ゆうれいの時間
「ユウスケ、お父さん、朝ごはんができたよー」
「はーい……ふわぁ……」
「うむ」
「ほら、お父さん、新聞は後にして。せっかく作ったのに冷めちゃうよ」
「うむ」
……あれ、なんでしょうかこの違和感。
聞き慣れない人たちの声に、わたしの意識は徐々に呼び戻されます。
視界が徐々に色を帯びてきて最初に目に映ったのは、ソファに腰かけてのんびりと新聞を読んでいる三十代くらいの眼鏡をかけた男性でした。
不思議に思いながら周りを見渡すと、一般的な家族用テーブル。その椅子の一つにはソウタ君より五つか六つ上くらいの、眠そうな顔をした男の子が一人、ほくほくと湯気を立てるごはんとお味噌汁の前に座っています。少し広めのキッチンには、エプロンをした綺麗な黒髪の女性が包丁でトントンとリズミカルな音を立てていました。
おかしいですね。ご主人の部屋にはこんな同居人もご友人もいませんし、そもそもこんなに広いお部屋ではありません。
「じゃあ、いただきます」
「いただきまーす」
「うむ」
「新聞は後でー」
「……いただきます」
窓から差す柔らかな日差しに囲まれて、三人の家族らしき人たちの食事が始まります。この明るさからすると、たぶん朝ごはんです。
いったいこれはどういうことなんでしょう……。
確か、ソウタ君と一緒にご主人の家に入って、準備をし終えてすぐ意識が沈んでいったところまでは覚えているのですけど。
「ユウスケ、部活は順調? 冬の陸上大会の選手には選ばれそうなの?」
「まぁ、先輩の数自体少ないし、このままいけばね」
「すごいじゃない! ねぇ聞いたお父さん、一年生で大会だって!」
「聞こえてる。うむ、すごいじゃないかユウスケ。今は学年が下だからと言って不平等に扱われることもないのだろうし。選ばれたなら選ばれた分、しっかりやるんだぞ」
「……! うん、頑張るよ」
お父さんの言葉がよっぽど嬉しかったのでしょうか、ユウスケと呼ばれた男の子は、澄ました顔から零れる笑みを隠しきれていません。その様子をお母さんはニコニコと、お父さんは口元だけ微かに上げて見ています。
……あわわ、完全にこれプライベートな会話ですよ。なんだか悪いことをした気分になります。
え、ご主人の家でいつも聞いているじゃないかって? ご主人は特別なんです。
「……そ、そうだユウスケ。今夜は暇か?」
「ん、大丈夫だけど、どうしたの?」
「いやな、この前良い釣りスポットを見つけてな。せっかくの休日だし、良かったら一緒に行かないか? お前も前からやってみたいと言っていたような気がしてな」
「良いの?」
「ふふ、お父さんね、忙しい仕事の合間を縫って、ユウスケと一緒に行くために一生懸命調べていたのよ」
「そ、そういうことは口に出すもんじゃない。……どうだ、ユウスケ」
「行きたい! 釣り、お父さんが前から楽しそうに帰ってくるの見てずっとやってみたかったんだ」
「良かったねぇ、お父さん。じゃあ私は釣れなかった時のために鳥の唐揚げでも作ってるわ」
「せめて魚のフライにしてくれ……」
「……ふふ」
……うーん、なんでしょう。この、幸せな時間がゆったりまったり流れていく感じ。仮にわたしが何かの間違いで十年くらい休眠してしまって、このお父さんがご主人の未来の姿でしたというオチだとしても、こんな幸せな家庭を築いてくれているのであればまったく無問題です。むしろこのまま変わらず観察させてくださいって感じです。
「……良いなぁ、家族って。温かいですよねぇ」
けれど、隣から何の前触れもなく聞こえたその声に、わたしの希望していたオチが現実ではないということが分かってしまいます。
「田中さん、どうしてここに? というか、ここはどこです?」
いつの間にか隣にいたのは田中さんでした。アパートのメンバーでは忍足さんとは逆の、ちょっと頼りないお兄さん的な存在で、実はわたしが知っている中では幽霊でいる時間が一番長い人です。
「あれ、ヌラちゃん、知っていてこの部屋にいるんじゃなかったんですか? ここは三階の家族用スペースで、いつもはシノさんやソウタ君が住み着いている場所ですよ」
