えぴろーぐの時間
部屋にぷかぷかと浮かんでいるわたしは、今日も変わらずご主人を眺めています。ご主人はと言うと、大学から帰ってきてからすぐベッドにダイブして、ぼーっと何事かを考えている様子。
こういう時はおそらく新しい小説のネタか、今晩の献立を考えている時です。
一週間経って、普段通りの生活に戻ってもらえたのはとても良かったです。もしかしたら今回の一件で引っ越してしまうという可能性も十分にあったので。
あそこでソウタ君を止めることを諦めなくて、本当に良かった。
ご主人が亡くなって、こちら側に来るというのも、こうやって妄想している分には良いのかもしれません。
でも実際そうなってしまうかもという時に、わたしは全力で止めようとしました。
それはきっと、流れる時間の中―ソウタ君の言っていた、正常な時の流れの中にいるご主人を、わたしは好いているからだと思います。
遊んで、笑って、悩んで、創り出して……。生きていく中で少しずつ変わっていく姿を見ることが楽しいと感じている。それが、わたしがご主人を見守り続けることに飽きていない理由なのです。
直に触れあってみたいですが、どこかで境界線を引くべきなのでしょうね。
わたしだけの力ではないですが、ご主人の時間を守ることができて本当に良かった。
「……よし」
ほっと胸をなでおろしていると、ご主人がいきなりベッドから立ちあがって、椅子に座ります。たぶん何かネタが浮かんだに違いありません。
カタカタとキーボードを打って執筆の準備をするご主人。
さて、今回はどんな物語が見られるんでしょう。
「……頑張ってくださいね、ご主人」
わくわくしながらご主人の真後ろまで寄って囁いた直後、それに気づいたかのようにご主人は振り返ります。偶然でしょうか、ご主人の目はちょうどわたしの目を捉えているようにも見えます。
「……」
食い入るようにわたしのことを見つめる(?)ご主人。
もしかして、本当に見えているんでしょうか。
ついさっき境界線を引こうと決心したばかりなのですから、もし見えていたら大変なことです。
わたしは急いで、床に潜り込んで一階の空きスペースに移動することにしました。
「お祭り会場はここと聞いて喜び勇んでやってきました、ネネです!! あ、一前さんですよね! 無事幽霊になって我々の仲間入りということで、おめでとうございます! お近づきの印にどうぞ!!!!」
「うるさい娘じゃのぅ……てかなんじゃこれカエルじゃないか。わしにこれをどうしろと」
「食べてください!!」
「……は」
一階に来ると、騒がしい声が聞こえてきます。確か今日の集まりは、シノさんがソウタ君の面倒を見てくれたアパートのメンバーのみなさんにお礼をしたいからと言ってご飯を振る舞ってくれる、ちょっとしんみりした会のはずだったんですけど……。
事務用テーブルには、ソウタ君を抜いたこの前の歓迎会のメンバーの他に、茶色の長髪が綺麗な二十歳前後の女の子―みんなから‘気まぐれ’だとか‘カオスでフリーダム’だとか言われていたネネちゃんもいます。一前さんのプレゼントを探しに行くと言った切り、二週間ほど顔を見せていなかったはずですけど、どこに行っていたんでしょう。
「田中ァ! ジャガイモとニンジンを四十秒以内に切り刻めぇ! 今日はお前らのために上手いカレー作ってやるから!」
「ひィ~、招かれた客のはずなのにいきなり無理難題押し付けられてませんか僕?!」
「お前は別枠に決まってんだろうが!」
「なんでですかぁ?!」
キッチンスペースではもう見慣れたいつもの喧嘩風景。田中さんは文句を言いながらも手際よく料理を手伝っていますし、シノさんはもう少し落ち込んでいるものと思っていましたが、いつも以上に元気に見えます。
気丈に振る舞っているとも見えなくはないですが。
「メンバーが一人成仏してもあんまり変わらないよな、みんな」
「え、えぇ……」
