ハゲの中身
沢蟹しか食べてません。
サンレゼ
1
陳腐に聞こえる事を覚悟して 羽束師事実は特別な人間だ。
彼と同じ中学の人間は彼を不良だと揶揄し、違う中学だった人間は彼を優秀だと評価する。教師陣からは次期生徒会長を期待されているし、スポーツ関係から引く手数多ならまだしも文化クラブからの勧誘も今だ止まる事が無い。
羽束師事実が特別な人間である現状には訳がある。
彼は勝利中毒者だ。同時に努力依存症でもある。夢は必ず叶う、と真顔で信じていて、その上で他人にも強要できる精神を持ち合わせている。
さらに結果を伴わない努力を無駄、と一蹴する。途中で妥協点を見つける事を良しとしない。
「おれは一番になりたい。なりたいと思うから、なれるまでやるだけ」
一言で表すなら頑張り屋である。しかし、その頑張りは時として天才を更に飛躍させ、異常さを生む。
高校入学時から試験は満点以外を許さない。運動は全国一位以外を譲りたくない。もちろん空を飛ぶだとか水の上を走るだとか 不可能な現象を除いて、ではあるが。
自分の向かう道で、自分とは違う人間が前を塞いでいるのが気に食わない。
鏡を裏側から見る景色に近い歪つさが、彼の周囲には振りまかれている。乱反射の錯覚が彼に関わる人間を惑わせ、失望させる。
努力すれば夢は叶う。
それを現実にしてしまう存在に、人々は畏怖する。そして迫害を重ね、やがては無視へと行き着く。自分の惨めさをこれでもかと自覚し、ただ死なないだけの動物へと成り下がる。
今里真を除き、彼が出会ってきた人間らしき生物は須らくそう表現できた。
やがて兄の周りに集まる人間が、羽束師を『人間』として扱う才能を持っていると分かった。
「類は友を呼ぶ、とか。母宮さん、おれはその言葉をちょっと信じそうになってる」
時間は夕方、高校入学と同時にクラブ活動と一切の縁を切った羽束師を待っていたのは、三人の『人間』だった。
校門の前で固まっている彼らを見て、最初は別々の待ち合わせをしているんじゃないか、と疑念を抱かせる違和感が濃かった羽束師だが、母宮の一声により自分の周囲に集まってくる他の二人の素性を知って納得した。
あぁ、やっぱり。兄ちゃんの周りには『人間』がいる。
「だからよ、羽束師も今里がいなくなんのは嫌なわけだ」
「そうですね。おれは兄ちゃんが好きだから、いなくなるのは嫌です」
夕陽が燦々と照らす帰り道、取り合えず学校から最も距離の近い母宮の家へと四人は進んでいた。羽束師としては自分の家とは正反対の方向へと向かうわけで、あまり気乗りはしない。
まずは自己紹介をしてほしい、と羽束師は願い出た。
「喜先。喜先明日香。母宮くんと今里くんは同じクラスで、私が今里くんの自殺を止め隊のリーダーだよ」
羽束師の第一印象としては、日本語のあまり得意では無い先輩なのかなというものだった。一方、もう一人の理知的な女生徒は、
「皆本幾絵です。図書委員をしていて……別に今里くんが死のうが何しようがいいんだけど、ちょっと気になる事があるからここにいる」
と顔も合わせずに述べた。
果たして最も後輩である自分が主導権を握るべきなのか、それとも先頭を歩いている母宮に任せるべきなのか、判断を保留として羽束師はアスファルトを踏みしめている。
なんとも まとまりの無い集団である。
「で……、その『今里くんの自殺を止め隊』 っていうのは、そのままの意味でいいんですかね」
「そうだよ! 羽束師くんも今里くんがいなくなるのは嫌だって言ったしね!」
だからといってその訳の分からない集団に組み込まれるのは、いささか彼の中の何かが引っかかるところではある。
和気藹々にも取れる態度に、羽束師としては喝を入れて怒りたい所なのだが、母宮の放った一言がそれを食い止めている。
「今里をどうにかできんのはこいつらくらいだしな」
何気なく、会話の合間に挟んだその一言。羽束師を『人間』として扱わない有象無象の世界で、真っ直ぐ彼自身と接してくれている人間。
浮かれているように見えるのは、もしかして無理にそう気張っているからではないのか。
「そこ。その角んとこ」
閑静な住宅街と言えば聞こえはいいが、都市開発の煽りを食って放置されたままの郊外地域である。学校から徒歩二十分、母宮の自宅は五叉路を北に入り、二つ目の通りの角に建っていた。目の前は、不自然に出来た空き地が月極駐車場になっている。
宅地開発の建売住居が並んでいる一角は、そこだけ綺麗に整備されていて、却って目立っていた。
「親は仕事だし、妹は部活で遅いから まぁ、ゆっくりしてけ。そこ、トイレの横が俺の部屋な。飲み物持ってくる」
何度か訪問した事のある羽束師は勝手知ったるとまでは行かないまでも、玄関を開けてすぐ右手にある部屋の扉を開けた。
「うわ。そういや私、男の子の部屋って初めて。ねぇねぇ皆本先輩、やっちゃダメな事とかあるのかなぁ」
「さぁ。あたしもほぼ初めてだから」
鍵のかかっていない部屋の扉を開けると、閉め切られていた部屋の熱気が、湿気を伴って三人を襲った。羽束師がまず引き違い窓を開け、空気の入れ替えを行った。八畳ほどの部屋はそれなりに片付いており、中央に置かれたガラス机を三人は囲んで座る。
ベッドを背もたれにしていた喜先が、興味深げに部屋を見回す。
「なんか、案外ふつーかも」
「何を期待してんだか知らないが、俺はふつーだ」
