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ヌラちゃんの時間  作者: 黒崎蓮
5/7

ひまつりの時間

「さぁ、どんどん作ってどんどん持ってきたまえよ」

「お前も手伝えよ。ハンバーグをレンジで温めることくらいできるだろ」

「この前ボクにそういうこと任せたら何が起きたでしょうか」

「レンジの中で青白い火花が散って危うく仲良く汚ねぇ花火になるところだった」

「大正解! だからボクは手伝わない」

「大丈夫だから! 今手伝ってくれないと効率悪いから!」

 ふふ、計画は順調です。

 ご主人が冷凍餃子を作るためのコンロの火も、先ほど電池を入れ替えたら順調に点きましたし、ご友人が渋々ハンバーグを温めようとセットした電子レンジも何の問題もなく動きそうです。

 料理を作り始める前に付け替えた電球のおかげで、リビングがいつもより数段明るく感じます。

 いやぁ、買い物に行った甲斐があったというものですね。

 ちなみに買った覚えのない電球についてご主人は、「徹夜続きで疲れているから、自分で買ったことを忘れたのだろう」ということで納得してしまったみたいです。買ってきて言うのもなんですが、ご主人、相当疲れているみたいです。

「よし、ついでにピザも焼くか。今月の電気代? 知るかそんなもんたまには贅沢も良いだろう!」

「ひとり言まで貧乏だなぁお前は。泣けてきたよ」

「同じ穴のなんとやらだぞ」

 ふふ。お二人の掛け合いに、わたしまで楽しくなってきちゃいます。

 コンロも電子レンジも電球も、おまけにオーブントースターまでついているのですから、準備は万端ですね。あとはソウタ君にシノさんを起こしてもらえれば、家電やコンロは能力の影響を受けずに稼働し続けているから、この家の問題は万事解決です。

