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プロローグ 昌徳宮楽善斎

挿絵(By みてみん)

徳恵姫(女子学習院時代)



宮殿のある街ソウル


大韓民国(以下、韓国)の首都ソウル。朝鮮王朝五百年の首都でもあるこの古都の中心にはいくつもの宮殿が残っています。現在残っているものでも景福宮、昌徳宮、昌慶宮、徳寿宮、雲峴宮、慶煕宮などがあり、正宮である景福宮に加え、王家のために作られた宮殿や離宮がソウルの中心部に点在しています。まさに宮殿の街という趣があります。


その中で最大の宮殿が景福宮。その前から南に伸びる世宗大通りにそびえる朝鮮王朝第5代王世宗(在位:1418~1450年)の巨大な像が戦後に再建された光化門を見下ろしています。この宮殿は1592年の文禄の役の際に当時の王様が北に逃げた後に暴徒と化した民衆に放火されて焼失。1865年になってやっと再建されたものです。その後宮殿の正面に朝鮮総督府庁舎が建てられ、現在の形になったのはやっと2010年になってのことです。今は毎日のように観光客が訪れる市内でももっとも賑わう場所の一つでしょう。


挿絵(By みてみん)

景福宮正面にある光化門


この景福宮の正面を当座に走る大通りを右手に進んでいくと左手に「敦化門」と書かれた額のかかった大きな門が見えてきます。ここが昌徳宮の入り口です。不幸な運命をたどってきた景福宮と同様に文禄の役で燃えたものの、数回の再建修復を経ながら使用されてきました。このため比較的古い朝鮮王朝の建築様式を残している宮殿として1997年にはユネスコ世界遺産に指定されました。この昌徳宮がこの物語の重要な舞台の一つとなります。


昌徳宮楽善斎の物語


さて、その敦化門を入って昌徳宮内に入り、右手に見える錦川橋と呼ばれる石橋を渡って内部に進んでいくと丹青の赤と緑の装飾が美しい宮殿群が現れます。仁政門の奥の広場の先に見える巨大な建物が仁政殿。朝鮮王朝の王が外国からの使節を迎えたり、臣下による祝福を受ける儀式のために使われた宮殿です。広場には中央の通路の左右に石柱が立っているのですが、これが儀式の際の臣下の位置を全部示しています。文官が座るのが東側でこれを「東班トンバン」といい、武官が座るの西側が「西班ソバン」といい、王の座る宮殿側からより高級な官吏が座ることになっています。この「東班」「西班」を合わせて「両班ヤンバン」といい、朝鮮王朝時代を通して支配階級として君臨した「両班」の語源となっています。


その仁政殿の前を通りすぎ、煕政殿、誠正閣と丹青で鮮やかに彩られた建物を過ぎて奥に進むと急に「日本に戻ったのか?」と思うような落ち着いたトーンの建物が見えてきます。これが「楽善斎」と呼ばれる一角で、黒っぽい木材と白い障子の建物を見るとやはり落ち着きますがよく見れば障子の桟の形など造り自体は手前の誠正閣などと同じです。


挿絵(By みてみん)

楽善斎全景


この楽善斎は朝鮮王朝第24代の憲宗王(在位:1834~1849年)の時に憲宗が一目惚れをした女性である慶嬪金氏を後宮として迎えるために建てたものと言われています。通常、王や王子の妃となる女性は三揀擇という儀式によって選ばれ、そこには王の意思が入らないのが普通です。しかし三揀擇の儀式に参加した金氏の美しさに我慢できなかった憲宗は三揀擇で選ばれなかった金氏を理由を付けて後宮に迎え入れました。


今となっては美談として伝えられる話ですが、当時の道徳観念では否定されるべき王の行動だったでしょう。いずれにせよ女性の側には選択の余地はありませんし、特に三揀擇の最後まで残った女性は王妃として選ばれなかった人も結婚せずに独身を通さなければいけなかったそうで、これも現代の感覚にすると随分ひどいことをしたものですが、当時の上流階級にとっては名誉なことであれ非人道的な慣習だと思った人は皆無だったはずです。ことほど左様に当時の慣習を現代の常識や道徳観念に照らして批判をするのは無意味です。

