瞬刃
2人は貧民街へと足を踏み入れる。
本通りから逸れると道幅は急に狭くなり、いかにも路地裏といった雰囲気に変わった。ここから先は正規の都市計画から外れた、いわゆる貧民街となる。
貧民街といっても、建物は市街の主だった建物と同じくどれも石造りで、汚れや風化は見られるもののかなりしっかりした造りだ。魔法によって継ぎ目なく生成された壁面は、まるごと一つの大きな岩盤をそのまま削り出したかのように均整が取れており、それが人工物である事を雄弁に物語っている。
古代遺跡のそれのように無骨で、しかし近代のコンクリート造のものよりもはるかに洗練されて見える建造物が並ぶこの国の街並みは、異邦人である自分にはとても新鮮で、大変気に入っている。
とはいえ、好き勝手に建てられた家々によって路地はどうしようもなく入り組んでおり、無駄にしっかりした造りのせいで高層化したそれらによって陽の光は遮られ路地は常に薄暗く、空が随分と狭い。
悪事を働かんとする者にとってはこの上ないロケーションといえるだろう。実際、治安はすこぶる悪いようだ。道には汚物が散見され、悪臭も酷い。
「上には気を付けておけよ」
「そうだったな……」
ミネスの忠告で恐ろしい記憶が蘇る。ここでは勝手に建てられた建物の上に、更に勝手にあばら屋を建てて居着いている者達がおり、彼らの住まうそれらには当然、下水道も繋がっていない。
一応、ある程度の区画ごとに点在している小広場には、他の建物同様、不法に正規の下水道へと接続させた排水溝が備えられており、上層に住まう者はそこを用いるよう取り決められているらしいが、そんな決まりを守るものは少なく……結果、運の悪い通行人は上から降り注ぐ汚物と鉢合わせる事になる。
自分も先日”あわや”という事態に陥ったが、咄嗟に発動した”還元”に助けられた。
「この前はギリ防げたとはいえ……念のため少し上めにも空気障壁張っとくか……」
信仰心は無いが、さすがに汚物避けに大いなる”還元”を使うことは躊躇われた。(もっとも、後に還元者の職務のひとつとして年一での下水道の清掃処理を任される事になるのだが、今はまだそんな事は知る由もない)
ちなみに足元には既に空気障壁を張っており、靴と先程買ったばかりの外套が汚れないよう気を配っている。
「そもそも、いくら人目を避けたいとは言え……毎度わざわざこんなとこに人を呼びつけるのはどうなんだ」
人ひとりすれ違うのもやっと、といった程の狭路を歩きながら、後ろを歩くミネスに前を向いたまま話しかける。
「奴に頼る以上、仕方あるまい」
奴――とは、自分達に仕事の斡旋をしている”案内人”である小人族の女、ジィグィ=シィグィの事だ。貧民街を根城とする彼女は冒険者ギルドの正式な構成員ではないが、あまり表立って扱えないような仕事を取りまとめる下請け的な役回りを担っている。
「大商人サンも、こんなとこまでわざわざ顔を見せにくるなんて随分な物好きだな」
この貧民街はそれなりの身分のある者にとって、わざわざ好んで立ち寄るような場所ではない。確かに王国関係者の目は届きにくいだろう。かといって、リスクを犯してまで訪れる価値があるほど秘匿性が保たれているかといえば、それもまた否である。
「単なる道楽というわけでもあるまい。何か思惑はあるだろう」
「護衛代だけでも結構高くつくと思うんだよな」
この国では身分種族を問わず殺人を明確に禁じており、例え相手が悪人であろうと、許しなく他者を殺めた者はそれなりに重い罪に問われる。そのため、依頼者が予め高額な罰金の肩代わりを保証しているか、或いは不殺を為せるほど腕に自信のある者でない限り、警戒対象が不特定多数の人間となる可能性のある護衛任務の類いは誰も受けたがらないのが実情だ。
