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幽霊と盲目の少女 

作者: ひつき

 昔々、しんしんと雪が降る真冬のある日、とある村に男の霊が現れました。

 彼は現世うつしよに強い未練を持ってしまったため成仏できずにいる、いわば地縛霊のような存在です。


 しかし彼が他と違うのは、記憶が無いということでした。




 地縛霊は、現世に干渉することができません。

 生きている人に害をなすこともなければ、益をもたらすこともない。

 逆もまた然り。

 加えて、地縛霊は空腹や疲れをを感じることもありません。


 つまり、現世うつしよに縛られているからと言って、ことさら不便があるわけではないのです。


 ただし、なんの危険もない、というわけでもありません。


 魂は普通、肉体を離れると天上へ向かい、清められて再び現世うつしよに転生します。

 前世の行いが悪くとも、清めの時間が長くなるだけでちゃんと転生させてもらえますし、地縛霊も、ちゃんと未練を晴らせれば、輪廻の輪に戻ることが出来るでしょう。


 しかし、例外もあります。

 なんらかの理由で、魂が消滅してしまう場合です。


 現世うつしよは本来、霊が留まるところではありません。

 剥き身の魂にとって、そこの空気は濃すぎるのです。

 いわば、毒のようなもの。

 吸い続ければやがて、魂の消滅に至ります。


 もうこの世界にいてはいけない。

 一刻も早く未練を晴らし、ここを離れなければ。


 漫然まんぜんとした焦燥しょうそうが彼をむしばみます。

 記憶の無い彼にも、そのことはなんとなくわかっていたのです。




 地縛霊となってしまった彼は、さっそく動き始めました。


 けれど、すぐに立ち止まってしまいます。

 何をしていいのかすら、わからないのですから。


 心の中に靄のようなものが立ち込めている。

 けれどそれがなんなのか。そもそも自分はどこの誰であるのか。この村は自分が住んでいた村なのか。


(落ち着け……とにかくまずは、情報を仕入れよう)


 苛立つ心を必死で抑え、彼は村の人々から情報を得ることにしました。



 情報収集は困難を極めました。

 なにせ、こちらからは何も尋ねることが出来ない上に、冬であるため、村人は家に籠ってひたすら藁を編むことに精を出していたからです。


 それでも一日かけてなんとか手に入れた話をもとに、彼は翌日の午前、村の外れにある地主の家へ向かいました。


 地主はこの村の畑を一手に握っており、つい先日、そこの長男――いつきが盗賊に襲われ、殺されてしまったというのです。

 盗賊はすぐ護衛によって始末されたそうですが、他にも仲間がいるのではないかと、村人たちは恐れているようでした。


(もしかしたら、俺は地主の息子だったのかもしれない)


