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レゼイロ 0:100  作者: 水色
3/3

これで終わり

文字読むの面倒やと思うし、漫画か絵を勉強したいと思う。

ゼイツロ



1


 一方で事実の体は空気を掻き分けている。異常なほど、かつて車を追い抜いた時よりも速く、確実に構築された頭の中のルートが、何も知らない頃よりも多くの『正解』を選択する。

 街を行き交う人々。ある者は必死に走る事実を揶揄嘲笑し、ある者は不安げに眺める。多種多様の行動がそこにはある。

 それらを十把一絡げに投げ打って、事実は走る。

 アスファルトを僅かに削り、それと比例して靴底をそこに残していく。スニーカーを履いてくれば良かったなどという後悔は最初の数十mで終わらせていて、あとはただ思考の片隅で、今里のいる場所のリストアップから、どれだけ多くの場所を効率的に回るかを思慮する。

 やがて打算した三つ目の場所で、彼は彼を見つけた。

 まだ夕陽の昇らない坂の上で。

「     事実?」

 息を荒げ、坂を走って上がってきたであろう弟の姿を、今里は驚きと友愛の面持ちで迎える。

「どうしたんだよ、こんな所で。トレーニングか?」

 そして笑うのだ。覗く八重歯を見せて。

「とりあえず、はい」

 手渡された缶飲料。まだ冷たい事を、表面に張り付いた水分が物語っている。

 それを受け取り、一気に流し込む。清涼感は口内から喉までを冷やしたものの、荒ぶる思いまでは飲み込ませてくれなかった。

「おい、おい。全部飲むなよ、あー、まだけっこう入ってたのに」

 事実は紫色のアルミ缶を縁石に置き、口元を拭う。袖が着色された事も意識の範疇に入れず、眼前の今里を睨みつける。

「兄ちゃん」

「何だよ、そんなに喉渇いてるなら下で買ってこれば良かったのに」

 缶を逆さにし、垂れるだけの量になってしまったジュースを惜しげに眺める。

「ボクのも買って来いよ。驕ってあげるから」

「兄ちゃん!」

「何、何。大きい声出すなよ。お前が大きい声出すと怖いんだよ。とりあえず座りな。いつまで経っても世話が焼けるな」

 それは事実が知っているはずの今里真で。

 それはそこにいて。


 そしてそこにはもういない。


「お前はいつだってそうだ。考える前に走るくせに、走り終えるまでには答えを見つけ終わってる」

「兄ちゃんが、兄ちゃんの、なんていうか」

「お、今回は珍しくまとまってないな。まぁいいよ。そう簡単に話せる事じゃないし。でもね、事実。兄ちゃんの時間はもう終わってるけど、お前の時間はまだまだあるんだから、ちょっとは落ち着いて、そんで、まず深呼吸した方がいいよ」