扉が開き、盆に麦茶の杯を四つ乗せた母宮が反論する。氷が揺れ、からんと瑞々しい音を立てて涼しさを誘った。外気を取り込んだとはいえ、まだ嫌悪感を滞留させている室内に少し眉を細める。
そろそろ部屋にクーラーの導入を検討しなければいけないかもな。
「で、ここに集まったっつーのも色々あるわけなんだけど、喜先。取り合えず今里がどうにもダサいっぽい事しよーとしてんのを止めたいわけだ」
テーブルの上にゆっくりと盆を下ろす。各々が手に取り、コースターも置かずに天板ガラスの表面を濡らした。
話題が深刻になり、密度を伴って進行する。麦茶からではない冷たさが背中を駆け、首筋に垂れた汗がやけに暖かく感じられた。
「でも俺は迷ってる。確かに今里が自殺すんのは嫌だし、間違ってるとも思う。でもあいつ自身がそれを『進んでる』っていうんなら、俺らに止める権利なんつーもんがあんのか? それってただのわがままだろ」
「でも、間違ってると思う母宮くんを『止める』事だって、今里くんのわがままじゃない。今里くんは分かってない。周りが見えてない。ちょっと熱くなってるだけなのよ」
「だからってどっちもがわがまま通してたらかち合うだろ。なぁ、羽束師」
「いや、おれは母宮さんの言ってるのも分かります。現に兄ちゃんだって自分がおかしいって言ってた。でもおれは兄ちゃんがいなくなんのは嫌だ。それでいいと思うんです。もしこれが知らない人間ならおれだって勝手にしろって思います。でも、兄ちゃんだ」
手の中のコップを見つめ、羽束師の声が確かな決意を持って発せられた。
兄ちゃんがいなくなんのは、嫌だ。喜先さんが言う通り、兄ちゃんは熱くなってるだけだ。おれらが見えてない。
「おれらに心配されてる自分の価値が分かってない。心配する人間が一人でもいる限り、止めようとしてくれる奴が一人でもいる限り、自殺なんかしちゃいけない」
言い切った羽束師に、それまで口を噤んでいた皆本が、
「話、ちっとも進まない」
ぼそっと一言、一石を投じた。
「みんな、本当に自分がしようとしている意味、分かってる?」
厳しい叱責。他の三人が感じている焦慮は、皆本も同じだ。ただ彼女の場合、そのベクトルが自分に向いているというだけで。
彼女の分析はある程度、終わっている。この三人の関係、今里の自殺に対するスタンス、そしてそれぞれに共通している感情。
取捨する段階に入った皆本の解答は早かった。
「あなた達は自分の事ばっかり。母宮くんだけはまだ今里くんの事を考えてるけど、喜先さんと羽束師くんは自分の事ばっか。しかもそれが悪いと思ってない。自己中心的で浅はかな子供の考えだわ」
「ちょッ !」
「それは、」
「違う? あたしにはそうとしか聞こえない。もちろん、我を通すのは悪い事じゃないし、抑えられない、理解できない部分で今里くんを止めたいのは分かる。でも、そうじゃない。このままじゃ話なんか進まないし、今里くんがそれこそあっさり自殺するまで何も変わらない」
どうしてあたしはこんなに説教臭い台詞を吐いているんだろう。たかだか一つ年上なだけの立場を利用して、後輩に熱くなるだなんて。
「『止める』なんてもっての他。あたしは『知りたい』。どうして今里くんがそんなことを言ったのか。どうして彼がそこまで死にたいのか」
滝のように流れ落ちる言葉の海の中を、取捨選択すらできない速さで駆け上がっていく鮭のような疑問が皆本を包む。こんなにも自分が喋れただなんて。こんなにも自分が熱くなれただなんて。
「彼が前向きに死ぬんなら、止めたいとも思わない。でも、何も知らないままで結果だけを知らされるなんて」
納得できやしない。
あ、そうか。
あたしは彼と同じように、でも中身のまったく違う形で
「死にたくなる」
死にたかったんだ。悩んでいた自分よりも、何も考えていないと思っていた後輩に先を越されるのが嫌だったんだ。だから知りたいと思って、続きたいと思う。
「結局、傍観するしかない。見守るだなんて綺麗な言葉で飾ってるけど、それは何もしないのと同じ」
「皆本さん、ちょっと言い過ぎじゃねぇかな。こいつらだって何も自分のわがままばっかで今里を止めたいわけじゃねぇと思うよ」
睨む母宮が皆本を制する。その眼光に射抜かれたがごとく、濁流は止まった。
それが最後まで話をさせた結果の制止だとは分かっている。
「……そうね、ごめんなさい。あたしも自分の事ばっかりなのは分かってる。でも、考えて欲しい。自分のわがままを押し通そうっていう事が、どれだけ辛いかって」
「そりゃあ今里にとっても同じだな。あいつと同じとこまで行かないと、理解すらできない。しかも上とか先とかじゃねぇんだから、マジ八方塞り」
立ち上がり、勉強机の椅子に彼は腰掛けた。背もたれを抱き、だらしなく体重を預ける。軋んだスプリングの立てた閑話休題の音色が、顔を伏せていた二人への叱責を断ち切る。
「こん中であんただけ、今里とおんなじとこにいるみてーだな。でもあいつの考えてる事って、そもそもなんつーか、似合わねーんだよ。あいつはなんつーか、そういうんじゃないの」
喜先が応える。
「確かに、今里くんはそういう人じゃない。ただそこにいて、でもなんだか周りを見てて、何も無いのに笑ってて、気付けるところには気付ける。そういう人」
非難された衝撃もあってか、涙と共に堰は切られた。
