君を、受け入れたくて
6
目を覚ましたマーテルは、キャロルが家のどこにも居ないことに不安を覚えた。彼が着用していた白いローブは無くなっており、大切そうにしていた古書がリビングのテーブルの上に無造作に置かれている。彼の許可無く読もうとは思わない。今はそれよりも彼がどこかに行ってしまったということが気がかりで仕方ない。少し外出しているだけなのかもしれないが、なぜだろう、胸がざわつく。玄関の方向へ、自然と足が向いてしまう。
「……キャ、ロル…………」
視界が揺らぐ。肩が震える。熱いのに寒い。変な感覚だ。これが発熱による症状であることはすぐに理解し、腹痛はマシにはなっているが痛みが引いたわけではなかった。
歩くのが辛い。足が重い。それでも彼の姿を探して、体は雨降る外へ歩みを止めない。
体を引きずるようにふらふら進んでいると強風に吹き飛ばされそうになるものの、気持ちで踏み留まって彼の痕跡を探し始める。それはすぐに見つけることができた。町の上の方角へ向かって残されているいくつかの足跡だ。雨の影響がある中でも比較的新しいその足跡は一人のものではなく、少なくとも二人以上によって行動したのだと気付ける。
「……こっちは、牧場の方……でも、誰と……?」
キャロルが、遠くに行ってしまう。そんな想像が頭を占めていく。
誰が来たの? 帰っちゃうのですか? でもなんで牧場の方に?
溢れる疑問は行動の原動力となり、痛みを忘れるように歩を進める。
進めば進むほど、何か肌に纏わりつくような空気が濃くなっていく感じがして、思えばキャロルを保護した時も似たような感覚を覚えたことを思い出す。彼を助けたい一心ですぐに意識から放り出したが、気付けばその感覚にも慣れたのか感じなくなっていたのだ。
でもこれは、彼から感じたそれとは違うように思える。より濃く粘ついた空気だ。
「……危険が、無いといいですが……きゃっ!」
ぬかるんだ地面に足を取られて転倒する。顔や服に泥が付着し、目にも入ってしまったのか痛む上に視界も悪くなるが気にも留めず、ゆっくり急いで着実に、牧場の方角へ。
暫くして、牧場が見えてくる。かつてのようにヤギ達の鳴き声は無く、しかし聞こえてきたのは何かが爆発する轟音だった。ただそれだけで尋常ではないことが起こっていることくらいマーテルにも理解できる。ゆえに歩行速度は増す。早く早くと、その先へ。
そこへ辿り着くまで何度転倒したのだろう。覚えていない。何せ、そこで目撃した光景はそんなことを記憶の中から弾き出すほどの、異常で衝撃的な冒涜的なものだったのだ。
「……な、に……あれ……っ……」
何かが膨れ上がる。遠目に見ても分かる、人間の死体が膨れ上がっているのだ。全身の肌がボコボコと泡立って形を変えていくそれは、吐き気がするほどにグロテスクな見た目をした化け物となって地に降り立った。体内が透けたカエルのような化け物。人間など一瞬で絞め殺してしまいそうな太く長い舌。想像通り、それは隣接していた白いローブの人間の胸を貫いて真っ赤な血が噴出した。化け物はそれを喰らい、そして目の前に立っていたキャロルの方へ攻撃を仕掛ける――それを彼は躱したが、舌が化け物の元に戻ってきた時にはそこにもう一人の白いローブの人間が死体となって突き刺さっていた。
「な、なにが……なにが……」
マーテルは血の気が引いていくのを感じた。別の意味で全身が冷たい。彼女が感じているのは極めて単純で純粋な恐怖そのものだ。本能的な、生物としての圧倒的な恐怖。
その恐怖に支配されかけたマーテルの視界で、それは唐突に幕を閉じた。
キャロルと化け物の決着がついたのだ。
淀んだ空気が消えていく。恐怖も薄れるように霧散していき、硬直していたマーテルの足腰がようやく活動を開始した。まるで導かれるように彼女は彼の元へ、進んでしまう。
「……きゃ、ろ……る…………」
絞り出した声が届いた。
振り返ったキャロルの顔は、驚愕と絶望と――悲嘆の色で染まり切っていた。
☆ ☆ ☆
あれを、見たのか?
