6袖
夏休みが始まり約2週間が過ぎた。
今日は8月13日。 萌実との約束の日だ。
朝、必要なものをリュックに入れて用意する。
萌実からメールがきた。
「「8:30に健一の家行くから。それまでに準備しといて」」
「「了解」」
ライブは10時からスタートらしい。
最初は乗り気な約束ではなかったが、何処か楽しみにしている自分がいる。
家のチャイムが鳴った。
「お兄ちゃーん。 萌実さん来たよぉ!」
5歳年下妹の千夏が玄関から二階の俺の部屋に向かって叫ぶ。
「はいはい。」
俺は一階に降りていく。 千夏と萌実は久しぶりの再開に会話を弾ませている。
彼女達の邪魔にならないように玄関の隅っこで靴紐を結んでいると、
「あ、健一! 萌袖は??」
俺の服装をみて言う
「ライブ会場で着るつもり。今は普段着でいいだろ?」
萌袖をした男子高校性が街中を歩いてるなんて気持ち悪すぎると判断した結果だ。
「もー。別にいいけど、萌モコ愛が足りないわね。」
それを聞いて俺はボソッと呟く。
「萌モコ愛って何なんだよ。」
「それじゃあ、行ってくる。」
俺は千夏に告げる。
「はーい。行ってらっしゃい。 気をつけてね。」
俺と萌実は目的地まで歩き始めた。
俺は萌実の服装を見て話しかける。
「萌実。お前が萌袖を始めたのっていつ頃からだ?」
萌実は萌袖で半分ほど隠されている両手を見ながら言う。
「多分、中学1年の頃ぐらい?」
「きっかけはやっぱり、萌モコ?」
「そうよ。 ある人に連れて行って貰ったときに萌袖って可愛いなって思ったのがきっかけ。」
萌実の服装は遠くから見たら、彼女の小柄な身長と華奢な体格も相まって、服が一人で歩いているかのように見える。
「私にとっては萌袖と萌モコはとっても大切なのよね。」
「私の生きがい? みないな感じ」
歩きながら萌実は自分に言い聞かせるように呟く。
顔を上げ、俺の方を見て自慢気に言う。
「ニートと萌袖は私のアイデンティティよ!」
俺は反応に困ったが、
「萌袖はともかく、ニートはアイデンティティにするなよ!」
「何よ? 私は誇りを持ってニートをしているのよ!」
「そんなものに誇りをもつな!」
彼女は袖で口元を押さえてクスクスと笑っている。
駅前に着くと時刻は9:30を回っていた。ライブ開始まであと30分程有るのでどうしようか迷っていると、遠くから萌実の名前を呼ぶ声と足音が近づいてきた。
「萌実ちゃん!今日来てくれたんだ! ありがとう!」
声の主は萌実に話しかけた。 萌実は笑顔をで答える。
「うん! 今日は萌モコファンクラブの皆も来るよ! 応援してるからね絆ちゃん!」
絆ちゃん? 俺は萌モコについて予習している中で見たことがある名前を聞いた。
確か、星海 絆 18歳。 グループの中でもセンターの子だったはずだ。
「今日は私の友達も連れて来たよ! 絆ちゃん。」
そう言って萌実は絆さんに俺を紹介した。俺は、ここでも女性恐怖症が発祥して、終始頷くだけだった。
「あ、もうこんな時間!? 皆と最終確認があるから、もう行くね。また後でね萌実ちゃん。」
絆さんはそう言うと楽屋のある所まで走って行った
萌実は手を振って彼女を見送る。
「そろそろファンクラブの皆と合流する予定なんだけど………」
彼女は辺りをキョロキョロと見渡している。
「あ、いた! おーい、皆ぁー!」
萌実が両手を降っている方向に目をやると5人程の集団が見える。 男性2人、女性3人だった。
長髪の大人びた女性は言う。
「萌実さん。おはようございます。」
「おはよう、ナメコさん。それに皆も!」
「そちらの方は彼氏さんです?」
ナメコと呼ばれている女性は俺を見て言った。
萌実は顔を赤らめ
「前に言ったでしょ? 友達よ!友達!」
俺も挨拶をしないといけないと思い
「初めまして、早良と言います。今日はよろしくお願いします。」
見るからにガタイの良い男性は言う。
「よろしく! 俺は高橋って言います!」