この国の冒険者ギルドが他国のものに比べかなりパッとしないのも、こういった制約が多い事に起因している。ただ、翻ってこの国は国権による治安維持に力を入れているようで、近隣諸国と比べても治安はかなりいい部類に属してはいるらしい。もっとも、貧民街に衛兵の類いは常駐していないが。
「お前の価値を測るつもりなのかもしれんな」
ミネスが不穏な事を言う。さも当然のように自分は対象から外しているが、つい最近還元者の肩書きを襲名したばかりの自分とは違い、この国の英雄として長くを生きている彼女の勇名は近隣諸国はおろか大陸中に轟いているので、間違ってはいない。どうあれ、それなりに気を張っておいた方が良さそうである。
加えてこの歓迎ぶりだ。
名高き還元者と銀影――ミネスの二つ名である――と、豪商たるノクラミスの会談である。嗅覚の鋭い者はもとより、それほどでもない者も何か感じ取るものはあるのか、普段はそれなりに目に付くゴロツキの類に、今日は今のところ一切出くわしていない。どうやら相当に警戒されているらしい。静まり返った街の中で、通りの喧騒が随分と遠く聞こえる。
「少し早く着きそうだな」
取り出した懐中時計で時刻を確認する。指定された時間の20分前ぐらいには到着しそうだ。
「遅れるよりはいいだろう。丁度いい、隠密の改善点の洗い出しといくとしよう」
そう言い放ったミネスが一呼吸のうちに視界から消えたかと思うと、早速あちこちで短い悲鳴やうめき声が聞こえ始めた。自分たちがこの街に足を踏み入れてから、ずっと後を尾けてきていた者達によるものだろう。こうやってミネスに伸されるのも1度や2度ではないはずなのだが、懲りない連中である。
ちなみに殺人は禁忌であるが、国家権力たる彼女が治安維持のためにやむなく多少の暴力を振るう分には、何も問題は無いし何のお咎めも無い……はずだ。
「程々にな……って、うぉっ」
暗がりに横たわった大きなネズミの死骸を危うく踏みそうになる。ナム、と小さく手を合わせ、”還元”しておいてやる。
特に仏教徒だった訳でもないのだが、祈りの言葉として口を衝いて出てくるのはいつもこの言葉だ。この世界の摂理に組み込まれても、あくまで自分は故郷を別に持つ異世界人なのだという、ちょっとした矜持のようなものとでも言うべきだろうか。聖母樹教に属する還元者としてはあまり良くないのかもしれないが。
「俺も修行に勤しむかね」
今しがた”還元”で生じたマナの表面を自分のオドで包み、拡散させないように集中しつつ再び歩き始める。ちょうど風船を引っ張って歩くような格好だ。
「からの……こう……!」
歩みを止めないまま集中を深め、マナに自分のオドを乗せていく。風船はみるみる小さくなっていき、代わりに糸の部分が急速に長くなっていく。やがて大きくたわんだ部分から新たな糸が無数に伸び、植物の蔓のように周辺に拡がっていく。伸びた糸全てがオドであり、自身の延長である。
実体を持たせないままマナを直接自身のオドとするこの術は、”還元”を試す試行錯誤の中で偶然発見したものなのだが、ミネス曰く「聞いたこともないふざけた」術らしい。
オドを直接操るという点では、魔力波などの魔法と同一視されがちだが、あれは単純な魔力の放出、水鉄砲のようなものであり、操作ではない。
思念伝達などに代表される精神魔法に近しいのではとも思われるが、あれらもあくまで一定の波長を持たせた魔力を飛ばして、対象の脳組織のオドに影響を及ぼす術であるため、やはり性質が異なる。
”逆還元”とでも言うべきだろうか、純粋なエネルギーであるマナをその性質を保ったまま自分のものとして操作・展開するこの技術を、自分は空間神経と呼んでいる。
自身のオドによって間接的にマナを操るという性質上、術者を基点として発現するのがあらゆる魔法の基本であり常識なのだが、この空間神経はそれを覆す。この実体なき糸の何処からでも直接魔法を発動させる事が可能なのだ。