 時期的にも合致しますし、襲われたショックで記憶を失っているというのは十分に考えられる話であります。



 期待を胸に向かった地主家は巨大な平屋で、どうやら相当な権力の持ち主であることが伺えます。


 しかし大きな家には、寂しさが漂っているようでした。

 それも当然でしょう。

 なにせ、次期当主となる成人間近の長男が亡くなったのですから。


 泣きつかれたのか、仏壇の前で突っ伏したままピクリとも動かない母親に、頭を抱えて唸っている父親、そして心配そうにおろおろするばかりの幼い弟。


 記憶を失っているせいで見覚えが無いのですが、それでも、心にくるものがありました。

 通じないにもかかわらず、ごめんなさいと、彼は頭を下げました。


 けれど、落ち込んでばかりもいられません。  

 とりあえず自分の趣味嗜好を探るべく、仏壇を覗いたり、家の中を徘徊したり、時折ぽつぽつと零れる会話を汲み取るようにして、なんとかそれらしいものを探していきます。


 まず好きな食べ物は、母の味噌汁。けれど死んでしまった今、食べることは叶いません。それに、未練と言うには弱いでしょう。 

 嫌いな食べ物はわかりませんが、そんなの関係ありません。


 そんなことよりも、決定的なことを聞きました。

 あとひと月もせずにめとるはずだった娘、あやねです。

 近々結婚する予定だったその娘は、身分こそただの村娘ですが、相当な美人だったようで、彼もそれはそれは気に入っていたそうです。


 未練とはそのことに違いない。

 浮かれた彼は、家族と今生の別れになるかもしれないというのに、すぐさま家を飛び出していきました。



 娘の家は、村の中心部の少し外れにある、何の変哲もないものでした。

 侵入してすぐ、彼は息を呑みます。


(……なんて、美しいんだ……)


 そこにいたのは、雪が浸み込んだかのように真っ白な肌と、ハッとするほど黒い、絹のような髪を持つ、それはそれは美しい娘でした。

 火鉢を囲む家族と会話して、時折見せる笑顔は、まるでたんぽぽのように見る者の心をあたためています。   


 その美しさと愛らしさに、彼は一瞬で魅了されました。


(あぁ、こんな娘を残して死んでしまったのであれば、未練も残るだろう)


 このままずっと、この娘の傍にいたい。

 しばし彼は、その娘の可憐な声と無邪気な笑い声に耳を傾けつつ、彼女をぼうっと眺めていました。


 けれどそんな彼の心は、彼女の言葉により、凍てつかされました。



『あんな男に嫁がずに済んで、本当によかった――』




 会話を聞いてすぐ、彼は家を飛び出しました。


(どういうことだ? まさか、まさかそんな……)


 駆けながら、彼は自問します。


 地主の跡取り息子と、美人の娘。

 望まない結婚。


 その二つを結びつけるのは至極容易なことでしたが、しかし信じがたいものでした。


(俺はあの子に、結婚を強要していた!? しかしそんなこと……でも地主の息子だぞ? 脅す材料はいくらでもある! 何より、あれほどかわいらしい娘なのだ……)


 悪い予想が浮かんでは消え、浮かんでは消える。

 記憶があったころの自分がそんな汚いことをしていたのだと思うと、罪悪感のあまり叫びだしたい気分になりました。



 いったいどれほど走ったでしょうか。

 気が付くと夜、彼は村のはずれをふらふらと徘徊していました。


(あの娘が俺の未練だとすれば、もう俺には晴らす術が残されていないのではないか?)


 冷静になってくると、今度は別の不安に押しつぶされそうになります。

 もし、娘との幸せな生活が未練だったとすれば、娘に嫌われている今、もう晴らす術が残されていないことになります。

 なにせ、干渉することが出来ないのですから。


(それに、もし俺があの娘の言うとおりの屑野郎だったなら、謝らねば気が済まん……)


 加えて、新たな未練もつくってしまいました。


(どうすればいい……どうすれば……)


 反芻はんすうしながら漂います。 


 地縛霊となってから早二日目。

 己の魂の寿命がそう長くないことは、本人が一番よく知っていました。


 もって、あと数日。


(このままだと、俺はどうなるんだ――?)


 考えた瞬間、まるで臓腑の内から蟲が湧き出るような、酷い悪寒に襲われます。


 輪廻の輪から外れた魂の行方は?


 それは誰にもわからないことですが、とにかく、恐ろしいことになるだろうということは容易に予想できました。


 なんとかしなければ。

 なんとかして、消滅だけは避けなければ。


「もし、あなた様は?」


 ――声が、かけられました。


 つられて振り向くと、左手の、何の変哲もない民家の壁を背に座り込む、小さな少女がおりました。


(なっ――――)


 異常な光景でした。

 真冬の夜だというのに、雪の上で膝を抱える少女は、粗末な服しか羽織っていません。


 布団代わりの藁一つ無い。

 いやそもそも、なぜこんな寒空の下、外にいるのか。


(死んでしまうじゃないか)


 死人である彼がそんな心配をするのもおかしな話ですが、彼は自分の置かれた立場も忘れて、少女の身を案じます。


「なにしている、早く家の中に入るんだ!」


 言ってすぐ、気づきます。

 自分の言葉は、誰にも通じないということに。


(どうすれば――?)