それは疑問に思わずとも、彼女の顔から血の気が引き蒼白になっていることから十分に察することはできる。しかしなぜこんな所にいるのかが分からない。まさか出ていく姿を見られたのか? そんなわけはない。あの容態だ、まだ目が覚めるはずがない。だが現実の光景として彼女はそこに居る。この場所で此の世ならざる光景を目にしてしまったのだ。
彼女にだけは見せたくなかった。魔術に一切関係の無い普通の人間である彼女にだけは見られたくなかった。魔術士の戦闘など目撃するだけで精神に被害が及ぶ。ましてやあんな化け物が出現してしまったのだ、常人程度精神の根幹が破壊されてもおかしくない。
これはある種、魔導書を読むよりも精神に及ぼす悪影響が強い。人間とは、常識と言う名の根幹部分を覆されると弱る生き物だ。魔術とは覆す非常識の最大級とも言える。適性のあったキャロルでさえ当初は三日三晩発狂し続けたほど。ならば彼女は? その程度では済まないかもしれない。下手すればこのまま衰弱を辿り、死ぬ未来すら有り得る。
でももし、気が触れていないのであれば、もう二度と目撃させるわけにはいかない。
「……なぜ、ここに来たんだ」
近付かず駆け寄らず、距離を保ったままマーテルに問う。
返答を寄越そうとする様子を見る限り、ひとまずは耐えたと言ったところだろう。
「……キャロルが、居なくなるような気がして……それで目が覚めて……足跡とか追ってきたら……さっきの、あの……化け物、が……人を……こ、ころ……」
「言わなくていい。忘れろとも言わない。どだい簡単に忘れられる光景でもない」
「あ、あの……私……わたし……」
だが危ないことに変わりはない。取り乱し具合からしても紙一重だっただけだ。
ゆえにキャロルの選択は決まった。最早ことここに及んで迷うことも無い。
「……大丈夫だ。もう二度とあんな怖い思いはさせない。これは俺が君に関わってしまったのが原因だ。君を守る為にも、俺はもうこの町を去るよ。……悪いことをした」
「……え、なんで……どうしてなんです、か……」
驚くことに、彼女は食い下がろうとしてきた。ゆっくりと足を踏み出し、キャロルとの距離を縮めていく。どこにも行かないで。そんな思いが伝わってくるような瞳で。
キャロルは一歩、後ずさる。これ以上彼女との距離を縮めてはならない。
これ以上、こちらの世界と関わりを持たせるわけにはいかないのだ。
「待って……キャロル……行かないで……」
「ダメだ。それが君の為なんだ。分かってくれ」
「どうして、私の為に……なるんですか……」
「俺が君の近くに居ると、また先刻のような光景と立ち会ってしまう。もし、次そうなれば君は君で居られなくなってしまうんだ。だから君の為なんだ、分かってくれ……頼む」
「そん、なの……っ」
マーテルは地面に足を取られて転倒する。立ち上がる気力も無いのだろう。その状態のまま顔を上げて、虚ろであろう視界でキャロルを見据え、彼女は初めて声を荒げた。
「そんなの……キャロルの勝手じゃないですか……っ! どうして、私のことを全部知った風に言うんですか……っ! もう、慣れましたもん……またあんな化け物を見ても怖くなんかないですからっ! 分かってくれって分かってくれ……何も、何も分からないですよキャロルのことなんかっ! そんなので何を分かれって言うんですかっ!」
胸を刺すような怒号。ああ、確かに。彼女の言葉は何も間違っていない。彼女のことを理解したかのようなセリフも、キャロルのセリフになんの説得力が無いことも。一切として間違ったことは言っていない。それでも、キャロルは主張を譲ることはできない。
「吠えるな。そんな体で何を言おうが同じだ。次は歩けなくなる……いや、最早生命活動を維持することもできず、君は二度と誰かの悲しみを肩代わりすることはできなくなるだろうな。君の為にもそうはならせたくない。だから俺は去る。簡単は話だろう」
「簡単じゃないっ! 私にとっては、簡単なんかじゃないんです……っ!」