故に、還元者の力を組み合わせれば、使い方一つで単身で超広範囲に空間燃焼を展開して大軍勢を一度に窒息死させたり、超精密操作で人知れず対象の体内に直接石礫を叩き込むなどといった、強力かつ非道極まりない行為も容易に行うことができてしまう。
ミネスに促されるまま、この国の魔法を司る機関である魔法院に報告した所、お歴々の満場一致で禁術の指定を受けることとなった。
禁術指定を受けるような術の使い手は当代では自分以外に数えるほどしかいないらしく、その筋の人間には自分は還元者としてより禁術使いとしての方が認知度が高いらしい。
ちなみに禁術に指定されはしたものの、容易に真似できるものでもなく、これといって罰則のようなものもないため、時折こうやってこっそり使っている。
しかしこれもまたミネス曰く、「実体が無いとはいえ、体表からオドだけが伸びている絵面は、皮膚から触手か何かが生えてきている別種の生物のように感じられて相当気色が悪い」らしい。あんまりな言い草だが、他者のオドを知覚する事に慣れた今、改めて鑑みてみると確かにその通りかもしれない。そんな事をぼんやり考えながら、空間神経の範囲拡大に伴って急速に増えていく知覚情報の処理に取り組み始めた。
「おー、いたいた」
貧民街の中心部一帯まで行き渡った実体なき糸によって、図抜けて強いオドの存在を感知する。これはミネスだろう。すさまじい速度で動き回り、既に店を挟んだ反対側へ”掃除”の手を広げているようだ。たまたま居合わせた無関係のゴロツキたちにとってはとばっちりもいいところである。
どうやらざっと確認した限り、脅威となるような者は周辺にはいないようだ。この様子ではノクラミス氏が支払った護衛代は無駄な出費に終わるだろう。
「さて、依頼主さんは、と……」
前方、路地を抜けた小広場の少し先、待ち合わせ場所である”案内人”――ジィグィの待つ酒場へと意識を巡らせる。店全体を包む広範に渡り魔力障壁を張ってこちらの干渉を跳ね除けているのはジィグィだろう。流石はヒトよりも長くを生き、精霊に親しい小人族といったところか。
「(おいコラお前ら!いい加減にしやがれよ!毎度毎度好き放題やりやがって!)」
何やら言っているようだが、気にしないでおく。
彼女の魔力障壁に阻まれて店の内部までは把握できないが、この様子だとノクラミス氏はまだ待ち合わせ場所には着いていないようだ。となると、自分たちの後に続く形だろうか。
「む、これは……」
意識を後方に向けた途端、不意に強いオドの気配が感ぜられた。かなり近い。既に半径200メートル程まで知覚範囲を広げていたはずである。ずっと探知をすり抜け続けていた?
(いつからだ? ――煌緑の盾)
(彼我の距離は? ――完全状態回復-維持-)
(武器は? ――影より出ずる刃)
向き直りながら思考をフル回転させる。ミネスに叩き込まれた通りに体と頭は半ば自動的に動き、攻防の魔法を展開し迎撃体制を取る。路地の向こう、20メートル程先に真っ直ぐこちらへ向かってきている何者かを視界に捉える。
(こいつか)
薄暗い路地の静寂を切り裂いて嵐が巻き起こる。八方に張り巡らせた糸から無数に生み出された闇の刃の奔流を滑るように躱し、弾き、一陣の風が走り来る。迅い――。
(武器は――刀か――)
逆手に握った小振りな直刀を眼前に構え、実体のない影より出ずる刃を弾いている。聖遺物か刀身への高位魔法のエンチャントか。いずれにしても、あれで斬りつけられれば煌緑の盾一枚の守りだけでは容易く破られてしまうだろう。
(防御を一部解除して迎撃――鋼鉄死線! ――マジか潰され――”還元”――!)
一気に眼前まで距離を詰めてきた相手に対して、右手で咄嗟に鋼鉄死線――切れ味鋭い無数の鋼線を高速で展開する殺傷力の高い魔法である――を発動させ迎撃を試みるも、術の出始めを右手首から先ごと短刀で物理的に叩き落とされ不発に終わり、返す刀で短刀が喉元へと――跳ね上がる――!