「私には、家がありませんから」


 信じがたいことが起こりました。

 少女は、きちんとこちらを向いて、言葉を返してきたのです。


「……わかるのか?」 

「あなたしか、わかりません」


 帰ってきた言葉は、理解するのが難しいものでした。

 けれど目が合うと、その意味が掴めました。


「お前、目が……?」


 おそるおそる尋ねると、彼女は一瞬固まって、小さくうなずきました。


「すまない」


 肩が震えるのを見て、思わず頭を下げます。


「いえ、平気です。それよりも、不思議です……私には何も見えないはずなのに、なぜかあなたの姿だけは感じるなんて……」

「俺の姿だけが見えるのか?」

「……見えるというか、何か、感じるのです。どういうことでしょうか?」


 小首を傾げる彼女に対し、彼は答えを持ちません。

 加えて、彼にも彼女に対して、理解できないことがありました。


 こんな娘一人で、今まで生きて来れたはずがない。

 つまり、盲目になって捨てられたのは、つい最近ということだろうか?


 けれど、それよりも重要なことがありました。

 この娘に協力してもらえば、自分の未練を晴らすことが出来るのではないだろうか?


 少女を利用するのは気が引けましたが、四の五の言っていられるような状況でもありません。

 彼は自分の置かれた境遇を話し始めました。




「……そうですか。あなたは、斎様の霊なのですね。……本当に記憶が?」


 少女は彼の話を聞いて、やがて深刻そうにうなづき、問い返してきました。

 怖がられるかもしれない。

 そんな不安もありましたが、どうやら大丈夫だったようです。


「あぁ、何一つ覚えていない。そこで提案があるのだが、俺と取引をしないか」

「取引、ですか?」


 ぽかんとした表情をする少女に、彼は続けます。


「そう、取引。お前が例の娘と会って、俺の代弁をする代わりに、俺はお前の目として、お前が最低限冬を越せるよう手を貸すのだ」


 このままでは数日と経たず、少女は死んでしまう。

 けれど幽霊である自分が手を貸せば、他の家から最低限の物資を得ることぐらい容易だ。

 元々自分の家だったあの屋敷から盗むくらいなら、仏様も許してくれるだろう。


 彼女に取れる選択肢はないはず。

 けれど彼女は、しばらく迷っているようでした。


(まぁ、幽霊との契約だ。悩むのもしょうがない)


 彼がそう納得して待っていると、やがて少女は、何かを決意するように顔を上げて、ようやく頷き返しました。


「よし、契約成立だ。よろしく頼む、えーと……」

雪音ゆきねと申します」

「雪音か……」


 なにか、引っかかるものがありました。


「あの……?」

「あぁいや。雪の音か。さぞ、綺麗な響きなのだろう」


 そう言うと、雪音は驚いたような顔をしました。


「どうした?」

「あっ、申し訳ございません。斎様がそのようなことをおっしゃるとは、ついぞ思わなかったので」

「……やはり生前の俺は、よほど性根の悪い男だったようだな」

「も、申し訳ございません! 決してそのような……」


 慌てて頭を下げようとする雪音を、彼は制します。


「いや、いい。それよりも、風雪をしのげる場所を探そう。寒いだろう?」


 彼は踵を返し、地主の家へと向かいました。





「――うむ。これならしばらくは持つだろう」


 彼のその言葉に、古くなった土蔵の隅で、雪音は古い毛布と藁を掻き抱いて一息つきました。

 食事は、家の中を徘徊する途中、余っていた汁を少しつまみ食いして、加えて乾燥した野菜などをほんのわずかいただいてきています。


 土蔵の中には、長い間使われていないであろう、埃をかぶった農具などが仕舞われているようです。入り口のほかにもう一つ出入口があり、そこから抜け出すこともできそうでした。

