君を、守るために
キャロルは著者の――秘蔵の娘の名前の解読に頭を悩ませていた。
手掛かりが皆無の中、名前さえ分かればそれは大きな一歩になる。もしもその『娘』が支配神復活を掲げる『銀の夕闇教団』の存在を知っているのなら、教団の近くに身を潜めている可能性はあると言える。つまりフランス国内ということ。もしそうなのであれば国内の避難所で名前を聞いて回るというのは悪くない一つの手だと考えたのだ。
しかし、無情にも解読は進まない。
その文字だけはグラハムに教わったどの古代文字とも一致しない。魔導書を読み解く上で必要となり身に着けた数多の現代言語にもパターンは嵌らない。ならばなぜ本文が読める文字なのか、それは言わずもがな『読ませる』為。読んでもらえないことには復活の方法などを知ることが出来ないからだ。そして『秘蔵の娘』と言われるくらいだ、名前は知られないように独自の言語を用いたのだろう。封印を行った善神などに見つかることを恐れたのかどうかは定かではないが、それでも読めない文字でわざわざ名前を記したのは本の内容の信用性を上げる為だと思われる。ならばどう足掻いても読み解くことは不可能だ。
そこで、ふと思った。
神と呼ばれる異生物の娘は、人間なのか? 人間の姿をしているのか? まるで人間のような知恵に筆跡。これをモンスターのような存在が行えるとは思えない。だとすれば元から人間の姿――あるいは現代に紛れ込めるような姿、人形を取っているのだろうか。
この魔導書には支配神の四眷属についても書かれていた。その眷属達が配下に従えていたのは表現から考えて明らかに幻想のモンスターである。人型などでは決してない。
秘蔵の娘の転生とはどのような形式で行われるのだ? 普通の人間の赤子として生まれてくるのだろうか? 既存の人間に精神を宿らせるのか? もしくはモンスターの姿でどこか人の目につかない場所に潜んでいるのだろうか。UMAの正体があるいは……。
その疑問の答えは、魔導書には無い。何せ、記す必要性が無いからだ。
地核で支配神が目覚めれば『娘』がどこにいようと復活は成る。
だが復活したとして、再び善神が舞い降りて封印してくれるのではないか?
……神とは、それほどに思い通りに動いてくれる存在では無いだろう。
善神を呼びたければ、かつてのように世界中が心を一つにして願わなければならない。
そんなことが今の人間にできるか? しかしキャロルは不可能だと思っている。
大災害という混沌に、常識を超えた大混沌が現れた時、人間は圧倒的な絶望を前に死を受け入れてしまうだろう。それほどまでに現代の人間は非力で脆弱な存在なのだ。
永い支配で神に耐性があった古代人だからこそ、現代より人口が少なくややこしい問題など無かった古代人だからこそ、皆は一つに成ることができたのだろうと思うのだ。
悲しみをまき散らす人間に期待するなど、九歳の頃にやめてしまった。
だから魔術によって全ての意思を剥奪し、一つの意思という秩序の下に穢れた世界を統一しようと考えたのだ。だが既にキャロルは腐った人間と同じ――あるいはそれ以下だ。
だからこそ善神などに頼らず、キャロル自身が償いをしなければならない。
「……読めねえよ、なんなんだよこの文字……」
本から視線を外し両目を揉む。肩をぐるっと回しながら、電池式の壁掛け時計を見る。
時刻は正午を過ぎていた。どうやら三時間ほどは没頭していたようだ。
「……ん? そういやまだ帰ってきてない」
マーテルの姿が見当たらない。帰宅した痕跡も無い。流石に集中していたとしても帰宅した気配ぐらいは感じ取れるが、それも無かったのは、未だ外出しているということ。
しかしいくらなんでも遅い。先日も遅いとは言え、一時間せずに帰ってきていたのだ。
考え付くのは二つ。あの腹痛に襲われたか、災害に巻き込まれてしまったか。