ガギィィン、と凄まじい金属音が辺りに響き渡る。ゆっくりと減衰していく澄んだ金属音の余韻に、綺麗な音だな、などと間の抜けた事を考えながら、遅れてやってきた灼けるような右腕の痛みを感じつつ、固く閉じていた目をゆっくりと開く。首は――無事だ。
展開していた煌緑の盾を案の定易々と切り裂いた凶刃は、喉元に沿わせてどうにか展開した”還元”の光に届く寸前で、突然現れた第三者にその勢いを殺がれていた。驚くべきことに、素手によって。
「また腕を上げたな」
未だ力の拮抗状態にあるのか、小刻みに震える刀身を掴んだままミネスが襲撃者に呼びかける。どうやらあの一瞬の間に割って入って助けてくれたらしい。しかし果たして直立して腕を差し入れたその体勢の、いったいどこにどう力を込めればあの剣戟を受け止めることができるというのか。
「…………」
襲撃者は何も答えず、俯いたまま震えている。髪は少年のように短く切り揃えられているが、どうやら妙齢の女のようだ。思ったよりも小柄である。この女はこの女で、この小さな身体のいったいどこからこれだけの膂力が生み出されているのだろうか。
(ああクソ、痛ぇ、痛すぎる。というか、何だ、ミネスの知り合い――)
「〜〜〜〜ッ! 流石ですミネス様!!!」
女は突然感極まった様子でそう叫ぶと、短刀を下ろし、一歩下がってこちらに向けて勢い良く頭を下げた。異世界なのに変なところで日本文化との近似を感じるが、これもブシが住むという南方の砂漠の国の影響だろうか。片手を首に当て相手に首筋を晒してみせるのがこちら流らしい。日本人だった者としてはいまいち誠実さを感じない所作であるが、こればかりは慣れる他ない。
「還元者様におかれましては、この度のご無礼、平にご容赦のほどを!」
そう言うや、切り落とされた右手をサッと拾い上げ恭しく差し出してくる。脂汗が出る程の痛さと吐き気で頭が回らない上に、先程までの殺意全開の様子とは打って変わった妙に溌剌とした礼儀正しいキャラに面食らってしまい、思わずそのまま受け取る。未だ鮮血の滴るそれを切断部にあてがうと、じきに完全状態回復-維持-による接合・再生が始まった。
「え、いや何だ、意味がわからねえ!?」
ご無礼などというレベルではないし、到底ご容赦できる所業ではない。
「赦せ。けしかけたのは私だ」
「はあ!?」
さらりととんでもないことを言うミネス。右手首の再生は概ね完了し、にわかに痛みは引いてきたものの、話の展開の速さにやはり思考が追いつかない。
「先程そこで偶然出くわしてな。ちょうどお前の仕上がり具合を見ておきたいところであったし、万一の場合はギリギリ私が止めるから、一度殺す気でかかってみろ、とな」
「実際死にかけたんだが!?」
右手の感覚を確かめながら、己が師のスパルタを通り越した指導方針に思わず声を荒げる。まだ少し違和感があるが、失血した分のリソースが足りていないのだろう。
完全状態回復-維持-は数ある回復魔法の中でも極めて高度な時空操作系の回復魔法であり、数分前の健常時の身体を随時読み込んでおき、異常発生時に投影置換する事で治療する魔法である。最悪首が飛んでいたとしても、魔法が展開できている限りは理屈の上では再生が可能なはずではあるが……全くもってゾッとしない話だ。
「私も正直、本当に還元者様をこの手にかけてしまったんじゃ、と思ったのですが……私が間合いに入ってからの、あの一瞬であれだけの距離を詰めてこられる身のこなし! すごすぎます!」
「ほう、見えていたか。成長したな、ピア。それに引き替え……」
不満気にこちらへ目を向ける。
「反応速度はまずまずといったところだが、それ以外がまるでなっとらん。あれほど相手をよく観察しろと言って聞かせてきたのに全く……あの場面で防御を捨て鋼鉄死線だと……接近戦で飛び道具に頼るなど愚策にも程があるだろうが」
「いえいえっ! あれは、あ、なんかマズイかも、と思ってとりあえず叩いてみたら偶然上手くいっただけですので! 偶然ですっ、ぐうぜん!」
フォローになっているのかよくわからない強襲者の弁を聞きながら、とりあえずでこんな目に遭ったのか、となんともやるせない気持ちで屈み込み、地面に飛散した自分の血液を右手の回復効果圏で撫でて回収していく。これだけの仕打ちを受けた自分を慮ってくれるような人間はここにはいないのだ。最早怒る気にもなれない。