心が痛い。でも、それでも、心を鬼にしなければならない瞬間はあるのだ。
「簡単だ。俺は去る。君はそんな体では追いかけることも儘ならない。つまり俺が姿を消した時点でもう全ては終わるんだよ。諦めて、そこで這い蹲ってから家に帰れ」
「やだっ! 追いかけます……どこまでも、どこまでも……っ」
「邪魔をするというなら、ここで殺したっていい。どの道、俺と共に居るということは遅かれ早かれ死を意味する。それが俺の手か、精神崩壊による自滅か。それだけの違いだ」
キャロルは剣の切っ先をマーテルに突きつける。それでも彼女の瞳はキャロルの瞳を見据えたままブレることは無かった。そこには弱った精神からでは考えられないほどに強固な意思が宿っており、彼女もまた、自分の主張を一切譲るつもりは無いようだった。
「……俺なら、君を殺さないと思っているのか?」
「思っていますよ。キャロルはそんなことしません」
「君こそ知った口を利くなよ」
「さっきから棘のある物言いをするのも、剣を突きつけるのも、私に諦めてもらう為にそうしているだけなんでしょう? 私を、本当に守りたいと思ってくれているから……」
「っ……黙れ」
マーテルは僅かに揺れたキャロルの表情を見逃さなかった。
「キャロルが、何かを抱えているのは感じていました。でも、きっと……そのことにあの化け物とかは、関係あるんですよね? 私を想って何も話さなかったんですよね?」
「黙れと言っただろう」
「いいえ、黙りません。すぐに殺さないのは、キャロルが無理をしてるからだってもう分かるから。だから、キャロルが迷っているなら私は喋り続けます。だってそれが私の性格なんですもん。キャロルといっぱいお喋りしたいから、私は言葉を止めません」
突きつけた剣先が揺らぐ。まるでキャロルの感情を表しているかのように、揺れる。
対してマーテルの瞳は揺らがない。彼を見据えて、決して揺らがない。
「私はキャロルのことを何も知りません。でも仕方のなかったことなんですよね。教えられるようなことじゃなかったから……私を、必要以上に巻き込まないようにって……そんな苦悩を抱えながらも、私に付き合ってくれていたんですよね。……本当に、優しい人」
違う。そうじゃない。優しさなんかじゃない。ただ、罪を忘れない為に……。
「でも、キャロルは私と話しているとずっと辛そうな顔をしているんです。その顔はまるで、自分が欲しい物を当然のように持っている他の子を見る時の子供のような顔でした」
羨望。嫉妬。そんな自分へのマイナス感情。ああ、確かに、その通りでしかない。
「分かりませんよ、言ってくれないと。キャロルが私ことをどう思っているのか、私のことがどう見えているのか……一人で抱えていても、私は肩代わりしてあげられません」
「……そんなもの、する必要は無い」
「なら、なぜ殺さないんですか? なぜすぐに去らないんですか?」
「……っ」
「キャロル、今一度教えてください。私に出来ることはなんですか? キャロルを忘れることですか? 殺されることですか? 話を聞くことですか? どれでもいい……何個でもいい……たった一つでいいんです。キャロルが悲しまない本当の答えを……取り繕ったり私のことばかり優先するんじゃなくて、本当に望む答えを、聞かせてください」
剣先のブレは最早止まらない。震えるのだ、手が、肩が、全身が。
本当の答え? 思い? そんなもの決まっている――君が、怖いんだ。
殺したくなんかない。守るって誓ったばかりなんだ。だからこそ君を危ない目に合わせてしまった自分の愚かしさが憎い。彼女を救うこと、それは即ち彼女が焦がれた夢を叶えてあげることだ。友達になることも、たくさん会話することも、叶えると誓ったんだ。だから傍を離れてはいけないと分かっている。だがこれ以上関われば、夢を叶えるどころか死の危険に隣接させてしまうことになる。彼女をそんな形で死なせたくない。辛い思いをさせたくない。これまで身を削り続けてきた彼女の最後が、そんなのではあんまりだ。
だったら秘めていたことを――苦しみを話すのか?
