夕闇の災禍
フランス某所。荘厳でありながら人目に止まらぬ、とある教会の地下深く。長く薄暗い螺旋階段を下ったその先にある空間には、言い知れぬ重たい空気が満ちていた。
広く狭くも無いがらんどうの石造りの部屋。床全体に赤い液体で描き出された六芒星型の魔方陣の各頂点に灯された蝋燭の火だけが部屋を照らし、揺らめく陽炎は夕闇の中に二人の人物を照らし出していた。
二〇代後半に見える銀髪の男と、一九歳ほどの金髪の少年の姿だ。その二人は全身を白銀色のローブで包み込み、片手には古びた本を、もう片手には銀製の儀礼短剣を、口から奇怪な歌のようなものを吐いていた。そしてそれが呪詛であることもすぐに分かる。
彼らの呪文詠唱と共に、床の魔方陣は輝きを増していく。儀式完了の時は近いのだ。
少年の持つ本のタイトルには『運命の日』と記され、どうやら写本のように見える。しかし銀髪の男が持つ本はタイトルは同じだが、古さから見てこちらが原本なのだろう。
運命の日。それこそが現在進行している儀式の名にして――悲願成就への一歩。
――魔術秘密結社『銀の夕闇教団』が掲げる悲願成就へ、彼らが行う最後の一歩。
約三〇〇年前に結成された本教団の悲願が、遂に叶う。
銀髪の男――教祖グラハム=ラーンクラフトの詠唱に、僅かな声の昂りがあった。
金髪の少年――大幹部キャロル=ラーンクラフトの顔に、僅かな安堵の表情があった。
それと共に、彼らの詠唱は終わりを告げる。儀式が終わりを、告げる。
刹那。
地面を突き上げるような衝撃が、教会の地下空間を揺るがした。石造りの空間がパラパラと破片を撒き散らし、二足で立つことも儘ならないほどの揺れ――そう、地震だ。
「グラハムッ! これは一体……!」
「己が目で確かめると良い。運命の日の訪れをな」
事態に何の疑問を抱く様子の無い教祖にキャロルは苛立ちを覚えるも即座にそれを切り捨てて螺旋階段を全速力で駆け抜ける。その間、様々な憶測を並べるが合点はいかない。
確かめるしかない。
――世界に一つの秩序を齎す儀式の成果を、この目で確かめるしかない。
地下から執務室の床下扉に出て、無人の聖堂を抜けて大扉を乱雑に開け放った。
「――――え?」
秩序――などそこに無く、広がっていたのは見渡す限りの混沌。空を見上げれば凶悪にうねった雲が大嵐を引き起こし、全身を叩く豪雨と暴風が猛威を振るっている。そちらに意識を奪われていると、忘れるなよと言わんばかりに地面を突き上げ揺らす大地震。地割れが至る所で発生し、豪雨による水がそちらへ排水されていく。見える限りの高層建築物は半ばからへし折れるようにして崩れた地盤の底へ沈没を始め、悲鳴を上げる人間を無慈悲にも叩き潰していく正真正銘混沌地獄。しかし不思議か、教会の周辺は被害が少ない。
「…………なん、だよこれ……ッ!」
呆けているのも束の間、キャロルは執務室へ戻って古びたラジオを起動させた。チャンネルを合わせていくも、全ての局がノイズまみれ。現状を知ることすら叶わない。
そこへ、地下から上がってきたグラハム=ラーンクラフトが姿を現した。
表情は至って冷静。いや、笑っている。彼は間違いなく、顔に笑みを張り付けていた。
歪に吊り上がった口が、キャロルへ――養子である大幹部へ、ノイズじみた声を放つ。
「よく成し遂げてくれた。これで世界は、一つの秩序へ向かい歩き出すだろう」
「……秩序だと? これが? この大災害が秩序とでも言うのか!?」
「吠えるな。言ったであろう、秩序へ向かい歩き出すと。これは未だ過程に過ぎん」
「過程、だと……!? あの儀式を成功させれば! この世界は一つの秩序の下に統一されるって言ったのはお前だろッ! こんなの……ただの混沌でしかないッ!」
グラハムは笑う。珍しいものを見たかのように笑う。キャロルを拾ってから一〇年、ここまで感情を露わにした彼を見るのは初めてだったのだ。これを笑わずにはいられない。
「クク、クハハハハハ。ああ、そうだな。何も知らぬ貴様にはそう見えるだろう。しかしこれこそ悲願。我ら『銀の夕闇教団』の悲願である。三〇〇年求めた大願である」
「俺が、知らない……? ふざけるなよ、俺は大幹部だろう。知らないことなど……」
「貴様は大幹部である前に、私の養子だ。私の、教団の――駒だ」
冷徹に、冷酷に、冷水を浴びせるように言い放つグラハムの言葉はキャロルの胸に重たく冷たくのしかかる。駒? 駒だと? 怒りの前に、キャロルの頭を占めるのは否定。
「おいおい、魔導書の読みすぎで可笑しくなったのかよ。俺は、儀式『運命の日』の為に必要な才能を持っていたんだろう? 思想も、適正もッ! お前と俺は、同じ旗の下で世界を救おうとしてたんじゃねェのかよッ! その為の『銀の夕闇教団』なんだろ!?」
「――吠えるな」
突如、キャロルの全身を不可視の何かが鷲掴む。全身を締め上げられる感覚と、まるで水中にいるかのような息苦しさが襲い、掲げられて――背中から床に叩き落された。