しかし結果として、そこまでして憲宗が後宮に迎えた金氏は嗣子を得ることなく2年後に憲宗が崩御してしまったために、金氏は一人寂しく過ごして1907年に亡くなりました。


楽善斎の最後の主は日本人


現在は一般にも開放されて見学が出来る楽善斎一帯ですが、実は1989年に至るまで実際に利用されていました。最後まで楽善斎に住んでいたのは日本人でした。その名は李方子(り・まさこ。韓国呼びではイ・パンジャ。1901~1989年)という方です。しかも彼女は日本の旧皇族である梨本宮家の出身です。


挿絵(By みてみん)

晩年の李方子


結婚時には皇族の女王(正式な敬称)であった女性が何故朝鮮王朝の宮殿で最期を迎えたのか?これについて書くとそれだけで本が一冊かけてしまうのでかいつまんで書くことにしますが、彼女は日韓併合(1910年)後の1920年に朝鮮王家の後継ぎであった李垠(1897~1970年)と結婚をし、李王世子妃となったのです。(当時。1926年に李垠が李王位を継いで以降は李王妃)


朝鮮王家は日韓併合後に皇室に準じる「朝鮮王公族」となり、旧大韓帝国(前身は朝鮮王国)皇帝は「李王」という地位を与えられ、実際に皇族と同等の扱いを受けるとともに、ソウルの宮城を継承していたこともあって、毎年日本から支給された歳費は皇族をはるかにしのぐものだったそうです。

ところが日本の敗戦によって多くの皇族がその身分を失ったのと同様に李垠・方子夫妻も李王・同妃の地位を失い、さらに朝鮮が日本から切り離されたこともあって日本の国籍も失うことになりました。そこに独立した大韓民国初代大統領李承晩が自らの保身のためもあって旧王族の李垠の帰国を妨害したために、夫妻は艱難辛苦の人生を送った末に1963年になってやっと韓国に戻りましたが、その時には既に李垠は脳血栓から脳軟化症を患って寝たきりの状態で、1970年に亡くなりました。


方子は一人韓国で慈善事業を起こし、身体障碍者や精神障碍者の教育施設である明睴園や慈恵学校を設立・運営をして韓国の福祉のために尽したのです。晩年の方子はこの昌徳宮楽善斎に居を構えて、1989年4月30日に食道静脈瘤破裂で87歳で亡くなるまでここで過ごし、死後には韓国政府からその福祉に対する功績を讃えられて韓国国民勲章槿章が授与されました。

余談になりますが、李垠・方子夫妻の長男である李玖は子孫を残すことなく2005年に東京で亡くなったために朝鮮王朝の直系はここに途絶えています。


楽善斎に最後まで住んでいたのは李王だった垠の妃方子でしたが、実はその9日前までこの楽善斎のエリアには住人がいました。


朝鮮王朝最後の王女


それが本編の主人公となる「朝鮮王朝最後の王女」と称される


  李徳恵(り・とくけい、韓国ではイ・ドッケ)


韓国では通常


  徳恵翁主ドッケ・オンジュ


と呼ばれる女性です。


彼女は方子が亡くなるのに先立つ1989年4月21日に楽善斎の並び(構造上は接続した建物)である「壽康斎」で亡くなりました。(満76歳)


本小説の中では彼女の呼称は「徳恵姫」で統一します。それは主にこの小説内で描かれる彼女が生まれてから結婚するまでの時期に日本で呼ばれていた呼称が「徳恵姫」だからです。概ね「とくけい・ひめ」と読むようですが新聞によっては「とくえ・ひめ」とルビを振ってあるものもありますが、皆さんは「とっけい・ひめ」で覚えていただけばよいと思います。


