9袖
今日は9月1日後期の始業式の日だ。
久しぶりに中谷、速水さんと会いなんとなく嬉しい気持ちになる。
しかし、昨晩から萌実の事が頭を離れず今もなお苛まれている。
「おい、早良。元気ないのか?」
「もしかして休み癖ついちゃったの?」
と、二人は心配してくれている。
「あぁ、少し悩み事をしていてな。」
彼らは俺をキョトンとした表情で見て、同時に目を合わせ、ニッと笑ったかと思うと中谷は俺に携帯を見せてきた。
「この前の彼女さんとなんか合った~??」
俺が見たものは、ホテルから出て家路に着く俺と歩実さんの後ろ姿を撮られた写真だった。
「あ、おい! なんで撮ってんだよ!!」
俺は彼から携帯を取ろうと手を伸ばしたが避けられ説明された。
「いやぁーまさか、ホテルから出てくるとは思わないし? しかも、彼女さんめちゃめちゃ美人だったし? これは速水さんに報告しないとなぁと思って。」
中谷はニヤけながら言った。
速水さんは胸の前で腕を組ながら言う。
「早良くん彼女いたんだぁって感心したんだよ? 年上が好みなのもわかったし。」
「いや、違うんだよ!」
俺の声に二人とも反応する。
「何が違うんだよ? 男女がホテルから出てきて。」
普通ならば何か逢瀬が合ったと考える事は当たり前だ。 しかし、俺には証拠などはないが絶対に身の潔白を示せられる。
「確かに! 確かにホテルに行ったけど! やましいことなんてしてない!」
速水さんは俺に問う。
「じゃあなんで行ったの?」
「歩実さん。………萌実のお姉さんに呼び出されたんだ。 萌実のことで話があるって。」
「ふーん。」
と中谷はつまらなさそうな態度だが、
「えぇ!? 萌実ちゃんと何かあったの?」
とても興味がありげに聞いてくる。
「まぁ、色々と………」
「その色々を教えて!」
中谷は途中から抜けて、教室は俺と速水さんしか居なくなり、夏休みに合った事を全部話した。
勿論、俺が頭を痛めているあの件についても。
「何それ? ずっと味方で居た早良くんに対する態度。 私絶対に許せない。」
「……………」
「萌実ちゃん。そんな人だったんだ。」
彼女の言葉には軽蔑の念が強く込められていた。
「早良くん。もうそんな子の事は考えない方がいいよ?」
俺の目を見て訴える彼女の瞳には悲壮感が漂っていた。
「どうするべきなのかわからない。」
「わからないって………。」
俺は速水さんを見て思っていた事を言おうと決意した。
「もしかしたら、本心じゃあないかもしれない。 逆にずっと思い詰めてた事を言ったのかもしれない。」
萌実は俺が彼女の負担になっていると思い込みあんな言葉を言った可能性がある。人一倍周りの事を気にする彼女だからこその可能性だが。
「でも、萌実ちゃんの本心がどうにしろ……言った言葉は確実にあなたを傷つけたよね? 早良くんは苦しかった5年間を冒涜されたんだよ?」
「わかってる。 でも………」
脂汗が額に出てくる。苦悩の表情の俺を見かねて速水さんは口を開ける。
「もしかして、早良くんは彼女のことが好きなの?」
速水さんの台詞に反射的に顔を上げる。
「え?」
「友達だとかの友人感情じゃなくて、………恋愛感情」
俺は言葉を失ってしまった。 俺が萌実の事を女性として意識している? そんなことはない。…………と断言したいのだが、出来ない。心の奥底で濃い霧に隠された何かがある。
「好きだから拒絶された事を物凄く苦しんでいる。そう考えることはできない?」
「………まぁ。確かに。」
「私にも合ったから。そういう時期が。」
俺はそういう彼女の顔を見上げた。
「私ね中学二年生の頃好きな男の子がいたの。ずっと振り向いて欲しくて努力してた。でも、いつの間にか彼には他の女の子が出来ていて、私が入る隙間さえなかったの。だけど、どうしても諦められなくて、ある日告白したの。紅葉のシーズンだったから、銀杏の木の下でね。」
彼女は少し笑い続ける。
「結果は惨敗」
俺は何も言えなかった。
「最初からわかっていたけど、とてもとてもショックで何事にも手がつかなかった。」
「一時は自殺まで考えてた。」
舌をはみ出させてはにかむ彼女に驚く。
「………懐かしいなぁ。 あの頃は………」
「速水さん………」
「ねぇ? あの時期の私の気持ちと、今の早良くんの気持ち。 何処が違うのかな?」
彼女の問いに全く答えられなかった。 萌実に対する感情は恋愛なのか友人なのか。 昔から人間関係を上手く築くことが出来なかった俺にはわからなくなっていた。
俺自身は友達だと思っている。 しかし、その感情は人からみれば恋愛感情なのだろうか。
答えの出ぬまま下校する事になり、速水さんとは別れた。
家に着き、妹の千夏が勉強を教えてくれと懇願してきたので、気晴らしに面倒を見てやることになった。