「いや、あの距離までこいつの探知を躱してのけたのだ。誇っていいぞ。単純な体捌きだけならばもう私を超えているかもしれんな」
「〜〜〜っ! ありがとうございますっ!!」
再び感極まった様子の女の事はさておき、未だに状況が飲み込めていない以上、まずは一番気になるところを確認しておく。
「とりあえず……どういう関係で?」
「ああ、紹介しておこう、こいつは以前私が弟子に迎えていた者でな」
「”青き深淵”調査執行官、ピア=フェンデと申します!」
そう言いながら勢いよく差し出された手を握り返し、「あっどうも……」とあまり意味を為さないお辞儀をしながらも思考を巡らせる。”青き深淵”とは魔法院直轄の国営魔法研究機関で、たしかミネスも以前何度か所属していた事があったと言っていたはずだ。どうやら自分と同じくお国に仕えている人間らしい。
(しかしピア……この名前どこかで……)
「もう十分に実感したと思うが、こう見えてこいつもこの国に仕えるいっぱしの戦士だ。世間では”瞬刃”と呼ばれている」
「ああ、”瞬刃”のピア! たしかこの間出た英雄のカードの新作に載ってたな」
「はいっ! いやー、還元者様にご存じ頂けていたのは光栄ですが、改めてそう言われると少し恥ずかしいですね〜……ミネス様に比べれば私なんてまだまだ”鈍刃”ですし……」
頭を掻きながら、たはは、と笑ってみせる。一見ユルそうに見えるが、彼女こそは先の戦争で国境を超えて青きエンジュ領内に侵入してきたウェルギス王国軍を寡兵で押し戻し、一躍諸国にその名を馳せたこの国の新しき英雄の1人である。……という知識は、近年子供達を中心に大人をも巻き込んで大陸中で大流行中の、古今東西の実在の英雄を題材にしたトレーディング魔導カード玩具、『叡智の継承』からの受け売りである。正確にはそれに夢中な村の子供達からの受け売りだが。
因みに還元者である自分のカードはまだ出ていないようで、そのせいもあってか、村の子供達から自分へ向けられる敬意は相応に薄めである。
「しかしその”瞬刃”がこんなとこにいるって事は……」
「ああ、ノクラミスに雇われた護衛はこいつだ」
「そうでした! ノクラミスさ〜ん! もう出てきて頂いて大丈夫ですよ〜!」
そうピアが呼びかけると、後方、広場へと繋がる曲がり角に積まれた木箱の影から、小太りの男と少年が姿を現した。
常人のオドとはいえ、自分がその存在に全く気付かなかったあたり、恐らくピアが何か細工をしていたのだろう。その辺りの不手際についても後々ミネスの説教とスパルタ指導の対象になるであろう事は想像に難くない。まだ日程の決まっていない次の共同修練が既に今からもう憂鬱である。
小太りの男は時折少年を気遣いながら、少年は男の後ろに隠れたまま、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。歳の具合からして親子だろうか。
「いや〜、凄いものを見せて頂きました。流石はこの国を支えし英雄の御方々、聞きしに勝るとは正にこのことですな!」
そう言ってハッハッハと大仰に笑う。口髭をたくわえた人当たりの良さそうな風貌と鷹揚な佇まいから、一見すると気のいいおじさんといった印象を受けるが、その目から漂う隠しきれないギラつきは、この男が油断ならない人物である事を窺わせるには充分であった。この男が――。
「申し遅れました、私はセクィオ=ノクラミス。この国でささやかな商いをさせて頂いている者でございます。こちらは私の息子で、エリィオと申します。エリィオ、ご挨拶しなさい」
「エリィオ=ノクラミスです」
父親に促され、おずおずと頭を下げる。恐らく母親に似たのだろう、なかなかの美少年である。年齢は12、13歳といったところか。普段村で相手をしている子供達とは違った育ちの良さと身なりの良さに因るものなのか、どこか儚げな印象を受ける。
チラチラと視線が泳ぎ落ち着かない様子だが、こんな危険な所まで連れ回されて、先程まで命のやり取りをしていた恐ろしい大人たちに囲まれているのだ。無理もない。
「ほう……」
この中で一番恐ろしい大人であるところのミネスであるが、美少年を前に心なしか嬉しそうに見える。どうやら少年は、本人の預かり知らぬ所で大いなるアドバンテージを得たようだ。
「青きエンジュ当代還元者、セツナ=キサラギです。……立ち話も何ですし、まずは約束の酒場に向かうとしましょうか」