次にメガネをかけた細身の男性が言う
「僕は斉藤です。よろしく。 ところで、早良くんの推しは誰ですか?」
俺は急な質問に戸惑いを隠せなかった。
「いえ、特に推しって云うのは………」
それを聞いた斉藤さんはがっかりした口調で答える
「そうですか。 まぁ、今日推しをみつけられたらいいですね。」
と、会話しているぶんには全く問題ないのだが、外見はみな萌袖を着ている。 やはり通行人の視線が痛い………。
「そろそろ入りませんか?」
ナメコさんはそう言って皆を先導して入って行った。
萌実は俺に言う。
「健一。楽しんでいってね。」
「あぁ。 」
ライブが始まった。 会場内の人達はそれぞれ自分の好きなアイドルに声援を送っていた。萌実は絆さんが現れると彼女の名前を言いながらサイリウムを振り飛び跳ねていた。
俺はふと、地上から会場に入る為の階段付近から視線を感じた。 俺がそこを見ると視線の主は隠れ、逃げて行った。
隣にいる萌実は舞台に熱中している。
彼女は額から流れる汗など気にも留めないで、有らん限りの声援を絆さんに送り続けている。
「ありがとうございましたぁ!!」
グループの5人が息を合わせ観客に頭を下げる。
その瞬間も会場は熱気に包まれた。
「絆ちゃん………凄い可愛かった……」
隣で萌実は泣きながら言った。
「そうだな。…………え? 泣いてる!!」
「仕方ないでしょ? 本当に感動してるんだから!」
俺はこの時、何故萌実が感動しているのかよくわからなかった。
ファンクラブの人達と別れた後、萌実は絆さんを待っていた。
「今日は絆ちゃんとの打ち上げがあるから、健一もついてきなさい!」
「俺、そんなに金もってないぞ?」
彼女は腰に両手を当て、得意気に言う。
「大丈夫! 今日は絆ちゃんの驕りだから!」
………逆じゃないのか。と思ったが丁度、絆さんが来たので店に向かうことになった。
店は普通のファミレスだった。 取り敢えず、注文を済ませ料理を待っていると萌実は彼女に話し始めた。
「今日はとっても楽しかったよ! "桜"ちゃん!」
今、桜ちゃんと萌実が言ったのか? どういうことか彼女に聞こうとした時
桜さん? は萌実に答えた。
「ありがとう~萌実ちゃん。」
「あ、健一。なんか腑に落ちないって顔してる。」
「うん。 絆さんじゃなくて桜さんってどういうこと?」
俺は向かい側に座っている萌実に聞いた。
彼女の隣に座っている桜さんは俺に言う。
「星海 絆は芸名なんです。 私、本名は田中 桜って言います。 どう? 普通過ぎるの名前でしょ?」
「あ、はい、……そうですね。」
俺は目をそらしながら答える。 まだ、女性が多少怖い。
「でも、18歳なら、今年受験じゃないんですか? 夏休みって受験生にとって大切だって聞きますけど。」
俺はライブ中ずっと疑問に感じてたことを意を決して言った。
桜さんはクスクス笑い初めた。
「私、18歳に見える?」
彼女はおもむろにメガネを目元に掛けた。
「こう見えて22歳の現役女子大生です。」
萌実は知っていたのか、俺の仰天している顔をみて笑っていた。
「えっ!22歳! 年齢詐称ですか?!」
「あら? この業界ではよくあることよ?」
俺の問いに彼女は平然と答える。
「メンバーの子なんて五歳もサバをよんでるわ。」
突然の告白に俺は戸惑いを隠せない。
「えぇ! なんか凄いですね。 色々と。」
「22歳……大学四回生なら就職活動中ですか?」
俺の問いに彼女は説明する。
「いいえ、この時期になると大手はおろか、大抵の中小企業のエントリーも締め切られてるわ。 私はある企業からの内定を貰っていて、大学での単位も取ってあるので、最近は好きな事をして過ごしてるの。」
萌実は先程、注文したスパゲティを頬張っている。
桜さんはコーヒーを飲みながら俺に問う。
「進路とか決まっているの?」
「まだ、高一なので決まっていませんね。」
「羨ましいなぁ。」
「初対面の人に言うのもどうかと思うけど、聞いてくれる?」