 いつまでもここに住みつくわけにはいかないでしょうが、それでも今晩くらいは、ゆっくり寝つけそうです。 


「あの、ありがとう、ございます……」


 幾重にも敷いた藁の上で埃っぽい毛布にくるまり、雪音は彼に礼を言います。


(……まるで子猫だな。かわいそうに)


 どれだけ疲れていたのでしょうか。

 雪音はすでに、うつらうつらと舟をこいでいます。


 彼は急に憐れに感じて、雪音の頭に手を伸ばしました。


「え……?」


 その手は、決して雪音に触れてはいません。

 しかし彼女は何かを感じたようで、ぽつりと、疑問の声を挙げます。


「気にするな。とにかく今は、ゆっくりと休め。見張りは俺がやっておく」

「でも……」


 夜通し見張りさせるなど。そんな気持ちがあったのでしょう。


「俺は霊だ。疲労も感じなければ、睡眠も必要ない」


(年ごろ、と言うにはまだ少し幼いが、それでも人目は気になるだろう)


 そんな思いもあって、彼は一言残すと、土蔵の入り口へと移動しました。




 雪音が目を覚ましたのは、翌日の夕方ごろでした。

 なぜ起こさなかったのかと、彼女は起きるなり尋ねます。


「いやその、なんだ。あまりに心地良さそうに寝ていたのでな」


 言いづらそうにしながらそう言うと、彼女は少し顔を赤らめて、おずおずと口を開きます。


「っ! それは、その、お心遣いありがとうございます……ですが、あなた様にはあまりお時間が無いのでありましょう?」

「それは、そうなのだがな、契約は契約だ。お前に無理をさせて、冬が越せなくなったなどとは……それに、何もしていなかったわけではない」


 彼は、夜中の内に町へと走り、雪音を迎えてくれそうな家、あるいは寒さを凌げそうなところがないか、探していたのです。

 霊体である彼は疲れを知らないので、相当な速さで動けましたし、なにも問題はありません。

 昼間は家の様子を伺いつつ彼女が盗んでも大丈夫そうな物を確認していました。


 と、そのようなことを説明すると、雪音は数秒間、動きを止めました。


「どうか、したか?」

「……斎様が、そのようなことをなさるとは信じ難くて……あぁいえその、疑り申しているわけではないのですが、私のことばかりじゃないですか? もっとご自身のことをお考えになっても……」 

「いや、俺のことは一人ではどうにもならん。それよりお前、生前の俺と面識があるのか? 昨日もそのようなこと申していたが」


 不思議に思い尋ねると、雪音は口ごもります。 


「えぇと、その……」

「話しづらいことか?」

「……申し訳ございません」

「いや、いい」


 あんな状況だったのだ。何か訳ありなのだろう。

 彼はそう思いました。


(俺はもう死者だ。聞いたところで、なにをしてあげられるわけでもない。重要なのは、この子が冬を越せることと、俺が無事成仏できることだけだ)


「とりあえず明日の早朝、ここを離れるぞ。それから身を寄せられるところを探そう」


 幸い、地主たちがこの土蔵を訪れることはしばらくなさそうですが、危険であることに違いはありません。

 早めに居場所を確保すべきだと、彼は考えました。


「はい。……ですが、私を引き取ってくださる方は、この村にはいないと思います」


 そう言って、彼女はうつむきます。


(なぜだ? 確かに目が見えない娘など、穀潰しにしかならんと思う者もいるだろうが……)


 彼は、不思議に思いました。

 いくら目が見えないとはいえ、少女の見た目は、決して悪くありません。むしろ、美少女と呼べる部類にありました。

 さすがにあの娘とまでは言えませんが、それでも、引き取り手くらいは見つかりそうなものです。


「なぜだ?」

「……私は、罪人ですから」


 ぽつりと零れた言葉に、彼は息を呑みます。


「何を、したんだ?」

「……」


(目が見えないのは、潰されたからか。よほどのことがあったのだろう)


