玉ねぎはカレーの本妻なのか?
俺は苦悩していた。鍋を何度も覗きこみ、冷蔵庫を何度もあける。
同じ無駄な動きを繰り返し、ようやく諦めがついたところで窓の外を見た。
さっきから降り出した雨はますます勢いを増し、窓ガラスの外で激しい音をたてている。
空は暗く、数時間は晴れ間すら見えないだろう。
ため息をついてカレールーの箱を見る。
「①玉ねぎを薄切りにし、色づくまでじっくり炒めましょう! ※にんじん、じゃがいもなどを入れてもOK!」
……なんだこの玉ねぎの扱いの良さは。カレーにおける野菜の中で、堂々たる主役、センターの位置。
家には、今玉ねぎがないんだぞ。もう少し控え目にしたってよかろうに。
せっかく今日は自炊にすると決めて、わざわざ重い思いまでして骨付き肉を買ってきたのに。
家に着いた時点で激しく雨が降り出し、今日のテレビの占いが1位だったことを思い出してほくそ笑んだというのに。
最後の最後にこの失態!! 野菜室を開けた時点で、玉ねぎの姿が影も形もなかった時のあの絶望を表す言葉を俺は知らない。
畜生、そんなに玉ねぎが大事かカレーとやら。……大事なんだろうな。
他の野菜の雑な扱いに対してこの正妻っぷりだ。誰よりも愛しているだろうことは疑いない。
だが、はたして本当にそうなのだろうか?
惰性でなんとなくダラダラと生活を続けているだけで、本当はなくったって全く構わない存在なのでは?
俺は決意した。カレーよ、お前は今から新たな路を歩むのだ。
愛情のない関係から決別し、ニンジンやジャガイモとの蜜月タイムに突入だ。
ギャルゲーだって何回も違うルートがあるから楽しいのではないか。
鍋に油をひく。肉をいためてから、大雑把に切ったにんじんとジャガイモを投入し、全体に油が回るまで軽く炒める。
だいたいのところで規定の水を入れて、野菜に火が通るまで煮込む。
順調。まことに順調。
良子ちゃんとの仲も、こんなにスムーズにいけばいいのに……。
そういえば、この前映画に誘ったら喜んでくれたなあ。意外と、脈があるかもしれん。
顔の筋肉がゆるんだところで、タイマーが鳴る。煮込みの時間が終わった合図だ。
もちろん、竹串でチェックも忘れない。すっと抵抗なくにんじんに串が通る。完璧だ。
後は火を止めてカレールーを入れ、溶けたら煮詰めて完成だ。
とろりとしてきたら底が焦げ付きやすいので、よく混ぜておく。
皿にご飯をたっぷりのせ、とろみのついたカレーを豪快にかける。
純白の米にカレーが妖しく絡む様は、見ているだけで唾液が出てきた。
スプーンを用意し、水も用意せぬまま大きな口を開けて、カレーを迎え入れる。
「むぐぇ」
か、辛いっ!
いつものピリッとした優しいスパイスの刺激ではない、奴らは全力で俺の粘膜を殺しにかかっている!
た、玉ねぎひとつないだけでこんなにも味に差がつくのか?
俺は愕然として匙を置いた。あんなに恋しかったカレーの皿が、激しく遠く感じる。
待て、これは何かの間違いではないか?
そうだ、きっと熱かったからやけどしたのだ。それをスパイスの刺激だと間違えたのだ。
カレールーが俺を裏切るはずはない、カレーは日本の国民食だ。
再び匙をとり、もう一口分をとる。今度はちょっと控え目だ。
「ぐはっ」
やけどではない。やはり、辛い!
がっくりと肩が落ちた。俺は間違っていた。カレールーと玉ねぎはロミオとジュリエット、決して離してはならぬ二人なのだ。
それを俺の都合で無視した結果、カレーに復讐されたのだ。
辛くて涙が止まらないが、今回のことは教訓と受け止めるしかない。
しかし、これからどうしよう?
仕送りまでの一週間、カレーでしのぐつもりで大量に作ってしまった。
まさか鍋の一部だけ辛いということもあるまい。
この失敗作をなんとかやりくりしなければ、あと一週間水と砂糖だけで暮らすことになる。
嫌だ。それだけは嫌だ。
考えろ、辛ささえなんとかすれば食えるはずだ。
りんごとはちみつ……。
しばらく頭をひねっていた俺の元に天からの囁きが降りてきた。
そうだ! まろやかにするには昔からその二つと決まっている。俺は喜々として冷蔵庫を開けた。
どちらもなかった。
現実は非情である。
つーか、普段あまり料理もしない学生の冷蔵庫にあるかそんなもん!
さようなら俺の食生活。さようなら俺の筋肉。占いなんぞクソ喰らえ。
呪詛の言葉を吐きながら、突然鳴りだした電話に出る。どうせセールスだろう。
「あ、後藤くん。今大丈夫?」
「え、鈴木さん? え、うんうん。ヒマヒマ」
「実家からリンゴもらったんだけど食べる?」
「君が好きだ」
電話口から沈黙が伝わってくる。
……もしかして俺は、今とんでもないことを口走らなかったか?
鈴木さんというのはあれだよな。良子ちゃんだよな。もしかしなくてもそうだ。
い、いくら求めていたリンゴがあっさり出てきたからとはいえ、俺はアホか!?
「……後藤君、今のほんと? 嬉しい」
「え?」
「今から持ってくね。雨もやんだし」
「え?」
「迷惑?」
「いや全然!」
良かった、と言って彼女からの電話が切れた。俺はしばらく、受話器を持ったまま立ちつくす。
その体勢から見えた窓の外は、もう明るくなっていた。