 これで心置きなくいつもの生活を送ることができそうですね。ソウタ君にも感謝感激です。さっそく呼んできましょうか。確かさっきまで一階の空き部屋にいたはずです。

 そう思ってわたしは、下の階に向かうために床をすり抜けようとしました。

「痛ッ!」

 でも、電流が頭の中を走ったかのような感覚と一緒に、わたしの身体は床から離されてしまいます。

 まるで床とは別の、見えない壁に阻まれたかのように。

 偶然の出来事かと思ってもう一度床に潜り込もうとしましたが、結果は同じでした。

 なんですか、これ……。今までこんなことなかったのに。

「なぁ、なんかガス臭くないか? 火強め過ぎじゃない?」

「うん? 言われてみれば。でも強さは中火にしていたような……」

「そしてめちゃくちゃ暑い。暖房は……あれ、入れてないのか?」

「節電でな。でもここまで暑くなったなら入れなくて正解だっただろ。一回換気のためにも窓を開けるか……ん?」

 わたしが混乱する傍らで、ご主人たちの方でも何か変化があったようです。ご友人の言う通り、部屋にはガスの臭いが充満していて、温度が異様に上がっているようでした。

 この季節にはそう感じることのない、包み込まれるような熱気。

 生きている人であれば、この部屋に数分いるだけで臭いと熱で気分が悪くなってしまうはずです。

 そして。

「え、窓が開かないんだけど」

「はぁ、引きこもりすぎて窓も開ける筋力すらなくなっちゃったのか?」

「さすがにそんなわけないだろ。ほら鍵も開いているし。こう、やって、引いても、ぜんぜん開かない」

 空気を入れ替えるための、部屋で一番大きな窓が開かないようなのです。ご主人が力いっぱい押しても、反対側の窓を開けようとしても、びくりともしない様子です。

 試しにわたしもすり抜けようとしましたが、なぜか床の時と同じように押し戻されてしまいました。

「……風呂場の窓も開かないんだけど」

 ご主人が窓に四苦八苦している間、ご友人はお風呂場にある小さな窓を開けようとしたようですが、結果は同じらしく、今までにない神妙な面持ちで帰ってきました。

 その間にも部屋の温度は徐々に上がって、臭いの濃度は濃くなっているように感じます。

 これは、絶対普通じゃないです。

「おえ、なんか気持ち悪くなってきた。とりあえず、コンロの火消さない? あれ消せば暑さだけならどうにかなるんじゃね?」

「……あー、そうだな」

 ご友人の提案に、ご主人はボーっとした様子で答えます。反応が遅いのはきっと良くない証拠です。

 わたしも何かしなくちゃ。

 でも、気持ちが焦るばかりで、今わたしができることの見当がつきません。床もすり抜けられないから助けも呼べないし……。

「おいおい冗談だろ。火が消えないんだけど……!」

 追い打ちをかけるように、ご主人の震えた声が聞こえます。

 見ると、コンロの火は中火の強さを保ったまま、ご主人がレバーを‘消火’の位置に戻しているのに一向に消えないのです。

「おい、日和、コップを持って来てくれ。とりあえず水をかけて火を消すから!」

 ご主人は一瞬考えた後、ご友人を呼びます。さすが冷静な判断です。わたしがもしこの場にいたらあたふたしてしまって何もできなかったかも。

 そう思って今度はご友人の方に目を向けます。ゲームをする時、料理を手伝う時はご主人と阿吽の呼吸を見せてくれるご友人ですから、今回も素早く対応する彼女の姿を思い浮かべました。

 でも、振り返った先にあったのはその想像とまるで違って、ご友人の身体は、ご主人のベッドの上でだらんと横たわっていたのです。

「おい、こんな時に寝ちゃ、ダメ、だろ……」

 いや、わたしには分かります。

 あれは眠っているのではなく、気を失っているんです。

 ガスの影響、でしょう。この短い間に人の意識を奪うまでガスが部屋に溜まってしまったというのでしょうか。

「くっ……あ」

 どさり。

 そんな鈍い音ととも、今度はご主人の身体がぐらついて、倒れてしまいます。反射的に支えようと近づいたのですが、案の定、わたしの腕をすり抜けてご主人は床にうつぶせの状態で叩きつけられてしまいました。

 打ちどころが悪くないことをただ祈ることしかできません。

 それしかできないことが、ただただ歯がゆいです。

「そんな……どうしたら」

 このままにしておけば、部屋の温度はさらに上がって、ガスがさらに充満して、気を失うどころの話ではなくなります。一酸化炭素中毒、でしたっけ。わたしの頭のどこかにあったそんな単語が、身体中を寒気となって走り抜けます。

 とにかく換気だけでもしなければ。

 すぐに目に映ったのは、玄関の扉でした。

 床も、窓もダメでしたが、最後の希望です。

 幽霊は力(忍足さんは霊力と言っていたような気がします)を使えば、現世のモノや人に介入―直接触れたり、憑依も可能らしいです―することができます。実際にやったことはないですが、扉を開ける少しの間だけならきっと……!

「お母さんの能力が火や熱を抑制するなら」

 扉まであと数歩。突然声が聞こえて、扉に伸ばしかけていたわたしの手は止まってしまいます。

「僕の能力は、その逆。火や熱を増強する力なんだよ、おねぇちゃん」

 なぜなら、わたしの目の前には扉ではなく、見覚えのある男の子の姿あったから。彼の―ソウタ君の瞳の中には、錯覚かもしれませんが、炎が爛々と燃え盛っているように見えました。

 瞳の中で激しく揺らめく炎。

 何が起きたのか分からないわたしの脳内に、その炎はある一つの映像を映し出していました。


 *****


 共働きで忙しい父と母の帰りを待つ夜の九時。いつもはただただ寂しい時間を耐え忍ばなければならないが、今日だけは楽しみに待つことができた。

 その日は少年の母親の誕生日だったからだ。

 細々と貯めていたお小遣いを使って、母親への誕生日ケーキを買った少年は、母親の帰りを今か今かと待ち続けていた。

 父親はいつも通り、時計の針がてっぺんを差してからではないと帰ってこないかもしれないが、母親なら今日、散々早く帰ってくるように頼んだのだ。きっともう少しで来てくれる。少年は自分に言い聞かせて、ひたすらに待っていた。