どちらにせよ危険な状態だ。キャロルはローブを掴んですぐさま家を飛び出す。奇しくも外の雨と風は一層強さを増していて、まるで彼女の外出を狙ったようにも感じられる。
幸い、町は小さい。探し回るのにそう時間はかからないはずだ。
するとものの十数分で彼女の姿を見つけることが叶った。半壊した家の玄関でうずくまるように倒れている様子からして原因は腹痛に違いない。駆け寄ろうとしたその時、崩れた家の木の柱が今にもマーテルの上に落下せんとしている光景に意識が奪われた。
行動は即座に行えた。
魔術発動――突風を掻き消す程の風を生み出し、マーテルが吹き飛ばないように彼女の周囲にあった瓦礫を半壊の家諸共全てを後方へ吹き飛ばした。その余波で後方に並んでいた他の家屋も破砕していくが気に留める必要などない。瓦礫に混じって宙を舞う彼女のものらしき手提げバッグを風で回収。マーテルをローブで包んで抱えて、家に直行した。
ローブ越しでも分かるほど、彼女の体が熱い。腹痛に加えて、長時間雨に打たれていたことが原因で発熱を起こしたのだ。たかが発熱、されど発熱。普段から質素な生活や常人では考えられない過酷な日々を送っていた彼女が、病気に強いとは思えないのだ。そして現在は二種類の病気が発病。薬すらないこの状況はかなり逼迫していると言えるだろう。
しかし薬調合の魔術はあるが、素材が無いことにはどうにもならない。
とりあえずマーテルをベッドに寝かせ、濡れた体を魔術で一瞬にして乾かした。
空の鍋に魔術生成の水を注ぎ、タオルをいくつか掴み取ってベッドの淵にしゃがむ。
苦悶の表情で激しく胸を上下させて荒々しい息を吐く彼女の服を、胸元が楽になるように下着ごとナイフで引き裂いて、そっと布団を被せた。そうこうしている間にも額いっぱいに浮かび出す汗を濡れタオルで拭き取り、更に一定の間隔で体の汗も拭き取っていく。
出来ることは、これだけだった。
酷く魘されている彼女の傍で、タオルを握りしめて寄り添う……ただそれだけしか。
「……俺に出来ることは、こんなにも少ない……」
プログラミングされた機械のように、ただそれだけしかキャロルには出来なかった。
3
外は夜の帳に包まれ、蝙蝠でも飛んできそうな暗鬱とした空気が満ちていた。雨風もひとまず強さを落ち着かせ、むしろ不気味ささえ感じられる暗黒感が胸に広がる。
マーテルはまだ目を覚まさなかった。魘されることこそ無くなったが、表情に滲む息苦しさは拭えない。そればかりはいくら汗を拭っても消えてくれることは無かった。
当然、発熱はまだ続いている。腹痛の方はどうか分からない。
看病をしている間、彼女が持ち出していた手提げバッグを確認したが、中に入っていたのは町民の物と思わしき思い出の品の数々。それだけで悟ることは出来た。出会ったばかりの頃に話していた家宝が云々の話から、本当にそのようなものが残されているのなら回収しておいてあげようという考えに至ったのだろう。彼女の性格ならば確かにと頷ける。
量から見ても今日は先日より長い間探索していたのか。それもきっと、本を読んでいるキャロルの邪魔をしないようにという考えがあったに違いない。つまり、長時間も帰宅させなかった理由は自分にこそあると、キャロルは胸に罪悪感を肥大化させていた。
朝、外に出る前にキツく言いすぎたのがいけなかったのだ。
いつも、後悔するのが遅い。
もし少しでも駆け付けるのが遅れて彼女を死なせてしまっていたら――もし本当にそうなっていたら俺はどうしていただろう。どうにか彼女を助けようとしたか? 守れなかったことを悔やんで後を追ったか? あるいはすぐに切り替えて町を去っていただろうか。
どの答えも最悪だ。そもそも死なせてしまった時点で全てが最悪でしかない。
生きててよかった。そんな僅かな安堵。しかし油断はできない。容態が豹変する可能性は大いにあるのだ、この家から身を離すわけにはいかない。
