かぞくの時間
強張った表情で、シノさんはソウタ君に近づきます。
ソウタ君の方も口をパクパクとさせて、怯えたような表情をしていました。
わたしが玄関の方へと移動したから、二人の間を遮るものは何もなく、向かい合っています。
いつの間にか、再燃したコンロの火や家電も勢いを弱めて。
ただ親子が向かい合って立っているだけなのに、やけに静かで厳かな空気が数秒間、部屋を覆います。
シノさんは口を開けて何かを言いかけて、止めてしまいます。
目を細めて数秒、もの悲しそうな表情で自分の息子を見つめて、長く細く息を吐きます。
「ありがとうな、ソウタ」
それから間を置いて一言、シノさんは確かにそう言いました。
「……ッ!!」
聞き間違えかと思いましたが、ソウタ君の反応を見る限りそうではないようです。
たった一言を聞いた直後、ソウタ君の身体は電流に撃たれたかのように一瞬だけ震えて、その目からは涙がぼろぼろと流れてきました。
涙はダムが決壊したかのように、量と勢いを増していき、ソウタ君はむせび泣いてしまいます。
呆気にとられて、わたしは隣にいる忍足さんを見上げます。忍足さんはこの展開を分かっていたのか、表情を変えずに見守っています。
「うぅ……あぁ、うああ……!」
言葉を尽くして説得しようとしたわたしは何だったのかと思うほど、その一言は強力にソウタ君に届いたようで。
必死に答えようにも、それは言葉にならないようでした。
不思議なのは、ソウタ君の泣く姿が、決して悲しく感じないこと。
直感的にこの涙は悲しみではなく、喜びからくるものだと分かったのでした。
「……うん、うん、ぼくね、お母さんによろこんでもらえるように、イチゴのショートケーキ、かってきたんだよ……だから、起きたらいっしょにたべようね……」
しゃくり声を上げながら、ソウタ君はシノさんに伝えます。
その声色も口調も、さっきまで禍々しい空気に支配されていたそれではなく、年相応、ひょっとしたらそれより少し低いくらいのもの。
「あぁ、分かった。明日の朝、お父さんもいるから、一緒に食べよう。ありがとうなソウタ、あたしなんかの誕生日を祝ってくれて」
シノさんも涙声になりながら、ソウタ君を抱きしめます。
あぁ、これは生前の時間の再現なんだと、わたしはここでようやく分かりました。
生きていた時に言えず、止まった時の中で残留してしまった想いを、ここで吐き出す儀式みたいなもの。
その行為の結末がどんなものなのか。
答えはすぐ見ることになってしまいました。
「あと、ごめんなさい」
「良いんだ。少なくともあたしは、ソウタと一緒にいられる時間が増えて、少しでも話ができて、本当に良かったと思ってる。死んだ後も伝えたいことを伝え合えるなんて、本当にラッキーなんだよ。お前が今のあたしとの関係に不満があるんだってことも分かったし……だから、もう一度やり直させてほしい。お前の母親として、幽霊になっちまったけど、これから二人で幸せに―」
シノさんの願いは、ソウタ君に届くことはありませんでした。
わたしが瞬きをする間に、彼の姿は最初から無かったかのように、消えていたから。
虚空を抱きしめるシノさんの姿と表情は脳裏に焼き付いて、この先しばらくは離れそうにありませんでした。
*****
結論から言うと、ソウタ君は成仏しました。誰かの成仏を経験するのは初めてではないですが、それでも長く親しくしていた人の成仏は、悲しくないと言えば嘘になります。
家の方も想定された最悪な状況にならず、ご主人たちもあの後たまたま通りかかったお隣の部屋の人に救急車を呼んでもらって、大事には至りませんでした。
とりあえずご主人の危機は去ったと言っても良いでしょう。
部屋にある家電やコンロも問題なく動くようになったばかりか、シノさんが覚醒した後も不調を起こすことがなくなったのです。
その要因はやはりソウタ君の成仏だと、忍足さんは分析しています。