 雪音が進んで罪を犯すとは思えません。

 きっとそれにも、訳があるはず。

 口を開かない雪音を見て、彼はそれ以上追及することが出来ませんでした。


「すまない。つまらんことを聞いたな」

「……申し訳、ございません」


 そのあとはぽつりぽつりと、計画について話をするだけでした。




 翌日の明け方、凍てつく寒さの中、二人は土蔵を抜け出しました。

 そして、彼があたりをつけた民家を回って行きます。


 しかし、計画は難航していました。

 多少余裕のありそうな家、子供を持たない家、老夫婦のみの家と、受け入れてくれそうな家を尋ねましたが、無碍に追い返したりはしないものの、申し訳なさそうに断るばかりです。


 加えて、問題がもう一つあります。

 雪音にとって、移動は辛いものだったのです。


 彼が案内役をしているとはいえ、盲目になったばかりなのですから、その恐怖は想像を絶するものでしょう。


 それに案内役の彼にしたって、出会ったばかりの、しかも幽霊なんて言うあいまいな物なのです。彼女もまだ信頼しきれていないに違いありません。


 さらに言えば、彼は介護などしたことが無いのです。

 注意しているとはいえ、どうしても至らぬ点はありました。


 しかも霊体ですから、雪音が転ぼうと、物にぶつかろうと、手を貸したり、抱きとめたりすることが出来ません。


 日が落ちる頃には、なんどもつまづいて擦り傷だらけになった彼女に対し、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。


 結局その日、引き取り手は見つかりませんでした。

 物陰に背を預け毛布にくるまる雪音と正対し、彼は頭を下げます。


「……すまない。俺が至らぬばかりに」

「いえそんな、謝らないでください。私自身の所為なのですから」

 

 そんな彼に対し、慌てた様子で雪音は言います。

 しかしその声は、疲労を隠せてはいません 


「とにかく、食べられるものを食べて、早く休め。食料ならまた、あの家から盗ってくればいい」

「はい。その、ありがとう、ございます」

「礼は言うな。俺は何もできちゃいない」


 寒さに耐え、一寸の光もない暗闇の中歩くのも、人に頼み込むのも、断られるのも、すべて雪音自身がやったこと。

 それなのに礼を言われては、立つ瀬がない。

 彼は何もできないことが、歯がゆくて、また悔しくてしょうがなかったのです。




 翌日も、そのまた翌日も、収穫はありませんでした。

 たまに食べ物をこっそり恵んでくれる人はいましたが、誰も雪音を引き取ってはくれません。

 

 日に日に弱っていく少女を見て、彼は焦っていました。 

 何とかしなければ。

 常に少女のことを考え、何が最善か、四六時中考え続けました。

 日中は少女のサポート、夜は警護をしながら調査。

 なぜそこまでするのか、それは自身にもわからないことでしたが、彼はひたすら必死になって、尽くしていました。


 土蔵を出て三度目の夜を寒空の下過ごした雪音は、その翌日、彼に言いました。


「今日は、斎様の未練を晴らしに行きましょう」


 彼は、虚を突かれました。

 そんなことなど、頭になかったのです。


「だが、お前の住処を……」

「もう、あまりお時間が残されてはいないのでしょう?」 


 図星を衝かれて、またも彼は驚きました。

 確かに、軽くなっているような感覚があったのです。


「……わかるのか?」

「なんとなくですが、斎様の気配が薄くなっているのです」

「だが、未練を晴らしてしまえば、俺は消える。そしたら、お前も……」


 雪音は、にっこりとほほ笑みました。


「いいのです。最後に、またあのころのように、誰かに優しくしていただけて、私は満足です。きっとこの先長らえようとも、人様に迷惑をかけるばかりでしょうし、辛い思いをするだけです。ならばいっそ、ここで死んだ方が、楽でしょう」