 芯から冷える師走の季節、暖房を効かせ、炬燵の中に包まっているにもかかわらず、寒さを感じながら。

 一時間ほどして、何をすることもなく天井の四つの電球を順々に眺めていた少年は、玄関のドアが開く音を聞いて、反射的に立ち上がる。

「おかえり、お母さん。あの、ケーキを……」

「ごめん、ソウタ。お母さん今疲れてるから、後にしてくれないか」

「えっ、あ、うん……」

 だいぶ遅い時間だが帰ってきてくれた。やっと一緒にケーキを食べられる。

 そう思っていたのに、母親は疲労を滲ませた顔で言うと、そのまま真っ直ぐ奥にあった自分の部屋へと吸い込まれるように行ってしまった。

 無理やり作った少年―ソウタの笑顔は、錘を乗せられたかのように消えた。抱えていたケーキの箱も、力が入らなくなって落としてしまった。

 衝撃で中に入っていたカットされたショートケーキと、付けてもらったカラフルなろうそくがバラバラと出てきてしまう。

「……良いよ、もう。僕、先に食べちゃうからね」

 ソウタは拗ねたように言って、落ちてしまったケーキを乗せる皿を持ってくるためにキッチンの方へと移動する。

 床に落ちてしまっていても、すぐに引き上げれば食べられるはずだ。

「……あ」

 食器棚を開けて、平たい皿を探していたソウタは、その中にチャッカマンが横たわっているのを見つけた。

 忙しいせいでキッチン周りの掃除もされていなかったから、火の点きづらいコンロだったため、よく母親はこれで火を点けていたのだ。

「ろうそくも、つけたいな」

 それは単なる気まぐれだった。

 ろうそくを点けて電気を消して、誕生日パーティの雰囲気を味わいたかっただけかもしれない。単純に火を点けて、息を吹きかけて遊びたかったのかもしれない。

 とにかくソウタは、ケーキを皿に載せ、そこにろうそくを一本だけ差して、チャッカマンで火を点けようとした。

 カチリ、カチリという音がして、チャッカマンの先端から小さな火がメラメラと顔を出す。そのままろうそくに近づけて火を点けるだけで良かったのだが、ソウタの動きは止まってしまった。

 温かくも眩しい火の光に、魅入られてしまったと言っても良かった。

「お母さん……」

 温もりが欲しかった。

 七歳のソウタには、ぽっかりと空いた心の穴も、じりじりと感じる空虚な痛みの正体も、何という名前で呼んだら良いか分からなかった。

 母ともっと話したい。遊びたい。一緒の時間を過ごしたい。

 でもどうしたら良いのか、全く分からなかった。

 父も、機嫌が良い時はとても優しいのだ。早く帰ってくると連絡が着た時、二時間も前から玄関で待っていたこともあった。

 たまに家族三人が食卓に集まることもあった。けれどそういう場合は大抵、何を話したら良いのか分からず、沈黙のまま終わってしまう。

 得体のしれない痛みを抱えたまま時間が流れ去っていくのが怖かった。

 火がいずれ消えてしまうように、自分が両親を好きでいる感情が時と一緒に流れ去っていくのが怖かった。

 このまま事態が好転するということがあるのだろうか。

 学校に行っても暴力を振るう生徒ばかり。それを見てみぬフリをする教師。習い事もしていなければ、家はこの有様だ。

 明るい未来など、見えなかった。

 今見えているのは、やたらと眩しく見える一点の火だけ。

 いっそのこと時間が止まってしまえば……。

「……」

 気づけばソウタは、火のついたろうそくを片手に、ぼーっと立っていた。

 すぐ下には、炬燵の羽毛布団。その指を放せば、火が移って大惨事になる可能性は極めて高かった。

「ぜんぶ、もえちゃえ」

 騒ぎを起こして母親に構ってもらいたかっただけなのか。それとも本気だったのか。

 それは誰にも分らないまま、午後十時三十分。

 夕焼け三丁目ビル三階の大部屋は、黒煙と熱風に包まれた。

 子は親に、親は子に、何も伝えられないまま。

 焼け跡からは母子二人の遺体が発見された。


 *****


「い、今のは……」

 長いような短いような映像が終わって、わたしは首を左右に振って、眩暈のような感覚から逃れようとします。

 内容から察するに、さっきの映像はソウタ君の記憶、しかも幽霊になる直前のものに違いありません。

 でも、どうしてそんな映像が。

「おねぇちゃん、僕の過去を見たんだ。じゃあそのまま見ててよ。この部屋が、このアパートが燃え尽きる様子を」

 部屋の温度とは真逆の凍り付くような口調で、ソウタ君はそんなことを言います。その言葉に反応するかのように、コンロの火は激しさを増し、電子レンジやオーブントースターの熱量も、天井の電球の明るさも増しているように見えます。

