モネの街にて(1)
最近、よく血まみれの夢を見る。
と言っても内容は覚えていなくて、血のイメージだけがぞわぞわとした気分と一緒に残るだけなのだが。
しかしどちらにせよ、目覚めてこのかた血を大の苦手とする俺には、さらに苦手意識を悪化させる一因となっていた。
当然現実でも血なんてできる限り見たくない。
だから争いに縁のないこの仕事を選び、さらに上位の資格を目指しているのは、いろんな事情もあいまった上での、平和主義たる俺の必然だった。
「おい、ターロイしっかりしろ!」
ゆさゆさと体を揺すられてはたと目を開けると、そこは仕事場の休憩室。目の前には職場の親方がいて、その向こうでは俺の同僚で長身の大男、サージが馬鹿にしたような目つきでこちらを見ていた。その腕には包帯代わりの布が巻かれている。
・・・・・・ああ、またやってしまったか。
「お前、俺が少し出血したの見たくらいで卒倒するとか、何度目だよ。マジでこの仕事向いてねえよ、辞めちまえ」
辛辣な言葉に頭を掻く。そう、俺は現在滴る血を見ただけで卒倒する男として仲間内に知られているのだ。
「サージ、お前こそもう少し怪我に気をつけろ。お前が怪我しなければターロイだってこうはならないんだ」
「へいへい、分かってるよ。でもこの仕事に小さい怪我は付きものだろ。血を見ていちいち倒れる奴なんてほんと使えねえ」
確かに、俺の必然であったこの仕事には、唯一怪我が多いのが難だった。
俺、ターロイは現在終い屋という仕事をしている。
物や事の終わりを担う仕事で、別れたカレシの思い出の品破壊から家の解体まで、その内容は幅広い。
依頼人の希望に添って、跡形もなく粉砕することもあれば、調度品のレリーフだけきれいに残してみたり、再利用できる形にしたりするわけだが、どうしても廃材や古釘で怪我をしやすいのだ。
それでもかすり傷程度なら踏みとどまれるのだけれど、血が流れてぽたりと一滴垂れたのを見ただけで気が遠くなってしまう。
こればかりは治そうとしてもどうしようもなくて、俺の目下の悩みだった。
「親方、すみませんでした。すぐ仕事に戻ります」
サージの悪態を右から左に聞き流し、俺は気を取り直して横たわっていた長椅子から立ち上がった。
こいつに反論する気はさらさらない。血を見て倒れたのも、仕事に支障をきたしたのも事実なのだから。
それに加えて、このサージという男はやたらと俺に対してけんか腰で、無駄な出血を避けたい平和主義者たる己としてはあまり関わりたくないのだ。
目の前の親方にだけ一礼して早々にその場を去ろうとする。
しかし親方は部屋の外に出ようとした俺を手で制した。
「ちょっと待て、ターロイ。渡すものがある。あとでお前たち二人を呼び出そうと思っていたんだが、サージもいるしちょうど良い」
棚に置いてある仕事鞄から封筒を二つ取り出した親方は、手招きしてサージと俺を自分の前に立たせた。
「グランルーク教団から二人に通知が来てる。お待ちかねのやつだ」
そう言ってにかっと笑う。彼は少しだけもったいぶって、しかしすぐに俺たちの前に封筒を差し出した。
「お前たちが今度の再生師候補に選抜されたぞ」
「おお、マジか! やった!」
その言葉に素早く反応したサージが、俺を背中で遮って奪うように封筒を取り上げた。一瞥して自分の通知だけを選び、もう一枚をぽいと放り投げる。俺はそれを慌てて拾い上げた。
「再生師研修案内・・・・・・」
