君のことが、知りたくて
1
大魔術『運命の日』発動から二十日が経過した。
ラジオを聞いても状況は何一つ変わっていない。
間違いなく世界で最も静かな平穏にも似た空気が流れているであろう、その家では香しい朝食の匂いが漂っており、コーヒーの湯気がゆらゆらと立ち上っては消えていく。
片方が喋りまくり、片方は一言を返す普通とは言い難い食事時間を終えて、家主が食器を片付けているのを尻目に、キャロル=ラーンクラフトは魔導書を読み返していた。
何度も何度も読み返す。それしか出来ることがないと言えばそれまでだが、ただ読み返すだけではなく、とある目標を持って難解な古代語を目で追っていく。
そうしていると、じーっと、見つめてくる視線を感じてキャロルは一言発する。
「なに」
「い、いえ! 何も!」
「そう」
………………暫く経っても、視線は消えない。
「じーーーーっ……」
「……なに?」
「へあっ!」
きつめに言われ、マーテルは僅かに焦るように仕草で苦笑する。
「何を読んでいるのかなあって」
「ああ……これは、君にはオススメできない」
「そんなに難しい本なのですか?」
「……難しい、そうだな。この上なく難しく理解し難いものだ」
あくまで本に目を落としたまま答える。彼女には見えないよう位置を考えながら。
魔導書はその道に通じている人間ではない限り、目を通すだけで気が狂う代物だ。もし読めてしまったらそれは最悪、気が触れて精神を壊す恐れもある。かく言うキャロルも初めて魔導書に触れた時は三日三晩絶えず意味の分からぬ言葉を叫び続けた。そこから正気に戻った時は何が起こったか分からず、喉は裂けてるわ思考は朦朧とするわで、二度と読みたくないと引き籠った経験もある。それから二年ほどかけてゆっくり耐性を得て、そうなってしまえば簡単なもので、置いてある魔導書を片っ端から読み耽ったものだ。
魔術取得には、それぞれ各魔術ごとに適正が必要になる為、覚えることが出来たものが膨大なわけではない。『四元素の生成』と『金属の生成』の適性を持っていたのは教団内部でもキャロルだけではあったが、数だけで言えば自分以上に取得している者は居た。
閑話休題。見せられないと簡潔に伝えると、マーテルはうーんと唸りだす。
「……気になります」
「気にしなくていい」
「むぅ……その本とキャロルのやらないといけないことは関係があるんです?」
「……まあ、そうかな」
「それを、その……聞いてしまってはいけないでしょうか?」
そこでようやくキャロルは魔導書から目を離し、マーテルの目を見て答える。
「いけない。こればかりは本当に気にしないでいい」
真剣さが伝わったのか。僅かに肩を震わせたマーテルは、ごめんなさいと腰を折る。
「分かりました。お邪魔しても悪いですし、私は少しお手洗いに行ってきますね」
彼女に非は無いが、これに関してはきつく言っておく必要はあったのだ。だからと言って謝罪が欲しかったわけではないが彼女の性格上言っても仕方のないこと。その気遣いに感謝してキャロルは魔導書にその意識を集中させた。
その耳に玄関が開かれる音が聞こえる。マーテルがトイレに出掛けたのだろう。
水道が止まっているのでトイレは使えない。だから彼女は携帯トイレを使う為に、友達が居る中でなんて失礼なこと出来ませんよと言って、わざわざ外に出て用を足してくる。
二日あまりで何度か見た光景だ。そして決まってトイレにしては帰りが遅い。女性とはそういうものなのだろう。特に問う気もないキャロルはそれすらも意識から切り離した。
2
マーテルは近くの屋根の下でトイレを済ませると、ひとまず携帯トイレを置いて、雨風の中に足を進ませた。向かうのは半壊した家々だ。勿論、この行動に意味はある。
キャロルの銀のナイフ――結果的にアレは彼のものではあったが――の件で、もしかしたら本当に家宝や大切にされていた物品が忘れ残されているのではないかと思い、町のみんなが戻ってきた時の為に保管しておこうと閃いたのだ。その時に自分が生きているかどうかは定かではないが、一ヵ所に保管しておけば皆の物が平等に発見されやすい。死体の隣にでも置いておけば完璧だ。手紙を添えておくのもいいかもしれない。死して見えなくても、そこで少しでも笑顔になってもらえるかも。そう思えばじっとしていられない。
昨日から始めたこれは、今のところ成果は無い。無いに越したことはないが、キャロルの邪魔をせずに時間を有効に使えるので、じっくり見て回っていこう。そうして一件目、二件目、三件目と瓦礫を押し退けながら調べていく。雨に濡れるのは構わない。崩れやすくなっているので慎重に行うのも、残されているかもしれない物品を壊さないようにだ。
「お仕事で鍛えた筋肉が役に立ちますね。良い汗はかけませんけど」
軽口を叩きながら調べる頭の中で、思考の半分をキャロルに回していることは自覚している。彼の好きな食べ物は何だろう。好きな遊びは? 好きな言葉は? どれくらいの手品が出来るの? どれくらいの人を笑顔にしてきたの? そもそも何歳なんですか?