「燃え尽きるって、どういうことですか? この部屋の状況、ソウタ君がやったとでも言うんですか?!」

「その通りだよ。おねぇちゃんが協力してくれたおかげで、こんなにスムーズにできたんだ。ありがとね」

「えっ……」

 わたしのおかげ?

 こんな大惨事を起こすための手伝いをした覚えなんて一つもないんですけど。

「僕の能力もお母さんと同じ。何か対象がないと発動できない。火や光を勝手に作り出すとかもできない。だけど、対象―火や熱を発するものがあれば、お母さんとは違って意識的にその力を増大させて操ることができる。この家を包むくらいの炎だって作り出せる。おねぇちゃんがこの家の人のために買ってきたものは、みんな僕の能力を発動させるためにうってつけのものだったんだよ」

 得意げに、凄惨な笑みを浮かべて話すソウタ君は、もうわたしの知るソウタ君ではないように見えました。

 歳不相応な身振りや話し方。

 発せられる気配はどこか禍々しくて。

 わたしは彼が、直感的に悪霊という存在だということを察してしまいます。

「なんで、こんなことをしたんですか……」

 相手が悪霊で、理性的に話し合いができる状態なら、会話を試みる。

 万が一の時のために、忍足さんが教えてくれた方法ですが、まさか実践することになるとは思いませんでした。

「……」

 わたしの問いかけに、ソウタ君は口をつぐみます。

 一寸の沈黙に、わたしの頭に初っ端の質問から失敗してしまったのではという懸念が浮かびます。

 想いは口にするとさらに大きくなってしまう場合がある。

 昨日の田中さんは大丈夫でしたが、ソウタ君が同じく危険でないとは限りません。

「どうしてって。嫌になったからに決まってるよ。この家で普通に暮らして、普通に生きて、笑っている人たちを見るのが嫌になったんだ。……なんでだよ、僕らは死んで、時間は止まって、お母さんとずっと一緒にいられるはずなのに……なんでこんなに……」

 嫌な予感は的中のようで。

 ソウタ君の震えた声は、だんだんと切ない色に染まっていきます。彼の立っている空間も、気のせいでなければ奇妙に歪んでいるようにも見えました。

 これは、たぶんというか絶対、わたしの手に負えるものではありません。

 こちら側から人を呼べないのなら、せめて誰かこの状況に気づいてください……!

「無駄だよ。この時間ならだいたいみんなまだ寝てるんだ。起きていたとしても、僕の結界はそう簡単に通れないようにできているからさ……だから!」

 絶望的な言葉とともにソウタ君が右手を振り上げたのを認識した直後、耳に届いたのはボンッという暴発音。

 振り返るとそこには、真っ黒焦げになったフライパンらしきものが、白い煙を立てながら、倒れているご主人のすぐ近くに落ちていました。

「なっ、ソウタ君、なんてことするんですか?!」

 間一髪、ご主人には当たらなかったようでしたが、少し位置が違っていれば大惨事でした。

「良いんだよ。どうせみんな死んじゃうんだからさぁ」

 うつろな瞳で、燃え盛る火を吐き続けるコンロを眺めるソウタ君。

 せめて、ご主人とご友人だけでも逃がせないのでしょうか。

 幽霊のわたしができること。

 霊力を使って水道の水を部屋中に撒く? でもそこまで力が続くかどうかとても怪しいです。

 あるいはお二人のどちらかに憑依して、もう片方を起こして逃げる?

