おなやみの時間
人類の発見の中で最も偉大なモノ……そう、それは火だ。
火があれば寒い冬を暖かく越すことができるし、なにより食べるという行為について、いろいろと幅が広がる。
じゃあ、僕の部屋の中で、その最も重要な火を司るのはどこだ? そう、キッチンにあるコンロだ。
火があって水があってヤカンがあれば、一人暮らしの頼もしい味方、カップラーメン様が作れるし、インスタントコーヒーがあればちょっと優雅なティータイムも楽しめる。
火は寂しい独り身の僕にも食料を、リラックスタイムさえ提供してくれるのだ。
「……なぁ、やっぱり不動産屋に連絡した方が良いって。なんで電池も入れたばっかなのにコンロの火が点かないんだよ」
日和の言う通り、シューっと虚しい音を立てるだけで、うちのガスコンロは火を点けてくれない。
このアパートは人類が最初に手に入れたものすら提供できないほど、サービス精神に欠けていたとでも言うのだろうか……。
「せっかく餓死ギリギリまで待って料理を始めようと思ったのに……火が点かないんじゃ始まらないだろうが……おえ、ガス臭ぇ」
「ぼ、僕たちにチャーハンを作らせてくれ……おえ、空腹の腹にガスの臭いが入って気持ち悪っ……」
誰にともなくそんなことを訴えるけれど、火がつく気配は一向に無い。これはあれか、チャッカマンという最終兵器を百均で買わなくてはならないのだろうか。
この夕焼け三丁目ビルに住み始めて早八ヶ月。一番重要なコンロの電池が切れるというのは百歩譲って許すとしても、だ。電池を入れてもつかないとなると単なる不良物件である。連絡をしたとして、こんな不良物件を扱う信用ならない不動産屋に連絡して、適切な対処をしてくれるのだろうか。普通にガス会社に連絡するべきなのだろうか。
あー、この空腹時にものを考えるという行為は、全ての者に対して攻撃的になりやすくなってしまうからやりたくないのだけれど。
おのれ夕焼け不動産め。この広さで家賃が二万五千円で格安ということで選んだのが間違いだったか。
「……」
ぶちまけるあてのない不満を心の中で垂れても、なお火は点かず。
この部屋に幽霊がいるというのなら、こう、なんか超自然的な発火現象で火を点けてはくれないだろうか。
「カップラーメンは」
「残り一つ」
「……この世は弱肉強食。強いものが生き残り、弱い者が淘汰される。そうだな?」
「あぁ、その通りだよ」
血走った瞳を交わす僕と日和。
このままだと僕は、友人を一人幽霊にしてしまうかもしれなかった。
ご友人がわたしたちのお仲間になるというのは、それはそれでとても魅力的なお話なのですが、そういうわけにもいきませんよねぇ。
結局お二人はなんやかんやひと悶着あった後、仲良くカップラーメンを分け合って食べていました。すぐ近くにお店があるから、そこへ買いに行けば良かったのにとも思っちゃいますけど……。
でも、火がつかないというのは大変ですよね。お料理ができないとお食事もできませんし。さすがに毎日カップラーメンというのは、健康に悪いというのも聞きますし。
うーん、なんとかしてあげられないでしょうか。
ガスの臭いが漂う狭い流し台に腰かけて、わたしは考えます。
幽霊らしく不思議パワーで解決できれば良いんですけど、私はそういった力は持っていないようなのです。いくら力を入れようとも、鬼火一つ出せません。
「そういえばこの前、田中さんの部屋の人も、電子レンジが上手く動かないだとか、冷蔵庫の効きが悪いだとか言っていたような……」
不調なコンロさんやわたしと違って、火なんか使わなくてもモノを温めることができる万能機具―電子レンジさんが目に留まって、ふと数日前のことを思い出します。
お隣の202号室(ここには十年くらい前から田中さんが住み着いています)に住んでいらっしゃる方が、家電の不調をひとり言にして愚痴っていたのでした。
ご主人のみならず、お隣さんまで、家のどこかに不調がある。
……。
わたしたちのせいだったりするのでしょうか。
確かにここには多くの幽霊が住み着いています。‘一家に一台’みたいな勢いで、一部屋に一人の幽霊が気ままに‘いる’のですけど、それと家電や設備の不調は何か関係があるのでしょうか。
わたしたちが存在するだけでそれこそ不思議パワーが何かの電磁波を発して……。
だとしたらご主人たちに迷惑をかけるわけにはいきませんし、すぐにでも出て行くべきなのでしょう。 いやいやでも、そうなったらわたしはこれから何を生き甲斐に、いや死に甲斐? にすれば……。
「……」
