大丈夫そうだね
午後四時半、乾いた涼しい風が、カーテンをオーロラの様にはためかせながら教室を駆け抜ける。
そんな場所で、凛は窓際の机に寄りかかり、隣の席の椅子に腰掛けた歌と彼女の膝の上に座る来飛と向き合っていた。
「それで、話ってなんだ?来飛」
「別に、大した事じゃないよ」
来飛は全く表情を変えず、口だけを動かし続ける。
「ただ、この話をする前に一つだけ凛に訊いておきたい事があるんだ」
「ん?なんだ?」
──凛がそう答えた瞬間、来飛が先の尖った冷たい物を彼の喉元へ突きつけた。
凛は全身の皮膚が一斉に収縮するのを感じながら、来飛の紅い目を覗く。
来飛の右手には、天使の羽を模した金色の鍔がある西洋剣が握られていた。
そう、先程の尖った冷たい物の正体は、彼女の持つ剣の切先だった。
「凛、お前は誰の手下なんだ?」
来飛は凛から視線を外さずに立ち上がり、半歩ずつ距離を詰めていく。
「…手下?何の話だ?」
凛は眉をひそめながら少しづつ身体を反らし、机に乗り上げる。
「では質問を変える。お前は〈指輪使い〉か?」
来飛は大きく踏み込み、一気に距離を詰める。
もう凛の背筋は限界を迎え、これ以上身体を反らせない。
それでも来飛は距離を詰め続け、いつの間にか、彼女が少し腕を動かすだけで凛の喉元から血が垂れてしまう程、刃先がぐっと押し当てられていた。
これ以上近寄られてはならない、なんて事はここにいる誰よりも凛が一番よくわかっていた。
「待て待て待て待てっ!!その〈指輪使い〉ってなんなんだ?」
凛は両手を来飛の目の前で広げて静止するよう促すと、西洋剣は空気中へ溶けだす様に消えていった。
「大丈夫そうだね。来飛」
歌がそう言って微笑むと、来飛はぺこりと頭を下げて、元の位置(歌の膝の上)に戻った。
凛は気を取り直して二人に問いかける。
「なぁ、その…〈指輪使い〉ってなんなんだ?」
歌は来飛の頭を撫でながら口を開く。
「簡単に言うと、魔法の指輪を使う人達の事だよ。私達もそうなんだけどね」
「私…達…」
凛にはその言葉が妙に引っかかった。
なんというか、『私達』の中に凛が含まれているような気がしたのだ。
恐る恐る二人の方を見ると、来飛が真顔で親指を立てていた。
凛が引きつった笑みを浮かべていると、二人の左手の人差し指にはめられた、黒いラインの入った銀色の指輪に集中線が集まる。
慌てて日差しを遮る様に挙げた凛の左手にも、二人のものと全く同じ指輪がはめられていた。
ついでに凛の指輪にも集中線が集まっていた。
…てかこの線どこから来たよおい。
「えっとつまりさ、あの、俺も〈指輪使い〉ってことになるのか?違うよな?違うって言ってくれるよな?」
凛は動揺をそのまま伝えるように来飛の肩を掴んで荒々しく揺さぶった。
「あの…来飛の頭が取れちゃいそうだから、やめてあげてくれないかな?」
すかさず歌が止めに入ると、凛は来飛から手を離して燃え尽きた様に座り込んだ。
ようやく解放された来飛は、机に頬杖をつくと、
「そうだよ。君は〈指輪使い〉だよ。立派な私達の同類だよ」
苛立った様に早口で死刑宣告を下す。
「でね?凛君。本題はここからなの。実はね、この地域で〈指輪使い〉が怪しい動きをしているっていう情報が入ったの。」
「そして、そいつらの調査を私達が頼まれたんだ。だから、君も調査に協力して欲しい。」
「………」
凛は何も言わずに俯いた。
二人は至って真面目な話をしているのだが、凛の心の中はそれどころではなかった。
何しろあまりにも情報が多すぎて、今の話に関係ある単語も全く関係のない単語も右往左往して、休日の賑わいを見せるテーマパーク状態になってしまったのだ。
こんだけ忙しいのだから、アトラクションの一つや二つくらいは、調子が悪くなってしまうだろう…
「──────────」
数秒後、歌と来飛の目の前には頭から白い煙が立ち上る、充電切れのロボットの様な凛の姿があった。
「わー。わかりやすい程ショートした」
来飛が表情も口調も全く変えずに凛を煽る。
「うーん…そんなこと言っても、あれが普通のリアクションだからね。私も急にこんな事を言われたら、びっくりしちゃうよ」
歌は苦笑しつつ、フォローを入れる。
「歌の時もこんな感じだった」
キュキュッ
「そうだったっけ?もう覚えてないよ。海濱市に来る前でしょ?」
パシャパシャッ
「あーそうか。ここに来る前か」
キュキューキュッ
「そうだよ。その時に海濱高校行きたいって言ったんだよ。」
パシャ
「あーそうか。ここに来る前か」
「お前ら何変な事言ってんだよ…」
二人に弱々しいツッコミを入れたのは、先程までショートしていたはずのロボット、否、凛だった。