――キャロルは、何を抱えているんですか?
まだ聞いていないことはたくさんある。お喋りをしていると、そんなことも忘れてどうでもいいことばかり話してしまう。舞い上がっている自覚はある。でも抑えられない。
友達って、嬉しいことばかりだ。
これはキャロルだから嬉しいの? 初めてできた友達だから嬉しいの?
ううん、両方だ。どっちも、嬉しいんです。
「あ、この荒らした感じ……キャロルですね。もう、人様のお家なんですよ」
彼は雑なのか几帳面なのか分からない。わざわざ家の補修もしてくれていたし、何かと細かいことに気が利く。でも返答は雑だし、この荒らし具合も適当にポイポイしている。
「もしポイポイした中に大切なモノがあったらどうするんですか~」
愚痴にもなっていないような愚痴を零しながら、口角が上がっていることも自覚している。怒ってなどいない、むしろ彼の些細な一面を知れたようで嬉しさすら感じている。
そうこうしていると、瓦礫の下からフォトフレームを発見した。表面のガラスにヒビこそ入っているものの中の写真は無事。そこに映っている家族をマーテルは知っている。父母と三兄弟の元気な家族だ。ある日、気性の荒い子で知られている長男が、下の弟二人を虐めている光景を目にしたことがある。止めに入ったマーテルは、遅れてやってきた父母にこのように頼まれた――弟達に代わりに、お前が長男のサンドバッグになってくれと。
『さんどばっぐ? よくわかりませんけど、お兄さんと弟くん達が仲良く居られる為なら構いませんよ。具体的には何をすれば良いのでしょうか? 物知らずですみません』
その後、その家族の家――今立っている家の裏まで連れてこられ、長男の気が済むまで色々なモノで体を殴打され続けた。サンドバッグとは、殴られるだけの役目だったのだ。
始めは拳で。でも長男の手が腫れた為、足で蹴られた。仕事の土木業でまとめ役の男性に蹴り飛ばされることに比べたら可愛いものだった。でもその反応がつまらなかったのだろうか、次に持ち出したのは金属製のバットだった。長男は躊躇いなく足を叩く。それは蹴りなんかとは比べ物にならない衝撃だった。父母の骨折はさせるなよという言葉のおかげで大事に至ることは無かったが、みぞおちを殴打された時は意識が飛びかけた。
痛かった。それはもう血みどろで、痛かった。でもこの痛みを長男よりも小さな弟二人が受けなくて済んだということを思えば、笑顔が零れた。弟二人を守る為、長男が我慢して苦しまないようにいつでも声をかけてくださいと笑って帰ると、不思議とそれ以降その家族から声をかけられることは一切無くなったのだ。なぜだがマーテルには分からなかったが、よくよく思えば気味が悪いとでも思われてしまったのだろう。別に構わなかったが、それ以降弟二人が痛い思いをしていないか心配で心配で夜も眠れない日もあったくらいだ。
「無事に避難できていますように……」
祈って、フォトフレームを持ってきた小さな手提げにしまう。これを手渡せる日が来たら聞いてみよう。あれから三兄弟は仲良く遊ぶことができていますか、と。
その家を後にし、次の家に。
そこの主をマーテルは覚えている。町を上がったところにある牧場で飼われている愛らしいヤギのような顔が個性的な青年の家だ。町で彼は醜悪だのと言われていたが、それはヤギのことも醜悪だと言うことなのだろうか? ヤギは可愛いものだと思っていただけに賛同しかねる意見だったが、そんな彼にもあることを頼まれたことがあった。
それがなんでも、セックスをしてほしいという頼みだった。その行いの意味を知っているマーテルはなぜ私となんですか? と尋ねた。当然だ、セックスとは愛し合う夫婦が子供を授かる為に行う儀式のようなもの。特に接点のない彼に頼まれる理由が分からない。
『子供が欲しいのですか?』
『い、いいいいや、そうじゃななないんだ。ただエッチがした、したいんだ』