「私なんかとは違う。ちゃんと見てて、ちゃんと考えてて、ちゃんと気付けてた人なの! 私と違って、ちゃんと生きなきゃいけない、こんな分かれ方じゃ、私は嫌!」
「おい、落ち着け。喜先、お前はまた 」
「落ち着けないわよ! 皆本先輩の事も、母宮くんの事も、羽束師くんの事だって今里くんは知ってる! 気付いている! でも無視してる!」
その黙殺は喜先にとってとても耐えられる拷問ではなかった。彼を見ていた自分と、彼が見ていた自分とが釣り合っていない。取捨選択の、捨てられる部分でしかない。
自分の事よりも大事なものがあり、何の打算も無くその為に動ける。彼に感じていたそういうヒロイック性が、今の彼には微塵も感じない。
「私だって、今里くんにとって大事じゃないって知ってる。気付いてる。でも、そうじゃない。私が知ってる今里くんはそうじゃない」
「似合わないっていうなら、兄ちゃんがおかしいのはおれにだって分かりますよ」
「羽束師、お前も火に油注ぐな」
「母宮さんも分かってるでしょ。兄ちゃんが兄ちゃんじゃなくなった事くらい。あれは、兄ちゃんじゃなかった」
今朝、今里を殴ろうと振りかぶった瞬間を思い出す。まるで別人のような笑顔。この世の全てを見下ろすのも飽きてるような、まったく別次元の違和感。
「これでも子供の時から兄ちゃんを見てるんです。兄ちゃんは確かに普通じゃない。何も知りたくない人間には普通に見えるけれども、おれや、兄ちゃんを見ている人間には分かる」
真意が的確に言い含められた発言だった。深みにはまり、抜け出せなくなっていた思考が解きほぐされる。絡まりあった渦の回廊を、無我夢中で破壊していく。
「あたしが今里くんを見たのは昨日からだからね。それに関しては何も言えない。あたしも彼が普通だと思ってた。いくらでもいる人間のフリした奴の中の一人。でも、違った」
「その前の兄ちゃんを知ってる人からすれば、更に気味が悪いんですよ」
今まさに感じている重厚な壁を拭い去るかのように、羽束師は額に浮いた薄い汗を払った。
「まるで何かに操られてるような……、誰かが乗り移ってるような、そんな感じがするんです」
今朝、自分が見た表情はいったい誰のものだったのか。兄が浮かべるはずのない表情。知っている人物が違った人物へと変貌する瞬間。歪つに絵がかれた子供の似顔絵のように、見る方向が違えば異常に映る作品を喚起させる。
また無言が落ちた。蝉が放つ断末魔の求婚だけが轟き、風鈴の美しい調べさえも打ち消してしまいそうな奔流に包まれている。
切り出したのは母宮だった。
「とまぁ、ここにいる奴らは全員、どっか違う方に向いているわけだ。まぁそりゃあそうだ。俺ら他人だしよ」
応える声は無い。
「もちろん俺と今里も違う人。だからあいつの考えてん事も分かんねーし、あいつの言う『進む』が俺にとっちゃ『逃げる』に見える」
人の見る世界はそれぞれに違う、という逸話を母宮は思い出していた。
自分の見ている青色は他人の見ている赤色かもしれない。しかし、それを確認する事が出来ない以上、比較する事が出来ない以上、否定も肯定もできない。
まさに八方塞り。言い得て妙とはこの事であった。
「とにかく夏が終わるまではあいつは死なないらしいし、チャンスはある。第一回はこれで終了ってことで。いいかな、先輩も」
「あたしは、別に。喜先さんと羽束師くんは?」
「おれも、このままじゃあ堂々巡りだ」
顔を伏せて静かに、喜先も首肯した。
「よし。これで今日はお終い!」
そのままだらだらと惰性で遊びが始まるわけでもなく、四人はそれぞれ言葉も発しないままに母宮の家を後にした。家の中よりも直接的な熱を感じる夏へと、三人は帰っていく。
一人、母宮を除いて。
見送った三人の閉めた扉を見つめていた母宮は、下に向け 相貌を消す。
彼は待っていた。
「やっぱりな」
ドアノブが金切り声を立て、ゆっくりと時計に続く。秒針も分針も持たないそれが、まるで目覚ましベルのように彼を起こした。
開き、隙間からまず光が入った。続いて寒暖差が生む風が外へと飛び出し、軋みの無いドアがスムーズに外出していく。
「喜先」
別れた友人の名前を呼び、再び現れた無気力な女生徒を揺さぶる。
「お前だけ、まだ本音言ってないもんな」
びくり、と。肩が震える。同期された思念が大理石タイルの玄関口で鳴動し、吹き消された静寂を惜しむ間も無く埋め尽くす。
それは『始まり』によく似ていた。
「母宮くん」
隠している心奥の森丘から静かな囀りを、母宮は聞き逃さんと微笑む。
「私、今里くんが好き」
うん、と母宮は頷いただけ。
「私は、今里くんが好きなんだ」
また相槌を送る。
喪失を感じた焦りが木霊する。
小さい少女は涙と共に崩れ落ちた。
2
母宮宅を離れ、始めの交差点で三人はそれぞれ別の道を歩んでいった。
後ろを振り返らせようと髪を引く魔の手に打ち勝ち、道連れを囁く声を祓い、皆本の足が力強くアスファルトへ何度も突き立てられる。
果たしてこれは『進んで』いるのだろうか。
自分自身はこれを『進んで』いると分かっている。しかし、何も知らない他人が見ると、これは『帰って』いるともとれるし、『向かって』いるようにも見えるだろう。
見方を変えれば、当然そのものが持つ意味も変わってくる。
全てを知らずに他人と関係しようとするなんて、あたしはごめんだ。
自分の勘違いで余計な恥をかく道化になんてなりたくない。