こういうのは悩むより訊いた方が早いですよね。詳しそうな人は……わたしは一人しか知りません。
訊いてみましょう。
お隣の、お隣の部屋―203号室に棲む幽霊さんに。
*****
視界を覆い尽くす黒煙と、息をするたびに肺を焼く熱風。
何が起きたか分からないまま苦しめ続けられた‘それ’から解放された時にはすでに、このような姿になっていた。
ただ、あの人の笑顔が見たかっただけなのに。
一言が聞きたかっただけなのに。
最後にあの人の笑顔を見たのは、声を聞いたのはいつだったか、思い出そうとしても出てくるのは黒煙と熱風のみ。
今自分が見ているこの人の顔は、声は、本物なのだろうか。
窓から見えるのは、あの頃の自分たちと同じような二人。
とても幸せそうだ。
自分たちの時間は止まってしまったのに、なぜ彼らの時間は進み続けるのか。
なぜ黒煙に埋もれず、熱風に焼き尽くされないのか。
この部屋はひどく寂しく冷え切っているのに、彼らの交わす言葉は、表情は、心地よい温もりに満ちている。
もうこの先、自分はあの温もりを受けることは叶わないのだろうか。そうだとしたら、この世界はなんて不平等なんだ。
人は幸せになるために生きている。誰の言葉だか知らないが、そうだとしたら自分は一生そのゴールにたどり着けない。
いくら走ってもゴールにたどり着けない、いや、そもそもゴールに向かって走ることもできなくなった自分は、絶対に幸せになれない。
自分からしたら、窓の向こうはすでにゴールだ。こんな窓、今の自分には簡単にすり抜けることができて、彼らと同じ空間にいることはできる。けれど、今の自分と彼らには、絶対に越えられない壁がある。だからやっぱり、絶対に同じ場所にはたどり着けない。
人は幸せになるために生きている。人ではない自分は、そこにたどり着けないまま、本当の意味で死んでいくのだろう。
「……」
窓の向こうでは夕飯の準備だろうか、コンロの火がカチカチと不調な音を立てながら、小ぶりな鍋を温め始めているところだった。
ごうごうと音を立てて燃え盛る炎。十数分も経たないうちに鍋の中の水は熱湯になって、何かの料理に使われるのだろう。
それであの火は役割を終える。
……いや。
まだ役割はたくさんあるはずだ。
例えばカップラーメンを作るお湯を作り出したり。
例えば寒さに悴んだ指先を温めたり。
例えば一つの家族が幸せになるための普通の権利を奪い去ったり。
そんなことを考えていると、玄関の扉が開く音がした。入ってきた人間は、腹が減ったと気の抜けた笑顔を見せて、ソファにどっかりと座り込んだ。
帰ってきた。笑顔。安心。安らぎ。
いつの間にか自分が、その光景を酷く羨ましそうに眺めていることに気が付いたのだった。
*****
「俺たち幽霊はみんな、誰かの残留思念なんだ」
夕焼け三丁目ビルの203号室。
家主が留守中のこの部屋で、忍足さんがちょっとキメ顔で、そんなことを言いました。その口には、推理小説に出てくる探偵がパイプを咥えるように、三つ葉のクローバーがオシャレに刺さっています。
ご主人のお部屋の不調の原因を知りたい。
そんな思いから、わたしはすぐに忍足さんに相談することにしました。忍足さんはオバケとかUFOとか、そういった類のお話をたくさん知っていて、よくわたしやソウタ君に話してくれるのです。興味深いお話と、引き込まれるような忍足さんの語り口調のおかげで、私たちはいつも真剣に聴きこんでしまいます。
ご主人の部屋の不調とわたしたちの存在が関係あるのかどうか、もしかしたら分かるかもしれません。
「と、まぁ、知ったように言うけど、俺も生前はせいぜいオカルトマニア止まり。実際に幽霊になった今でも、俺たちがいったいどういう存在なのかよく分かっていないんだ。ただ俺たち幽霊は、普通の死者と違って、とても強い想いを残してこの世を去ったということは、どこの世界でも共通の見解なんだよ。じゃあ、この想いを仮に‘残留思念’と呼ぶことにしよう」
いつものように、忍足さんの語りが始まります。わたし自身、学校にいたという記憶がありませんが、先生から授業を受けるというのはきっとこういう感覚なのかもしれません。なんだかワクワクしてきました。
「残留思念を核に、幽霊の存在や行動指針も規定される。例えば、もう一度意中の人に会いたいという強い想いを持って生まれた幽霊は、現実世界で、意中の彼もしくは彼女に見えるような姿で顕現する。怖い話では、誰かを殺したいという強い想いを持った幽霊ならば、ターゲットを殺すための何かしらの力を持って生まれることだってある。まぁつまり幽霊たちはそういう生まれた理由と、連なる不思議な力を持っていて、それが現実世界に影響を及ぼすことがあるということさ」