 諭すは賢者に成り下がり、不確定の慰めに似た温かい勘違いを生み出す。

「そんな時間ないのは兄ちゃんが一番分かってるだろ」

「時間? あぁ、ボクの? さすがに事実の深呼吸待ってやるくらいの余裕はあるよ」

 韜晦に継ぐ篭絡。

「事実、まずは落ち着けって。病気や事故じゃないんだし、急を要する最後じゃない。何なら事実の為に一日伸ばしたっていいんだから」

「そうじゃない。兄ちゃんがいなくなるのを決めるのは兄ちゃんじゃない」

 怪訝にいぶかしむ今里を見下ろす。お気に入りのティーシャツも汗で張り付いてしまい、感覚の邪魔にしかならない。

「兄ちゃんがいなくなる     死ぬってのは、おれが決める事だから」

 それは確認にも受け取れた。

「事実……」

「昨日、会ったんだ。愛知って人」

「     ……」

「怒られたよ。すごい怒られた。もう兄ちゃんには近付くなって。わたしに関わるなって」

 公園がフラッシュバックし、罅割れて     あの笑顔が垣間見える。

「やっと分かった。あの人はおれが嫌いなんじゃない。おれが好き過ぎてあぁなっちゃってるだけなんだ。おれだけが好かれちゃったんだ」

「祐が? 事実を? まさか。あいつが人の事好きになるわけないよ。ナルシストの権化だぞ」

「だからだよ。だからおれの事が好きで好きでしょうがないんだ。まるで自分を見ているようだから。あの人にとっておれは     いや、おれじゃないのか」

 言葉を一端落着させ、また拾い上げる。

「あの人の中のおれは、それだけの価値があったんだ。だから、だからおれはここに来れた。自分で気付いて、ここにいる」

 それを止めようとした愛知の思惑を振り払って。


「愛知は、兄ちゃんが嫌いでしょうがないんだ」


 告げられた禁句に今里が二の句を吐けない。気付くよりも前に教えられた情報は、容易く人間を壊し、再構築する。

 それは成長ではない。

 変化だから。

「たぶん、もうすぐここに来る。時間が無い。逃げる時間も、準備する時間も」

「祐は、祐が     」

 それにより生み出される多くの答えも意味を成さない。純度の低い、自分の入り込まない世界に価値は見出せない。

「兄ちゃん。安心しろ。あいつの言う通り、おれは     」

 佇むのは二人     いや、三人。


「正義のヒーローだから」


 振り向く坂下で息を荒げる愛知。膝に両手をつき、こちらを仇敵のように睨みつける。

「愛知、おれはお前とは違う」

 対する事実の目は涼しい。もう汗は引き、どちらかといえば涼しげな表情に、いつもの事実が持つ蒼い炎のような横顔を取り戻している。

「羽束師事実。言わんこっちゃない。やっぱりお前は潰しておくべきだった」

「潰されたからここにいる。昔っからそうだろう。一度、『死』に面した主人公は強くなって戻ってくる」

 古今東西、そう出来ている。

「それは教えちゃいけない、真実だ。今里真はそれに自分で気付くべきだった」

 少女の目が戦慄く。揺れ動き、嘘が白日に晒されそうな子供のように。

「誤算だ、誤算。よくもやってくれたな、馬鹿が」

「褒めてもらえて嬉しいよ。愛知さん、おれもあなたがどうやら好きみたいだ。やっぱり兄ちゃんの周りには人間が溢れている」

 おれを見てくれる人間があふれている。

「本当に、そうなんだな。祐、 祐! ボクはそれのすぐ前には来てたのか!?」

「やめろ! それ以上は駄目だ! 今はまだ考えるな!」

「人間は考えるのを止めない。止める事なんてできやしない。兄ちゃんをそう変えようとしたのは愛知さん、あんただろう」

 と、羽束師がうっすらと笑みを浮かべる。

 救えたはずの人間は、そうして救われたはずの人間に阻まれて。


「愛知さんは詰めが甘いのよ」


 それは酷く冷たい。

「狂った歯車はどけておかなきゃ。腐った蜜柑は選別しなきゃ。存在は許しても     迷惑をかけないように」

 言葉ではなく     事実の背中に突き立てられた果物ナイフ。

「あ、ぐ     」

「皆本先輩!」

 倒れ込む。今里の叫び。呼び掛けには内実するいくつもの感情。

 制止、反省、怒気、反応、惜別、願望。

「今里くん、あたしは愛知さんより物騒だったわ。ごめんなさい」

 抜き取られ、傷口から血液が噴射される。飛び散りこそしないが、刃身の付着から浅くは無い侵入が推測される。

 人間は     動物はどれだけ異物に侵犯されれば死ぬのだろう。

「だ、大丈夫か、事実!」

「大丈夫よ。死にはしないと思う。思うだけだけど。だけだけ。ふふ、ねぇ、愛知さん」

 口元に手を当て、漏れた息。

「やり過ぎ。他に方法あるでしょう、確実なのが」

「だって頭殴ると外しそうだし、力いるし。毒なんか持ってないもの。スタンガン     も微妙じゃない? すぐ復帰できそうで」

「皆本先輩は何をしたか分かってるんですか!? 事実、なんで事実を     」

 返ってきたのはたった一つ、シンプルな答え。


「あら、助けてあげたのに」


 残酷。あまりにも凄惨。

「愛知、愛知がやらせたのか」

「いいえ。わたしはあなたにやったように、この皆本さんの背中を押してあげただけ。ゼロを、イチにしてあげただけ。さすがにこうなっちゃうと責任も感じるけど」

「     ッ、……とりあえず、救急車呼ぶよ。警察? いや、先輩     が、先輩を」

 携帯電話を手に持って、

「どちらでもいいわ。今里くんが決めて。あたしもしたくはなかったけど、やっちゃったのはしょうがないし。二つも下の男の子なのにね」

 冷静に、果物ナイフを皆本はケースに入れ直した。

「とりあえず、救急車     」

 ダイヤルされた緊急回線と今里が話してる間、羽束師は考えていた。

「ごめんなさい。ちょっとの間、君も休んでていいんだよ」

 だから覗き込んだ皆本の手からナイフをひったくり、べたべたと撫でくりまわす。そして、それを抜き、固く握り締めた。

「……いってぇ、くそ。痛過ぎてもうそんなに痛くないのが逆に怖いくらいだ」

「     あなた」

 今度は皆本が目を剥く。

「こんな強硬手段無しでしょう、先輩。昨日会ったばかりで普通刺しますか」

「羽束師くん、やっぱり君は正義の味方なんだね」

 返答は無かった。目を閉じたまま荒く息を繰り返す。

 静かに、愛知はそれを見続けていた。姿勢を正し、戻った心拍も気にせず、敬意を込めて羽束師の頭の傍に座る。

「皆本さんの言うとおり。あなたはやっぱり正義の味方。もっと穏便に君を退場させられれば良かったんだけど……。     ごめんなさい」

 電話を終えた今里が立ち尽くしている。

 いつからだろう。

 自分だけしかいない。




2


「あなたに会う為にあたしは生まれてきたのかもしれない」

「そんな大げさな話じゃない。皆本、皆本幾絵。答えの無い問題に答えを用意するのは、まぁ、裏技かな。それともボーナスステージ?」

 漆黒、なら聞こえはいい。ただの夜。ふと自分に返る、空虚な時間。全てを覆い、全てを奪う。だからこそ自分しかそこにいない危機感を煽る。

 山と山に連なるその街には、ひどくマンションが多い。土地が安いのか、それとも開発が滞り無く進んだのか、はたまた周囲に悟られない何かしらの組織陰謀なのか。

 オカルトを呼ぶオカルト。

 築五年も迎えないマンションは、白亜の壁がまるで人の業を移す掛け軸に姿を変えたようだ。

「一目惚れ、じゃないかしら。ほら、遺伝子と遺伝子の、何かあるじゃない。そういうの。テレビで見たわ」

 深夜になればもう人はいない。不良、と呼ばれる若者はここ数年でついぞ見ぬようになり、夜の帳は彼らから異常性を取り上げた。逆に普通を埋め込み、ぴたっとはまったジェンガを思わせる。

 だから皆本幾絵がこんな時間にコンビニへ行くのも、忌避やタブーを生まない。

 彼女の昔からの癖で、夜になるとチョコを食べたくなるのだ。カカオの少ない、砂糖とミルクで嵩増しした     甘い、甘いチョコを。

「あなたが、今里くんと話したのかしら。彼をあんなにしてしまったのかしら」

「そうとも言えるし、正確にはそうではないと返せる。皆本幾絵、彼はなるべくしてああなった。誰のせいでもお陰でもない。少し急かしただけだよ、わたしは」

 高校三年生にしては小さい身長なので、皆本は人一倍体重を気にする。太っているよりは痩せている方が良い。それは異性へのアピールなのか、自分の理想なのか、深く考えた事はない。

 だからチョコを食べる次の日はきまって御飯を食べない。

 そんな日常を切り取ったその世界に、何が見えるのかは彼女にしか分からない。

 色の無い夢になる日常に意味は無い。何かが起こるのは、いつもの日常に一つのスパイスが混入した結果だ。

 それがハバネロよりも強い劇薬だっただけ。

「あたしに会いに来たんでしょう?」

 一目見れば分かった。異質が異質を呼び、その周囲だけ混沌とした理路を奏でているようだったから。

 夜に映える白の制服。この周囲では見た事の無い水色の襟カバー。闇に溶ける長い髪、そして袋を下げた皆本を見据える赤の混じった黒い眼。

 こうして愛知祐と皆本幾絵は出会った。

 そして彼女は気付いた。

「て、事は羽束師くんの後     か、母宮くんの後か」

「ご明察だね。羽束師事実の後だ。母宮月助と喜先明日香は自分で気付くだろうから今は性急に差す必要は無い」

 やはり制服とは制する服。きっちりとした秩序を感じさせる。

 対して皆本の方はといえば、中学の体操服をインナーにして胸元の名前が隠れるくらいのサマーセーター、下にいたっては草臥れたボーダーナイロン生地のスウェットパンツだ。

 新築のマンションといえど、周囲に明かりは少ない。駐車場を照らす外灯は周辺住民の反対もあって光量を絞られ、ロビーからも離れているここでは顔の認識すら危うい。

 しかしはっきりと皆本には分かった。理屈ではなく感じたのだ。

「やっぱり君は賢い。常に自分を構築し直している。客観に優れ、迎合を嫌う。迫害を恐れ、埋没を疎む。わたしはゼロをイチにする為に存在している。だから本来、あなたに会う必要は無いんだけれど……」