だから彼女は自分が『進んで』いる事を識っている。
「暑い……」
夏も終わるというのに。
交差点を過ぎ、大通りとも言えない二車線道路に沿う歩道を踏み鳴らす。やがてドレスや礼装の貸衣装屋の看板が見える。その角を左へ。
それなりに車の多いはずの通りから、それなりに広いはずの通りへ。どうしてだか車の数は激減し、知りたくも無い理由を模索する暇潰しへと変わる。
待っている車両もいない信号を平然と無視し、反対の歩道へ。
黄色いエクスクラメーションマークで事故多発地帯を警告する標識を掻い潜り、赤い紅い空を背景に見上げた先は、心臓を破られそうなほど急な上り坂が存在していた。
彼女はここへ初めてやって来る。
いつか、普通だったはずの後輩が言っていた事を思い出していた。
先輩、ボクはいつも帰り道にあるすんごい坂が好きなんですよ。
あまりにつまらない世間話だったので、皆本は本の整理や貸し出しカードの判子を押しながら血圧を高めたものだった。
海馬に潜り込んだそれ、引きずり上げた記憶を 捨てたはずのゴミ箱から拾った答えを、デフラグにフォーマットを重ねた失ったはずの情報を、彼女は一人で噛み締めた。
坂の麓には忘れ去られたような自販機があった。その隣には営業しているのかどうかすら分からない、立ち寄るにもそれなりの覚悟が必要な屋台がある。そこだけは極彩色な『かき氷』の旗が眩しい。
あまりの暑さに炭酸系統の飲み物を購入しようとしたが、ボタンを押す寸前にカロリーを気にして緑茶を選択する。
重い、鈍い音。ペットボトルに封入された濁る液体を、皆本は飲み込んだ。後味の苦さが少しだけ、暑さを遠ざける。
これからこの坂を上らなければいけない。
ふとそんな使命感に突き動かされた。
それは山があれば踏み込もうとする、目的と手段が合致した衝動ではない。この坂を、この時間に歩くとするならば。そこにいるであろう人物に会えるかもしれない。あくまで坂を上るのは過程なのだ。
どうせなら涼しげな樹に囲まれた公園とかにしてくれればいいのに。
後ろの道路を古びた軽自動車が一台、通り過ぎた。太陽を反射する水色の車体に連られ、大きく湾曲した坂の一歩を、やっと踏み出す。
会わなければいけなかったから。
そして彼の真意を聞きだして、自分の至るべき行動を取捨しなければいけなかったから。
登り始めると、坂は意外な程に急ではなかった。足に疲労を感じるわけでもなく、かといって易々と次を繰り出せるわけでもなく。見た目ほどではないというだけで、それは実際にそこに存在する坂だから。
この坂を『登って』いるのか。それとも『逃げて』いるのか。
自問自答をすぐに終わらせられる必殺の解答を隠し持って、それに気付かないふりを続ける。繰り返し、繰り返し、直らない病気のように。子供だってもう少し物分りいいだろう。
やがて首筋を流れる雫を感じた頃、皆本の視界に人影が入り込んだ。
その人物は座っている。道路と歩道を隔別するコンクリートとモルタルのブロックに腰掛けていた。皆本がお茶を買った自販機よりも更に古そうな箱の前で。
彼の飲んでいるのが有名な炭酸飲料である事は色で分かる。相手はまだこちらに寸分も意識を割いていないが、彼女の脳内では嵐が吹いていた。
その嵐の中、静かに立ち尽くす自分を見ながら。
「今里くん」
声を発する。
「……あれ、皆本先輩、ですか?」
変わらない。去年と、今年と、先週と。
何も変わらない、ただそこにいるだけ。制服と私服の違いはあれど、苛つきを持たせる程度の迷惑くらいしかかけない、人畜無害そうな、自分が不幸になる事に敏感で、幸せになるのを拒絶して、ただ今を生きているだけ、死んでいないだけのような、そんな目線と。
変わっていないはずなのに。
「久しぶり、……ってほどでもないか」
「え? あ、はい。たぶん、はい」
驚いているのだろう。言葉が上手く出てこないようだった。
「皆本先輩ってこっちの道、通りましたっけ? あ、なんか用事あるんですか?」
用事なら今、始まったところだ。
「あなたに会いに、来たのよ。あんまり良い意味じゃなく」
「はぁ……は? ボクに? えっと」
「いいわ、座ってて」
距離を詰め、はっきりと相手の顔を確認する。他の三人が言ったように、彼が変わっているとはどうしても思えなかった。惚けた表情も、すぐに圧迫される許容量も、何も。
「その、はい」
「何の返事? 今里くん、何も無いのに返事だけするの、すごく疲れる」
「は、はい。すいません」
だから。
もういい。
「母宮くんと、あと喜先さん。羽束師くんとも喋ったわ」
「へぇ。それは、なんというか。変な奴らだったでしょう? あれ? 喜先さん?」
「そう、喜先さんも。なんだかとてもあなたの自殺を止めたいそうよ」
会話の端として挟んだ言葉に、今里はやけに意外そうな手応えを感じたようだ。
照りつけていた陽はやがて西に折れ、影を伸ばして地表を染める。夜とバトンタッチするのを拒んでいるかのように、いつになっても激しく燃えている。
「ははは、そうなんですか。やっぱり母宮も事実もいい奴だなぁ。喜先さんまでボクの心配してくれるなんて」
「……あたしは止めない。けれど、知りたい。どうしてあなたは自殺なんてしようと思ったの? どうして急に変わってしまったの?」
今里の呼吸音が蝉の歌に掻き消される。