萌実はスパゲティの次に頼んだハンバーグとドリアを食べている。 多分、俺達の会話など聞こえてないだろう。
桜さんは現在、内定を貰っている企業に就職するか、実家に戻って、とある大企業の社長の息子に嫁ぐか迷っているらしい。
「どちらにせよ、アイドルは辞めないといけない。 ねぇ、どっちが良いと思う。」
彼女の瞳が俺の目を捉える。
俺はまた目をそらしながら言う。
「………桜さんが正しいと思う選択が一番いいんじゃないんですか?」
桜さんは机に肘をつき、頬に手を当て呟く
「"正しい"選択かぁ」
「これは、俺の考えですけど。どっちを選択しても、選択したことを後悔する日が来ると思うんですよね。 なら今、桜さん自身がどうしたいか。 この意思が大切なのかなって。」
桜さんはまだ悩んでいる顔をしている。
「うーん。 私が一番だと思う選択ねぇ。」
桜さんが黙って5分程経過した。
「私は………桜ちゃんをずっと萌モコのメンバーとして応援したい。」
口元にハンバーグソースを付けたまま萌実は呟く。
俺と桜さんは彼女の方を見る。
「自分勝手だけど、 アイドルを辞めて欲しくない。」
「萌実ちゃん………」
「萌実、桜さんは人生の大きな岐路に立っているんだぞ? お前の考えは………」
「わかってるわよ! でも、私に萌袖を教えてくれたのも………私なんかでも生きてて良いって教えてくれたのも桜ちゃんなの!!」
急な萌実の大声に他の客が振り向く。
「お嫁さんにも、何処かの会社にも行って欲しくない……」
「萌実ちゃん………ごめんね。」
「私だって、アイドルを辞めたくないの。でも、いつか地元に戻って来る事を条件にアイドル活動を許して貰えたの。 」
彼女の発言を聞き俺は身を乗り出し彼女に聞く。
「ちょっと! 地元に帰る………って、もしかして……最初から嫁ぐことが決まってたんですか!?」
萌実も桜さんに顔を向ける。
「うん………。」
「えっ、それじゃあ、企業の内定も辞退する事に………」
彼女は俺の言葉に無言で頷いた。
「そんな……桜ちゃん……何で……」
萌実もそう言うと手にしていたフォークを皿に置き沈黙した。
彼女はうつむき、涙を流し始めた。
「おかしいよね。………産まれた日から結婚相手が決まってるなんて………やっと、自分の生きがいを見つけられたのに…………」
彼女は嗚咽に混じった声を漏らす。 彼女にとって、"星海 絆"としてのアイドル活動は、束縛の強い生家から解放される職業であり、憧れている自由な人生そのものを象徴していたのだろう。
「今日はごめんね。 初対面の人の前で泣いちゃって。」
帰り際、桜さんは俺にそういった。
「いや、俺こそ、桜さんの思い詰めてたことを蒸し返すような発言をしてしまい、すみませんでした。」
「いいのよ。気にしないで。」
「………萌実ちゃん。」
彼女はそう言うと萌実の方を向く。 萌実は先程から目を赤く張らして彼女を見つめている。
「私はね。萌実ちゃんの恩人であり、友達に成れたことが本当に嬉しかったよ。」
「桜ちゃん…………」
萌実は泣きながら桜さんの胸に飛びつく。 そんな彼女を桜さんは優しく抱き締める。
「桜さん。 本当にあの選択で良かったんですか?」
萌実を抱擁している彼女に尋ねる。
「うん。 後悔することもあると思う。けど、私は………」
彼女は顔を上げ、上空を見つめている。それ以上の言葉は桜さんの口からは出てこなかった。
流星が一筋、尾を引いて空を流れた。夜風に彼女の長い髪が柔らかく踊る。
彼女は目を閉じ天を仰ぐ。
一粒の涙が桜さんの頬を伝う。
満点の星空が夜空を彩る。 俺は桜さんの今後の人生がこの夜空のように美しいものになることを願い、駄々をこねている萌実を連れて帰路についた。
本当にこれでよかったのだろうか。 後悔と云う物は離したくても離れてくれない厄介な代物だ。 暗い過去からは、逃げるのではなく、向き合って行かねばならない。
未来を描くのであれば………