「ここにいるって事は、あたしが必要になったんでしょう?」

「     正解」

 今里真は変わった。ある日、ある時、ある場面。

 羽束師事実が恐れ、母宮月助が危惧し、喜先明日香が疑った今現在の今里真。

「あたしはもう完成してるから、会えないかと思ってた」

「完成しているからこそ今、あなたが必要だ。皆本さん、正義の味方に爆殺されそうなので、わたしと共に進んで欲しい」

 人が人をやめるのに必要なのは時間ではなく、機だ。きっかけというには聊か語弊がある。始まりと言うには厳か過ぎる。変化といえば聞こえは良いが、傷というには癒えはしない。

 その機こそ、皆本が推測している事象そのものこそ、今目の前で佇む一人の少女なのだ。

 揃えられた前髪は楽しくもなさげに揺れる。夜涼みの風がさらりと踊らせる。

「ならあたしもイチにしてくれる? 今のあたしのイチをゼロにして、またイチに」

「……努力しよう。骨が折れるよ、皆本さん。わたしは神じゃないからね。破壊したり創造したりを何回もしてると肩が凝る」

 ふっと消えた。当たり前が当たり前だと思っていた感触。馬鹿にして、嘲笑して、吟味して、批評して。押し付けた価値観が何かを変えると信じていて、でも自分の中にある確固ですら作られた価値観でしかない。育んできた今を今とすら感じられない不遇を呪う事すらせず、自分が自分である事に自信すら持てない、事すら気付かない。

 気付かないのは悪だ。見えないのは罪だ。考えないのは     無だ。

 だから皆本はチョコをかじった。包装を破き、甘い甘い甘露をかじる。

「一ついる?」

 小袋には亀の子型のチョコがいくつか入っている。皆本はそれがお気に入りだった。

「いただこう」

 脳が乾く。いつもいつも、食べても満たされない。飲んでも潤わない。

 チョコだって、昔見た健康番組で体に良いと紹介されていただけだ。どうせなら寝てしまった方が、電源を切ってしまった方が     いくらかいい。

 そんな一つ一つ。自分を構成する部品が組み替えられていく。今も、昨日も、明日も。ずっとそうやってきた。もっと正しいものへ、もっと効率的なものへ。

「他にもあるよ。あたしどっちも好きだから、両方買うの。食べ過ぎよりも、足りない事の方が怖くて、いつも余っちゃうから」

「あ、これわたしも好き。ミントチョコ好きなの?」

 現状は維持できる。変化を嫌う。分からないものを分からないままで扱う事に何の罪悪感も無い。公式を知ってるから計算を飛ばし、いつの間にか憶えてしまった答えだけが受け継がれ、今もそうして作られる。

 継承は結果ではなく、課程で行われるべきなのかどうかも、理解が出来ない。

「好き。あとラムレーズンと、ブラウニー」

「趣味あうね。チョコミントじゃなくてミントチョコだよね。ミントとチョコの黄金率的に」

 間違ってはいない。死んでないだけの状態が罷り通るからこそ生まれたものがある。

 しかしもしそれが間違っていたとするならば、間違いだったという事にもしもなったのなら、形成はゼロになり、そしてその次の瞬間からイチになる。

「やっぱ夏でもチョコにはホットコーヒー」

「しかも無糖の奴ね。ボケちゃうもんね、甘さ」

 深く深く、共通を終えた個々が、浅く浅く     食い込んでいく。

 いつも始まりはどうでもいいままに終わっていき、忘れられたまま過去になる。感応は首尾よく塗られ、一つの繋がりが遠く吼える。

 やがて暮れは光になる。沿流は本流へと様変わりし、今までの物語が無為に帰す。やたらめったら乱立した巨大な権威が、実は張り子のトラだと知る。

 根拠の無い意味。

 彼女達にすら分からない時間。

 ボクですら届きやしない。




3


 救急病院の廊下には羽束師の両親、そして皆本と愛知。もちろん、今里もいた。

 時節の挨拶と他愛無い世間話をし、家族は病室へと入っていく。残された三人の面様はそれぞれに違う。

 晴れやかな仕事を終えた後の皆本。思案する様子の愛知。

 今里は項垂れていた。

 それは自分の為か。それとも弟の為か。

「どうする」

 もう時間は夜。搬送され、手術を終えたのがさっき。かれこれ四時間は経っていた。

 医師の方から怪我の内訳は聞かされていた。内臓腹膜に届かない裂傷。雑菌などの消毒だけ行い、止血     縫合。命に別状無く、明日には帰宅できるとの事。

「何が」

 『自分で自分の背中刺すなんて、奇妙な自傷行為もあったもんだねぇ』

「これから」

 『高校生? 最近の子供は簡単に自殺するフリするから怖いねぇ』

「だから、何が」

 『子供なんだから、恋愛に敏感なのは分かるけど。もっと考えなさい』

「今里真、これからどうするの。もう君は純度の低い。     わたしという現実に羽束師事実という理想を混ぜられた答えしかない」

「……それは事実のせいなのか?」

「いいえ、わたしのせいね。わたしと皆本さんの半々」

 その原因の一端は誇らしく今里に笑いかける。

「羽束師くんには謝る事はないけど、君にはある。今里くん、ごめんなさい。君の大切な家族を傷つけてしまって。それは心の底からそう思う」

 因果応報。自業自得。

「愛知さんにも、謝るわ。性急過ぎた。もうちょっと穏便でも良かったとは思うけど、あの状況じゃ無理だったんだもの」

「分かってる。皆本さんの判断は正しい。今里真の完成にはあの少年は、正義の味方は非常に邪魔だった。甘く見過ぎていたのはわたしの責任」

 あくまで失敗は失敗。ミスはミス。間違いを認める事に二人は何の忌憚も無かった。それこそが彼女達を彼女達たらしめる矜持に思える。

だから間違っていない、正解だと判断した答えに余念も雑念も必要無い。自分の見た未来予想図に他人の声が入る余地が無い。耳を傾け、真摯に聞くフリをするのに精一杯で、動かされるのは唇だけ。