「皆本先輩って、自分が間違ってしまったって思ったこと、あります?」
切り出された言葉に少女は顰めた顔を浮かべる。
「質問に質問で返されるのは嫌いなんだけど」
「すいません。でも、それが答えなんです。間違えてしまったから、それを正せないから死ぬ。もちろん自分の性格とか容姿とか、将来とか夢とか、そういうのもほんのちょっとだけありますけどね」
冗談めかしく指でその配分を表した。
「小学校の時ね、何でだか知らないけどイジめられていた事があります。学校に行ったら、それまで普通に話していた奴らが一斉に無視して、ボクの机に落書きとかして。持ち物隠されたり捨てられたり」
「その時も死んじゃいたいと思った?」
「思いました。でも、死ねなかった。自分が間違ってるとは思えなかったから。疑問だけがあって、辛いのは物理的なものだったから」
乗り越えられたのはその為だ。そもそも理由なんて無かったのかもしれない。ただそこにいただけ、気弱そうな奴がクラスにいたから。それだけだったかもしれない。
「中学に入ったらあたかも無かったかのように、すっぱりと」
始まりに理由が無いから終わりにも理由が無い。飽きたのかもしれないし、行動の無意味さに気付いたのかもしれない。同じように、それまでと同じように。
「でも今回は違う。高校生って、大人からすれば子供で、考えがやっぱり足りなくて、知らない事も多くて、ボクらの考えなんて笑い飛ばすか気にしないかくらいにしか扱われてないんですけど、自分の事だけはよく分かってます」
「その価値観だって、大人になれば変わるはずだわ。知らない事を知って、行きたい所に行って、自分の考えが真逆になる事だってある」
こんな寂れた街なんか飛び出して。
「今里くんが自分を間違ったって思った、それすらも覆すほどの可能性が未来にはある」
根底から、全てが裏返る危険性が、時間にはある。
「それでもあなたは今の自分が間違ったって、そんな理由で死ねるの?」
期待していた愛の無い病は、皆本の願望でしかなかったのか。
今里が顔を上げた。逆行になっていて見えない皆本を見つめ、
「だったら今のボクが死んでるのと同じじゃないですか」
笑っていた。泣いているみたいに。
赤い缶をあおる。飲み干した言い表せない多くの意味を、自分の心に落とし込んだ。黒い液体と共に、黒い自分を。
「テストの問題を間違ったとか、待ち合わせの時間を勘違いしてたとか、そういうのじゃないんです。もっと、根本的な、自分に関する部分で、ボクは間違ってしまったわけです」
二の句が継げない皆本を畳んでいく。
「皆本先輩もそうでしょう? 自分がこの時代とか、場所とか。そういうのにそぐわないって。そう思ってる。自分が似合わないって」
莫大な時間に殺されないように生きていくだけ。
膨大な希望に押し潰されないように、逃げていくだけ。
「心にこびりついた『もしかして』っていうのを全部、捨てたんです。それで、もう一回、頭を空っぽにしてみた」
今里が立ち上がる。飲み干したアルミを握って凹ませ、容積を少なくしてからゴミ箱へ慎重に押し込む。
「ボクは生きていくのに向いてないって。生きなきゃいけない時代じゃない今に、向いてない」
「そんなの、本当に逃げているだけよ」
「いえ、これは進んでいるんです。死ぬのは終わりじゃない。まだ途中なんです。そこで終われない。終わるのはボクだけど、ボクが死んだだけじゃみんなは終わらない」
自分がそこまで大きな存在だなんてお世辞にも言いたくない。
「だからボクは死んでもいい。死ぬのは許されてる手段の一つでしかないんです。何も知らない振りをまた続けるか、一念発起で世界を変えるか。それか今の自分を最後だと思うか。死ぬのが終わりだと思ってる人からすれば、ボクは異常なんでしょうけど、それが方法でしかないボクからすれば、自殺は生きる節目です」
ポケットから携帯電話を取り出し、サブ画面で時間を確認する。明るすぎて見難かったのか、掌で光を遮っていた。
「ボクはもうそろそろ行きます。晩御飯の時間に間に合わなくなっちゃう。そうそう、やっと晩御飯を作ってもらえるようになったんです。しかもボクの好きなメニューが毎日。良くないですか?」
うきうきとしたその場面だけ、彼は普通に見えた。
「最後に一つ。いい?」
「はい、なんでしょう」
「どうして涼しくなったら、なの?」
問いかけに、今里は今日一番の笑顔を見せた。
「だって、暑いとお葬式とか三回忌とか、そういうのに来る人がかわいそうじゃないですか」
どうせ自分で死ぬなら。
死んだ後の迷惑も考えないと。
それでは。
失礼します。
頭を少し下げ、彼は立ち去ってしまった。
自転車に乗っているわけでも、走って行くわけでもない彼の背中に、今なら追いつける。ほんのちょっと足を速めれば、彼の肩に手を伸ばせる。
しかし、皆本には出来なかった。
彼女の震える足では、とても追いつけそうになかったから。
ペットボトルの結露が、一滴二滴。アスファルトに敵うわけもない水打ちを放つ。
夜にはまだまだ時間がかかりそうだった。
3
夜ってだけで楽しい、と昔は思っていた。
自分が夜行性の生物だから、陽の光に当てられて見なくてもいい自分の嫌な部分を見せ付けられるから。
でもそれが違うと気付いたのはいつの事だったろう。