 確かにさっきご主人たちが試したように、どこの窓も開きませんでした。けれど、一つだけ試していない場所があります。

 ソウタ君が立っている玄関。

 わたしがあの扉に手を伸ばそうとした時、彼はそれを塞ぐように現れました。それは玄関の扉だけ、結界の対象になっていないという可能性が残っていることではないでしょうか。

 少しの希望が見えてしまうと、その他の可能性とか、一つ目の選択肢とどちらの方が霊力を消費するのかとか、そういった考えが浮かばなくなってしまいます。

 少しでも、可能性のある方へ。

 わたしがそうだと思った方へ、わたしは選択します。

憑依なんてやったこともないですが、どうにかなるはずです。というか、どうにかならなきゃダメです。

「ご主人……失礼しまぁす!」

 結論を出した瞬間にわたしは叫んで、床をくぐって一階に行くのと同じ要領で、倒れているご主人の背中に飛び込みます。

 液体の中に入りこむような感覚、いや、入り込まれるとも言って良い感覚。その次には、後頭部がじんわりと痺れるような感覚に襲われて。

 わたしの意識は遠のいていきました。



「ん、痛ッ……」

 突き刺すような頭痛と、汗ばむような暑さで僕は目を覚ました。

 おかしい。今の季節は冬のはずで、こんなに暑いわけないのだけれど。

 ―明日はとても熱くなりそうだから、気を付けてね。

 思った矢先に、そんな言葉が頭のどこかから再生される。でも、誰に、どこで、いつ聞いたかは全く思い出せない。そもそもそんなことを言われたっけ。昔の記憶と混同しているのかもしれない。

「うぅ……うおっ?!」

 はっきりしない思考を散らせて目を開けると、まず飛び込んできたのは真っ黒な何か。反射的に飛び上がって確認すると、それは無残に焦げたフライパンらしかった。

「なんでこんなのが……って、うわ……」

 周りを見渡しただけでも、フライパン以外の異常はたくさんあった。

 コンロからはガスバーナーかと思うくらいの炎が吹き上がって轟々と音を立てていたし、電子レンジやオーブントースターなんか、タイマーがてっぺんを差しているにも関わらず中の物を温め続けて煙を吹いていた。

 おまけに部屋の四つの電球は、今まで見たこともない明るさで、なおかつ物凄い速さで明滅を繰り返していた。

 ……いったい、何が起きているんだ?

 というか、何で僕は床で寝転がっていたんだっけ?

 確か日和と冷凍食品祭りを……。


 ―逃げてください。早く、ご友人を連れて、玄関から……。


 思い出しかけて、頭の中に声がはっきりと響く。一瞬、どことなく似ていたから日和かと思っていたのだが。

 声の主だと思っていた日和は、僕のベッドの上で手足をだらりと垂らして転がっていた。

「思い出した。確か、部屋が異様に暑くなって、換気しようにも窓も開かず、火も消えないとかいう謎現象が……!」

 全部を口にする前に、僕は弾かれたように日和のところに駆け寄る。

 その表情はどこか苦しそうで、決して安らかな眠りとは言えなかった。

「この部屋、よく考えなくても長く居ちゃまずいだろ。おい日和、起きろ! 起きてとりあえずこの部屋から出るぞ、おい!!」

「う、うぅ……」

 肩を揺すっても、呻き声が漏れるばかりでなかなか意識が戻ってこないようだった。

「げほっ、ごほっ。やばい、意識したら気持ち悪くなってきた……おい日和! おい、日和さん、起きてください!!」

 ……ん?

 なんか今、僕の口調がおかしくなかったか?

 熱気と、この無駄に明滅する視界にやられておかしくなってしまったのだろうか。

「く、仕方ない……」

 何度揺すっても夢の世界から帰ってこないので、日和を背負って部屋を出ることにした。

 うん、この軽さならなんとか運べそうだ。どことは言わないが、背中に当たってしまうけれど、不可抗力というものだ仕方がない!

 小走りに部屋を過ぎていく中で、派手にヒートアップしている家電たちが横目に入る。

 本当に、何が起きたのだろう。

 家電、というか電気を使うもの全般がおかしくなっているようだけど、全国的な電気系のトラブルか、災害か何かだろうか。外に出たらまず消防に電話しようと思ったのだが、外も同じような状況なら対処してもらえないかもしれない。

 玄関の扉に飛びつくように近づいて、僕はドアノブに手をかける。まぁ、まずは確認しなければ始まらない。

「は……?」

 がしりと、腕を締め付けられるような感触。

 ドアを開けようとした僕の腕は、誰かの手に(、、、、、)掴まれたらしかった(、、、、、、、、、)