 心は不動。

「皆本先輩は、事実が嫌いだったんですか?」

「あたしが? いやいや、あたしはあの子、大好きよ     個人的には。だって正義の味方って。白馬の王子様みたいで」

 明るく笑う。口元を隠す上品さを垣間見せる笑い方だ。

「でも事、今里くんにとってはあれ。悪の魔王? 親玉?」

「彼に悪いよ、皆本さん。羽束師事実の全面性については今里真が重々、承知してる。わたしが今里真と出会うずっと前から、彼らは一緒なんだから」

 それこそ、と愛知は続ける。

「あなたが自動車に負ける頃からね」

 脳裏に過ぎるは今まで彼に対して割いた記憶。

 いじめられて鼻血を出しながら睨む顔。相手を殴りすぎて怒られる時間。小学校低学年でありながら一人でブランコを漕いでいた夕方。隣に座った時の僅かに笑う安心。家族と折り合いがつかなくて悩む彼と、どうにもならないものをどうにかしようと努力するひたむきな態度。人間関係の中で何かが起これば真っ先に疑われ、否定もしないからどんどん孤立し、レッテルを貼られる背中。県の偉い人に優秀成績で呼ばれた表彰式をサボった根拠。高校からスポーツ特待を受ける為に呼ばれた豪華な食事よりも、自分と食べる一杯二百円のラーメンを選んだ精神。後ろをついてくる足音。前に出て守ってくれる姿。努力を惜しまず、到達に自らを置く枷。

 彼と共にした時間は、今里の中で大きく幅をきかせている。

 何もかも     最初の扉を開けてしまった自分の責任を、纏いながら。

「羽束師事実のゼロをイチにしたのはあなた、今里真でしょう? だからこそどうしても避けたかった。完成した羽束師事実と会えば     あなたはそのままでいられないだろうから」

 筆舌に尽くしがたい数々の構成組織は、今里真の目から涙として溢れる。

「ボクのせいだ。ボクがもっとしっかりしていれば、あいつがあんなにならずにすんだ」

「それはひどく自意識過剰だわ。今里くんがどうだろうとあの子はいずれああなってたし、ならなきゃおかしいもの。愛知さんが忠告? 警告したとこまでは良かったんだけど……。あれかな、母宮くんと喜先さんがいけなかったのかな」

 誰の為の鐘だろうか。鳴らす人間がいない世界で、それはいったい誰が誰の為に鳴らすんだろうか。

 打って響けば問題無い。暖簾も押せるなら問題ない。糠に釘を入れるのも健康を考えれば良いはずだ。だからこそ愛知祐はこうしてここにいる。

 相対する具現者は、いつも誰の前にでもいる。

 幾ばくか経っただろうか。夜の病院にけたたましく足音が響く。

「おい今里! 事実が入院したって!?」

 廊下の奥から声が飛ぶ。そちらに三人が顔を向けると、対する三人もそれぞれを疑問気に見つめあった。

「あれ、えー、皆本さん、だっけ。と、そっちは?」

 薄く、柔らかくも無い病院の椅子に腰掛けた三人。緑色のそれを手で押し、まず立ち上がったのは愛知だった。

「はじめまして、母宮月助に喜先明日香。と、……     ?」

「あぁ、どうも。あ、こいつは俺の妹で日呼っていうんだけど、あんたは? 羽束師の友達? それとも皆本さん?」

 と、愛知はにやりと笑った。

「今里真の、とは聞かないんだね」

 虚をつかれたのはどうしてだか喜先の方だった。

「あなた     !」

 彼女は直感した。その目、その笑み。数日前に自分が対面した他人の顔。

「今里真の事は理解しているから? ここにいる五人以外に彼と共にする人間がいないと思ったから? 彼本人が怪我をしたわけもないのについてくるほどの友人は自分達しかいないと知っているから?」

「ちょ、     ちょっと、待て。あんた何が言いたいんだ」

「無意識に出た質問なら尚更問題ね。本音って事だもの。どうやら母宮月助、あなたはわたしが思ってたよりよっぽど強かで姑息だわ。そして傲慢で利己的。あなたの知っている今里真を本当に理解しているのね」

 足を一つ、打ち鳴らす。


「冗談じゃない!」


 睨む相貌は烈火を伴い、

「どうして今里真を進めたくないの? どうして完成しているのに不完成な人間の足を引っ張るの? あなたと羽束師事実、似ても似つかない完成形の二人だけど、こうまでしてわたしの邪魔をするなんて、とても不快だわ!」

 言い放つ。

 母宮月助『傍観者』。

 羽束師事実『正義の味方』。

 喜先明日香『理解者』。

 皆本幾絵『先導者』。


 愛知祐。


「理解しているならほっといてくれればいいのに!」

 つかつか、と。

 叫び、怒る愛知の前に一人の人間が立つ。

 次の瞬間、響いたのは頬を打つ軽く     重い音。

「……     日呼!」

 母宮日呼が放った平手は、正確に愛知祐の左顔面を弾き、病院の廊下をまた静寂で埋め尽くした。そうであったはずの場所に、強制的に回帰させた。

 その静寂も、生み出した本人によって破られる。


「お前、わるものだろ!」


 戦慄く放った右手。踏ん張った拍子に、履いていた高いヒールが折れた。アンバランスに身体を傾かせる小さな少女は、それでも涙を溜めたまま。

「おい、おいおい。これどういう状況だ? 喜先、分かるか? なんか妹が急にキレた」

「わかんないわよ。でも私も日呼ちゃんに賛成。母宮くん、この人。今里くんを変えたのは、この人だ」

 頬を打たれた時、今里と皆本も立ち上がっていた。

「愛知、大丈夫か? 日呼ちゃん、急にどうしたんだ」

「何、この子。いきなり暴力なんて考えられない。野蛮だわ」

 今里は心の中に浮かんだ「お前が言うな」の言葉を飲み干し、息を荒くする母宮日呼を見つめる。

 口火を切ったのは愛知祐だった。

「……母宮日呼、ね。誤算だわ。まさかここにもいたなんて」

 一同は言葉の意味が分からず、首を傾げる。それらの状況を一切合切無視し、愛知はわざわざ日呼の隣を通り過ぎて病院出口へと向かった。

「ちょっと、愛知さん!? 今里くん、ごめんね。ちょっとついていく!」

「皆本先輩? 待ってください!      ……あぁ、行っちゃった」

 こうして廊下に残された四人。たった一日二日の間を経た出会い。なのにそこにいる人間の内容がそっくりそのまま変わってしまっている。

「日呼……」

「だってあいつわるもんだよ、月助! 絶対そう!」

 ぶかぶかのパーカーを振りしだき、力説する。ショートパンツから伸びた白い足は、部活でも焼けないようにといつも履いている長ズボンのおかげでひどく健康的な色気を感じる。