ふとした瞬間に思い立ったのかもしれないし、熟考を重ねて吟味した解答だったのかもしれない。もしかすると世界の真実に一歩近づいた、と確信を形に出来たのかもしれない。
でもその行き着いた先がもたらした結果は散々なものだった。
自分は夜行性だなんて綺麗な、儚い生物じゃない。日陰でしか生きられない、それに誇りすら持てない有象無象の一つだなんて。
気付かなければよかった。
知らないまま過ごしていたかった。
何も分からないまま、『それなり』の魔法から抜け出せないまま、ボトムを感じる事の無い幸福と、トップが見えない不幸を抱えて死んでしまえればよかったのに。
「祐がボクに教えてくれたのって、もしかして不幸な事かもしれない」
それが本心では無い事も分かる。分かっているからこそ愛知祐はただ微笑みだけで応えた。
今日のメニューはカツ丼だった。揚げたてのカツを御飯に乗せ、卵を半熟にした出汁をかけた一品。カツを綴じていない、衣の食感を楽しめるこの今里家のカツ丼が、真は好きだった。
そこに三つ葉を散らせ、汁物には粕汁がついてきた。胡瓜の糠漬けに茄子の浅漬けも添えられていて、豪華な食事だったと思う。
景観鑑賞から帰宅し、腹がいっぱいになるまで詰め込み、部屋で少し休んでから彼はまた家を出た。夜の帳が顔を隠す。あたかもそれはいつも無意識に彼がとっている防壁のようだった。
街灯の間隔が広い住宅地を通り、少し広め(といっても中央線も無い道だが)の県道に出る。道なりに西へ数分、さらに北へ数分進むと、深夜でも光々と煌く幻覚のようなコンビニエンスストアが鎮座していた。
田舎である利点として駐車場だけがひどく広く、店舗面積の三倍はある空間に車は止まっていない。
「君ってすごく残酷だよ」
店舗の裏手が山になっており、そのちょうど光の当たらない場所に少女は立っていた。
時間は既に十時にさしかかろうとしているのに、その姿はまだ不自然にも制服を纏っている。青い 水色の襟カバーだけがぼぉっと宙に浮く人影は、遠くから見ると不吉な狼煙にも受け取れた。
業務用廃棄物入れとして使われているイナバ物置と店舗の間、監視カメラの死角と電灯の照射範囲の外に、彼女は立っている。
ボクと同じ日陰の生き物である彼女は。
「祐が教えてくれたのはすごく不幸だって事。そしてそれがいわゆる幸せだって事」
「買い被りすぎ、かな。あなたはそれに自分で気付いたし、わたしがした事なんてほんの少し、指先でほんの少しドアを押してあげるのを手伝っただけ」
「それで充分だったんだ。ボクにとって最初の一歩っていうのは自分ではもう進めないくらいに行き詰まってた。君がボクの中で自由に動き回るみたいにさ、必要なのは最初の一つ目だったんだ」
祐の表情に変わりはない。顔に張り付いてる薄い、相手の警戒心を根刮ぎ奪っていく幽かな笑み。口から漏れる言葉は天使の囁きに似た綺麗で澄んだ声。
「気付けない人はいつまで経ってもそこにいる。だってそこも幸せなんだもの。わざわざギャンブルなんてする必要があるのは、幸せに満たされないひねくれ者ばっかり」
祐は指先で地面を、正確には今里の足元を示す。
「大事なのは根本を疑うくらいにまで自分が嫌いな事。そしてそれ以上に自分が好きになってしまう事」
「分かってる。分かってるよ」
「自分の事を知ってるのは世界であなただけなんだから。見えない所で何をしているか分からないから情報を欲しがるし、相手を手に入れたいから暴力がある。それが自分にも存在するから欲が出るし、相手に強制するから 」
「 自由がある。でしょ? 何回も聞いたよ。大丈夫、分かってるよ」
うんざり、ではない。それこそ真理であるかのごとく二人が目を合わせる。今里が少し照れ臭くなって先に目線を外した。
捻た理論である自覚も同時にある。いわゆる常識だとか、道徳だとか倫理だとか。そういう小難しい社会通念がそれを間違っていると判断する。
けれど彼らは社会じゃない。
あくまで個人の高校生だ。
「そ。自分だけ見て。お願いだから、自分だけでもしっかりと見てみて。それから嫌いか好きかは自分で決めればいいんだから。あなたはどうやら好きになっちゃったみたいだけど」
「考えてみれば当たり前の事だったじゃんか。それこそ祐が言ってくれなきゃ、だけど」
今里は思い出す。小学生の時、クラスで戦争のビデオを見せられた授業の時だ。
担任の先生が戦争の過ちや悲劇を語り、ビデオの感想を尋ねた。すると一人の男子生徒が「もっとやり返せばよかったのに」と答えたのだ。その瞬間の教室の空気。
今里は羨望の目を彼に送ったのを憶えている。賢しい子供だった今里は、彼の発言がこの場にそぐわないものだと知っていたし、思ってはいないものの確かに期待された答えを返そうとしていたからだ。
彼は違った。
彼はそんなものより、自分の方向を選んだ。
「そこが一歩目だった。ボクの家族はボクの事を特別扱いしてくれた。長男だったし、勉強が出来たから」
なんと彼の生きている事だろう。
「でも外へ出れば同じ。普通に埋もれて何も意味の無い、ただの人に成り下がる。そこいら中に溢れかえった『特別』な子供の中で、ボクは目立つ事なんて何一つ無かった」
語り出した彼の肩を、祐がしっかりと抱いた。
「どうしようもなくさぁ、怖かったんだ。このまま何十年って生きていくのが。死んでいないだけなのが。君に会うまで、日常が拷問だったんだ」
震え始めた首筋に、彼女の変わらない声が降りる。
