二匹の獣
放課後、今日、来飛は欠席だし、俺は部活にも入っていない。
そんな人間がいつまでも学校にいても仕方がないので普段通りクラシックを聞きながら帰路につく。
最近の俺は悩み事が多い。
あんな事になってから来飛が学校に来なかったことにすら不安を抱いてしまう。
しかも今日は大樹のことも気になる。
昼休みからずっと、いつ大樹に謝ろうか考えていたが、俺とあいつの仲だし、明日になったらまた変わらず話しているんだろうという結論に至る。
でもそれじゃダメな気がする…と考え出しても、結局答えは同じになってしまう。
そんな無限ループを繰り返しながらてくてく歩いていると
「お前、凛に何する気だ!!!」
突然、空気を切り裂くような怒号が聞こえた。
何も考えずにイヤホンを外し、声の聞こえた方へ急いで走り出す。
さっきの声の主には心当たりがあった。
耳にしつこく残るあの憎たらしい少年の声を、間違えるはずがなかった。
なんでだよ…
なんでお前がここにいる…
胸騒ぎが、した。
少し先にあるトンネルの入口にその少年はいた。
「大樹!!」
「凛…早く逃げろ!!!!」
振り返った大樹の眉間にはとても同い年とは思えないほど深い皺が刻まれていた。
そして、大樹の前にはひょろひょろとした長身で紫がかったスーツを着た男がいた。
辺りを男から発される、邪悪な雰囲気が包み込んでいた、いや、包囲したと言うべきだろう。
俺達は完全に、袋の鼠状態なのだ…
立っているだけでそう思わせてしまうこの男は只者じゃない。
ここから逃げるには、こいつをどうにかしなければならない。
そのためには…
「大樹、こっちへ来い!」
「いいから逃げろ!」
俺は大袈裟に手招きをしたが、大樹は半歩ずつさがりながら、険しい顔でそう怒鳴りつけた。
「お前が…凛、環…凛、かぁ。」
トンネルからのっそりと歩いて出てきた男は、肌色の唇から、ねっとりとした気持ちの悪い声が吐き出された。
男は持っていた黒いシルクハットのようなものを被り、右手の人差し指にある指輪をはめ直した。
指輪?…まさか?
「お前、もしかして使用者か?」
「そうだ。」
俺は手汗をズボンで拭きながら、早口で問いかける。
「何しに来た。」
「君の…抹殺。」
男の右手にはいつの間にか大きな錆び付いた鎌が握られていた。
「凛、わかっただろ?早く逃げろ!」
大樹が声を荒げて叫ぶ。
しかし、俺は親友の忠告を無視して、会話を続ける。
「俺の?何のためにだ?」
「君を殺せば、議会の手先も…出てくるだろう。」
男がゆっくりと前に進む。
それに合わせて俺もすり足で前に進む。
「誰のことだ?」
「ほう。知らんのかね。」
「凛に手を出すな!!」
大樹は震えながらも両手を広げ、俺の前で仁王立ちする。
それでも男は距離を詰めていく。
ようやく近くで男の顔が見えるようになった途端、俺は言葉を失った。
男の目には、黒と白の二色しか存在せず、光を捉えていないようだ。
目の下のくまは広がり過ぎてあざのようになっている。
男の顔は、どう見ても死人そのものだった。
男が俺の目をのぞき込むようにして口を開く。
「凛、議会の手先は今どこにいるんだ?」
「まずそれは誰のことだか教えてもらいたい。」
「ふむ…」
男は顎に手を当て、少しの間下を向くと、何か閃いたように人差し指を上に突き立てて、こう言った。
「ライト、と言えばわかるかね?」
その人名を聞いたと同時に、大樹は目を見開いた。
しかし、俺は、リアクションを取らなかった。
相手が使用者だと聞いた時から、なんとなく察していたからな。
「そいつとは今日、会っていない。」
「ふむ…そうか。」
「あぁ。だから今日は出直してくれ。今あんたの前にいるやつは使用者でも、何でもない。」
それを聞いて男は再び下を向き、帽子を深く被り直した。
「では、また会おう。」
男は軽く頭を下げると、トンネルの奥へ溶けたように姿を消した。
「なんでここにいるんだよ、大樹。」
俺は緊張が解けてその場に膝まづいた親友の背中に問いかける。
