コーヒーと自販機
残業や恋愛に苦しむすべての人々に送る、無機物からのちょっとしたエールです。
外はもうすっかり暗く、事務室にはわたしのタイピングの音だけが響いている。キーボードを打つ手を止め、背もたれに体を預けて伸びをした。長時間続けて作業をしていたわけじゃないのに、異様に疲れを感じる。首の関節をごりごりと鳴らしながら壁に掛かる時計を見上げると、針は九時半過ぎを指していた。部屋にはわたししか残っていない。
デスクのパソコンの脇には同僚たちが嫌がらせのように押しつけてきた書類の束が山と積まれている。それら全てを床に撒き散らし踏みにじりたい衝動に駆られながらも、こらえて立ち上がった。一旦コーヒー休憩でもとろう。
事務室を出て廊下を進んだ突き当たり、階段の脇にある小さな休憩スペース。誰に遠慮することもなく中央の大きなソファに腰かけ、わたしは一息をついた。壁際には自動販売機が二つ並んでいる。紙コップに飲み物を注いでくれるタイプと、機械音声で喋るタイプが一つずつ。
『お疲れ様です。冷たいお飲み物はいかがですか?』
こいつが話し出すタイミングは未だにつかめず、驚かされることがたびたびある。もっとも今は驚く元気もない。持ってきた財布を開き、小銭を数える。
「十円足りない……」
うんざりしながら千円札を抜き出す。紙コップのコーヒーを買うつもりだったけれど、労ってもらえたのがなんだか嬉しくて喋る自販機の方にお札を投入してしまう。商業戦略に見事に嵌ってしまっている、我ながら単純だ。
自販機がお札を飲み込み、ランプが青く点灯する。間髪入れず130円のコーヒーのボタンを押すと、硬い音を立てて缶が転がり出てきた。屈んで取り出しつつ返金のレバーを押し込む。
『ありがとうございました。お釣りをお忘れなく』
言われてお釣りを待つけれど、いつまで経っても小銭は落ちてこない。不審に思って視線を上げ、目を疑った。
先ほど入れたばかりの千円札が戻ってきていた。
「いや、え?」
思わず独り言がこぼれる。「どういうこと」
『お疲れ様です』
無機質な声が階段の踊り場に響く。
「お疲れ様じゃなくて」
『冷たいお飲み物はいかがですか?』
ガコン、と音がして全く同じ缶がもう一本、取出口に吐き出された。
「二本もいらないって」
普通に考えれば、故障。もしくは心霊現象。貼り出されている電話番号に連絡を取るか、恐怖して逃げ出すか、どちらかにすべきだったかもしれない。それでもなんだかおかしくて、わたしは声をあげて笑ってしまった。
「優しいなあ、きみ」
張りつめていた気がふっと抜けて、両手にコーヒーの缶を持ったままソファに尻もちをつく。お疲れ様ですだなんて、誰かに言ってもらったのはいつぶりだろうか――
お疲れ様。
低く優しい声と、缶コーヒーを差し出す無骨な手を否応なしに思い出す。
わたしに初めて仕事を教えてくれた彼。つい半月前まで運命の相手なのだと確信していた彼。そしてもう二度と視線を合わせることもないであろう彼。
好きだった。彼もそうだったはずだ、少なくともあの頃は。わたしの何がいけなかったんだろう。破談になった後の職場は居心地が悪くて仕方なくて、囁き声が飛び交うたびに自分の悪口じゃないかと怯えて、彼とすれ違うたび心が粉々に砕けていくようで、それでも感情的に辞めることなんてできなくて。
「……つらかった、ずっと」
『お疲れ様です』
繰り返されるのはテンプレートの言葉。こいつが気を遣ってわたしの愚痴を聞いてくれてるのかも、だなんて妄想でしかない。分かっている。それでも今は、彼とは違う無機質な声に救われる。
『冷たいお飲み物はいかがですか?』
「もう充分」
一本目の缶を開け、背中を逸らして一気に飲み干した。舌を蝕む苦味が脳まで滲み渡って、余計な感情を胸の底へと押し流していく。空っぽになった缶の口から唇を離したところで、思い出した。
「そういえばわたし、コーヒー好きじゃなかったんだ」
今更のように記憶が蘇る。好きな人からの親切を断るなんて考えもしなかったあの日、新しい日課ができた。そしていつの間にか、わたしの一部になっていた。
「本当はもっと甘いものが飲みたかったのにね」
『……』
「今日で最後にする。ありがとうね」
わたしは友人に話しかけるように口にしていた。もちろん返事はなかった。空の缶をゴミ箱に捨て、もう一つの缶を大切に握って、わたしはその場を後にした。
翌日、わたしはいつものように始業時間ぎりぎりに職場へ到着した。
事務室へと続く階段を上りきると、休憩スペースに彼の姿がちらりと見えて咄嗟に視線を逸らす。彼に遭遇する確率を減らすために遅めに出勤しているのにこれじゃ意味がない、と苛立ちを抱きつつ足を速める。
「おいまじかよ」
彼の同僚がげらげらと笑う声が背後から聞こえる。彼らに気づかれる前に早く部屋へ入らないと、
「ぶっ壊れてんじゃねえのこの自販機」
その一言で、足が止まった。
駄目だ。ここで振り返るのは不自然すぎる。彼の目にも留まる。そう叫ぶ理性を抑え込む勢いで興奮と興味が溢れ、わたしは首を僅かに後ろへひねる。
「コーヒーのボタン押したはずなんだけどな」
首を傾げる彼の手に握られているのは、暗赤色のスチール缶。
おしるこだ。思わず吹き出してしまう。驚いたように顔を上げた彼と目が合う。頬が強張る。もう二度とないんじゃなかったのか、と表情筋が戸惑っている。無視すべきなのか、笑えばいいのか、しかめっ面をすればいいのか――
『いってらっしゃい』
鳴り響いた始業のチャイムと共に、明るい声が背中を押した。
短い話ですが楽しんでいただけたら嬉しいです。
所属している文芸サークルのサイト(https://parcaesstrelitzia.web.fc2.com/)にも重複掲載しています。