられないほどの強さで羽交い締めにされる。
腕にぶら下がるなどという可愛らしいものではない。どうかすると、押し倒されてしまいそうなほどの重量だ。
間違っても子猫の脚力ではない。
倒されて、顔を舐められたりしたら一発アウトだ。必死で踏ん張り、それを受け止める。振り払う余裕もなかった。
「あ、あれ……?」
襲い来るはずのアレルギー反応がないことに雅世は首を傾げる。
近年は自己防衛のために近寄ることはなかったが、いつの間にやらアレルギーは治っていたのだろうか。
それとも目の前のほかほかした物体は猫とはまた違った生き物なのだろうか。
しかし、どこからどう見ても猫である。雅世の天敵の猫である。
前足を掴んでぶらーーんと抱え上げてみれば重力に従って伸びる伸びる。まさしく液体、間違いなく猫である。
『種族名”ぬこ” のチェルシーが仲間になりました。それに伴い、レベルを+3獲得しました。ステータスの値を更新中…………』
「ぬこ?」
間髪入れて突っ込んだ。
聞き間違いだろうか? ぬこなんて生き物、聞いたこともない。
だが、これが猫ではなく、ぬこという生き物だったのだとすれば、アレルギー反応が起きないのも頷ける。
しかも、すでに名前がある。いったい誰がつけたというのか。
雅世の疑問に答えるかのように、先程のタブレットが眼前に表示された。
氏名 犬神雅世
年齢 23
レベル 102(+3)
職業 ?
スキル 魅了(ただし、獣に限る)
固有スキル 黄泉がえり
称号 獣に愛されし者
仲間 小太郎 チェルシー(ぬこ)
やはり、ぬこらしい。
そもそも、なぜ仲間になったのか分からない。
こういうのは”○○が仲間になりたがっています。仲間にしますか?” みたいな問いかけを経て、初めて成立するのではなかろうか。
そして、仲間にしたことでレベルが上がる仕組みも良く分からない。戦闘力が増えたということなのだろうか。
ならば経験値は? HPとかMPとかは? 詳しくはないが、MPがなければ魔法が使えなくて、HPがゼロになったらゲームオーバーというソフトが昔流行っていたように思う。
そもそも、雅世は何も倒していない。
ダンジョンといえば、スライムが突進してきたり、ゴブリンが棍棒で襲いかかってくるイメージしかない。ゲームをまったくしないため、中途半端な知識止まりだが、何も倒していないのにレベルが増えたり、仲間になったりというのがおかしいことは分かる。
こんなにものほほんとしたダンジョンがあってもいいのだろうか。
比較対象がないため、この”レベル” という数値がどれくらいのものなのかさっぱり分からない。
もし他にこのようなダンジョンがあれば競い合ったりランキング形式でお互い切磋琢磨したり……みたいなイメージが浮かび上がる。
色んなゲームの知識が中途半端に入り混じり、雅世は混乱する。
そのとき、小太郎がひとつ吠えた。
びよーーんと伸びた”ぬこ”、もとい、チェルシーの後ろ足を小太郎が気の毒そうに見やっている。
肉球を掴んだままだった。雅世の腕力と重力との板挟みで伸びに伸びたチェルシーは、にっちもさっちもいかなくなり、ひたすらに耐えていたのだ。
「ごめんごめん、小太郎さん。チェルシー?だっけ、チェルシーもごめんね」
そっと地面に下ろしてやると、足下に頬を擦り付けてくるチェルシー。
これは可愛らしいかもしれない。
犬派であることは揺るぎないが、猫派の人の気持ちが少しだけ分かった気がした。いや、ぬこか。