 折れてしまった靴を両方脱ぎ、手に持つ。そんな日呼を、月助は遠慮がちに頭を撫でた。

「やっぱお前、すげーわ。子供っていうのか、銃弾みたいだな」

「月助、それ褒めてんの?」

 母宮の後ろから喜先も笑う。

「半々、でしょ。褒めてんのと、憧れてんのと」

 和やかな雰囲気には似合わない、笑いに混じる事の出来ない今里に、その光景はひどく明るく映った。

 どうしてだろう。いつからだろう。戻れない日々     もうすぐ終わりだよ、っていう悲しい台詞に酔いもせず、最後の溜息の準備も忘れて、食い入るように。

 でも彼にはもう後が無い。自分が正しいと信じて進む以外に、道が     無い。

「今里、色々聞きたい事もあるけど、とりあえず事実の見舞いしようぜ」

「……うん」

「明日退院できるって事実のおばさんが言ってた。まぁ、今日の昼にも会ってるし、あいつが何をしに出て行って、何をしようとしてたかも大体分かってる。お前が悩む事ぁねぇよ。お前の言うように、あいつもあいつなりに進んでるだけなんだろ」

 スライド扉に手をかけ、開く。中には六つのベッドが並んでおり、健康だけが取り得の田舎らしく、わざわざ入院しているのは羽束師事実一人だった。

「あ、どうもっす。いや、なんかすごい事になってましたけど」

「起きてんなら出て来いや」

「出て行くの、よくない気がして……。おれがいたらもっとこじれるだろうし」

 病衣に包まれてはいるが、元々のスタイルのせいでそこそこオシャレに見えるのは、彼の持つ美徳だろうか。それとも着こなしだろうか。

 掛け布団をどけ、病院スリッパに足を通す。点滴台を持って立ち上がる。

「あぁ、いい。そのままで。何か飲むか? それとも食うか?」

「月助! 事実!」

「見りゃ分かる。そもそも見舞いに来てんだろうが。喜先、ちょっとここ見ててくれ。一階のコンビニで何か買ってくる」

「いいですよ。悪いし。それに入院中にどうなんすかね」

「まぁ……若いし大丈夫だろ。病気とかじゃないんならいいんじゃねぇか」

「月助! 事実だ! ほら、ほら!」

「うるさい! まとわりつくな! なんか適当に買ってくるわ     じゃなくて。今里、喜先連れて買いに行ってくれねぇ?」

 と、自分の財布から千円札を一枚(どうしてだか紙のお金はそれだけしか無いのだ)と、小銭を全て手渡す。

「何それ!? やだやだ、私やだからね!」

「俺と羽束師は何でも飲み食いできるけど、ほれ、喜先さんの好み分からんし。一人だとあれだから今里も行ってこいよ」

「ちょっと待ってくれ、母宮。ボクも事実の見舞いしたい     」

「いいから。ほれ、行った」

 二人は強敵的に押し出され、扉は冷たく閉まっていく。分断された冒険者のパーティー。

 どちらが何を言うでもなく、見詰め合う。仕方なく今里は嘆息し、手渡されたお金を自分の財布に入れる。

「小銭多いなぁ。千五百円くらいかな」

「母宮くんらしいけどね。貧乏なのに、驕りたいタイプ」

「まぁ、かっこつけだからね。返したら怒るし、しょうがない。行こうか、喜先さん」

 連れだって歩き出す。廊下の電気はまるでグリーンマイルのように二人を祝福し、ヴァージンロードよりも確かではない旅を演出する。

 さながら映画のワンシーンで見た事のある場面。内実はどうであれ、その光景自体は綺麗だと評価するに値する。たとえそれが許されていようが、許されていまいが、並んで歩くというのはあくまで具現だ。

 理想の具現。

 進む、の具現。




4


「私の下の名前、知ってる?」

「     ん? 確か、……えすかだっけ」

「そう。明日の香りで『えすか』。普通は『あすか』なんだけど、お父さんとお母さんが出生届出す時に喧嘩してたらしくて」

「喧嘩?」

「エスカレーターとエレベーター、どっちがどっちかって。で、名前の振り仮名に間違えて『えすか』って書いちゃったんだって。迷惑な話だよね」

「はは、おっちょこちょいなんだね。母宮のとこもそうなんだ。月助っていうんだけど、おばさん、月がすごい好きで、名前に入れたんだって。でも月を助けるんだから太陽ってのに三歳くらいの時に気付いたんだって。だからこんなひねくれた息子に育ったって愚痴ってたよ」

 他愛無い雑談は病院の壁に吸い込まれ、何も無く消えていく。雲雀を見に行く約束は、いつも叶わないまま終わっていく。

 真の頭の片隅。浮かぶのは今よりもまだ若い、母の顔。

『真     真っていうのはね、正直って意味。どんな状況だって、正直に生きて欲しいのよ。どれだけ嫌われたって、どれだけ無視されたって、構わない。どんな時も真の思うままに行動してほしいの。残酷かもしれないけど、母さんも、父さんも、いつもあなたの味方だから』

 そういって幼い自分を抱きしめた。

『いつか、自分が正直にいられなくなった時、それを思い出して。名前には、その名前にしかない願いが込められているの。どんな名前も、愛を持ってつけたなら、そこに意味がある。いつか真にもそれが分かるわ』

 ひどく、嫌な思い出としてそれは書き換えられていた。

 場面が描かれるたび、その言葉の意味が胸中を暴れまわる。自分がどれだけの意味を持って生きていくかを、決められた気がした。

 今の自分はどうだ。

 明日の自分は。

「あ、コンビニ閉まってる」

 歩きながら見えた先で、便利な目的地の現状に気付く。

「ほんとだ。コンビニって閉まるんだ。病院だからかな。どうする、喜先さん。確かちょっと歩けばあったと思う。一人で行ってこようと思うんだけど」

 それははたして気遣いだったのだろうか。今里の自問自答が止まらない。ただ人といたくないだけじゃないのか。自分が笑える状況に無いのを棚に上げて、苦しみから逃れるために放った拒絶の言葉じゃないのか。

 攻め立てる自分自身。

 一方、喜先の方は     電気の消えたコンビニの前で立ち止まった。

「ん、どうしたの?」

「     今里くん」

 後ろ手に組まれた手に握られた小さいバックの紐が、食い込むくらいに力を入れる。

 零れんばかりの笑顔で、少女は軽く言い放った。


「君が好き」


 万感の風を受けて、思いは静かに心を破いていく。

 仕組まれたこの道で、仕組まれたように出会ったこのタイミングで、仕組まれた言葉を、仕組んで伝えた。

 でもそれが届く事を彼女は途中で遮る。

「今里くんが好き。それだけで、何も無いんだ。だから、何? って感じ。人を好きになるのに理由もへったくれもないって思ってたけど、違った。好きになったから、が重要なんだ」

