1.目覚め
遠くが見えないほど霞んでいた景色が急に晴れたように視界がクリアになったと思った途端、パチリと目が覚める。
ふわりと風にそよぐ淡い色のカーテン。身体はふわっふわの大きな寝具に包まれて少しばかり沈みこんでいる。
視界に入る景色はこれまでに見たことのない風景で、見間違いではないかと何度も何度も瞬きをする。
しかし、幾度繰り返してもホテルのスイートルームのようにだだっ広い部屋はいつもの部屋のサイズにはならないし、複数人が横たわれそうな大きなベッドは慣れ親しんだシングルサイズにはならなかった。
顔を横に向けると、どこの美術館に置かれていた物かといった雰囲気の豪奢なサイドボード。爽やかで気持ちの良い風が入る窓の近くには、各国のトップと握手をする時にテレビで見たことのあるような高価そうなソファと曇りのない磨き上げられたガラステーブル。
一体ここは何処なのか確認したくて起き上がろうとする。しかし体は鉛のように重たく、思うようには動かない。自らの意志で動かせるのは幾本かの指だけだった。
そんな彼女の変化に気付いたのは、いつものようにサイドボードに置く花を取り替えてくれた婚約者であった。
幾重にも花弁が重なった見たことのない白く美しい花を適度に盛ってある、これまた美しく華奢な花瓶。そして、その瞬間を切り取ればまるで絵画や写真として売り出せるかのように見惚れるほど美しい彼。少しだけ仄暗い空気が彼の雰囲気を神聖なものであるかのように思わせるほどで、思わず瞬きも忘れるほど彼をじっと見つめていた。
いつにない視線を感じたのか、彼は私に向かってゆっくりと近付く。
そして…
「…っ!だ、誰か!急ぎ連絡をっ!」
ぱちっと二人の視線が絡み合ったかと思うと、パタパタと小さく音をたてながら走り、部屋の扉まで戻ったかと思うとそこまで大きくはないが慌てたように扉を開けて叫んでいた。
あんなに綺麗な人でも焦ることはあるのだなと、まだぼんやりとした頭でずっと眺めていた。
それがこの世界での私の目覚めだった。
さて、目が覚めてからしばらくして気付いたのだが、ここは私が居た世界ではない。
私が暮らしていたのは日本という小さな島国だったはずだ。そこで小さな建築会社のしがない事務職員として働いていた。
だが、何故か先ほどの美しい彼が自分の婚約者であり、私は彼のために幼い頃から遊ぶ時間もないくらい勉学に励んでいた記憶があるのだ。
せっかく頭の中の靄が晴れて目が覚めたのに、今度は2つの記憶が脳の中で大渋滞だった。
「すー…はー…」
深呼吸でもして落ち着こう。アフターファイブではピラティス教室に通っていた。当時の呼吸法を思い出しながら深くゆっくりと深呼吸をする。
ふむ。かろうじて手だけは上がるようになったが、まだ体は思うようには動かない。体を起こすのは無理そうだ。
身動ぎをしたからか、さらりと顔にかかる髪がくすぐったくてまだ鈍く重い手でゆっくりと払う…時に見た髪の色に驚いた。
日本人らしい黒い髪ではなく、どこの国の人間かと疑いたくなるような水色がかった銀の髪。
「あ、そうだった…」
ふいに記憶が整理される。自分の名前とこの国のことを。
そして、この世界のことを。