生前の強い想いと、力。
幽霊がその力を使って、生きている人たちがそれを見たり聞いたりしてしまうことによって、怪談話や都市伝説も生まれてくるという事でしょうか。だとしたら、ご主人たちに混ざって遊びたいと思ったわたしが、ご友人に目撃されたことも、これと似たような事なのかもしれません。
「家電製品やコンロの不調……ね。聞いている限りだと、すべて火や熱に関連することだね。確かにこの前、俺の部屋の家主も電球を取り換えたばかりなのに、ほんの数カ月で切れてしまったとぼやいていたな」
「忍足さんのところもなんですか? 田中さんの部屋の家主さんも、この前家電製品の調子が悪いと言っていましたし……やっぱりわたしたちの中にそういう力を持っている人がいるとか?」
「ふむ……」
今は全ての電気が消えている電球を見上げる忍足さんにつられて、わたしも上を見ながら考えます。
火や熱に関係していそうな幽霊。
このアパートに住みつく人たちの中で思い浮かべようと考えたのですが、そもそもわたしは大事なことを知りません。
どうしてみなさんが幽霊になったのか。
どんな想いを持って、お亡くなりになったのか。
自分のことも、お友だちの幽霊のことも、わたしはまったく知らないのでした。
「……あの、その忍足さんはどうして幽霊になってしまわれたんですか? 参考までにお聞きしたいなーなんて……」
「……」
控えめにお願いしたつもりではありましたが、忍足さんは少し苦い顔。さっきまでのお話を聞いていると、幽霊が残す想いというのは、幽霊自身にとってもあまり気持ちの良いものではなさそうでしたから、聞かない方が良かったのでしょうか。
「自分の残留思念を覚えている人もいれば、覚えていない人もいる。ここにいる人はヌラちゃん以外、全員覚えているし、俺も覚えているから教えてあげられないこともない。だけど想いというのは、口にしてしまうとさらに強くなってしまう場合があるんだ。仮に俺が誰かを殺したいと思って幽霊になったとして、ここでヌラちゃんに話してしまったら……きっと俺は大変なことをやってしまう。俺も幽霊生活は長いけど、そういう幽霊に―悪霊になってしまった奴に出会ったことも、ないわけではないんだ」
「ご、ごめんなさい……」
怒るというより諭すという感じで、淡々と言う忍足さんにわたしは謝ります。
それにしても悪霊ですか。普通の(?)幽霊がいるのなら、やっぱりそういう怖いタイプの幽霊もいるんですね。
「良いさ。でもまぁそんなわけで、俺は話さないでおこう。他の人のこともね。だけど、このままだとヌラちゃんの相談に乗った意味がないから、特別に一人だけ、俺たちのメンバーがどうして幽霊になったのか教えてあげよう」
「ほ、本当ですか?」
忍足さんが無理でも、せめて他の人の理由が聞きたい。そんなふうに思いかけていたわたしの心を読んだかのように、忍足さんはウインクをしながら言いました。
その様子は格好にぴったりな、まさしく探偵さんのようでした。
幽霊の意識というのは、人間のそれと違って、決まった時間に覚醒して、決まった時間に休眠するというものではないようなのです。
意識的に‘眠る’ということはできます。
でも、ついさっきまで元気いっぱい話していたと思ったら唐突に意識が飛んで、次に目が覚めた時には何時間も経っていることもけっこうあります。その時間の感覚はその日によって違っていて、普通に朝に目が覚めて、夜に意識が落ちるということもあれば、朝に目が覚めて数時間で意識を手放して、次の朝にまた覚醒するといったこともあります。
意識が落ちる時、普通に眠っている時とは違い、わたしの姿は外から見ると煙のように消えていくんだそうです。
不定期に、自分でも意識できないうちに意識と姿を消してしまうのがわたしたち幽霊の特性。
だから、アパートのメンバーがほぼ全員揃ったこの前の一前さんの歓迎会は、ほぼ奇跡と言って良いような出来事だったのです。
そして今回もベストなタイミングでした。
意識を休眠させるほんの数分前に、忍足さんのお話を大方聞き終えることができたのですから。
このアパートの幽霊の中で、火や熱に関連した残留思念を持っていそうな人のお話。
忍足さんは一人だけとおっしゃいましたが、実質お二人分のお話を聞くことができました。
シノさんとその息子さんのソウタ君。
このお二人は、五年前にこのアパートの三階、家族用居住スペースで起きた火事によって、命を落としていたのでした。