8袖
「どうすれば萌実ちゃんが学校に毎日行けるようになるのかな?」
今よりも幾分高い俺の言葉を聞き、彼女は少しうつむいて考える。
「……………るなら。毎日行く。」
「え? もう一度言って?」
彼女は顔を赤らめて言う。
「私を…………」
彼女の言葉はそこで止まる。
彼女は胸一杯に空気を吸い、駆け出す。
彼女は俺の前を走り抜け、振り向き、笑顔で言う。
「お嫁さんにしてくれるなら!」
「起きろ。 おい、起きろ健一。」
俺は歩実さんの声で目覚める。
「おはようございます………って!」
目の前に歩実さんの胸がある。
「え? なんで? 俺のベットはここじゃ……」
頭を叩かれて言われる。
「馬鹿。 お前のは向こうの奴だ。」
「す、すみません!!! 決して故意的では………!!」
俺は全力で土下座する。
「わかってる。襲おうとしたら殺してたからな。」
「でも、どうして私のベットに入って来たんだ?」
どうして、と言われてもわからない。
「わかりません。」
答えた瞬間、斜め上の方向から殺気を感じる。
「あ、あぁ、た、多分、夜中にトイレ行った後、寝ぼけて寝ちゃたんじゃないかなぁって。」
パァン!
また、強力なビンタを食らってしまった。
歩実さんはゴミを見るような目で俺を見つめ言う。
「まぁ、不問とするが、写真は撮ってあるから覚悟しとけよ。」
「…………はい。」
歩実さんはそう言うと部屋を出て行った。
俺はこれからどうなるのだろうか。
歩実さんとチェックアウトし、ホテルを出る。
時刻は既に正午を回っていた。 昨晩はだいぶ寝ていたようだ。
「あれ? 早良? なんで女の人とホテルから出て来たんだよ?」
声のする方向を振り向くと、中谷がいた。 彼の横には、以前言っていた彼女らしき人がいる。
誤解される前に話すことにしよう。
「あ、あ、この人は萌実のお姉さんで……」
中谷は歩実さんを見つめて感心する。
「へ~。道理で美人な訳だ。」
歩実さんが俺に問いかける。
「おい、この子は誰だ?」
「俺の友達の中谷です。」
俺の返事を聞いた歩実さんは中谷に言う。
「おい、勘違いするなよ? 私とこいつはお前が思っているような関係じゃない。」
「へ? あの………」
「今日のことを誰かに言いふらすなら………どうなるかわかるか?」
歩実さんは物凄い剣幕で中谷を睨む。
「は、はい!」
彼女はその答えを聞くと、真顔に戻り言う。
「じゃあ、行け。」
歩実さんの命令を聞いた途端に中谷は、隣にいる彼女を連れてその場から逃げ出した。
「昨日の事、萌実には言うなよ」
歩実さんは彼女の家の前で言った。
「はい。 でも、言いたくても言えない状況なんですよね。」
俺は目を反らしながら言う。
「どうしてだ?」
「13日以降、萌実との連絡が何もつかないんです。」
歩実さんは俺を見て言う。
「そうか。 なら萌実には私から連絡を取るように言っておこう。」
「あ、ありがとうごさいます。」
「それじゃあな。」
彼女はそう言うと家の中に入って行った。
ピロン。と携帯にメールが届いた。
開くと送り主は歩実さんで、写真が送付されていた。
「え!? 俺の寝顔!? 」
スヤスヤと眠っている俺の横でキメ顔をして写真を撮っている写真が送られてきた。
他人から見れば恋人同士にしか見られないその写真は、今後、俺とあの姉妹、引いては俺と萌実の両家族に対して絶大な何かしらの効力を発揮するだろう。
要するに俺は弱みを握られた訳だ。 よりにもよって歩実さんに。
歩実さんとの一件から5日経った8月31日。
昨日は夏休み最後の日だ。
歩実さんは萌実に俺と連絡しろと言ってくれたらしい。 だか、彼女からの連絡はない。
やはり、俺が直接話す方がいいのだろう。
「お兄ちゃん。 今日何処か行くの?」
朝食をとっている時、千夏は俺に訊く。
「まぁな。」
「どこ??」
俺は少し悩んでから言う。
「萌実の家。」
妹の目が輝いたのがわかる。
「え?! 萌実さんの家!? 私も行きたい!!」
やはりこうなるか。 俺はため息をつく。
「遊びに行くんじゃないぞ。その………今後の話しをしに行くんだよ。」
台所に立っている母が反応する。
「今後の話しって? もしかして……結婚?」
「違ぇよ! 9月からの登校についてだよ!!」
千夏は目を細めて
「えー。 ロマンがないなぁ。」
と言う。
母と妹は俺達が付き合っているとでも思っているのだろうか。
俺はそんな事を思いながら朝食を済ませ、萌実の家へ足を運んだ。
三回ほどチャイムを押すと歩実さんが出てきた。
「おい、そんなに押すな。聞こえている。」
「ごめんなさい。 萌実は家に………居ますよね?」