徳恵姫は日韓併合後の1912年5月25日に、朝鮮王朝最後の王であり、大韓帝国(1897~1910年)最初の皇帝となった高宗光武皇帝(以下、高宗。在位(通算):1863~1907年)の末娘になります。彼女は数奇な運命に翻弄されたため、韓国では「悲劇の王女」として印象付けられています。その最も大きな理由はやはり若くして日本の学習院に留学し、在学中に精神病を患い、卒業後には対馬の宗伯爵と結婚したために、反日教育が行き届いている韓国では、


「日帝に強制的に日本に連れていかれ、日本人と結婚させられ、精神病を患った悲劇の王女」


と言い習わされているようです。


一方で、彼女の生涯が朝鮮と日本にまたがり、また日韓併合時代の資料に広く接することが大変だったため、彼女の一生についてきちんと語られたことは多くはなく、最も有名な著述は徳恵姫が嫁いだ対馬宗家と関係のあった本馬恭子が記した『徳恵姫 李氏朝鮮最後の王女』(葦書房、1998年)程度しかありませんでした。(他には城田吉六の著書もありましたがあまり取り上げられません)しかしこの本の、特に朝鮮時代の徳恵姫についての記述は、恐らく本馬が頼った韓国の研究者による偏った資料提供によって、結果として「重大」な事実が欠落していることが分かっています。


この本馬の本を底本に韓国人の権丕暎が独自の研究成果を加え書いた小説である『朝鮮王朝最後の皇女 徳恵翁主』(和訳本はかんよう出版、2013年)が韓国でベストセラーになり、現代の韓国でまた徳恵姫(徳恵翁主)が広く知られることとなりました。ただしこの本はあくまで小説で、ところどころに本馬が漏らしていた資料の利用もしているのですが、ストーリーの大きい部分が創作なので史実として捉えられると困ってしまう代物です。(ただし著者自身、それを明記しています。)つまりどこかで本馬の『徳恵姫』を超えた形で徳恵姫の失われた実情をまとめる必要がありました。


2016年の出来事、そして…


実は全く偶然なのですが昨年(2016年)に、徳恵姫と直接そして間接的に関連する出来事が、前者は韓国で、後者は日本で起きました。


前者は2016年夏に韓国で公開された映画『徳恵翁主』で、これは権の『徳恵翁主』を原作としたのですがさらに大きな改変を加えたために、公開後に観客500万人をも集める大ヒット作になったものの、一方でメディアなどで『歴史歪曲』批判が発生したものです。実際映画の中の徳恵姫は本馬の本はおろか権の本ともかけ離れた「反日ヒーロー」として描かれています。


後者は2016年10月27日に三笠宮崇仁親王(昭和天皇の弟)の薨去です。徳恵姫が一番幸せだった時期と崇仁親王の過去が大きくリンクしているのですが、これはこの小説を読み進めていただかないと分かりません。恐らく、この繋がりについて分かる人はほとんどいなかったでしょう。そしてこのつながりこそが本馬が書かなかった徳恵姫の事績に繋がる話なのです。


この小説は戦争によって日韓両国に引き裂かれ、忘れ去られた徳恵姫の埋もれた記録をつむぎながら、大正から昭和の時代に広く知られていたはずの徳恵姫の実像を再構築しようとするものです。小説の体裁をとっていますが、起こった事績・事実については記録に基づいたものであり、創作部分は会話や内心の動きの部分であり、一部は創作とはいえ事実に基づく推理によっています。これが権の『徳恵翁主』とは全く異なるところです。


日韓併合時代の実相の多くが忘れられている中、紙幅の多くを時代背景の解説に費やさなければならない場面もありますが、そこが分からなければ当時の事は分かりません。また徳恵姫に関わった人たちの人生、教えを理解することで併合時代に日本人と朝鮮人を結びつけようとした人々の理想と努力を思い起こしていただき、日本と韓国・北朝鮮の間での歴史の誤解による亀裂が広がっているこの現代に、将来の、真の、日本人と朝鮮人の友好を取り戻す一助となればと思います。

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