ずれた眼鏡を直しながら、田中さんは意外そうな顔で答えてくれます。
なるほど、家族用スペースでしたか。道理で見慣れたご主人の部屋より広いわけです。
「うーん、でもわたし、昨日は確かにご主人の部屋で休眠したはずなんですけどね。どうしてこの部屋にいるのか、自分でも分からないんです」
「あー、休眠した場所と覚醒した場所が違うってことですよね。低確率ですけどあるんですよ、そういうこと。この前なんか僕、近くの神社の鳥居の前で目が覚めちゃって、危うく成仏しかけましたもん」
「えぇ……」
どうやら私の知らない幽霊の知識はまだあるようです。わたしがここで覚醒したのに何か理由があるのか、それともただの偶然なのか。でも今まで一度もなかったことなので、なんというか、ちょっとワクワクします。
「ヌラちゃん、ここに来たことないんでしたっけ」
「えぇ、基本的にわたしはご主人の部屋にいますしね」
他のみなさんとはだいたい下の階で会えますし、シノさんもソウタ君もここを寝床にしていると言う割には下で見かけることが多いのです。
「そっかぁ。ここはねぇ、確かに幸せそうな空間なんだけど、たぶん多くの幽霊にとってはけっこうキツイ場所でもあるんですよ」
「ん? どういうことです?」
笑顔半分苦しさ半分の複雑な顔をする田中さん。その目は、相変わらずごくごく普通の家族の光景に向けられています。
「時間がちゃんと動いていると言いますか。子どもが生まれて、成長して、見た目や性格が少しずつ変わっていく。それと並行して、家族それぞれの性格や関係が徐々に変わっていく。そんな当たり前の時間の動きが、この部屋には特にあるんですよ」
田中さんの言葉に、わたしは家族の顔を順々に観察します。
ユウスケ君の右足にはテーピングがされていました。たぶんこれは部活で痛めたもので、あと数日もすれば治るのでしょう。
眼鏡をかけたお父さん。もしかしたら、今はたまたまかけているだけで、普段はコンタクトレンズをつけているのかもしれません。
世話好きそうなお母さん。嫌な想像ですけど、昔はもっとカリカリしていて、口が悪くて、イライラするとモノに当たってしまう人だったとか、そういう過去を持っているかもしれません。
「だけど幽霊にはそれがない。ずっと止まった時間のまま、何を目的にしたら良いか分からないまま、変わらないまま、できるのかも分からない成仏を待つしかないんです」
こんなに近くに見えている幸せな家族の風景は、実はわたしたちにとって一番遠いところにある。田中さんは、そんなことを言っているようにも聞こえました。
「……僕、下の202号室で自殺したんですよ。十年前。就職活動をして社会に出るのがどうしても嫌で。嫌だ嫌だって、考えれば考えるほどドツボに嵌って、気が付いたら首吊ってました」
「……そ、そうだったんですね」
突然の告白に、わたしは何て言ったら良いか分かりません。忍足さんからは教えてもらえなかった田中さんの‘理由’を、まさか本人から聞くことになるなんて、驚きで言葉が喉につっかえています。
「でも今考えたら、きっと僕は進むのが怖かったんです。勉強を理由に適当にアルバイトをして、適当に好きなことをして過ごして。そんな宙ぶらりんな生活から、時間が動くのが嫌だった。だからここで終わりにしようとした。けど幽霊になって、動かない時間の中で、あれほど怖がっていた‘時間が進むこと’を、こんなに羨むことになるなんて、本当にわけが分からない人生ですよね……。例えばこうやって、幸せな家庭を築ける可能性にあの頃の自分がほんの一パーセントでも気づいていれば、そういう願望をひと握りでも持っていれば、別に死ぬ必要なんてなかったなぁって」
ひとしきりに言い終えて、田中さんはほっと息を吐きながら苦笑い。でもその表情は、どこか清々しいものでした。
食器が触れ合う音、ユウスケ君たちが談笑する声が、なぜか今だけ胸をチクチクと刺します。