『? セックスすると子供が出来てしまいますよ?』
『じじじじ実は、出来ないようにせせセックスする方法を、知ってるんだよ』
『はあ……でも何かしなければならない理由があるのでしたら、私なんかで良ければ』
『ほほほほほんとうに!?』
相当焦っているように見えた青年はほっと安堵の息を吐く。だがその会話を聞いていた他の青年が、彼にこう言ったのだ。まるで汚いものを見るかのように、きっぱりと。
『そいつ何の病気持ってるかわかんねえしやめとけよ。性病になりたくねえだろ?』
それを聞くとセックスをせがんできた青年は顔面を白くしてマーテルを突き飛ばし、
『だ、騙されるとこだった! 近寄るなメス豚!』
尻もちを突いて去っていく二人の背中を見送るマーテルは首を傾げた。病院に行ったことはないがセー病と呼ばれる病気を発症している覚えはない。しかしあそこまで自信ありげに断言して、ヤギのような彼も激怒したところを見ると自分はセー病を発症しているのだろうと納得したマーテルは、それから何度か同じような頼みをされた時に『セー病を発症していますが大丈夫ですか?』と答えるようにした。するとなぜだろう、いつからかそのような頼みをされることが無くなった。セー病とはセックスができない病気。そう認識したマーテルは元より望むことも無かったが、自分は子供を作れないのだと知ったのだ。
「彼がセー病ではない人とセックスが出来ますように……」
ここでも祈って、何もないことを確認すると次の家に向かう。
行く先々の家の主をマーテルは全て覚えている。その家主に、家族に、どのような頼みをされたのかも克明に覚えている。それはつまり、皆の悲しみそのものだからだ。
「避難所って、不憫しない場所なんでしょうか……実際よく分かりませんね」
雨に濡れ顔に張り付いた髪の毛を手で払って、躊躇いなく次へ次へ歩を進めていく。
ふと、相当な時間が経っていることに気付いた。理由はお腹が鳴ったからだ。
昼時の報せ。きっとキャロルもお腹を空かせて休憩をしていることだろう。
「最後にこの家を見てから帰りましょうか」
手提げバッグにいくつか入った皆の思い出の品。帰ったら汚れを拭いてあげよう。その前に昼食は何にしよう。今度こそキャロルに好きな食べ物を聞いてみようかな。
そんなこと思いながら。
その家の玄関をくぐった、瞬間の事だった。
「っあ……ああぁぁあ……ぐぁうぁああ……っっ……!」
強烈な腹痛が訪れたのだ。あの家族の長男の金属バットより、まとめ役の男性の蹴りよりも、これまでの何よりも激しい痛みが腹から全身の骨を軋ませるように広がっていく。
否。人が悲しんでいる姿を見ている時の方が痛い。でもそれは心の話だ。
やはり、この肉体的激痛は人生で最大だ。特に重い時の生理なんかよりも数十倍酷い。
一気に意識が朦朧とする。視界が霞み、歪み、気付けば地面に倒れていた。
雨が冷たい。風が神経を直接嬲っているようにも思える。
「ぁああっ……きゃ……ろ、る……」
手を伸ばしても、そこに彼は居ない。
ああ、お腹空いてるだろうな。ごめんなさい、待たせてしまうかもしれません。もしかしたら夕食も間に合わないかもしれんません。ごめんなさい、少し待っててください。
あ、でも、愛想尽かせて帰っちゃうかもしれない。でもそれは仕方ないよね。
本当に、なんなんですかこの腹痛は。そのせいで、キャロルとお別れなんて……
「……い、や……で…………す……よ……――――」
刈り取られ、落ちていく意識の隅で、大好きな友達の姿を幻視する。
もしこれで死んじゃっても、キャロルの姿を見れたので良かったです。
死を覚悟するほどの激痛。だがそんな自分を、バカな自分を、心があざ笑う。
……ううん、そんなわけありませんよ。良くなんか、ありませんよ……。
ぶつん、と。視界が、思考が、漆黒に塗りつぶされた。