「あとさ…これ、どういう状況?」
凛は頬を引き攣らせながら二人を見る。
それも当然、凛の目の前には油性ペンを持った来飛に、スマホのカメラをこちらへ向けた歌がいるのだ。
…ていうか近い。
「一つずつ答えると、カンペが出てたからさらっと昔の事話したのと、動かなくなったから顔に落書きしてみた」
来飛が口だけを動かし、歌の風鈴の音の様な声で凛の鼓膜を震わせる。
「お前ら以心伝心でもしてるのかよ…」
即興で声を当てた歌ももちろん凄いが、全く後ろを見ずにタイミングよく口を動かせる来飛も割と凄い。
あまりにも珍妙な芸を見せられたが為に、質問した本人が回答に反応するのを忘れてしまっていた。
「で、凛君。そろそろ顔を洗ってきた方がいいと思うんだけど…」
そう言って歌は、スマホの画面を見せる。
そこには、口の周りを黒い円が取り囲み、頬にはバカやアホ等、小学生が思いつきそうな悪口が片っ端から並べられた、凛の顔が映っていた。
「…ちょっと顔洗ってくる」
凛は両手で顔を覆いながら廊下へ走り出した。
「帰ろっか、来飛」
「そうだね」
ガコン
二人がゆっくり立ち上がろうとすると、何やら掃除用具入れから鈍い音がした。
来飛は床を蹴ると、掃除用具入れの前まで音を立てずに移動し、何の躊躇いもなく開け放つ。
「ぐわばぁぁぁぁぁぁ!!」
そんな呻き声と共に、ミイラ男のように全身をぐるぐる巻きにされた人が勢いよく飛び出し、頭を床に打ち付けるように倒れた。
身を翻して避けた来飛は、ミイラ男の包帯を摘む様にして解き始める。
「「あ!」」
ようやく顔が見えるくらいになると、二人は声を揃えて驚いた。
そこに居たのは、青く腫れた鼻から血を垂らして気絶した大樹だったのだ。
どうやら先程倒れた時に顔面を強打したらしい。
来飛が包帯だと思っていたものは、紙切れをホチキスやガムテープで繋ぎ、至る所に罵詈雑言が書かれたものだった。
これを見たらあそこまで警戒する必要は無かったのだ。来飛自身も作るのを手伝ったのだから。
来飛は自分の洞察力の無さを少し反省した。
まぁ、歌が無事ならそれでいいのだが。
なんて思っていると、歌が来飛の肩にポンと手を乗せる。
「凛君が戻って来たら帰ろっか」
「そうだね」
来飛は首肯すると、歌に優しく微笑んだ。
□■□
「マスター、なんか来飛が新人を見つけたって。明日連れてくるって!」
「へぇ、そうかいそうかい」
木目調で統一された薄暗い喫茶店で、赤いつんつん頭の大男と話しながら、白髪まじりのオールバックの男が皿洗いをしていた。
「それで、能力はどんな感じなんだ?」
「まだわからないって!」
二人はシンクに何十枚も積み上げられていた皿を、僅か二分程で片付けてしまった。
「それでよ、蓮弥。一応仕事中なんだから寝るのは止めろ」
オールバックの男は、椅子を寄せてそこに寝転ぶ赤髪の男──蓮弥に笑いながら注意する。
「いいじゃん!人いないし」
「給料半分な」
「ビラ配ってくる!」
蓮弥は飛び起きると、入口に置いてあった大量のビラを手早く掴んで外へ出た。
一分後、蓮弥は呑気に欠伸をしながら帰ってきた。
「どのくらい配ってきた?」
「んー、百二十くらい?ポストに突っ込んできた!」
それを聞いてオールバックの男は、嬉しそうに驚きながら親指を立てる。
「上出来だ。今日はもう部屋に戻っていいぞ」
「わかった。じゃあそうする。マスター、お疲れ様でした!」
蓮弥はお辞儀をして、キッチンの奥へ行くと、埃っぽい階段を上がっていった。
「新人…か。物騒な世の中になっちまったもんだな」
一人残ったオールバックの男──マスターは、右手の人差し指に嵌められた黒いラインの入った銀色の指輪に視線をやった。
「こんな物で人を殺せるんだからな…まぁ、それでも表の世界の奴らは平和ボケしてるけど」
そう言いながら、部屋の隅に置かれた小さいテレビをつける。
女性アナウンサーが一人、硬い表情でニュースを報じていた。
『今日昼過ぎ、海濱市で殺人事件が起こりました。犯人は、まだ捕まっていないとの事です。現場と中継が繋がっています。田中アナウンサー?』
映像が、白い部屋からモザイク処理された住宅街へと切り替わる。
『はい。こちら、海濱市の住宅街なのですが、白昼に二十人以上が腹部を貫かれて死亡したようです。被害者の性別、年齢共にばらつきがあることから、犯人は愉快犯と思われ、現在県警と警視庁が調査しています。被害者は──』
ピッ
マスターはテレビを消して、拳を机に叩きつけた。
浅くめり込んだ拳に木片が刺さり、ゆっくりと血が流れていく。
マスターはそれを、黒く細い目で見続けていた。
まるで、もう見飽きた、とでも言わんばかりに──