「……と、ごめんねヌラちゃん。こんな負け犬の身の上話なんて聞きたくなかったですよね、すみません」
「い、いえ、そんな! 参考になったというか、いや、違いますね、とにかくそのぉ……」
何か、田中さんを元気づける言葉は無いんでしょうか。忍足さんも、幽霊に自分の過去の話をさせると、最悪の場合何かマズいことが起きると言っていましたし……。
どれだけ探そうと、わたしの中に言葉は見つかりません。だって、共感ができないから。理解はできるけれど、わたしには生きていた時の苦しみも、死んでしまった後悔も記憶として残っていないから。
「そんなに困らせるつもりはなかったんですけど……ただ、僕はここでこういう風景を見ることで、自分が今どういう存在なのかってことをたまに確認しに来るんです。僕たち幽霊にとってここはそういう場所でもあるのかなって。まぁ、それで何かが変わるってことは、やっぱり無いんですけどね……」
「か、変わりますよ、きっと!!」
ほぼ反射的に、わたしは反応します。
「……例えば、どんなふうに?」
「え、えと、例えば……」
いつもの弱々しい田中さんの目には、強い期待の光が差していました。その強さに気圧されて、言葉も引っ込んでしまいそうでしたが。
「やりたいこと、やっちゃえば良いんです。生きていた時にはできなかったこと、今しかできないことを、楽しいことを見つけることができれば、きっと田中さんだって変わります」
こういう状況の時にも、思ったことを口に出してしまうタイプのようで。
今言ったことは、きっとお気楽な考えに聞こえることだと思います。けれど、本当にそう思っているから、嘘はつけません。
やりたいこと、やれることをやる。
例えばわたしのように、ご主人の生活を観察するとか。傍から見たら理解できないと言われようと、わたし自身はとても楽しんでいます。
「……」
しばらく沈黙が続く中、田中さんの目はひたすら何かを考えているようで、左右に泳いでいます。
「……ふぅ、まさか生きている時と同じことを言われるなんてね。昔から考え過ぎだって言われるんですよね、僕。もっと気楽でも良いんですかね」
「良いんですよ、きっと」
無根拠な肯定に、田中さんはふぅっと息を吐きます。同時に、その姿は最初から無かったかのように消えてしまいました。
どうやら休眠状態に入ったようです。
「んー、偉そうなこと言っちゃった気がするなぁ。きっとご主人の小説の読みすぎですね」
分かったようなことを考え無しに言ってしまいましたが、田中さんは元気になってくれたでしょうか。
死んでしまったという事実は変わりませんが、せっかく人とは違う体験ができるのですから、楽しまなきゃ損だと思うんですよね。
そんなお気楽なことを考えているうちに、家族の朝食はいつの間にか終わっていました。お父さんとお母さんはコーヒーを飲むためでしょうか、ヤカンに火をかけようとしています。でも、案の定と言うべきか不調のようで、しばらくはガスの漏れ出る音だけがシューシューとじれったく鳴り続いていたのでした。
「家にあるゲームをやりつくしてしまって暇で仕方ないって?! 授業をサボりながらそんなことを宣うクズ学生に朗報だぁ!!」
合鍵を使ってテンション高く扉を開けたのは例のごとく日和だった。見るとその手には、いつも贔屓にしているゲームショップの袋をぶら下げていた。
時刻は夜七時。おかしい。確か夜の八時に遊びに来ると連絡をもらったはずなのに、なぜこいつはチャイムも無しに一時間も早く僕の家に突撃をかましているのだろう。
「ちょっと早く来すぎてないか? あと、僕はお前ほど授業をサボってないから一緒にしないでな」
「一時間なんて誤差の範囲内! そしてこんな自堕落生活を続けている時点でボクとお前は同類さ。そんなことよりこいつをどう思う?」
白い息を吐きながら、満面の笑みのまま日和は袋から何かを取り出す。執筆続きで昼夜逆転している僕には、少々キツいテンションだったが、日和の手にあるゲームソフトのパッケージを見た瞬間、そんな憂鬱は消え去った。