宛名を確認すると、そこには確かにターロイ・ミチバと書かれている。
「すごいぞ、このモネの街から二人も選ばれるなんて。王国内から五年に一度、五人程度しか選ばれない枠だ。よかったなサージ、ターロイ」
親方に背中をばしばしと叩かれて思わず前のめった。別に俺が貧弱なわけではない。俺は中肉中背の一般的な体型をしている。ただ破壊を担う職業柄、この人が筋骨隆々というだけだ。
「あ、ありがとうございます、親方」
むせ返りそうになりながらもその祝福が嬉しくて笑顔で礼を言う。まだ候補になっただけだが、再生師になれる可能性が近付いたことには変わりなかった。
そう、これは俺が憧れの職に就くための重要な切符。俺は終い屋の上位職である『再生師』を目指しているのだ。
あの子供たちを救うために。
「大槌も振れない軟弱なお前まで選ばれるとはな。まあどうせ王都での研修でふるい落とされるだろうが」
仕事柄、終い屋も再生師も大体こいつのように大男が多い。俺のようなタイプはまれで、だからだろう、この男は今回のようなこと以外でも、力が無いと言うだけで俺を馬鹿にするのが常だった。
「大槌を振るような作業はお前に任せるよ。俺はもともと装飾家具や調度品を扱う方が好きなんだ。そっちで頑張るさ」
しかし俺のことをなんと言われようが波風を立てる気はない。
それがまたサージの神経を逆なでするのだろうが、それは自身で治めてもらうしかないのだ。
そして予想通り、男は俺の態度に苛立ったように唾を吐いた。
「けっ、この小物が」
「サージ、そう毒づくな。せっかく同郷同期同士、仲良くしたらいいじゃないか」
悪態をつくサージを親方が取りなす。けれど俺が一緒に選抜されたのが気に入らないらしいこの男は、ふんと鼻を鳴らした。
「そもそも、研修にはそれなりの参加費用が掛かる。お前に払えんのか? あの役に立たねえガキの介護費でいっぱいいっぱいだろ」
役に立たねえガキ。
その言葉が、いつもなら受け流すはずの俺の感情をせき止めた。
この男の嫌みなど基本的には気にしない。が、どこで知ったのか、サージは平和主義な俺にある唯一の怒りスイッチを、これ見よがしに踏みやがった。
「・・・・・・役に立たないだと?」
途端に反応が変わった俺に気付いたのだろう、男の口角が意地の悪い形につり上がる。
「教団の孤児院がお手上げの問題児を引き取って育ててるらしいじゃねえか。支離滅裂な言葉をしゃべるだけの、ほぼ人形状態に近いガキだってな。どう考えたって価値のない役立たずだろ。・・・・・・ああ、お前にとっては善人ぶるための恰好の道具として役に立ってるか」
俺の気分を害するためだけに紡がれた言葉、それは分かっている。
だが、孤児を差別し、蔑み、悪意を向けるような言動を前にした瞬間、俺は人格が切り替わったように自分を忘れてしまった。
「ふざけるな!」
ついカッとなって、戦い慣れないながらも殴りかかる。その体を正面に捉えるととっさにサージも拳を構えたが、気にせず一歩踏み込んだ。そのまま奥歯を噛み締めて右拳に力を溜める。
「お前なんか・・・・・・」
(ぐちゃぐちゃに壊してやる)
怒りの感情の陰で、不意に俺の中の誰かが囁いた。
次の一瞬、応戦してきた男の体に俺にしか見えない三つの火花が弾け、そこがサージの体を壊す急所だと覚る。それに気付いた俺は途端に肝が冷えて、慌てて手を止めた。
やばい、このまま攻撃したら、この男を終ってしまう!