 状況的に考えて、日和の手以外はあり得ないのだけれど、そんなことはなかった。彼女の手は今現在、僕の胸の前で交差するように宙ぶらりんになっているから。

 じゃあ、この手は、誰の手だ。

 ほぼサウナ状態の部屋の中、身体中の汗が凍り付くような錯覚に襲われる。

「く、このぉ……!」

 僕はもがくようにドアノブをひねって、扉を押す。けれど、扉は簡単には開いてくれなかった。

 外から扉が開かないようにされているのではなく。

 同じ内側から、扉を開けさせまいと引っ張られているような。

 それでも、引っ張る力はそこまで強くない。さっきの窓はびくともしなかったが、こっちは例えるなら、近所の子どもがイタズラで反対側から扉を開かないようにしている、その程度の強さだった。

「な、め、ん、なよぉぉぉぉおおおおお!!」

 僕と、プラス日和の体重を乗せて、扉は徐々に外の景色を見せ始める。

 そしてひんやりとした空気を感じた時には、扉が開いていた。

勢い余って一歩踏み出した僕の顔に吹き込んできたのは、慣れつつあった真冬の風。アパート二階廊下からは、車がまばらに走る、いつもと変わらない幹線沿いの道路が見えた。

 ぱっと見たところ、近くの家からは僕の部屋のようなことが起きている混乱は見られない。

 これはまた夕焼け不動産の不手際だろうか。だとしたら今回こそはちゃんとした抗議をしなければなるまい。

 ちょっと安心したのもつかの間、僕の意識は突然、後頭部に感じたじんわりとした痺れとともに、暗闇に落ちていった。



 あともう少しだったのに。

 もう少しでご主人たちを安全なところまで避難させられたのに、わたしの霊力が底を尽きたようです。

 わたしが憑依したショックなのか、同時にご主人の意識も戻ったから、これでも長く持った方なのですけど……。

 わたしが離れた衝撃で、ご主人の意識も飛んでしまったようです。開けっ放しの扉の前には、ご主人とご友人が折り重なるように倒れています。

「はぁ、はぁ、邪魔しないでよ、おねぇちゃん……」

 息を切らしながらわたしの腕を掴むソウタ君。彼の方でも、わたしがご主人から離れるように何か力を使っていたのかもしれません。

 けれどそのおかげで、ソウタ君の霊力もだいぶ弱まったように感じます。部屋に溜まっていた熱気も淀んだ空気も、単に扉が開いて換気されたという以上に晴れたような気がします。

「ご主人やご友人を危険にさらさないでください! 彼らは関係ないじゃないですか……!」

「関係なくない! ここで、呑気に幸せそうに生きている時点で、燃やし尽くす理由にはなるんだ。こいつらばっかりズルいじゃないかよぉ……上にいる家族も、ここに住んでいる奴らみんな、燃えちゃえば良いんだ……!」

 力は薄れても、ソウタ君の気持ちは晴れないようで。

 自分勝手な主張に聞こえるけれど、幽霊にとって、悪霊になってしまうような幽霊にとって、こういう暴走をする理由には十分なのかもしれません。

 わたしには死んだときの記憶も、生きていた時の記憶もないから、やっぱり共感もできない。

 昨日の田中さんの話のように、今が楽しければ良いじゃないですかなんて、今のソウタ君には絶対に通じない言葉でしょう。

 それでもわたしは、一つだけ気になる疑問をぶつけることにしました。

「ずっと一緒にいたがっていたシノさんと、お母さんと一緒にいる時間を手に入れることができたじゃないですか。死んじゃったことは確かに残念ですけど、それでもお母さんと一緒にいられる時間が増えたことは、ソウタ君にとって良いことではなかったんですか?」

 真っ暗で絶望的な状態の中でも、たった一筋の光があれば救われる。わたしにとってのご主人がそうであったように、シノさんと半永久にいられるこの幽霊としての時間は、ソウタ君にとって光にならなかったのでしょうか。