そう促し歩き始める。道中、切り落とされた右手を気遣いながらも抜かりなく自分に商談を持ちかけてくるノクラミス氏の商魂逞しさに自分が舌を巻いている間、後ろを歩くピアは終始ミネスになんやかんやと話しかけ続けていた。
なんとなく察してはいたが、どうやら彼女は師であるミネスに心底心酔しているようだ。
「つまり予め前方の空気を空間単位で押し退けた上で、流入する空気の流れを渦状に操作して前方に押し出す推進力に変えてだな……」
「なるほどっ!!! この状態で先程ご教授頂いた形状の空気障壁を展開して踏み出すと……」
「それとあいつの発案で最近色々と試しているのだがな……」
「可燃ガス……? 超電導……?」
……どうやら次に襲い掛かられた暁にはきっちりと仕留められることになりそうである。
*
「さて……」
到着した待ち合わせ場所である酒場、『ルェドの屋根裏』を前に、自分の庭で大暴れ(主にミネスによって)されて大層ご立腹であろうジィグィに、さてどう対応したものかと逡巡する。心なしか店を包む魔力障壁もブ厚くなっている気がする。
「どうした、早く入らんか」
自分の懸念をよそに、主犯格たるミネスは全く頓着せずにずんずんと店に入っていく。勢いよく開かれたボロボロの木製扉が上げる悲鳴が店内に響き渡る。
「6人だ。ふむ……主人、奥のテーブルを借りるぞ」
「いや、ここでいい! おい、こっちだ!」
2階のテーブルに目を向けると、大変不機嫌そうなジィグィがこちらを睨め付けていた。これは面倒そうだな、と思いながら階段を登っていく。
店内は平時のそれより明らかに混み合っているが、誰もが一様に沈黙を貫いており、かなり異様な状況である。
「いやぁ、どうもどうも、ご苦労さまです。お待たせしちゃいましたかねぇ、えへへ」
良好な人付き合いの基本はまず挨拶から。こちらを睨みつけるジィグィに、とりあえず探りを入れてみる。
「んな事ァどうでもいいんだよ!」
ですよねぇ、と愛想笑いを浮かべつつ円形のテーブルのジィグィの隣の席に着く。会話は成り立っているので、一応問題は無さそうだ。他の者も続いて席に着き、各々が椅子を引く音が静まり返った店内に響く。
「ハァ〜〜〜……」
全員が席に着いたのを確認し、クソデカなため息をつきながら指を弾き、無詠唱で静音空壁を展開してのけるジィグィ。小人族である彼女の見た目はまるきり人間の子供そのものだが、こう見えて30半ば程らしい。特徴的なギザギザの歯は種族固有のものではないようだが、果たして先天的なものなのだろうか。
「お前ら……」
もし後天的なものだとしたら、その理由と手段については若干興味深いものが――。
「いくらここがどうしようもねぇクソ共の吹き溜まりだからってなぁお前ら! 来るたびこうも暴れられたらなぁお前ら! お前らを呼びつけてるオレの立場ってモンがなぁお前ら!」
キレ散らすとはまさしくこういう状態のことを言うのだろう。前言撤回、これはダメそうだ。
助けを求めてミネスに視線を向けるも、私は知らんぞ、とばかりに目を逸らされてしまった。範囲内外の空気の振動の伝達だけを抑制する高等魔法によって反響の少ない大変デッドな環境ではあるが、流石に耳元で喚き散らされるとかなりうるさい。
「そもそもただでさえお前らが来るってんでみんなナーバスになってんだ! それをなぁお前ら!」
さてどうしたものか。
「申し訳ありませんジィグィどの、それもこれも、全ては私がどうしてもこちらで直接お二方にお会いしたいと無理を申してしまいましたが故。この度は大変ご迷惑をおかけしてしまいました」
そう言いながら立ち上がり、ジィグィの側まで歩み寄って懐からなにやら包みを取り出す大商人。どうこの場を収めるつもりか、お手並み拝見である。
「今回はこれでどうかひとつ……」
「む……」
いったいどんな代物を用意したのか、受け渡されれた包みの中身を確認するや、ジィグィは「まぁいいだろ……」と不承不承ながらもすぐに大人しくなった。
「次はねぇからな、マジで!」
「ええ、それはもう」
流石は一流の商人である。最速最短で解決してのけた彼の手腕に感心していると――。
「気は済んだか。で、今回の要件は何だ」
素晴らしく空気を読まずにミネスが問いかける。頭を抱える一同。