「だが……」


 言いかけて、やめました。

 雪音の決意が固いことを、彼は悟ったのです。


 彼はその後、不自然に明るい雪音の言葉に、生返事しか返せませんでした。




 家の前まで来ました。

 

「本当に、いいのだな?」


 もしこれで未練が晴れたとすれば、彼はもう、彼女の手助けはできません。そうなれば、彼女は数日もたないでしょう。

 にも関わらず、彼女は平然としております。

 

「よいのです。大切な人もいない、先に光もないこの世に、生きていたいとは思いません。最後に、あの頃のように優しくしてもらえた、それだけで満足です」


 何の迷いもない顔に、彼は悟りました。引き留めても無駄だと。


「……わかった。では、行こうか」

「あぁ、その、ここからは私一人で行かせていただけませんか?」


 奇妙な申し出でした。

 誤解を晴らすために自分の代弁をしてもらいたいというのに、彼女への未練を断ち切るために代弁してもらおうというのに、雪音が一人で行くとは、どういうことか。

 

 こちらの疑念を感じ取ったか、彼女はあわてて続けます。


「いえ、その、まずは私だけで行き、その後斎様をお呼びします」 

「なぜ、そのようなことを……?」

「えっと、たぶん、斎様にとって、あまりよろしくないことが……」


 言いづらそうにする雪音の顔を見て、大体想像がつきました。

 

「大方、俺に対する罵詈雑言ばりぞうごん並べ立てられるとか、そういうことであろう? 大丈夫だ。嫌われているなど、承知している」

「いえ、それもあるのですが……」


 雪音は、言いかけて少し、躊躇います。


「……斎様のご厚意に、少しでも報いさせていただきたいのです。少しでも、斎様が御心安らかに逝けるよう、私に任せてはいただけないでしょうか?」


 雪音は頭を下げました。

 初めての懇願に、男は戸惑います。


「よ、よさないか……顔をあげろ」

「お願いします」

 

 雪音は頑なに続けます。


「はぁ……わかった。俺など何の役にも立っていないが、そこまで言うのなら、頼む」

 

 ついに彼は折れました。

 雪音はありがとうございますと、もう一度一礼し、何があっても聞き耳を立てないよう頼み込んでから、家へと向かっていきました。

 そして彼が離れたのを確認してから、ノックしました。


 少女が家へ入ってからしばらくして、家の中から声が漏れてきました。

 大きな声です。

 彼のことでいろいろ揉めているのでしょう。


 大丈夫だろうか。やはり行くべきではないか。


 彼は気が気ではありませんでした。

 当初の目的など、もはや彼の頭の中にはありません。


 そして幾度目かの怒声のあと、彼はついに我慢ならなくなり、ばれないよう、ゆっくりと家の中へと突入しました。


 ――家の中では、雪音が土下座し、娘が怒鳴り散らしていました。

 

 呆然としていると、娘が喚きます。


「なんであんな男のために!! あなただって、苦しめられてたじゃありませんか!!」

「それは、生前の話でございます。今の斎様はご改心なされて……」

「そんなバカな話がありますか!! 今のあなたを見てると、あの男があなたに乗り移るなり憑依するなりして、操っているとしか思えません!! 出て行ってちょうだい!!」


 出て行け、出て行けと、娘は執拗に怒鳴ります。その様子は、怒りというより恐怖で、本当に霊を恐れているように見えました。

 しかし雪音は動きません。

 娘は続けます。


「ねぇ、本当にどうしたの? あなた、あの男に散々こき使われていたじゃない。それで、あの男が死んだ罪、というより腹いせで、その目も奪われたのでしょう? 罪人扱いされて……こんな、死刑と同じような扱いされてるのでしょう? なんで、あの男の肩を持つのよ?」

「それは……」


(え……?)