「……     喜先さん」

「好きだから一緒にいたい、好きだから伝えたい、好きだから抱き合いたい、好きだから一緒の風景を見たい、好きだからキスしたい、好きだから結婚したい、好きだから知ってほしい」

 尻上がりの、抑揚をつけた口調は、不謹慎にも楽しく聞こえた。

「そうじゃない。好きだから、変えてしまいたい。自分の望むように、好きな人を変えてしまう行為なんだった、そう思った」

 それはひどく冷たい、体温の無い現実論だった。

「ねぇ、今里くん。猫はガムなんか食べないんだよ。それが真実なんだよ。それで終わりなんだ。変わらない。何も変わらない。変わらないあなたが好きなんて、そんなの、努力を諦めた人の事だよ。もしくは最初から完成した人に会ったか」

 静かに今里は聴く。

「でも自分で勝手に組み上がったり、人が勝手に作ったプラモデルなんか私は欲しくない。だから共に進みたい」

 最初から完成したものなんか、欲しくない。

「わがままでしょ。嫌な女でしょ。だから分かった。私は今里くんを好きになんてなっちゃいけない。ううん、人を好きなっちゃいけない。それに気付いて、思った。


      あぁ、間違えちゃった、って。


 どこかで根本的に、違っちゃったって」

「……喜先さんは、汚くも卑怯でもないよ。ボクはそう思う。嬉しい、ってすごく思う」

「ありがと。それは今里くんの気持ちとして大事にいただく事にする。だからこれでおしまいなんだ。私の物語はこれでおしまい」

 そう残して喜先は夜間用出口の扉を開けた。静かな静かな夜だった。明かりも少なく、人もいない。病院の前の狭い道には、何も無い。

「今里くんは今里くんで自分のやりたい事をすればいいと思う。人間はみんなわがままなんだよ。だって神様なんかいない。基準が無いんだから、人間はみんな異常で、みんな普通なんだ」

 その返答は、今里にとってどちらともとれないものだった。

 喜先は自分と一緒にコンビニに行きたいのか、それとも行きたくないのか。

 どっちだっていいんだ。そんなもの、何処かに捨ててしまえば良い。忘れたまま放っておけたらいい。いらない、そんなもの。もう見つからなくなったって、寂しいだけ。平気だ。

 ずしりと重くなった足を、今里は踏み出す。




5


「うぉー! やべー! 羽束師の傷が開いた!」

「痛い! ものすごい痛い!」

 二人が帰ってきた病室はパニックになっていた。どうやら嬉しすぎて日呼がベッドにダイブしたらしい。背中のあたりに血で地図を描いた羽束師事実が、患部を押さえながらのた打ち回っている。

 ベッドの隅では、どうも自分が良くないことをしたと思った日呼がぐずっている。

「事実、死ぬか? 月助、事実が死ぬか!?」

「お前のせいでな! おい、ナースコール押せ! お前ら、どこほっつき歩いてたんだ、早く医者呼んで来い!」

 阿鼻叫喚の地獄絵図。ばたばた走り回る三人に、騒ぎを聞きつけてやって来た看護士のおばさん(暮内(くれない)スエ子、病院に夜勤で入っていた看護士婦長。五十路を手前に結婚への焦りも消えた仕事人間)が怒号を飛ばす。

 すぐに再手術となり、母宮はバツの悪そうに羽束師家へと電話をかけている。喜先はどうしようどうしようと右往左往するだけで特に何もしていない。日呼は本格的に泣きはじめ、今里はそれらを見て笑った。

 もし神様とやらが存在するなら、これが自分へのプレゼントだ。喜先は存在しないと断言したが、少し信じてみてもいい。

 どうやら自分も決着をつける時だ。

 中途半端なまま、節目の無い透明なノイズが流れては消え、ボクだけが佇んでいる。

 病室を抜け出し、先ほどの夜間通用口へ。誰も居ない、さっきまで何も無かった道に彼女はやはりいた。

「……」

「どうした、今里真。浮かない顔だ」

 にやり、と。

 シニカルでニヒルでラジカルな顔。

 変わりに返事をしたのは、虫の声と自販機の立てる作動音だけ。

 まるでサブタイトルの無い映画を見飽きた、そんな気分だった。











ロゼクロ




1


 美女と野獣。現実はそんな二極で語られるほど退化してはいない。

 大多数を占める中途半端な人間が存在し、正義や悪を簡単には決められない。だから迷い、考え、答えを欲してあがくしかない。

 しかし、時に絶対的な真理、基準を持った人間が存在する。自分の価値観が全てにおいて上回る人間が存在する。

 それをわがままととるか、独創的ととるか。何れにせよ現代に馴染もうとすらしない、用意されたギブスに合わせて変わる事を良しとしない。

 それよりも性質が悪いのは、正義に正論で対抗する人間だ。独善的で決定的、しかしそれは正論である以上、間違いではない。だからこそ辿り着いたそこから完成に向かって一直線に走り出す。そしてそれは正しく見えるのだ。ギブスに合わせ過ぎた結果がもたらす最悪のケースとして、周り回った正しさの通常として、それはそこにいる。

 理想と現実の正解は、どこまでいっても交わりはしない。

 人には思考がある。生き方があり、価値観がある。それらを統合しようとする事がまず間違いであるし、そこから何も生まれはしない。

「大丈夫か、ほっぺた」

「ん? あぁ、大丈夫。赤くなっただけ。効いたのはそれよりも     」

 だからといって個人個人の思惑を全て叶えるだけの器量は世界に無い。だからこそどこかで人は我慢をする。迷惑を考え、自分のデメリットを考え、行動を決める。

 それは自分に嘘を吐く事、として無下にできない。何故ならこの世界を構成しているのが他人である限り、自分の立ち位置を見つけるのに努力を要するのは自明だからである。

「夜は冷える。今里真、もし君がまだ死にたいと思うならば     まだ間違いを認めるのならば、それは     」

「それは?」

「君じゃない。君が決めた事じゃない。人が君に介入して作り出した答えだ。もう羽束師事実と接した段階でわたしの負けは決定している。悪は正義に勝てない」

 深夜。公園にある唯一の電灯の下に設置されたベンチで二人は語らう。恋人同士に見えるだろうか。はたまた姉弟に見えるだろうか。

 どれでもない。それは受け取った彼彼女がそれぞれに考える事だ。

 人は他を理解するに至らない。一つではない。

 齟齬が齟齬を呼び、それを掛け合わせて関係を築く。最初から矛盾をはらんだ関係。

「まさか正義の味方が二人もいるなんて……。誤算だったな。皆本さんが言う詰めの甘さが出た。うっかりうっかりで済まないミスだ」

 足をぷらぷらさせ、寂しそうに笑う。

 絶望、ではない。好きだった店のチェリーパイの味が落ちた、くらいの残念だ。

 皆が皆、誤解を作ってくっついては離れる。そのまま平行線を辿り、いつかは破綻する。だからこそ我慢をし、自分の考えを照らし合わせる。それで正しいかどうかの判断を下し、行動に移す。そしてそれによって生じた責任を感じる。