それが一番怖いのだ。話せば全部受け入れてくれるだろう――それが怖い。
そう思えるほど善性の塊である君だからこそ、俺は救われてしまうのが怖いんだ。
「キャロル、私の大切なお友達。ねえ、怖がらないで? 私はキャロルの味方です。何も無い私に貴方という存在をくれたキャロルは私にとっての全てなんです。私の中にはマーテル=マグナルムという名前と――キャロルしか居ないんだよ? だからもっとキャロルのことを教えて? キャロルが望む……望みたい本当の答えを、私に教えてください」
気付けば、マーテルの手がキャロルの頬に添えられていた。その温かさがじんわりと全身に広がっていき、遂にキャロルは剣を手から零れ落としてしまった。そして、両目に溜まっているのは雨なのか。それともあるいは……。そんなことは、どうでもよかった。
「俺は……俺は……君に、救われちゃダメなんだ……」
「どうしてですか?」
「俺は……罪人だから……世界に悲しみをあふれさせた罪人だから……」
彼女は彼の目元に溜まった水を拭い、両手で頬を包み込む。
「なら救いません。そもそも救うなんてだいそれたことはできません」
そう笑って、彼女は言葉を続ける。
だから私は――と、キャロルにとって決定的な一言を。
「一緒に罰を受けましょう。キャロルと一緒に、私も罰を受けましょう」
雨風が凪いだ刹那の時間に、マーテルの声が世界の片隅に響き渡った。そのまま震える彼の体を、そっと抱きしめる。どこまでも優しく抱きしめる。脆い心を支えるように。
キャロルは十年ぶりにそれを思い出した。この優しさは、かつて鉄火場で自分を守ってくれた両親と同じもの――かけがえのない、何よりも尊い優しさだった。
「キャロルは、どうしたいですか? キャロル自身の想いを、聞かせてください」
何度も何度も、彼女は伝えてくれる。心を溶かすように、伝えてくれる。
「……私がワガママを言ったように、キャロルもわがままを言ってください」
包み込んでくれる。穢れた罪の塊を、黒く淀んだ人間を捨てた存在を。
「それを言うことが許されなくても、私にだけは構いません」
耳朶を撫でる声に、抗えない。彼女の善性に意識が侵されるような感覚。心の虚勢が引き剥がされて脆い部分を惜しげも無く露わになってしまうことに、不快感が全くない。
「罰を一緒に受けるんですから、許されるも許されないも無いでしょう?」
だが甘えてはならない。否定をするべきだ。彼女を振り払って姿を消すべきだ。
「だから、ね? 家でコーヒーでも飲みながら、ゆっくり聞かせてください」
ふざけるな。そんなこと世界は許さない。許してくれない。俺は最悪の咎人なんだ。
「もう、私は言いましたよ? 許される必要なんてないんです。だって、許してほしい為に罰を受けるわけではありません。償う為に、あくまで自己満足の為なんです。私がこれまでやってきたことも、きっとそれと同じです。でもそんな自己満足で、僅かでも悲しみが和らいだ人だって居ると思います。居たらいいなって思います。だから大切なのは許されることじゃないんです。償って罰を受けて、その先でキャロルが望む結果が訪れたのなら、それが一番だと思いませんか? 許されなくても、救えたらいいと思いませんか?」
その言葉を受けて、キャロルの表情が、ストンと和らいだ。
キャロルの中で何かが変わったのだ。まるで解けなかった問題が理解できたかのように。
……ああ、確かにそうかもしれない。そうだ、俺は今更何を許してほしいんだ? そんなものは無いだろう。俺が償うべきは更なる混沌から世界を救うことなんだ。でもそれを成したからといって何を許してもらえるわけでもない。自分の尻ぬぐいを自分でしただけに過ぎないのだから。ああ、だったら……罪を重ねてもいいんじゃないか。コーヒーを飲みながら罪を打ち明けるという罪くらい、重ねても変わりはしないだろう。
どだい償える最小にして最大は支配神復活を阻止すること、たった一つだけなんだ。
ならそれまでの道程で、俺と君の間でのみ罪を重ねても……構わないよな。
「だから、ねぇ」
君がそう言うなら。
重ねた罪も全て、一緒に償うと君が言うのなら。
「一緒に帰りましょう。キャロル」
「…………あぁ」
俺は今一度、君の家に帰ろう。コーヒーを一杯、淹れてもらおう。
そして俺は――かけがえのない友達にこの悩みを打ち明けようと思う。
意味があるかどうかじゃない。それをお互いが望んだことにこそ意味があるのだ。
だから、俺の帰るべき場所は教団じゃない――君の、マーテルの家なんだ。