ルーシー
タカによってルーシーと名づけられた少女は、人類史的にはオーストラロ・ピテクスに分類される初期の猿人類である。
類人猿だとサルだが、猿人類なのでサルっぽいだけの人である。
サルではないが言葉を持ってはおらず、複雑な道具も作り出せない。
ルーシーは森の中で生まれた。
父親は群れの中の誰だとは特定できないが、母親の愛情をその小さな体で一身に受け止め、すくすくと育った。
乳幼児死亡率が改善された時代とは違い、何もかもが違いすぎる数百万年前である。
強くなければそもそも生きる事が叶わない世界にあって、元気に育っていくルーシーは、それだけでも既に十分に強かった。
生まれてから数年も経つと、母親のお乳の出は悪くなる。
お腹を空かせる様になると、すぐさま母親を真似て、母親が口にしている葉っぱや果物を口にした。
まだ一人では満足に歩く事ができないルーシーは、時に母親に抱きかかえられたりしながらも必死で母親にしがみつき、母親が食べているのと同じ物をその小さな手でつかみ取り、懸命に口に運んだ。
現代人とは違い、木の上でも生活していた彼らである。
赤ん坊であっても指の力は驚くほどに強い。
一日中母親にしがみついたままでいる事など、造作もないことであった。
母親が食べている物を食べる事で、食べる事ができる葉っぱの種類を知り、母親が食べていない葉っぱや木の実を何気なく口にして、食べられない物もある事を身をもって学んだ。
そして、自分の足で歩く事が出来る様になると、ルーシーの世界は瞬く間に広がり、それと共に食べられる物の知識も増えていった。
群れにいる、自分と同じ位の子供達と一緒になって木を下り、地上を走り回り、登り、木に実る果物を分け合い、めったに手に入らない物を見つけた時には奪い合い、追いかけあって遊んだ。
それがルーシーの毎日であった。
そうやって日々を過ごし、益々大きく育っていたある日、それはやって来た。
ある日突然そいつらはやって来た。
それが何であるのか、ルーシーには理解できなかった。
ただ、苦い味のする葉っぱの色、それはルーシーが誤って口にし、一日中苦さが口の中から消えなかった、思い出しただけで顔が歪むくらいの物であったが、その葉っぱの色をした何かが、突如群れに襲いかかってきたのだ。
初めは甲高い鳥の鳴き声が聞こえ、動物達の叫びが森に響き渡った。
群れの大人達は子供達を呼び戻し、木の上に避難した。
経験から、こういった時には何かの危険が迫っている事を知っていたのだ。
ルーシーにとっては運の悪い事に、偶々少し離れた木に一人で遊びに行っていた時の事だった。
母親がルーシーを探して木を降りる。
そして、そいつらは姿を現した。
森の木立から姿を現したそれら。
ルーシー達と同じ様に2本足で歩くその生き物は、体長1メートルを少し超えるくらいの小柄なサルの様であり、全身は緑色であった。
しかしながらその顔つきは、サルとはかけ離れている。
上下に飛び出た鋭い牙を生やし、耳まで裂けた大きな口。
狙いをつけた獲物からは一瞬たりとも目を離さないとでも言う様な、猛禽類を思わせる鋭い目。
タカら三人が見れば「ゴブリン!」と叫んだであろうその生き物は、オーストラロ・ピテクスに比べれば小柄であったが、生来の獰猛性と集団で襲い掛かる狩りの仕方によって、狙われた生き物にとってはやっかいな捕食者であった。
ルーシーにはその生き物についての知識はない。
知識はないが、一目見てその危険性を理解した。
本能的に敵だと認識した。
しかし、体は恐怖で動かない。
離れた木の上から、群れが襲われる一部始終を眺めている事しか出来なかった。
そしてルーシーの群れは飲み込まれた。
ゴブリン、オークといったファンタジーでお馴染みのモンスターは、オスのみの種族である場合が多く、他種族のメスを拉致して無理やり繁殖を行い、生まれる子供はオスのモンスターだけ、というのが一般的な生態であろう。
しかしながら、この世界のゴブリンには雌雄の個体があり、ゴブリンだけで繁殖を行う。
見れば乳房の発達した個体もあり、雌雄の区別はついた。
従って、繁殖の為にルーシーの群れを襲っているのではない。
では、ルーシーの群れが襲われた理由は?