「でも君は『特別』になれたよ。だってわたしに会えたんだもの」
ついに微動は号泣に変わり、声を抑えられなくなって外へと飛び出していく。
星ほどの数の気持ちを綯い交ぜて、夜空の下の明かりを取り巻いた。
「やっぱ別れ話かな」
「あんま覗かん方がいいんじゃないですか?」
水を差す店員の声に今里は涙を拭いた。こっそりと振り向きがちに顔を向けると、店舗の壁、ゴミ箱の少しはみ出た蓋の上に顔が二つ、並んでいた。
「やば。ばれた」
「ほら、だから」
今里は微笑んだ。涙の跡が頬に残る顔で、微笑んで見せた。
「大丈夫です。すいません」
会釈をぎこちなく繰り返し、店員はまた光の中へ帰っていった。口々に愚痴を漏らし、日陰に少しでも関与してしまった自分を誤魔化す。
これが現実だ。
光にいる人間が幸せなように、不幸に関わってしまった自分を隠す。君子危うきに近寄らず。わざわざ居もしないだろう虎子を取りに穴へ入り込むほど自分が愚かでない事を知っている。
「祐、ごめん。ボク、帰るよ。今日は父さんが映画を借りてきてくれたんだ。ボクの好きな映画でさ、見た事ある? バックトゥザフューチャー」
「あるよ。すごく面白い」
体を離し、また彼女は真っ向から花を咲かせる。
「それに今日は家族みんなで映画見ながらピザを食べるんだ。ちょっとくらいならお酒も飲ましてもらえるかもしれないし、すっごく楽しみだ」
「ご飯食べたのに? 太るよ」
今度は今里も目を反らさず答える。
「ボクの見た目なんかより楽しい方が大事だよ!」
手を振って家路につく彼の背中を、祐がじっと見つめる。今里の背中が見えなくなって少しして、彼女も歩き出した。
コンビニ裏手の山の方角。細い生活道路が暗闇へと吸い込まれていく道にローファの不似合いな乾いた響きがこだまする。
それは軽く続く。アスファルトの剥がれた道路のへこみも気にせずに、ただ彼女は楽しそうに歩くのだ。
誰も見ていない、誰もいない夜の道。
いっそこれが現実であればいいのに、だなどと。
不謹慎にも彼女はそう思ってしまった。
4
「ちょっとは落ち着いたかよ」
もう外は暗い。他の家では夕餉もとうに過ぎ去って団欒のひと時が訪れているに違いないはずの時間に、母宮はテーブルの上に積み上げられたちり紙の処理に困っていた。
ぐずり続けて一言も発さない喜先を取り合えず居間に上げ、離れるわけにもいかず数時間が経過していた。つくづく自分の世話焼きな性格に悪態を吐き、ようやくティッシュを抜き取る音が止んだのを見計らい、彼は声をかける。
妹や母親が帰宅して助けてくれないかとも思ったが、どうやら今日はどちらも家に縁が無い。
「まぁ、分かってたしいいんだけどよ。お前があいつの事 」
「ふぇぇ」
「すまん、分かった。もう言わねぇよ」
いい加減お腹も減った。明らかに自分よりエネルギーを使い続けている級友を前にして、やっぱり女は別腹なんだなぁとどうでもいい発見に嫌気がさす。
また泣き始めたら離れられなくなる。その危機感だけで母宮が、
「飯でも作るわ。お前、食えない物ある?」
と問う。
「御飯、いらない」
「やかましい。人の飯も考えず泣きまくりやがって。晩飯くらい付き合え。どうせ明日休みなんだしよ。ゆっくりしてけ」
小さい声でキヌサヤ、とだけ返ってきたのを頭に入れ、居間に隣接している台所へと向かう。流し台と胸までしかないカウンターを間に挟んで、上座に座っている喜先の背中を見下ろす。
こいつも色々と抱え込みそうなタイプだもんなぁ。
「パスタにするわ。米なんか炊いてねぇし。……あー、卵切れてら」
材料を探す前に大き目の鍋で水を火にかけ、もう一つのコンロにフライパンを用意する。
オリーブオイルとニンニクとトウガラシの香りが漂い始め、ベーコンの脂が弾ける。小麦を含んだ(母宮が意外にもこだわっているデュラムセモリナだ)湯気が部屋の温度を上げる。
換気扇に吸い込まれていく空気が少し風を起こし、汗も持って行ってくれる。
「ほれ、出来たぞ」
皿には少し大目のパスタが盛られていた。アスパラやパプリカが色味を強く主張している。さすがの喜先も食欲を刺激され、腹の音を奏でた。
「箸? フォーク?」
「フォーク……。母宮くん、パスタ、箸で食べるの?」
「俺はカレーとコーンポタージュ以外は箸で食うんだよ。もちろんケーキもな」
客用のコップに麦茶と氷を投入し、居間の半分を占領するテーブルの上に置く。
「いただき、ます」
「おぅ、召し上がれ」
虫のオーケストラと食器が作り出すハーモニー以外に音は無く、二人は無言で皿の上にある麺を口に運んだ。
「どうだ? 辛かったりしないか?」
「大丈夫。美味しい」
まるで初めて家に来た恋人にも取れる応対に、母宮が苦笑した。
実際には共通の友人を自殺から救い出す為に集まったはずなのに。
見た目がどうであれ中身がそれに伴っていないというのはひどく新鮮に彼の感覚を可笑しくさせた。
「ごちそうさま」
「お、案外と食うの速いのな。俺と食い終わるのあんま変わんないじゃん」
「私の倍くらい量あったくせに。それにそんな事、女の子に言わないで。傷つく」
お皿くらいは洗おうと明日香が流しに食器を持っていく。
「あー、置いとけ置いとけ。どうせ気になって後でもう一回洗っちまう羽目になる」
「なによ。お皿くらい洗えるのに」