 衝撃で、男は完全に固まりました。


「恨んでいるでしょう? あなた、元々は時雨しぐれさんと二人暮らしだったのに、借金のかたに半ば無理やりとられたって聞いてるわ。それで、時雨さんは結局暮らしていけなくなって、村から出て行かざるを得なかったって。そんな、そんな相手に、あなたは……」

「恨んでますよ」


 雪音は遮るように言い、顔を上げた。光を写すことのない目からは、涙が流れだしている。


「恨んでいるに、決まってるじゃないですか。でも、霊となってからは、私に優しくしてくださっているんです。まるで兄、時雨のように……最初は、命と引き換えにあいつの魂を消し去ってやろうと思いましたよ。でも、だめなんです。今更何を都合のいい、なんてことを思いもしましたが、どうあっても、だめなんです。……今のあの方を恨むなんて、私にはできそうにありません」

「……わからないわ。私には、わからないし、もし、私が許さないことであいつが苦しむなら、私は一生許さない。……ごめんなさいね」


 それから娘は、喚くこともせず、まるで雪音がいないかのようにふるまい始めた。

 それでもなお、雪音は土下座を続けます。


(なんで……そこまで……俺は、俺の所為で雪音は、こんな……)


 男は、混乱していました。

 何らかの接点があったことには、うすうす感づいていました。そして、それがよくないことも。


 しかし、まさかそれほどまでとは。自分は、自分たち家族は、唯一の肉親も、少女自身の人生も奪ってしまっていたとは。

 

(俺は……俺はどうすれば……)


 呆然と漂う男に、誰も気づきません。

 雪音は必死に、懇願を続けています。

 しかし、娘もその親も、まるで反応しません。

 本当に、完璧に、いないもののようにふるまっています。

 縋り付くことすらできない雪音からすれば、それは断絶を意味します。

 結局半日ほど粘り、雪音はついに家を後にしました。


 家を出るなり、雪音は崩れ落ちました。

 そして謝罪の言葉を繰り返します。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」

「……頼むから、謝らないでくれ……」


 男はやっと、そんな言葉を絞り出します。  

 その声に、雪音はようやく違和感を覚えたようです。


「まさか……」

「あぁ、全部聞いたよ。俺は、俺たち家族は、君からすべてを奪ってしまったということも」


 少女は、衝撃に固まりました。


「……聞いて、しまったのですね」

「……すまない、なんて言葉で片付けられないことだとわかってはいるが、謝らせてくれないか? すまない」

「謝らないで、ください……あの場で言った言葉は、すべて本心です。生前の斎様は恨めても、今のあなた様は恨めません」

「だが、同じ斎ではないか!」


 つい、口調が荒くなってしまいます。

 ここで責めるのは甚だお門違いであることは百も承知でしたが、我慢なりませんでした。恨めと、自分を恨んでくれと訴えます。


「恨めませんよ。あなたは、同じ斎様ではございません。人というのは、記憶の上に成り立っていますから、記憶の無い今のあなた様は、あの斎様ではなく、別の斎様なんです」

「そんな、詭弁を……」


 にっこりと、少女は笑います。

 

「詭弁じゃありませんよ? 恨むのも恨まないのも、私の自由ですし、あなた様があの頃の斎様か別人かを決めるのも、私の自由ですから。あなた様と言えど、それを束縛させはしませんよ?」

「……すまない」


 男はそれ以上、続けることが出来ませんでした。

 ただ、誓います。

 消えるまで、精一杯、この子のために尽くそう、と。




 

 数日が経ちました。

 少女は今、大雪の中、隣村を目指してのろのろと歩いています。


 あの後、雪音の体力も考慮して、せめて寒さを凌ぐべく、結局土蔵へ戻ったのですが、昨晩、運悪く見つかりそうになってしまい、慌てて逃げ出してきたのです。

 痕跡などを見れば、雪音が潜っていたことはすぐにわかるでしょう。

 もう、村の中には居れません。


 すぐに飛び出した後、今に至るというわけです。


(まずい……まずい……)