「ほんの少し、ごめん」
眠っている彼女に謝りを入れてから立ち上がると、鍋に入った汗の混じった水をキッチンで流しに行く。魔術の水で鍋の中とタオルを洗浄し、新たな水を注ぎ込む。ことここに至っては空腹すら感じない。水の溜まった鍋を持ち、寝室へ戻る――その時だった。
「…………チッ」
鍋がキャロルの手からするりと落ちて、音を立てて床に水がぶちまけられる。
それは、気配だった。慣れ親しんだ、気味の悪い気配だ。
その気配はキャロル自身も纏うもの――精神が酷く摩耗し常人の域から逸脱した冒涜的な存在が纏う底なし沼が如く黒い淀み。覗けば覗き返される深淵が人型を成した存在。
――魔術士だ。それも淀みの深さから見て、教団の幹部クラスが三人ほど。
深淵が、まっすぐに、ゆっくりと、この家に向けて明確に歩を進めてきている。
玄関方向を睨む。その先を見透かすように、睨む。目で殺すが如く、睨みつける。
そして、鳴る。
コンコンコン、と。この家の木製のドアが、失踪した大幹部を尋ねてノックされた。
まるでエコーを通したように反響する音。
向こうは確実にキャロルの存在を認識している。最早、黙り込むことに意味は無い。
ゆるりと玄関へ、瞳に殺意を込めて、ドアを開いた。
そこに居たのは教団の白いローブを纏った三人の魔術士。
『銀の夕闇教団』三幹部を任された男たちで間違いは無かった。
彼らは大幹部であるキャロルより地位は低いが、支配神についてを認知しながら一切として大幹部に秘匿を決め込んだ正真正銘の狂信者――支配神崇拝者である。
一人が口を開く。
「キャロル様、お迎えに上がりました」
「なぜ、ここだと分かった」
「教祖グラハム様は仰いました。所詮、筒抜けであると」
グラハムはなんらかの魔術でキャロルの現在位置を把握しているということだろう。怒りに吐き気すら覚えたキャロルはその声に殺意を込めて、一言共に言外に殺すと告げる。
「帰れ」
対して二人目の幹部が口を開く。
「なりません。教祖グラハム様の命であります」
「帰れと言った」
「その命は受け兼ねます。キャロル様は次期教祖であります。これからの世界で我ら『銀の夕闇教団』を導いてもらわねばなりません。直ちに教団へお戻りください」
答えたのは三人目の幹部。彼らの声から感情は窺えない。まるで無機質な機械だ。それほどまでに摩耗した精神なのだろう。三幹部はキャロルを凌ぐ数の魔術を取得し、しかし彼のように『運命の日』への適性を認められなかった者達だ。それだけに、少しでも教団に尽くそうと精神摩耗も厭わず魔術の深淵に傾倒した異常を通り越した者達でもある。
しかし、退く気はない。
「最後の通告だ、今すぐに帰れ」
その言葉に幹部は顔を見合わせ、一人が答えを返す。
「教祖グラハム様より、多少殺しても構わないとの許しが出ています」
つまりそれは、力尽くで連れて帰るという戦闘の意思の表れである。それと共に三幹部から放たれる濃密な殺意の意思。キャロルの返答次第で、即座に魔術を放つつもりだ。
それが、怖いわけじゃなかった。
だがここで戦闘に発展するわけにはいかない理由がある――戦えない理由がある。
ゆえにキャロルの答えは、それしか存在しなかった。
「ローブを取ってくる。待っていろ」
「キャロル様、持ち出した魔導書は所持しておられますか?」
「あんなもの読み終えた時に燃やした」
「そうでございますか」
まともに取り合う気はない。適当な嘘を並べて、キャロルは白いローブを身に纏う。
寝室に眠る少女の方へ――一切微塵も視線を送ることは無く沈黙のまま家を去った。
リビングのテーブルで異物のように重々しく在る古書――決してマーテルに読ませるわけにはいかない魔導書が放置されている。それこそ彼の意思だとは、誰も気付かない。