さっさと寝よう
「おい、起きろ!」
誰かが俺の鼓膜を破ろうとしているのか、大きな声で怒鳴りつけてきた。
「やめろようるさいなぁ…」
目を開くと、顔をしかめた金髪の美少女が馬乗りになって俺の胸ぐらを掴んでいるではないか。
「決闘中に寝るとは、人をバカにするのが得意なのか?」
再び鼓膜が破られそうになるが、頭の中にぼんやりと浮かんできたある言葉に気を取られ、鼓膜に気が回らなかった。
「決闘中…?」
そのキーワードから、俺はさっきまでのことを思い出そうとしたものの、数時間の空白がどうしても埋まらず、来飛と一緒に下校したこと以外なにも思い出せなかった。
「なぁ、お前何してるんだ?何も思い出せないんだが。」
考えた結果、何もわからなかった俺は、できる限り迷惑そうな顔をしながらそう言った。
それを見ても来飛は、相変わらずしかめっ面のままだったが、急に呆れた様子でこう問いかける。
「お前、本当に何も覚えていないのか?」
「ああ。」
俺は間髪入れずにそう答えた。
「…やはり、お前は使用者だったのか。…その様子じゃ代償に記憶を渡したんだな。」
来飛は口を手で隠し、俺に聞こないほど小さい声で呟いた。
「…使用者?…代償?」
なに馬鹿なこといってんだよ、と言おうとしたが、俺の横に突き刺された剣を見て、慌てて口をふさぐ。
「本当に何も知らないのか?」
「ああ、そうだ。」
変に疑われるのも嫌なので、淡々と答える。
「ならいい。なにか思い出しても誰かに言ったりするなよ。」
「わかった。」
俺がそう言うと、いつの間にか来飛の姿は見えなくなっていた。
「なんかわかんないけど、帰るか。」
ほとんど覚えてないけど、体中痛いし、疲れが溜まってるし、さっさと寝よう。
□■□
窓から差し込む光が、朝日にしては頑張っているなと思うほど明るい。
白い太陽が窓の上の方で偉そうに俺を見下ろしている。
外で近所のおばさん達がゲラゲラ笑いながら有名な俳優のスキャンダルについて話しているようだ。
大丈夫、いつも通りの朝だ。
寝汗でほんのりと湿った布団を蹴っ飛ばし、上体を起こし、ボサついた前髪を整えて、おぼつかない足取りで部屋を出る。
塵一つない階段を見て、母親が掃除をしてから仕事へ行ったことがうかがえた。
やっぱり、いつも通り。
それから俺は、リビングでニュースを見ながら白米と味噌汁を口へ流し込み、制服に着替え、歯を磨き、家を出た。
ビニールハウスが平行に並べられた畑を横目に、通学路を歩いていく。
ここまでもいつも通り。
ただ一つ違うとしたら…
今現在、コンクリートの修復工事をしていること。
別にそれ自体は大した問題じゃない。
いや、道路に深さ数十メートルの穴が空いているから大した問題なんだけど。
「誰がやったんだよこんなの。」
「こりゃ水道止まってないのが奇跡だなぁ。」
「いつになったら終わるかねぇ。」
工事現場のおじさんが声を荒らげたり、皮肉を言ったり、頭を抱えているのを見て、とてつもなく申し訳ない気持ちになる。
と言っても、俺がやった訳じゃないが、その場に居合わせた者としては少しばかり反省しなければならないのだろう。
まぁ、やった犯人がこれじゃあなぁ…
「おはよう!凛君。」
全身真っ黒で登場するのが定番な犯人とは思えないほど、煌めく金髪と白い肌が眩しい人が女神の微笑みを見せつける。
「お前なぁ、工事現場のおじさん困ってるぞ。」
「昨日のこと思い出したの?」
傍から見ると、話が飛んだように聞こえるかもしれないが、なぜか俺は昨日の記憶が一部抜けてしまったのだ。
「何一つ思い出してないけど、思いっきり突き刺してただろ、剣。」