 結果を、感じる。

「どうでもいいよ、もう。君はもう終わった。救えなかった。救えなかったんだ。わたし、君を救えなかった。残念だ」

「そんな事、言うなよ」

「謝れと言うなら謝るよ。体で払えっていうならそうする。何なら今から内臓売って金を作っても良い。君の人生に対する等価交換は、君が決めればいい」

「いい、いいよ。そんなの、どうだっていい。祐は間違ってなんかいない。ボクも、まだ終わってなんかいないんだ。これから、これからだ」

「そのこれからが問題だよ。始点で、大前提で間違えてるんだ。そこからいくら積み上げたって間違いは間違い。もう、無理なんだよ。諦めてくれ、今里真」

 樹上で眠る雀がざわめく。遠くでサイレンが鳴り、クラクションが伴奏を担当している。

 肌にまとわりつく湿気、蚊、熱。払いのけようにも次々と二人を引きずり込んで離さない。

「どうすればいい? 祐、ボクはどうすればいいんだ」

「どうしようもない。どうにかなってしまった後なんだから。遅すぎた。早すぎた。もう放っておいてくれないか。わたしはわたしの人生がある。でも君に対してどう償えばいいか分からない。所詮、身の程知らずのおためごかしだった。わたしは何も出来ないまま、ここで終わり」

 冷たく、突き放す。引いてくれていた手が、急に消えたような不安感。

 残された今里は絶句する。

「負け、なんだよ     今里真。わたしも、君も。人生は一回しかない。失敗は許されないはずなんだ」

 愛知は語る。

 毎日毎日、真綿で首を絞められるようにじわりじわり殺されていっている。手を払いのけてもまた別の手段で何かは自分を殺そうとする。負けたら最後、もう死ぬしかない。自分で決めた事に一度でも背いたなら、それ以後の人生はもう間違いでしかない。

「考えずに、死んでないだけの奴には分からない。君や、そいつらみたいな奴を助けようとしただけなのに」

「祐は間違ってなんか無い。ボクが保障する」

 今里は立ち上がった。携帯電話を取り出し、少ないながらも登録されたアドレスへと一斉にメールを送信する。

「何を?」

 問いかけに     彼は両方の八重歯を出して答えた。

「祐は、ボクを救ってくれたんだ。今度は、ボクが祐を救う。だから間違ったなんて言わないでくれよ。負けなんて認めないでくれよ」

 決意を表した今里の携帯電話が、着信表示のランプをけたたましく輝かせる。

 いつもと変わらないその光が、まるで相手の心情を具現したかのように荒々しく、猛々しく光る。アップテンポなメロディが、邪悪に染まる。

「もしもし、あぁ、うん。そうそう、だから一週間後、来週の土曜日を空けといてよ。なんでってなんでも何も前から言ってることじゃないか。そう、怒るなよ」

「……?」

「早くなっただけ。やっぱ死ぬからには自分が満足するまで、とか、後で残った人達の苦労が、だなんて考えないでさ、すっと誰にも知られず、誰にも迷惑かけずに消えていくのが一番だと思ったんだけど、ほら、ボクは良い人だから」

 まだスピーカーから叫び出る声を強引に電源ボタンでシャットアウトし、見下ろす形となっている愛知の顔へとまた笑いかける。

 少し前までは無敵に見えた。誰にも屈さず、誰にも介さず、誰にも絡め取られず。持っている武器が全て相手へのリーサルウェポンと化していた絶対的な破壊力も成りを潜め、突き崩されなかった牙城は田舎旧家の門扉よりも寂れて見える。糊の利いた襟はしぼみ、水色のスカーフは埃まみれでくたびている。相手を射殺す眼光も、落ちる事の無かった口角も、不敵に佇む御足も、全てが全て、磨り減ってみえる。

 メインディッシュを失ったひどく滑稽なフルコース。

「祐ってそんな可愛い感じだったっけ」

「急に何を訳の分からんことを」

「いや、なんか、失礼かもしれないけど     祐って完成してたんだよ。誰も入る余地がないっていうか。しかも周囲と関係する気も無いし、防御力も攻撃力も最強、みたいな。変える事が出来ないから恋愛感情抜きで付き合えるっていうか」

 三つ子の魂百まで。

「世界には色んな人がいてさ、祐や母宮、事実に日呼ちゃん。喜先さんや皆本先輩みたいに、そういう感じで     振り切っちゃった感じで生きている人がたくさんいるんだなぁって。ボクなんてまだバットも振れないのにいつまでもバッターボックスにしがみついてるみたいでさ、すっごいかっこ悪いなぁ、とか」

 八重歯も隠さずに。

「そんなボクも振っちゃおうって思ったのは、やっぱり祐のお陰なんだよ。だから祐にはいつもかっこよくあってもらいたい」

 惜しそうに、寂しげに笑う。

「祐が背中を押した時に、もうボクの人生は終わったんだよ。この何日か、すごいすごい楽しくて     数え切れないくらい楽しかった。ありがとう、祐」

 本当はもっと一緒にいたい。一緒に遊びたいし、みんなとも仲良くなって、遊園地に行ったりバーベキューをしたり、誰かが結婚したらお祝いしたり飲み会したり。仕事の愚痴とか考え方の違いとか話して笑いながら肩組んで歌って、また起きて遊んで。そういう普通の中でのハイエンドを満喫したかった。

「惜しいと、思う。でも祐がいなきゃ、楽しい事を楽しいと感じる事もできなかった。ましてや自分が楽しむなんて絵空事、出会えると思ってなかった」

 土下座に近い     お辞儀。

「ありがとうしか言えないんだ。一生を、この数日で味わったんだ。辛い辛いって死ぬよりも、楽しい楽しいって死ぬんだ。この世の誰よりも幸せな最後を     見るんだ」

「今里     くん」

「だからお別れだ。ボクは死のう。恐らくこの楽しさはいつまでも続かない。明日かもしれないし、来年かもしれない。死ぬまで続くかもしれないし、もしかしたら今もう楽しくないかもしれない。だから今なんだ。今しか無いってそういう事なんだった」