「…来飛を、探していた。そしたら、さっきの男が俺にお前のことを聞いてきた。」
大樹は荒い呼吸を整えながらそう答えた。
「なんでそんなことしたんだ?」
「お前が、危ないことに…巻き込まれているのかと思った。」
「お前の気にすることじゃない。」
俺は突き放すようにそう言った。
だってこれ以上、巻き込む訳にはいかない。
大樹には悪いが、こいつが殺されてしまうくらいなら、絶交でもした方がマシだ。
「絶交なんか…しないぞ…」
毎度のことながら俺の思考を読み、大樹はのろのろと立ち上がって、ふらつきながらこちらへ歩き出す。
「お前が何を隠してるのかは知らねぇ。左中来飛が何者なのかも知らねぇ。だが…」
一歩、一歩、踏みしめながら歩く姿は、赤ん坊が初めて歩き出した時のようだったが、それとは対照的に見ていられないほど悲しみを纏っていて、赤ん坊と言うよりは老人のような佇まいだ。
歩を進める度に、路面には二つの黒いシミが滲み、左右に大きく揺れる肩は、力が抜けて角が切り落とされたようだった。
そして、ようやく俺の目の前に辿り着いた親友は、俺の肩に手を乗せ、涙ぐんだ声で、悲しく微笑んだ。
「どうして…俺を頼らなかっ」
突如、大樹の頭部が、力無く、転がり落ちる。
赤黒い血が、首から下をじわじわと暗褐色に染めていく。
飛び散ったまだ温かい血が、凛の頬を伝い、地に落ちて、二列の黒いシミとは離れたところで、シミを作り出した。
開けた視界の先では、先程の帽子を被った男が、死んだ目を見開き、錆びた鎌を思いっきり振り抜いていた。
今まで感じたことのないような感情が、凛の腹の底から、洪水のように全てを押し流し、理性の堤防を壊す。
「てめえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!」
洪水は勢いそのままに、口から叫びとなって絶え間なく押し出される。
凛は歯を軋ませ、相手を血眼で睨みつけ、腕に力を込め、ろくに戦闘態勢を取らずに、飛びかかろうとする。
しかし、どこからともなくやってきた、金色頭の小さな少年が、凛の制服の裾を掴み、高く飛び跳ね、小高い丘に、凛を背中から叩きつける。
叩きつけられた凛は、咳き込みながら立ち上がる。
「凛、怒りを抑えろ。」
「無理だ。あいつは…あいつだけは、絶対に許さねぇ。大樹は、何も関係なかったのに…何も知らなかったのに…」
「それでも、怒りを抑えろ。」
凍てつく氷河のような声と、背中の痛みが、凛の心を少しだけ鎮めた。
それでも尚、凛は相手を血眼で睨みつける。
「それでいい。怒りは少しだけあれば十分だ。多すぎると、致命的な弱点になる。」
来飛の目は、翡翠色のナイフのようだった。
相手を睨みつけているのは凛と変わらないが、その目には研ぎ澄まされた冷静さがあり、目の前で人が死んでいることに少しも動揺していなかった。
その目を見て凛は、冷静すぎる来飛に狂気すら感じていた。
「今は逃げるぞ。あいつ相手にお前を守りながら勝てる気がしない。」
「無理。あいつはここで倒す。」
「無茶に決まってんだろ?」
「知ってる。でも…あいつは俺の手で殺す。」
「やめろ。返り討ちにされるだけだ。」
「あぁ。わかってる。」
だけど…だけど…どうしても、あいつが許せない。
俺は確かに言った、大樹は使用者じゃないって。
なのにあいつは、殺した。
戦ったら死ぬ、逃げたら一生後悔する、そんなジレンマの中で唯一つだけ、明確な感情があった。
それは、人が本来抱いてはいけないもの。
しかしそれは、弱肉強食の世界で人が元々持ち合わせていたもの。
そしてそれは、もう二度とまともな人として生きない、最上級の覚悟の表明でもあるもの。
『殺意』
「殺す。殺してやる。」
まだ月も顔を出さないこの時間に、二匹の獣は目をギラつかせ、大して肉もなさそうな獲物に狙いを定めた。
□■□
そしてこれが、本当の始まり。
今日ここから、俺の二度目の人生の幕開け。
きっといつまでも後悔するであろう道を、俺は突き進む。