「ヌラちゃんとソウタ君の喧嘩は一階で目が覚めた俺たちにも聞こえていてね。ヌラちゃんが見たというソウタ君の過去の映像も、俺たちは見ることができたんだ。上で大変なことが起きているのに、強力な結界のせいで上に行けないのがとてももどかしかった。じゃあせめて、結界が解けるか弱まるかするまで解決策を考えようと、シノさんと必死になっていたわけだ。その結果が、あの再現だった」
シノさんの能力の大元は、ソウタ君と自分の死因である火や熱を抑制するもの。わたしはそれらが怖いから、火や熱を出すあらゆるものが不調になっていたのだと思っていましたが。
シノさんは分からなかったのです。自分が、何が原因で起こった火で焼け死んでしまったのかを。だから今まで、‘あらゆるもの’に不調が起こっていた。
でも今回、シノさんも一緒に映像を見たことによって、ようやく自分の死因が一本のろうそくの火だということが分かった。
あの映像で、シノさんに残留していた想いが一つ解消されたからこそ、ご主人の部屋だけでなく、このアパート一帯の火や熱に関する問題が解決したというわけです。
「ソウタ君が最後に言った‘ごめんなさい’も、相当効いただろうね。ただ死因を聞いただけだったら、まだ能力は継続していたかもしれない。けど、故意ではないにせよソウタ君が火を点けてしまったあの理由を知ってしまったら、親の立場だと何も言えなくなってしまうだろうからさ。もし俺があの立場だったら、誰を恨んで良いのか分からなくなる。自分を恨むことも、あるかもしれない」
一階の空きスペース。
事務用テーブルで、わたしと忍足さんは向かい合いながら、今回のことについて話していました。
話したところでソウタ君が戻ってくることも、今回のことがなかったことにはならないのですけど。
むしろ成仏したのは、ソウタ君のためにも良かったのかもしれない。
そんなことを言ったのは他でもない、シノさんでした。
「‘五年前に死んだ時点であたしたちの時間は止まって無いはずのものだから、この結末はむしろ自然なことだったんだ’……かぁ」
わたしは事件の後、シノさんが言った言葉を繰り返します。
確かに正しいことに聞こえます。このことに自覚的で、それでも抗おうとしたソウタ君とは対照的な、どこか冷えた考え方にも。
「二人の関係は死後も変わらなかった。いつも何かが邪魔をして、触れ合えない親子。それも、見えない力で無理やり維持されているみたいに。だからシノさんが育児放棄をしていたとか、嫌いだから遠ざけていたとかそんなことが原因じゃないんだ。それはソウタ君も分かっていた。だからこそ、恨みはシノさんではなく、生きている人間に向かったんだろうと俺は思う」
だからこそ、ソウタ君を苦しみから救うには成仏しか方法が無かったということ。幽霊になってまで同じ苦しみを味わうならいっそのこと……という結論だったのでしょう。
わたしは忍足さんの言葉を引き継いで、頭の中でそう結論付けます。
シノさんとのあの短いやり取りの中で、せめてソウタ君が満足して成仏したことを祈るしかありません。成仏したというからには、あの仄暗い感情も晴れて、満足したはずではあるのですけど、わたしは未だに釈然としないものを胸の中に感じます。
「ただ強がりたいだけというふうにも取れるけどね。まぁ、でも今回は、親が子に‘ありがとう’を言いたくて、子が親に‘ごめんなさい’と言いたくて、その逆も然りで。止まった時間を越えて、五年越しにようやくそれが叶って一件落着というお話だよ。もしヌラちゃんが今回のことで気になることがあるなら言っておくと、幽霊はこれ以上、誰かに干渉するべきじゃない。俺の持論だと、幽霊は‘視る’ことでしか外界と接触することができない。幽霊になって壁も通り抜けられて、空も飛べて何でもできる気がするけど、誰かのためにできることってなると、途端に生きている頃より少なくなっちゃうんだ」
含蓄のある声色には、全く未知の重みを感じます。いったい何なのだろうと好奇心が頭をもたげますが、忍足さんの言いつけを守ることにして、口から出かけた言葉を引っ込めて、こくりと頷くだけにしておきました。