単純に食料として、であった。
チンパンジーも時に小型のサルを襲ってその肉を食べるのだが、それと似た様なモノかもしれない。
食料と見なされ、突如襲われたルーシーの群れのオス達は、執拗に女子供を捕まえようと襲ってくるゴブリン達に必死で抵抗した。
女子供を木の上へと登らせ、木を揺すって敵を威嚇し、登ってくるのを必死で邪魔する。
道具を持たない彼らにできるのは、それくらいが限界であった。
体格では負けていないオーストラロ・ピテクスのオス達であったが、生まれついての凶暴なハンターであるゴブリンには勝てる訳も無く、ある者は噛み付かれ、殴られ、ある者は爪で切り裂かれ、次々と木から落とされた。
エサとしての狩りならば、オスのオーストラロ・ピテクスも襲うはずである。
しかしゴブリンの群れはオスには見向きもしない。
邪魔なオスを排除するのみで捕らえようとはしなかった。
狙うのは女子供だけである。
ゴブリンは知っていたのだ。
メスと子供の肉の旨さを。
オスと違って肉が柔らかい事を知っているが故に、獲物としてメスと子供しか見ていない。
そして目の前の獲物が、彼らを前にして碌に逃げられない事を。
だから彼らは笑っていた。
人類が高い知性を獲得する遥か以前、同じ様に未だに知性を獲得していないゴブリンではあったが、恐怖に打ち震えて抵抗も出来ない哀れな獲物を前に、己の残虐性が満たされるのか、いたぶる様に枝を揺らしたり、下から叫び声を上げたりしていた。
明らかに、恐怖に支配された生き物への加虐を楽しんでいる様子であった。
残された女子供のうち、いち早く隣の木々に飛び移れたものは幸いである。
そのまま飛び移り続け、危地を脱する事が出来た。
しかし少なくない者が足を竦ませ、その場を離れられないでいる。
ついにゴブリンの魔の手が女達の足を掴む。
そこでようやく金縛りから解け、必死に抵抗してゴブリンの手を振りほどき、数名のメスが子供を抱えて木から飛び降りるが如くに駆け下りた。
しかし、それが出来たのは全員ではなく、何頭かがゴブリンに捕まってしまう。
ルーシーの母親は真っ先に捕まった一人であった。
ルーシーを探す為に地面を歩いていて、正面で彼らに遭遇したのだから当然だ。
けれども恐怖に囚われたルーシーに、母親を助けることなど思いも付かない。
恐ろしさで体をブルブルと震わせ、じっと縮こまっている事しか出来なかった。
十分な獲物を捕まえ、嗜虐性も満たされたのか、ゴブリン達は帰っていった。
木から落とされ傷ついて満足には動けないオス達や、遠くから叫んでいるメス達には見向きもしない。
悲鳴を上げてジタバタともがいている獲物、オーストラロ・ピテクスを、数名ががっちりと押さえ、引きずるようにして森の中へと消えていった。
その場で殺されたわけではない彼女達は、恐怖の叫び声を上げ続けるものの、彼女らを助けられる者などどこにもいない。
殴られ、蹴飛ばされながら、彼らの巣であろうどこかに連れて行かれる様を、残った仲間は指を咥えて見ているしかなった。
未だ知性の萌芽は見られないオーストラロ・ピテクスである。
仲間を連れて行かれる様を前に、その胸の中にはいかなる感情が渦巻いていたのだろうか。
仲間に訪れるであろう未来を、理解しているのだろうか。
ゴブリンの集団が去ってから暫くして、ようやくルーシーは木から下りる事ができた。
「ホーホーホー」といつもの様に母親を呼んでみるものの、誰も応えてくれない。
昨日までならルーシーの鳴き声を聞き分けて、母親がすぐに駆けつけてくれたのだ。
それを理解していたルーシーは、それを何度も繰り返した。
しかし、母親は現れてくれない。
ルーシーはオロオロとした。
あちらこちらを見て周り、訳も分からず叫んだ。
いても立ってもいられず、一瞬もじっとしてはいられなかった。
胸が締め付けられ、息をするのも苦しかった。
ルーシーにはそれが悲しみであるとは理解できない。
言葉を持たない彼女らには、悲しみという概念は理解できないからだ。
また、母親という概念もわからない。
わからないが、他の子を持ったメスとは明確に区別し、そのお腹を自分の定位置だと思い込んでいた。
今はもう貰えないが、吸い付くと甘くてお腹が一杯になり、すぐに眠くなる不思議な膨らみは、自分だけのものだと思っていた。
それがもう、いなくなってしまったのだ。
いつもなら探せば直ぐ近くにいたはずなのに。
呼べば直ぐに応えてくれたのに。
それが、いくら探しても叫んでも、ルーシーの前に再び現れる事はなかった。
ルーシーはそれでも探し続けた。
呼び続けた。
疲れて眠りに付くまで、それは続いた。
次の日になり、目が覚めても、温かくて柔らかかった場所はもうない。
それに気づき、また叫んでしまう。
そんなルーシーの手を、群れのメスの一人が捕まえた。
群れがテリトリーを変えるために移動するのだ。
あの危険な生き物に見つかってしまっては、同じ場所に留まる事は群れの全滅を意味する。
生き残る為には逃げなければならない。
そして、子供であるルーシーを置いていくわけにもいかなかった。
母親を探さなければならないルーシーは初め抵抗したが、メスはルーシーを握る手を緩めることはない。
ルーシーは一旦探す事を諦め、とぼとぼとメスの横を歩いていった。
しかし、ルーシーは母親の不在を理解していない。
そんな概念はないからだ。
また、寂しいとも思っていない。
そんな考え自体が浮かばないからだ。
しかし、昨日までは確かにあった、温もりを感じる場所を失った事だけは理解した。
それが何か、何を意味するのかはわからない。
わからないが、胸の奥がぽっかり空いた様な喪失感を感じていた。
ルーシーはそんな思いを抱えたまま、真っ黒な毛に覆われた、3頭の不思議な生き物に出会った。