 男は焦っていました。

 少女の小さな口からは、かすかに白い息が漏れるだけです。ふらふらと頼りない足取りは、今にも転んでしまいそうでした。


 傍目にも、少女の限界が近いことは明らかです。そして彼自身もまた、消滅の寸前、紛れもなく限界でした。


「あ……」


 ついに少女は、やわらかく雪の上に座り込んでしまいました。


(限界、か……)


 傷つき、弱り切った少女に対し、これ以上がんばれとは、言えませんでした。

 ただ近寄り、労おう。

 そう思った瞬間、少女の、決して光を写さない目が、こちらを見て、確かに何かを捉えているのです。


「兄、様……?」


 ぽろりと、言葉が漏れます。


 兄様だと?

 思わず振り返ります。

 もし兄が現れたのだとしたら、まだ、生き残れるチャンスがある。

 感動の再会、そして兄とともに末永く幸せに暮らす。

 そんな最高の結末を期待しました。


 ――しかし後ろには、誰もいませんでした。


(幻覚、か……)


 死の間際になって目が治り、肉親との再会なんて、そんな都合のいい話はないのか。

 男は、思わず神を呪いました。

 落胆して、しかし否定するつもりもなく、ただ、向き直ります。


 少女が、抱き着いていました。


 いえ、正確には抱き着いているわけではありません。霊体に触れることは、決してできないのですから。

 触れているわけではない。ただ、こちらの周りに手をまわしているだけ。

 しかし、あまりにも正確に彼を捉え、しかも何かが籠っていたので、男は、少女に本当に触れていると錯覚しました。


 いや、事実、少女がこちらに近づいているのです。

 死に限りなく近い少女は、死者を捉えることが出来たのでしょう。 


「兄様……時雨兄様……」


 呼ぶ声は歓喜に震え、その目には涙があふれていました。

 どうしていいか困惑していると、少女はゆっくりと顔を上げ、見上げてきました。


(――――っっ!!!!)


 男の全身に、稲妻のような衝撃が走りました。


「雪、音……」

「はい。雪音でございます」


 身を震わせて、男は雪音を抱き返します。

 確かなぬくもりがありました。


(そうだ……なぜ、忘れていたのだ……)


 次々と記憶が蘇ります。


 両親の死。

 残された幼い妹を守ろうと誓った日。

 雪音と暮らしていた、貧しいながらもあたたかい日々。

 そしてそれが、突如終わりを迎え、憎悪に燃え、斎を襲ったこと。


 そしてにっくき敵の心臓を貫き、そして従者の一人に頭を殴られ、絶命した。

 おそらくその時、記憶が飛んでしまったのでしょう。



 気が付くと、周りの景色が無くなっていました。

 完全な、純白の世界。いえ、もしかしたらあまりに強い雪に、そう錯覚しただけかもしれません。


 けれど、とにかく、その中に雪音と二人、佇んでいました。

 いつの間にか雪音は、元気な様子になっています。彼の、時雨の姿もまた、かつてのものになっていました。


「兄様」

「あぁ、行こうか」


 お互い微笑みあうと、しっかり手をつなぎ、上を見上げます。

 まるで祝福するかのように、あたたかい光が降りてきて、二人の姿は消えていました。




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― 新着の感想 ―
[一言] なるほど そういえば地主の息子だったのかもしれないとしか書かれていませんでしたね 最後には忘れてしまっていました
[一言] 短編お疲れ様でした。 話を読み進めている内に、何かが引っかかるなぁ……と思っていたのですが、その引っかかりが最後のあの展開で解消されました。 末永く……じゃないですけど、この世にはいない…
2015/12/25 22:14 退会済み
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