そこには、‘テイルズ・クエスト10’というタイトルが書かれていたから。
「すごく、やりたかったやつです……って! あの店にあったのかこれ?!」
このタイトルと言えば、ゲーマーとして知らない者はいないと言われている人気シリーズ。日和が持っているのは、その中でも伝説と称されたものだ。
突然の幸運に、僕のテンションが日和にようやく追いつく。
「ふむ、店員さんに駄々こねて頼んでようやく一つ入荷してもらったんだよ。ありがたく思いなさい」
「最低じゃねーか何してんだよ」
「いやぁ、今日ほど女子に生まれて良かったと思った日はないね。女の子の涙って強い」
「しかもやりたてほやほやかよ……」
上がりかけたテンションが急激に下がっていく気がした。あのお店は小さいから多少の融通が利くのだろうけど、あとで謝っておかなくてはいけないようだ。
「まあまあそんなことより早くやろう! ……と言いたいけど、まずはご飯を食べよう。ボクはお腹が空いたぞ。具体的にはお前が作ったハンバーグを所望する」
「ないよそんなもん。というか、今冷蔵庫の中は空のはず」
「……は?」
僕の返事に、日和はエサをお預けにされた犬みたいな顔になる。うーん、さすがにこれは反則技だ。
「いや、八時に来るって言ってたから、ついでに買い物を頼もうと思ってたんだよ。そしたら一時間も早く来るから……」
「よりもよってボクに買い物を頼もうとしていたのか?! この前、料理酒を買って来てくれと頼まれたのに日本酒を間違えて買ってしまったこのボクに?!」
「あぁ、その節はごちそうさまでした。今回は食材だし、細かく指示するつもりだったから大丈夫かなと」
「ハハ、笑えない冗談を。だいたいね、今のボクの所持金がいくらか知っているのか?」
「いくらだよ」
「三十五億」
「よし、そのお金で今すぐ焼き肉を食いに行こう」
日和のやつ、空腹でキレが増すタイプだから、イジるとなかなか楽しいのだ。
ちなみに実際の所持金は三十五円らしい。財布の中身はぜんぜん楽しくないやつである。
「はぁ~……、なぁ、そんな冗談でボクをからかっても何も出ないんだぞ? 冷蔵庫に何も無いなんてことはないはずさ。黒毛和牛の一パックや二パックくらいあるでしょ……」
「ないよそんなもん」
「あった!!」
「えっ」
まさか黒毛和牛のパックが? 今夜は焼肉かと一瞬だけ思ってしまう。しかし日和がのぞき込んでいたのは冷凍室だった。
何だろう、氷でも見つけて今日の食糧だとでも言うつもりだろうか。漫才もほどほどにしたいのだけれど。
「何だよ~、こんなにいっぱい食料があるじゃないか。餃子にピザに唐揚げに、ハンバーグ。ふむ、今日はお前のやつじゃなくても許してやろうじゃないか」
「はぁ、何言ってんだよ。冷凍室には氷しか……」
入っていないはず。そう言って、日和の横から冷凍室に目をやって、僕は言葉を飲み込んでしまう。
そこには、主婦の買い貯めかとツッコミたくなるほど、冷凍食品が詰め込まれていた。基本的に僕は冷凍食品を買うことはしない。料理と言えばなるべく手作りでやりたいと思っているし、買ったとしてもよっぽど忙しくて作れない時だ。
いつ、こんなに買ったのだろう?
記憶を数日前まで遡ってみても、そんなことをした覚えはない。
一瞬、背筋に悪寒が走る。
「さてさてこの中なら何を食べて良いんだ? もしかして全部か? 大丈夫、今はお腹空いているからけっこう食べられるぞ」
必死に思考を巡らす僕をよそに、日和は今夜の得物を楽しそうに選んでいた。僕の気も知らずに呑気なものだ。
「……」
まぁ、良いか。
ここは日和に免じて難しいことを考えるのは止めにしよう。
大事なのは冷凍室に食料があったこと。そして、ずっとやりたかったゲームが手に入ったということだけだ。
「……パーティだ」
「おっ?」
「今日は冷凍食品パーティだ。ある分作って、ある分食べて、ゲームをやるぞ!!」
何にでも‘パーティ’という単語をつけたがるのが大学生の特徴。
今宵、その例に洩れない思考停止大学生二人による宴が、始まろうとしていた。