盛り付けたサラダのお皿をテーブルに並べながら、忍足さんがわたしに声をかけます。その外から眺めるような、他人事みたいな言い方に少しだけ違和感を覚えながら、わたしもお皿を並べるお手伝いをします。
「田中さんもシノさんもお久しぶりじゃないですかぁ。ソウタ君が成仏しちゃったんですって? めでたいことですよ! きっと次の人生では幽霊なんかにならずに幸せに暮らすことでしょう! ってゆーことで、カレーのお鍋にカエル入れても良いですか?!」
「なんでそうなるんですか?! 絶対だめですよ前代未聞です!」
「カエルでもなんでも入れてやれ! 楽しい方がソウタもきっと喜ぶ!」
「いえーい、さすがシノさん!」
「えぇ……」
聞いているだけで愉快になってくるこのやり取りは、たぶん二人ほどお酒が入っているということでしょう。
本当にいつもとあまり変わらない雰囲気だから、自然としんみりしていたわたしの気持ちも軽くなっていきます。
「ま、なんとか無事平穏な日常を取り戻せて良かった」
「ふふ、本当ですね」
忍足さんの言葉に、わたしは椅子に座って相槌を打ちます。この反応に何故か忍足さんは一瞬だけ目を丸くして驚いた様子でした。不思議に思って忍足さんの顔を二度見してしまいますが、ビールの入ったジョッキを軽く口元に傾けたその目は、いつもの細い目でみんなのことをにこやかに見つめていました。
まぁ、わたしの気のせいでしょう。
ネネちゃんも帰ってきたことで、わたしの幽霊としての生活もますます賑やかになっていきそうです。
幽霊の時間は止まっているとは言いますが。
それでもわたしはわたしのこの時間を、続く限り大事にしていきたいと思いました。
*****
あの‘火事もどき’事件から一週間がたった。僕も日和もとりあえず無事で、また明日、あいつは僕の家で堕落生活をしに遊びにくるようだ。
あんなことがあったのによくまだ来る気が起こるなと言ったら、‘怪奇現象の一つや二つ起こったところでこのユートピアを手放すわけないだろ’とのことで。霊感のあるやつはその辺の感覚がもう違うのだろうか。
怪奇現象。
ほとんどの家電が異常な動作を見せ、電灯も物凄い速さで点滅を繰り返し、コンロの火は火山が噴火したかのように噴き出していた。
あれは、夢の中でも早々お目にかかれない光景だった。常識を超えた現実が、あの時、僕の家の中では起きていた。
原因は分からない。あの辺一帯の異常現象でもなければ、僕以外の部屋ではそのようなことは起きていなかったという。一応、アパート設備の不備ということで、今回受けた被害―壊れた家電やら家具は、夕焼け不動産が弁償という形で解決してくれた。あれから一切、電気やコンロのトラブルは起きていないけれど。
根本的なことは解決したのだろうか。
もしかして本当にこの部屋には、何かがいるのか? いや、日和をバカにした手前、そんなことを考えるのは負けた気がして嫌なのだけれど。
……。
いや、でも僕が見たのは現実だ。それも説明できない現実。だったら、そこにどんな解釈を加えようとも、それは人間の勝手で、特権だろう。
「……よし」
そう考えると、ごちゃまぜになって行き詰っていた頭の中で、思考が、言葉がぐるぐると渦巻き出す。
創作意欲が戻ってきた証拠だ。
今なら何か、物語が書けそうな気がする。
僕は基本的に飽きっぽいから、早く作業にとりかからなければ。
―。
椅子に座ってパソコンの電源を入れた僕の背後から、誰かの声が聞こえた気がした。
振り向いてみるけれど、そこは真っ白な壁しかなくて、僕の期待していたものは何もなかった。
見つめ続けること数秒。
……気のせいか。
僕は思って、白紙のワードに文字を打ち込む。
新しい物語のタイトルは決まっている。唐突に頭に浮かんできて、その元ネタが何なのか、いくら記憶を掘り起こしても出てこなかった。
カタカタと、短いキーボードの打音が夜のアパートの一室に響く。
ディスプレイに表示されたのは、『ヌラちゃんの時間』という文字列だった。
Fin.