俺は呆れている表情をする歩実さんに二階を指さして訊く。
「いるぞ。」
「じゃあ、お邪魔します。」
俺は靴を脱ぎ、階段を上がろうとした。
「健一。」
歩実さんは後ろから俺を呼び止める。 振り返り彼女を見る。
「最近、萌実との仲が良くなってきたんだ。 その……お前のお陰だ。 ありがとう。 両親との仲も少し元に戻って来ている。 これもお前がいたからだ。」
彼女は指先を仕切りに弄りながら顔を赤らめて報告してくれた。
「いや、これは俺のお陰じゃないですよ。 萌実の"成長"です。」
俺の答えを聞き、彼女は
「かもな。」
と微笑みながら答える。
「歩実さんが俺に感謝してくれるなんて初めてですね。 最近はビンタ三昧で………」
俺の言葉を聞き歩実さんの表情が暗くなった。
「……………バラすぞ……」
「え?」
「あの写真をお前の家族に見せる。」
歩実さんは自身の携帯の画面を俺に見せながら言った。
「えぇ! 止めて下さい! 何が逆鱗に触れたのかわからないけど………とにかく、ごめんなさい!」
俺はそう言うと、彼女から逃げるように階段を駈け上がった。
萌実の部屋の前に着いた俺は呼吸を整え、意を決して戸をノックする。
「………萌実? 入るぞ?」
俺がドアノブに手を掛けた時、扉一枚向こうから声が聞こえる。
「ダメ。 入ってこないで………」
消え入りそうな声色。
「話があるんだ。 少しでいいから………」
「お願い、帰って」
何故こんなにも拒否してくるのかだろうか。
ここで引き下がる訳にはいかないと自分を奮起させ、彼女に向け大声で呼び掛ける。
「も、萌実!」
刹那、彼女も大声で応える。
「私に、関わらないで!!」
「はぁ?」
俺の想像を上回る答えを発した彼女に戸惑いを隠せず、声が裏返った。
彼女は間髪入れずに続ける。
「もう、これ以上………私に関わらないで………お願いだから………」
「き、急にどうしたんだよ? 何があったんだよ……あの日から、お前………」
突然の絶交宣言の理由を知りたく俺は尋ねた。
「健一は私と一緒にいちゃダメなのよ………。」
彼女の言葉に怒りを覚えた俺は扉に向け、怒鳴る。
「なんでだよ?!」
「それは………」
萌実は口をつぐみ、それ以上話してくれなかった。
「理由を教えてくれないか?」
「…………」
萌実はずっと黙っている。
俺はため息一つつき、ドアに向かって話しかける。
「お前は、昔から……その……情緒不安定と云うか、我儘と云うか………。」
「……………」
「まぁ、五年も一緒だから慣れたけどな。 何か不満でもあるんだろ? 俺で良ければ話してくれないか? 歩実さんも心配してる。 ご両親も………」
「誰も心配なんかしてないわよ。 私の事なんか。」
「前にも言ったと思うが、自分を卑下するな。」
「うるさい。」
「…………桜さんのことは本当に残念だろうけど、このままいじけたままじゃ良くないだろ?」
「黙ってよ。」
「なぁ、いつまでも落ち込んでいてもしょうがないだろ? 」
俺は扉に右腕を着けて諭すように語りかける。
「ショックなのはわかるけど、このままじゃ……」
俺は言葉につまった。 よく考えれば彼女が俺を避ける理由が見当たらない。 桜さんの引退を受けて失望していることは理解できるが、その事と、俺に対する今の態度の因果関係がどうにも結びつかない。 13日以来萌実とは会っていなく、その間連絡すらしてなかったので、余計に推理しにくくなっている。
思案している時、ふと脳裏に昨日の出来事が甦った。 もしかして、歩実さんからホテルでの話しを聞き、俺に対して軽蔑や失念の気持ちを持ってしまったのではないだろうか。 いや、しかし歩実さんは写真を萌実に見せたとしても、何ら意味がないように思える。 第三者から見た俺と歩実さんの関係が、男女の仲になったと捉えられるだけだ。
だが、万が一にも萌実が壮大な勘違いをしているのなら訂正しなければ。
俺はそう思うと萌実に話しかけた。
「もしかしてだけど、歩実さんからなんか俺に関する話しとか聞いたのか?」
「…………何それ? お姉ちゃんと何かあったの?」
俺は心の中でガッツポーズをした。 よかった。彼女には何も知られていない。 ………なら、何故俺を避けるのだろうか。
「ねぇ!! お姉ちゃんと何かあったの?!」
突如、彼女の声が扉の向こうから聞こえる。
「あっ、いや、何もないぞ?」
俺は動揺を悟られまいと冷静に返したつもりだったが、気持ちとは裏腹にどう考えてもバレてはまずい隠し事をしている小学生のような返答をしてしまった。
「………何かあったんだ。」
「だから、何もなかったって。 てか、歩実さんとは今日、久しぶりにあったぞ?」