「……終わりのない時間って、止まっているのと一緒なんだよ。僕たちが死んでから五年経っても、僕とお母さんの時間は止まったまま。生きていた頃のような、正常な時間の流れの中にいないと、僕とお母さんはいつまで経っても進めない。いくら僕がお母さんを‘起こす’力を持っていたって、お母さんはいつも何か理由をつけて僕を置いてきぼりにしたままで、僕はずっと寂しいままで、何も変わらないんだよ」

 その小さい姿に反した抽象的な説明に、わたしの理解が追いつきません。

 ソウタ君とシノさんの関係。

 シノさんは昨日、買い物には‘明日’連れて行ってくれると約束しました。

 ソウタ君の過去の映像からも、せっかく誕生日をお祝いするつもりが、‘疲れているから’という理由で後回しにされて、結局叶うことはありませんでした。

 つまりそういうことなのでしょうか。

 それが運命だと言うように、二人の時間は生きていた頃と同じように平行線を辿ったまま交わらない。

 シノさんとの時間が、生きていた頃の嫌な経験の繰り返しになって、余計にソウタ君を苦しめる。

「分かったらもう僕の邪魔をしないでよ。正しい流れってのを見せつけられるのはもうウンザリなんだ。全部なくなれば、こんなに苦しまなくて済む。一人ぼっちで寂しいのはもう慣れているから良いけど、こいつらの幸せだけは、僕はどうしても許せないんだ」

 ソウタ君は私の腕から手を離して、部屋をぐるりと睨み付けます。部屋の温度と禍々しさが、徐々に増して、戻ってくる感覚もあります。

 決意は固い。

 もう何を言ってもダメかもしれない。

 この家が全部燃えて、ご主人やご友人が幽霊になって一緒にいられるならそれはそれで良いかもしれない。

 そんなことを頭の片隅で思いつつ、まだ諦めきれない自分がいます。

「……それでも、ご主人たちを巻きこむのは止めてください。ご主人には、生きている今があるんです。生きている人には生きている人だけが持てる時間があるんです。ご主人には生きて、叶えてもらいたい夢もあります。ここでこちら側に来られてはダメなんです。だから、ソウタ君のワガママでご主人たちを傷つけることは、わたしが絶対に許しません……!」

 だからわたしは精一杯に怒りました。

 ワガママにはワガママで対抗です。シノさんには申し訳ないですが、たった今、わたしはソウタ君と大喧嘩する覚悟さえもできました。

「それに、一人ぼっちで寂しいなんて、言わないでください。わたしたちとこのアパートで過ごした時間は、どうなっちゃうんです? シノさんとの関係だって少しも変わらなかったなんてなかったはずです。わたしたちに出会って、ソウタ君の時間は一秒も進まなかったって言うんですか……?」

 今度はワガママではなく愚痴、みたいなものです。

 自分で言うようなことでもないかもしれませんが、わたしと一緒に忍足さんの怪談話を聞いていた時、みんなで美味しいごはんを食べた時、買い物をしていた時、ソウタ君の楽しそうな顔はウソではなかったと思っています。

 その証拠に、わたしのワガママには表情一つ動かさなかったソウタ君でしたが、今の言葉にはぐっと下唇を噛みしめるという反応を見せてくれました。

 あともうひと押し。火事を完全に防げなくても、ご主人たちが目を覚まして逃げる時間を稼ぐくらいならなんとかやり遂げなくては。

 何か、良い考えは。

「女の子を困らせるような育て方をした覚えはないぞ……なんて、今のあたしが言っても説得力皆無だよな」

 必死に説得の言葉を探すわたしの背後に、聞き覚えのある声。

 もたもたしているうちに、どうやら別の時間は稼げたようでした。

「ヌラちゃんが時間を稼いでくれたおかげで、ソウタ君の結界が弱まったようでね。なんとか暴走一歩手前で駆けつけることができて良かったよ」

 玄関から堂々と入ってきたのはシノさん。

 そして同じく玄関口から覗くのは三つ葉のクローバーと、帽子のキャップ。安心感で、わたしはその場にへたり込んでしまいます。

「ソウタ君にもシノさんにも、言いたいことはあるけれどね。とりあえず今からは、家族の時間といこうじゃないか」

 忍足さんはそう言って、気まずそうな表情の親子に挟まれて泣きそうになっているわたしに、ウインクを送ってくれました。


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