 少年が少女を見たのはそれが最後。まっすぐ、思い残しの無いように。


「さよならだ」


 直後、今里は走り出した。何処に?      自分の家にだ。

 後姿を見ていた愛知は、何も切り出さずに目線を下げた。膝が見え、地面が見え、何も見えなかった、見ていなかった世界に戻る。

「こちらこそ、ありがとうだ」

 掛け値無しに心の全てをお礼に込めた。

 自分を守り、相手を守り、そして救われて救った。等価交換を自分で体現した。愛知の一歩先を     進んだ。

 空中に浮遊したまま誰にも見てもらえない誰かが、きちんと地に足をついて間違った事を認めない。どれだけ負けても、納得をしない。

 分かって欲しい、信じて欲しい。それによって周りが変わって欲しい、自分だけが楽しくなりたい。その上で皆が楽しければ     それが。

 それこそがハッピーエンドだ。誰に何を言われても構わない、なんて免罪符は必要無い。誰に何も言わせない、誰もが納得する答え。

 誰もが受け止めざるを得ない、答え。


「お疲れ様でした!」


 愛知は言わずに居られなかった。

 人間はテレパシーじゃない。目と目だけで通じ合えない。

 だから話すのだ。言葉にするのだ。伝えるのだ。分かってもらうために、分かりやすくするために。

 以心伝心を期待するほど、彼女はわがままじゃない。




2


 夜は早く、日は昇る。時間は誰とも話さずに     それでも過ぎ、いつの間にか明日が今になってまた昨日になる。

 だから過去も今も明日も大切だって言えるくらいには傲慢でありたい。好きになれない時間を作る事に嫌悪感を覚えたい。無駄な時間を減らすのではなく、無駄な時間ですら自分で選んだのだと覚悟を持って接したい。

 それは極めて理想的だ。間違った人間にはもう歩めない、不屈の精神の道だ。

 諦めた人間の形をしたものが足を引っ張りに来るだろう。現実はそう甘くないって突きつけるだろう。君の鎧を剥ぎ、口先だけを達者にして正論を並び立ててくるだろう。納得を誘発し、間違えを正当化した嘘偽りの道に引きずり込むだろう。

 負けてはいけない。諦めてはいけない。

 いつだって世界には君がいる。少ないけども、間違っているとされるけども、十全を携えてどこかに存在する。

 いつだって時代が移り変わるように、流行が移行するように、世界は変わるようにできている。いまだ戦後から百年も経っていないのだ。その変化を見る限り、それはそう遠くない。

 間違えが許される生活に甘んじている、それが正解だと誤認している世界に風穴を開けるべく、崇高を普通にし、理想を現実にする。

 有るがままならば思い気のままに。

 生まれた日の歌をもう一度、世界を揺らすような大きな声で。

「うぉ、葬式って高いんだな」

「それ家族葬じゃないでしょ。それにボクまだ死んでないし、生前葬って事になるのかな。母宮のおばさんの居酒屋は?」

「あぁ、うちは駄目だろ。それならどっかのコンサートホールみたいなん借り切れよ。うちでやったらあの人泣いちゃってえらい事になるぞ」

「じゃあさ、じゃあさ、学校は?」

「馬鹿か。おい、この馬鹿女にシュールレアリズム教えてやれ」

「兄ちゃんがいいなら学校でいいですけどね。喜先さんに対してちょっと冷たいですよ」

「さすがに学校はなぁ。皆本先輩、何かいい案あります?」

「そうね。結局、お坊さん呼ばないならさっきみたいに居酒屋でもホールでもいいと思うけど、やっぱり最低限のモラルはいるでしょう? だったらどこかの空き地とか道とか」

「おーい、年の功無駄にしてるぞ」

「月助! うちは? うちは?」

「無理に決まってるだろ! それなら今里ん家でいいじゃねぇか!」

「それ、いいね! 今里くんの本まだ貰えてないし、取りに行くついでで!」

「あ、ボクのお葬式ってついてなんだ……」

「じゃなくて! メインはそっちで、ついでがプレゼント!」

「月助ぇ、お腹減った」

「黙ってろ、後で何か作ってやるから。それより本当の葬式だってしなきゃいけないだろ。そんなただのお泊り会と変わんねぇもんより」

「兄ちゃんお金あるの?」

「まぁ、祐が手配してくれてたのは秋だしなぁ。予定早めるっていけるのかなぁ」

「ていうか葬式会場の予約ってなんだよ。よく取れたな」

「おれらのカンパで足りるのかなぁ。でもそういうのってほら、市とかの指定じゃないの?」

「財産分与するほどの財産無いしね。無縁仏にする事も考えたけど、やっぱり母さんも父さんもそういうわけにはいかないみたいで、死ぬなら葬式代は出しなさい! だって」

「私達でバイトするしかないね。今里くん、カンパ元手に株式投資してみたら?」

「それならあたしがやる。趣味でやってるし、勝ってるから」

「おぉ、眼鏡光ってる。悪そうな顔してんなぁ。あんたさ、本当は根が悪人なんじゃねぇか?」

「月助ぇ」

「分かったっつってんだろ! アメあるからとりあえず舐めとけ!」

「もう! 母宮くんうるさい! なんで妹にそんな冷たくするの? 私とか皆本先輩にも! あ、もしかして、あれ? 男の人の方が好きとか、そういう! きゃー!」

「勘違いすんな! 羽束師、今里! ケツ隠すな!」

「月助ぇ!」

「違うっつってんだろ! ノーマルだ!」

「そういうの、嫌いじゃないよ」

「てめぇ先輩なら後輩止めろ。文学シスターズはすぐ傾倒して啓蒙されやがる」

「ははは。お葬式代はじゃあそういう事で。で、今週の日曜は? ボクん家?」

「が、妥当じゃねぇかな。金の件は     悪眼鏡先輩が無理でも全員バイトしてりゃ何とかなるだろ」

「悪いねぇ。いつ死ねばいいかな。葬式直前? それとも死んだ後って保存できるの?」

「いや、でもそんな死体何日も隠すの、良くないでしょ」

「良くない! 良くない! 月助が食べる!」

「食べるか! サイコに仕立てあげんのやめろ! どうしたってお前らは俺を倒錯者にしたいようだが、いたって普通だからな!」

「どうかなぁ」

「どうかしらねぇ」

「なんだか母宮さん、女性陣に人気無いんですね」

「たまらん。そういうのは今里にしろよ、こん中で一番おかしいんだから」

「ちょっと、こっちに矛先向けないでよ。ボクは今、愛を噛み締めてるんだから」


 笑顔は絶えず、明日も今も。

 死ぬまで。

 皆さん、笑っていますか?












終わり


自分で書いててこの結末は震えるほど笑った。

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