「やっぱり、お兄ちゃん頭いい!」
「良くねぇよ。 小学校の範囲ならギリギリ教えられるだけだぞ。」
「ふーん。 まぁ、いいや。次はこの問題。」
千夏と勉強をし、30分程が経過した。 台所では母が夕飯の準備をしており、えらく上機嫌だった。
俺は声を抑えて横にいる妹に尋ねる。
「おい、千夏。 なんで、お母さんあんなに機嫌いいんだ?」
「今日はなんの日か知ってる?」
「え? 9月1日が?」
両親の誕生日ではない。 なにかの記念日かと思ったがわからない。
「今日はね………お母さんとお父さんの20年目の結婚記念日だよ!」
妹は鼻から荒い息を立てながら言う。
「へぇー。知らなかった。」
「お父さんから綺麗な首飾り貰ってたよ!」
俺は母親の首もとを注視する。 確かに見覚えの無い首飾りを身に付けている。
「これが愛し合ってるってことなんだねぇ。」
千夏は顎を両手に乗せ目を細めている。
「そうか。 年をとっても夫婦は好きなままなのか。」
俺の言葉を聞き、千夏は怒りながら言う。
「何その言い方! ロマンがないなぁ!」
俺は千夏の頭に手を乗せ撫でながら謝る。
「ごめん。ごめん。」
昔からこうすると彼女の機嫌は直ぐに直るのだ。
「私にもいつか好きな人ができて結婚するのかなぁ?」
妹は目を輝かせて言った。
「するだろうな。」
「王子様みたいな人がいいなぁ。」
俺は笑いながら言う。
「ははは。 なら美人にならないとな。」
「うん! 萌実さんみたいに美人になる!」
萌実さんと云う言葉に俺は鼓動が瞬間的に速くなった。
「あ……あぁ」
「お兄ちゃん。最近萌実さんとはどうなの?」
俺は動揺を悟られぬよう、なおも笑いながら言う。
「まぁ、普通かな。」
「そっかぁ! よかったぁ。」
「どうして?」
彼女の安堵に満ちた表情に疑問を抱いた。
「だって、萌実さんの事好きなんでしょ?」
心拍数が上がっていくことが体内を流れる血流の振動でわかる。
「え?俺が?」
「うん。 違うの?」
首をかしげ、彼女は俺を見つめた。
「…………わからない。」
「へー。 まぁいいや。 この問題教えて!」
俺は千夏の勉強を教えながら、疑問を拭えないままでいた。 彼女の問題の答えは直ぐに出るのに、俺の問題の答えはずっと出てこない。
妹に聞くことは少々恥ずかしいが、質問することにした。 俺よりも平穏で普通の人間関係を他者と築けているであろう千夏に。
俺は千夏の方をみて問う。
「………好きって……どんな気持ち?」
千夏は俺の顔をまじまじと見た後、平然とさも、当たり前のように説く。
「その人を大切に思えるって気持ちだよ?」
「もーお兄ちゃん何聞いてくるの? とりあえずこの問題教えて!」
目を見開き呆然としている俺を横目に千夏はぼやいた。
「そういうことか。 そうだったのか。」
俺は彼女の答えを聞き理解した。
"好き"や"愛している"と云う感情は千夏が言うようにその人の為になら、己を犠牲に出来る心情なのだ。 大昔から現在に至るまで人間と共に歩んできた感情はそれだった。 そこには自分以外の存在のある人を何よりも、何よりも大切に想う事が出来得る感情なのだ。
「お兄ちゃんどうしたの?」
いつまでも静かでいる俺に妹は疑問を投げ掛けた。
「……あぁ、いやなんでもない。」
「この問題かぁ。 それなら………」
勉強の続きをし出したが、俺の頭はそれ所ではなく、時間の経過と共に萌実に対するある感情が膨らんで行くのを感じていた。
翌日、学校で速水さんに萌実への気持ちを打ち明けると、案外あっさり納得してくれた。
「まぁ、そんなとこだろうと思ってたよ。」
彼女は頬を緩めながら言う。 俺は謝罪の意を述べる。
「昨日は心配かけてごめん。」
「あ、大丈夫だよ?」
「………取り敢えず今後の事考えないと………」
「おい、おい、どうしたんだよ。」
タイミングよく中谷が教室に入ってきた。
「あ、おはよ。 早良くんね、やっぱり萌実ちゃんの事好きなんだって~。」
速水さんは笑いながら中谷に告げる。
「それでね、どうやって彼女に告白するか悩んでるの。」
「って、えぇ! まだそこまでは…………」
俺は仰天して言った。
「ほほー。 お前も隅に置けねぇな? でも、萌実ちゃんが彼女になったら、歩実さんだっけ? どうなるんだ? 姉妹で早良を取り合いになるのか?」
中谷は何を想像しているのか鼻の下を伸ばして言う。
「馬鹿! 歩実さんは友達だ!………多分。」
「多分ってなんだよ!?」
「俺が思っているだけで、あの人は俺の事をサンドバッグとか、便利なストレス発散機とかって思ってるかもしれないから。」
俺がそう言うと、彼らはひきつった顔をして言う。
「あの姉妹………個性ありすぎね。」
「ニートの妹に暴力的な姉………。」