しかしこっちが止めたところで相手は止まらないわけで、俺はあっさりと腹に拳を食って吹っ飛ばされてしまった。
「ぐふっ!」
みぞおちに、次いで後頭部と背中に鈍い痛みが走る。衝撃にきつく瞑ったまぶたの裏に星が飛んだ。
「ふん、弱っちいくせに向かってくんじゃねえよ。お前にはガキのおもりがお似合いだ」
「こら、サージ!」
背中から床に落ちて無様に転がった俺を見て、サージはようやく溜飲を下げたらしい。そう言い捨てると親方に小言を言われる前にさっさと休憩室を出てしまった。
あの男が去ったことに目を開けて、天井を見ながら心底ほっとする。
止まって良かった、危うくあいつの息の根を止めるところだった。
「お前、以前から子供のことになると人が変わるな。だが弱いんだからもう少し自重しろよ、自分が怪我するぞ。おまけに出血してまた倒れたらただの馬鹿だ」
呆れたため息を吐いた親方が俺の腕を引いて起こして、大きな手で荒っぽく砂埃をはらってくれる。
はい、まさにおっしゃるとおり。俺は苦笑するしかない。
「すみません。ケンカも血を見るのも嫌いなんですけど、つい」
「サージも腕は良いんだが、プライドが高いからなあ。今回自分だけ抜きん出たかったのにお前も選ばれたから、苛ついているんだろう」
わかっている、だから俺が怒りをどうにか飲み込んで、相手をしなければいい話だった。そうすればあんなものを見ずに済んだはずなのに。
「ところでターロイ、あいつも言っていたが、研修費用の工面はできそうなのか? 給料は大体子供の養育費に充てているんだろう?」
「あー、そうか、金・・・・・・」
今の一件で床に落ちてしまっていた通知を拾って書面を見る。そこには費用として金貨四十枚と書かれていた。これは大体俺の給料の二・三ヶ月分にあたる。
「高っ! 研修期間はたった二週間なのに!」
「あの教団の資格研修はそんなものだ。でも再生師になれればすぐにもとは取れる。親父さんに借りたらどうだ、困っているなら助けてくれるだろう」
「いやいや、無理です。あの人、鬼ですから」
親父とは、俺の義父イリウのことだ。なかなか無理な高利貸しをしている鬼畜なのだが、何故だか周囲からは人格者で慈善家として見られている(本人も不本意らしい)。七年前に俺を引き取ったせいかもしれないが。
「親父にとってはこんなの困ってるうちに入らないんですよ。自分で何とかしろと言われるのがオチです」
「そうか、息子だからって甘やかさないんだな。立派な親父さんだ!」
俺の嘆きを良いように解釈した親方は、納得したように頷いた。
「とはいえ、せっかくの門出だ、祝い金くらいは欲しいよな。出立の時は僅かだが俺から餞別をやる。ははは、俺は甘いな!」
「親方・・・・・・! 俺は親方みたいな親父が欲しかった・・・・・・!」
「残りは頑張って貯めろよ。ギルドに頼んでお前にガンガン仕事を回してやる。それで、研修はいつからなんだ?」
「えーと、一週間後です」
そこで、二人の間に沈黙が落ちた。
「・・・・・・王都まで何日掛かるんだっけ?」
「山を越えれば二日、山を迂回すれば急いでも三日掛かります。山には獣や賊が出るので、安全を考えれば迂回路になるかと」
「そりゃ大変だ。天候による道行きの不安もあるから二日は余裕を見ないと・・・・・・って、時間ねえじゃねーか! とっとと通行手形の発行依頼してこい!」
「でも、金の工面ができないと・・・・・・」
「そんなもん、後で親父に土下座でもしろ! いいか、ターロイ。金を理由に出来る出来ないを考えるな。チャンスってやつは乗っかるのに運賃はいらないんだよ。乗り損ねたらいくら金を持っててももう乗れない。だからとにかく勢いで乗っちまえばいい。そうすりゃ金があろうが無かろうが、どこか別の場所へ連れて行ってくれるもんだ」
「親方、何かすごい良いこと言ってるぽいけど、俺別のどっかに連れて行かれても困るんだけど」
「細けえ事ぁいいんだよ!」
ばしんと尻を叩かれた。
「こういうときは考えるより先に動け。俺は運命論者じゃないが、こういうのは『何かに引っ張られてる』と思うことにしている。そこに俺が必要で、呼ばれてるんだと思うのさ。俺が今ここにいるのはお前に引っ張られてきた結果だ。さっきサージがお前が養っている子供を役立たずと言ったが、きっと彼もお前に引っ張られて来た、何か意味を持つ人間だ」
「同じように、俺が王都の誰かに引っ張られてるってことか?」
「それがどこの誰かなんて分からん。しかし誰しもどこかに引かれている。もちろんそれを拒絶することは簡単だろうが、そういう人間はどんどん引っ張られてることに鈍感になって、心が重くその場で固まって沈んでしまうのではないかと思う。つまんねえだろ、そんなの。これはただの俺個人の持論だが」
親方がにかっと笑った。
「引っ張られるってのは必要とされてるってことだ。嬉しいと思わねえか?」
「親方・・・・・・」
何か親方、考え方がカッコイイ。マジリスペクト。
「でも親父には土下座するなり何なりして金を無心しろよ。やっぱり世の中渡って行くには金は大事だ。正直金のない旅はキツい」
「・・・・・・えーと、はい・・・・・・」
しかし直後に真顔で現実を突きつけられて、ちょっと台無しな気分になったのだった。