ここまで来ると逆に狙ってやっているのではという疑念が浮かんできそうだが、良いのか悪いのか、天然である。長命種ほんとそういうとこ。人の心とか無いんか。
「あ゛ぁぁぁぁ!? ンだコラァァァ!?」
「あーーーっ! そうもうほんと気になるっ、なんで今回依頼主のノクラミスさんも交えてお話する事になったんですかぁーっ!?」
「ええそれといいますのも、のっぴきならぬ事情がございまして! ジィグィどの、還元者様にご説明いただけますかな!?」
再び激昂するジィグィをノクラミス氏と2人、必死のコンビネーションでどうにか宥めにかかる。
「……チッ」
舌打ちをしてミネスに再び剣呑な視線を送りつつも、ジィグィは居住まいを正しながら今度はテーブル一帯に幻惑を展開した。現在このテーブルには店中のあらゆる人間の視線が注がれている状況だが、音は遮られており、どうにかして唇を読もうとしている者もこれによって出鱈目な情報を得る事になるだろう。
「3日前だ。エカドとの国境付近の街道で、ノクラミス商会の商隊が襲われた。積荷の殆どはなんて事のない交易品だったんだが……」
そう言って言葉を切り、視線で続きを促すジィグィに頷いて応じ、ノクラミス氏が続ける。
「その隊は運悪く、聖遺物を輸送中だったのです。それも王威級の」
聖遺物――、主に先史文明の遺した魔道具全般の事を指し、その殆どが現在の魔法技術では解明できない魔術的機構によって、半永久的にその機能を有し続けている。人智を超えたそれらの遺物は神々の智慧の恩恵である、という考えから宗教的な観点からの価値も高く、人々から神聖視される傾向にある。
その希少性及び戦略的・学術的価値などによって様々なクラス分けがなされているが、王威級――判り易く言うならば”A級”といったところだろうか――ともなれば、国によっては兵器や研究素材として徴発されてもおかしくない代物である。
因みに王威級の上には”S級”であるところの天威級が存在するが、それに類する聖遺物は間違いなく国宝指定クラスであり、国家の趨勢を左右しうる力を有しているため、力無き個人が所有する事はまず叶わない。
「そんな代物を運んでいたからには、ちゃんとした護衛も付けていた訳でしょう?」
率直な疑問をぶつけてみる。
「はい。結構な出費になってしまいましたが、エカドの冒険者ギルド経由で熟練の冒険者の方10名と、”蒼炎”殿に護送して頂いておりました」
エカド、というのは青きエンジュの南西に隣接する大国、エカド皇国の事である。彼の国の冒険者ギルドは大陸でも珍しい国営ギルドであったはずだ。蒼きエンジュのそれと違ってかなり大規模なギルドだと聞く。所属する冒険者の層も相応に厚いだろう。
「”蒼炎”ってのは……」
思い当たる人物が浮かばなかったため、ミネスに訊ねてみる。
「軍上がりで、それなりに名の通った冒険者だな。確か名はガル……なんとかといったか」
「ガルエライさんですね。”蒼炎”のガルエライ、この辺りの冒険者の中でもトップクラスの方です。最近だと沼地の屍竜退治の逸話が有名かと。と言っても、もう結構いいお歳のようで、たしかそろそろ引退を考えておられるとかなんとか」
ピアがフォローして続ける。なるほど、屍竜を退治できるとなると相当な腕前である。あれらは竜種の特性も相まって再生能力が極めて高く、生半可な強さでは通用しないはずだ。
「はい、ご隠居に向けて故郷である西方に拠点を移されるとかで、今回ちょうど旅立たれようとしていたところを、無理を言って御同行いただいたのですが……」
「倒された、と?」
言葉を濁すノクラミス氏にミネスが問いかける。殺された、とは言わず言葉を選んでいるあたりに確かな人の心みを感じる。前言撤回、人の心はあった……。
「いえ、”蒼炎”どのはご健在です。しかし……」
どうにも歯切れが悪い。訝しんでいると、ジィグィが口を開いた。
「襲ってきた盗賊団は大して名も知られてない小物の集まりで、全員”蒼炎”が倒したんだが、いかんせん数が多かったのと、雇っていた他の冒険者に内通者が複数人いた事もあって、若干状況が荒れたらしい。馬車を引いていた御者がビビって逃げ出しちまったせいで積荷に手をつけられていたんだと。それで一時は賊の手に渡っちまっていた聖遺物を”蒼炎”が奪い返したんだが、またそいつが運の悪いことに、この商隊が運んでいたのは灼紅炎刃……火の聖遺物だったんだよ」
今回から改行方法を見直しました。