二人は口々に言う。
「だろ?」
俺は呆れて同調する。 しかし、中谷は
「まぁ、どちらも美人だしいいんじゃない?」
と、意味のわからない理論を展開した。
「そうね。」
速水さんも何故か腑に落ちた表情だ。
「ダメだ。この人達………」
俺は聞こえないように呟いた。 二人は萌実を俺と引き合わせる方法を出し合っていたが、どれも俺の性格上無理な方法だった。
やはり、自分自身でなんとかするか、と思い。 歩実さんに今日は会えるかとメールを送った。
放課後、歩実さんからのメールを受け、二駅向こうの喫茶店に腰を下ろしていた。
なんでも、大学から遠くて知り合いに会わないかららしい。
帰宅ラッシュの時間と被っていたので、せわしなく人が往来する通りを見ながらコーヒーを啜っていると歩実さんが来た。
バックを肩から下げ、席に着いた彼女は言う。
「なんだ、用件は?」
「来てくださって有難うございます。」
「………元気か?」
「はい。 なんとか」
俺は苦笑いを浮かべながら答える。
俺は早速、本題を切り出す。
「萌実の事で………」
俺の発言を聞き彼女は微笑の笑みを浮かべる。
「お前、それしかないな。」
俺も笑ってしまう。最近、彼女が柔らかくなっている。そんな気がして。
「ははは。 でも、これまでよりも大切なお話なんです。」
「お待たせしました。 ブラックコーヒーのホットです。」
歩実さんが頼んでいた品物が来た。 俺は自分の目を疑った。
「えぇ? 桜さん!?」
桜さんも俺を見るなり、早良くん?!と驚いている。
「なんで、ここに………?」
「それはこっちの台詞よ………」
頭の中で、彼女は実家に戻ったのではなかったのか? と疑問符を浮かべていると、隣の席の歩実さんが俺に聞いてきた。
「誰だ? 知り合いか?」
「はい。 田中 桜さんです。 前にも話しましたよね。萌実が大好きなアイドルグループのメンバーの方です。」
彼女は桜さんをじっくりと見ている。
「田中さん。 この後予定あるか?」
歩実さんに話しかけられた桜さんは戸惑いながら
「はい。一応空いてますけど………」
「わかった。終わったら私に声を掛けてくれ。」
桜さんがカウンターから呼ばれて戻った後、俺は話の続きを始めた。
「最近………いや、昨日気づいたんですけど。」
「……なんだ?」
「俺」
歩実さんは言葉を止めた俺を不思議そうに見てきた。
「………好きなんです。」
彼女の顔が紅潮する。いつもの冷静さがなくなり、辺りを見回している。
「萌実の事が………」
少し言葉に詰まるが、覚悟を決め言う。
「好きです。」
俺は言い切り彼女の方を改めてみる。
「………死ね。」
かつて、ホテルで受けたゴミを見るような目で見られ、俺の予想外の言葉を発する。
「えぇ!? どうしてですか!?」
「はぁ、人をからかいやがって。」
俺は、はっとして言う。
「あっ! もしかして、さっきの下り………俺が歩実さんに告白する流れだと…………」
「…………はぁ。」
「すみません! 全然意識せずに言ってましたから………」
彼女は一度俺を見ると窓の外を見て動かなくなった。
ふいに中谷の言葉を思い出す。
「「萌実ちゃんが彼女になったら、歩実さんだっけ? どうなるんだ? 姉妹で早良を取り合いになるのか?」」
頬をぷくっと膨らませていじけている(?)彼女の綺麗な横顔を見て想う。
もしかして、彼女は俺の事が好きなのか? さっきのため息もそうだし、物腰が柔らかくなったのも好いている人にしか見せない一面なのか?
想像すると止まらなくなる。 一番好きなのは萌実だ。 これは変わらない。 しかし、歩実さんが俺を好きだと仮定すれば、萌実と付き合う関係まで発展したとき、必ず一悶着あると思う。
ならば、この姉妹から手を引くことも考慮しなければならない。
「あ、あの、歩実さん? 俺、告白しようと思うんです。………一応形として………」
「………好きにしろ。」
彼女はそう言うと顔を腕の中に伏せてしまった。
気まずい時間が流れる。 いつの間にかコーヒーの熱は冷めてしまった。
歩実さんはまだ、突っ伏している。
後方から桜さんの声が聞こえる。
「あ、あの、バイト上がりました。」
歩実さんの方へ言ったのだが、彼女は顔を上げない。
見かねて、俺は肩を揺すって彼女を起こす。
「桜さん終わったみたいですよ? 話があるんでしょう?」
「………ん、あぁ。そうだった。」
歩実さんは一つ大きな欠伸をし、起きた。
「寝てたんですか………」
歩実さんと桜さんは俺をおいて、近くの居酒屋に入っていった。
電車に揺られながら、俺の心はもやもやしていた。
歩実さんは所謂、ツンデレと言うあれなのだろうか。
流れゆく車窓の景色を見ながら今後を想像してため息が自然と出た。