俺は咄嗟に嘘をついた。 今は誤解をさせないように振る舞わなければ。
「嘘よ。」
「嘘じゃねぇって。」
「お姉ちゃん、最近はあんたの話しばっか私に聞かせてくるのよ? 絶対会ってた。」
「あ………」
俺は絶句してしまった。 俺の嘘はバレていたのか。
「何? 付き合ってるの?」
「え!? いや、そんなことはない! 絶対!」
「ふぅーん。」
そう発した萌実の声は先ほどの暗い声色に比べれば少し明るくなったような気がした。
「まぁ、それはそうとして。 もう帰って。」
しかし、直ぐに元の声色に戻り俺に帰宅を促す。
「いい加減理由を教えてくれよ………。」
「言う必要なんかないわよ。」
「じゃあ、帰らない。 お前が顔を見せてくれるまでここで待ってる。」
少しの間の後、萌実はポツリと言葉を出した。
「…………あんたのせいよ。」
「え………?」
俺の頭の中を彼女の言葉が反響する。
最近、彼女の癪に触るような言動をしたのだろうか。いや、それ以前に………。 思考を巡らすも明確な答えは出ずに消化不良のまま、何度も意味を反芻する。
「俺が……、俺のせい?」
ようやく口に出来たのはこれだけだった。
彼女は一瞬の隙もなく返してきた。
「そう。 あんたのせい。」
「………早良 健一、あんたのせい。」
だめ押しと言わんばかりに俺の胸に声を刺してくる。
俺は狼狽えながら萌実に告げた。
「なんで、俺が……。 俺は五年前から、ずっとお前の味方で………」
いつの間にか廊下に膝をつき、頭を下げ、全身の力が入らなくなっていた。 脳内は真っ白だ。
「そういうのよ。お節介なのよ。 ずっと私のことエスコートして、気持ち悪い。 何? あんたは悲劇のヒロインを救う王子様でいる気分なの? それならハッキリ言わせて貰うわ。 ホントに気持ち悪い、吐き気がする。」
俺は彼女の心無い単語の数々に何も考えられなくなった。 王子様? ヒロイン? 何を言っているんだ。 俺はただ……
「お、俺は、お前の事を守りたかっただけだ! 王子様? そんな事一切考えていない!」
必死の弁明虚しく、彼女は話し続ける。
「要するにあんたは、私を守ってるって思い込むことで、自己満足に浸っていたのね。」
「ち、ちがう……」
「中学の頃、虐められてたよね? わざわざ私を助けたから虐められたのよ?」
「わかってる………でも、俺はお前のせいだとは………」
「選択?」
「そうだ。 俺の選択だ。 だから俺が悪い。」
彼女はため息をついて、話し続けた。
「はぁ、じゃあ、私はあんたのその"選択"を尊重する。 だから、あんたも私の"選択"を尊重して。」
「私の選択は、金輪際あんたと関わらずに生きていく。………以上よ。」
頭は真っ白になり、心臓の鼓動が耳に響く。 ここ最近の彼女の心境が変化した理由さえ言われぬまま、絶交を宣言されてしまった。
ふと、一つの考えが、白銀の雪が満たす脳内を過る。
「「俺の五年間は何だったんだ??」」
虐められていた彼女の味方になり、時には自分自身も同じ目に合った。 彼女の俺に対する五年間の評価が前述の通りなら、俺はずっと彼女を苦しめていた事になる。
………苦痛に満ちた俺の五年間は一体…………。
その疑問は瞬く間に雪を蒸発させ、一面を炎が燃え盛る地獄へと変化させた。
俺の眼は扉一枚を隔てた空間にいる萌実を睨みつけていた。 それも、怨 憎 苦、全てを孕んだ目付きで。 身体は震えだし、悔し涙を流しながら立ち上がり、ドアノブに手を掛けた。 きっと施錠されているだろうが関係ない。彼女の顔に一発拳をぶつけなければどうにかなりそうな精神状態であった。
「健一。 止めておけ。」
階段の方向から歩実さんの声が聞こえる。
「……………」
俺は忠告を無視し扉を叩こうとした。
彼女の足音が真横で止まったかと思うと、歩実さんの華奢で繊細な両手が頬に当てられ、顔を歩実さんの方へ向けられた。
パァン!!
どうやら右頬にビンタを食らったようだ。 速すぎて見えなかった。それよりも、これまでの中でも一等キツイそれであった。
俺は痛みが秒を増すごとに強く成ることと、口内に血が滲み出た感触で我に帰った。
「あ、歩実さん………、お、俺…………」
俺は両目に涙を溜め、滲む視界で彼女を見て言った。
血の独特な鉄のような味が舌を刺激する中、彼女は俺を抱き締め、あやすように言う。
「大丈夫だ。…………大丈夫だ。」
俺は泣き出した。 声を上げて泣き出した。 悔し涙、悲しい涙、それら全ては歩実さんが着ている服に染み込んで行った。
夕陽が二階の廊下を照らす中、二つの影は長く伸び決して動かなかった。