ただでさえ欲していた空気が、息がくぐもって口から一気に漏れ出し、ひゅーひゅとだらしなく全力で空気を求める大幹部の姿を、教祖は冷めた眼差しでただ見下ろす。
「貴様に話した『穢れた世界を浄化し、一つの秩序の下に世界を統一する』という言葉と我ら教団の思想と目的は変わらない。貴様が履き違えただけであろう。そも、履き違えたからこそ駒に相応しかったのだがな。要は、貴様と我らではやり方が異なるだけのこと」
「……せか、いを……壊す、つもりか……ッ!」
大災害を起こし、世界を壊して、再構成させる――否、キャロルの読みは、甘い。
グラハムは背を向け、執務室の扉へ歩き出す。
「世界を浄化するのだよ、キャロル。我らが復活を目指す『支配神』に、この穢れた世界を差し出すのは些か無礼であろう? ゆえに我らは穢れを浄化する――破壊を以って」
「……けるな……ふざけるな……」
「わざわざ私が貴様の為に都合良く改竄した写本は良い仕事をしたものだ」
「くそ……待て、待て……グラ、ハムッ!」
よろりと立ち上がり、その手を伸ばすも、キャロルを襲うのは不可視の巨大な衝撃。不意の一撃で本棚へ背中から衝突したキャロルはずるずると崩れ落ち、教祖の背を睨む。
「神……など……そんな、もの……」
「信じないか? かつて『支配神』達が齎した『魔術』を行使しておいて、神などという眉唾物は信じないか? クク、目を背けるなよキャロル。何せ貴様は――」
僅かに振り返ったグラハムの、光を失った双眸がニタリとキャロルを捉え、告げる。
「――次期『銀の夕闇教団』教祖なのだからな」
「だ、れがッ……!」
「貴様は口を閉ざし、教会でじっとしていれば良い。ここは被害をそらす結界が張ってある。災害の影響はほぼ受けない上に、教徒以外には認識されないからな。貴様はこの場所で、そしてその目で目撃せねばならんのだよ――我らが『支配神』復活のその瞬間をな」
バタン、と。無情にも二人を隔てた執務室の扉。待て、まだ聞きたいことがある。しかしもう教祖の気配はいずこへ消えてしまっている。追いつけない。追いつけないッ!
よろよろ立ち上がって、本棚に背を預けて呼吸を整える。
どうすればいい。どうすればいい。
キャロルは現状を何も把握できていない。ゆえに何をすべきかも分からない。だがここで止まっているだけでは、グラハムの思い通りに全てが進行してしまう。
世界が壊れてしまう。それはダメだ。誓ったんだ――世界を救うって。もう二度と俺と同じ悲しみを生まないんだって。でもそれは叶わない。世界は、悲しみに包まれている。
運命の日は、秩序を齎す大魔術なんかでは無かった。
運命の日は、混沌を齎す大魔術だったのだ。
世界全土に大災害を引き起こして、世界を壊す――世界が壊れる運命の日。
だが、この災害は止められない。儀式『運命の日』は発動すれば人為的に解除できないという点を持っているのだ、つまり本当の効果であるこの大災害を止める術は無い。
ならば、何をすればいい?
「……支配、神の……復活の阻止……」
足元に転がっていた魔導書を見下ろしながら、キャロルは呟いた。本のタイトルは『支配神』と短く綴られており、この魔導書はグラハムが最も大切にしていた本と似ている。タイトルを見たことが無い為に確証は無いが、その本で恐らく間違いはないだろう。本棚にぶつかった衝撃で落下してきたのか。キャロルはそれを拾い上げて、もう一度呟く。
「支配神の復活を……阻止する……」
支配神がどのような神なのかは分からない。それはこの本に記されているのだろう。しかしなぜ大切にしていた本がこんなところにと思ったが、儀式が終われば読ませてやると言われていたのを思い出す。キャロルに読ませなかったのは、支配神の存在――ひいては教団の真の目的を悟らせない為だったのだと、今更気付く。本当に自分は駒だったのだ。
「……必ず見つ出して、止めてやる……必ず、潰してやるぞ――『銀の夕闇教団』ッ!」
その日、キャロル=ラーンクラフトは一冊の魔導書を手に、逃げ出した。
戦争孤児だった自分を拾ってくれた義父の下を、育った教団の下を、自分を裏切った全てを切り捨てて、大災害が渦巻く世界へただひたすらに逃げ出した。魔導書を読み、走って読んで走って読んで走って読んで――救いを求める声に気付かないほどに、ひたすらにその二つを繰り返して、ただ前に向かって逃げ続けた。足を止めれば、罪悪感に殺されると分かっていたから。何かを聞いてしまうと心が砕けると理解していたから。
だが逃亡から二週間。
魔導書を読み終えたその瞬間に、不可思議で冒涜的で絶望的な内容を読んだ精神的疲労と無理を押し通した肉体的疲労が全てを刈り取って、キャロルは遂に意識を手放した。
ここで死ぬわけにはいかない。ここで、止まるわけにはいかないんだ。脳内で魔導書の内容を反芻しながら、意識を失うも命だけはその手を離さず、彼は最後に声を聞いた。
「た、大変! すぐ家に運びますからね!」
心を優しく包み込むような温かい声のその中に、感じたのは微かな希望の色だった。