「えー、そうだっけ?それはいいから早く学校行こうよ。」
そう言ってすっとぼけた犯人、改めクラスメイトの来飛は、俺の手を引いて走り出した。
このことが、後に近所のおばさん達の話題に上がることになるなんて、俺は知る由もない。
□■□
「2035年、大規模な地殻変動の影響で太平洋上に新たな島が出現し、領有権を巡って一時は国際問題になりました。しかし、その島を国際連合から買収した人により、新たな国家となりました。さて、その国とは一体どこでしょうか、松下君?」
「はい、キャメロット王国です。」
「さすがですね。では、キャメロットはいくつの島から成り立っているでしょうか、春海さん?」
「はい、13個です。」
「正解!素晴らしいですね。では、ここまでを黒板にまとめていきます。」
閉め切った教室の淀んだ空気に息苦しさを感じながら、溜まった疲労を吐き出すようにため息をついた。
俺のクラスはほぼ毎日、6時間目の授業は世界史になっている。
それが俺にはたまらなく憂鬱だ。
別に世界史は嫌いじゃないが、この人、社会科で俺の担任でもある伊藤先生が好きじゃない。
もうすぐ三十路だというのに童顔で、甘ったるい声が余計に年齢を感じさせない。
優しい女性を体現したような先生なのだが、要領が悪く、その上天然な性格だから生徒が世話を焼く始末だ。
「先生、そこの『島』って字が『鳥』になってます。」
「あ、ほんとだ。間違えちゃったね。」
生徒の何人かがクスクスと笑い出す。
「ふふっ…先生、それ黒板消しじゃなくてお菓子の箱ですよ。」
教室がざわつき始め、笑いをこらえようと、の立ち回る生徒もいる。
「あれ?ほんとだ。」
束ねた後ろ髪を肩にかけてから、先生は焦らずゆっくりと丁寧に字を書いていくが…
「先生、また『鳥』って書いてるよ。」
…この状況で笑いをこらえられる人はこのクラスにはほとんどいないようだ。
とまぁ、こんな感じで誰かが注意し始めると、授業が全く進まない。
こういうときは窓際の席であるからこそ外を眺めて、考え事をする。
せっかく学校にいるんだから授業は真面目に受けたいのに…
「ごめんなさい、先生うっかりしてて。」
ド天然女教師はペロッと舌を出した。
キーンコーンカーンコーン…
授業終わりのチャイムが聞こえると生徒達が試練を乗り切った強者のような表情になる。
「あ、じゃあ今日はこれで終わりにします。」
そう言って微笑むと、先生は荷物をまとめ、教室から立ち去った。
…ドアのレールに躓いたのは見なかったことにしておこう。
はぁ…これでやっと放課後だ。
放課後はいつも教室の至る所から、
「部活めんどくさーい。」
という定型文が聞こえてくる。
まぁ、実際のところ本当にめんどくさいと思っているのは2割程度で、残りの人は『部活に行かなきゃいけない』という事実に半ばうんざりしているだけで、行ったら行ったで楽しんでいるのだろう。
そんなことを考えていると、多くの人が教室を後にする中で、流れに逆らい、こちらへやってくる人を見つけた。
…もうさすがにわかるよね、来飛だよ。
「何しに来たんだ?」
「伊藤先生、今日も酷かったね。」
来飛は俺の隣の席に着き、机の上の消しカスを軽く払い、頬杖をついた。
「そういう話をしに来たんじゃないだろ?っていうかもう話すことわかってんだから早くしろ。」
そう言って俺がせかすと、その言葉を待ち望んでいたのか一瞬ドヤ顔を決めてからこう言い放った。
「まぁまぁ落ち着いてよ。そういう男子ってモテないよ?だから僕なんかに手を出そうとするんでしょ?」
「…っ」
「彼女いないからってそういうのはちょっとやめた方がいいよ。非リア君?」
「…お前ちょっと表出ろ。」