「たとえ全自動食器洗い機にかけたって、プロの中華料理屋の後だって同じだよ。なんか自分でやらないと気が済まないの」
自らの分の食器を手に母宮も台所へと向かう。リビングとダイニングはシステムキッチン一枚隔てて繋がっており、胸から上の喜先が食器に水をかける音が聞こえる。
重ねれば裏を洗うのが面倒だ。腕と手のひらの上で危なげない均衡を保ったままシンクの横手まで母宮が接近し 、
いつもは有り得ない、落ちそうになった皿を 皿を、反射的に迎えようと母宮の体が動く。
「あ 」
同時に喜先も更に手を伸ばす。
果たして食器は落下を免れた。
男女の急接近という代償を支払って。
「……おい」
胸に抱きかかえるような姿勢になったまま離れようとしない喜先に、母宮が痺れを切らして声を荒らげた。さっきまで友人を好きだと濁流の如く曝け出していたくせに。
だが答えは無い。陶器という絶縁体を挟んで、触れるか触れないかの肉体境界線上を、無言と思惑の界面活性剤が撫で回す。
「 ごめんね」
「分かったから離れろ。皿が落ちる」
「そうじゃなくて なんか、こういうのを今里くんとしたかったんだな、って」
滔々と、溢れ出る情念は 無音のリビングに音を立てない。
「これからすりゃあいい。お前の事、真面目ぶって特に何も無い奴だと思ってたけど、こうやって少しでも喋りゃあ面白い奴だって分かった。あいつだって気に入るだろうよ」
「…… 」
「愛の力って奴だよ。運命の次の次に壮大なテーマ。昔っから奇跡は愛が起こすもんだって相場が決まってんだから」
冗談めかした言い訳さえ凍え上がりそうな場面において、喜先は笑い返したともとれるような声音で発した。
「猫はガムなんか食べないって、知ってる?」
「は?」
「猫はガムなんか食べない。この音葉の意味、分かる?」
触れ合いそうなフィジカルの問題を一旦、横にどけて。
頭の片隅で母宮は言葉を反芻する。視線が自然と左上に移動し、見てはいるものの認識はしていない視界の中で、回答を模索する。
「知らない……な。分からない。そりゃあ猫はガムなんて食べないだろ」
喜先はその力強さの無い、中空に浮かんだまま相手に答えを委ねる幻想に満足したのか、数歩後ろに下がって母宮の目を見た。
母宮ですらぞくり、と背筋に這い上がるものを感じるような眼で。
「もしかした食べるかもしれない。猫なんだから食べないだろう。猫なんだから 」
「は、 はぁ?」
「でも別にどっちでもいい、自分は猫じゃないんだから」
真夜中に出会った街の探索者のように、喜先の瞳孔は縦に裂かれていた。
「母宮くん、多分、今里くんなら分かるんだよ。これが今里くんの見ていた世界なんだ」
「何が。お前 なんか……どうした?」
「私、分かった。今里くんの見てるのもの。これ、これを見てたんだ」
もう焦点は母宮に無い。まるで瞳で瞳の中を見ようとしているかの如く、喜先の虹彩は揺れていた。
何かに縋りたくて手を戦慄かせるのに 助けを求めて涙を流しながら笑っているのに、そこに何も無いから仕方なく震えている。
「やっと、分かった」
皿を置くのも忘れ、母宮は目の前にいたはずの友人を直視する。
「喜先 」
「私なんかじゃ止められない」
それは決断でもあり 見つけたくない秘密だった。
一気に全身の筋肉が活動を止め、自律していた神経以外の意思が介入する隙間に入り込んだバグに侵される。喜先の膝がフロアと打痕し、重く鈍い音を立てる。
「母宮くんでも、羽束師くんでも 皆本先輩でも」
さながら彫刻。生きていると錯覚するくらいに精巧な、 ただの彫刻。
「誰も今里くんと進めない」
押し返していた波が反発して、それまで以上の轟音となって世界を支配した。誰も永遠には生きられない。でも永遠に死んでいる人間が後を絶たない。
虫の背景音は、やがて来る終わりの為の前奏曲に似ている。
レヨイン
1
それはまだ、彼の汗が綺麗だった頃の話だ。
車と競争して勝利しようとしていた子供を道で見つけ、何を含む事も無くただの疑問として問いかけてみた日の話。
「車になんて勝てないよ」
自分と一つか二つしか違わないのに、そんな常識が分からないなんて。
「車は、速いんだよ」
しかし、その子供はにこりともせず、かといってムキになって怒ったりもせず、フラットな心象イコライジングの声で、
「やってみなきゃ分かんないじゃないか」
そう、答えたのだ。
2
羽束師事実が家の門の前で嘆息する頃には、高校生が道を歩いていると群青の合法不審者に声をかけられる時間になっていた。
明かりの無い玄関アプローチでブロンズドアについた無機質な二つの鍵を解錠し、質量よりも重苦しい扉を引く。
玄関に体を完全に入れると、設置していたセンサーで廊下に明かりが灯った。母親が目に優しいと父親を説得した橙色の発光ダイオードは、妹も気に入っていた色だ。
巾木から枠材までシックなダークオークに染められた廊下。白いクロスが少しだけ茶色く見えるので、事実は橙よりも白にしてほしかった。
でも言えない。
「ただいま」
声を出す。普通の、ごく普通の挨拶。
一方通行なだけの、普通の挨拶。
階段を上がらずに廊下奥の和室へ。祖父母がまだ存命していた時は二人の寝室となっていたが、今は事実が一人で使っている。
二階からは談笑が微かに漏れている。どうせ夏休み明けでまだ息が荒い妹に、父あたりが軽口混じりの説教をし、母が次女をあやしながら同調でもしているのだろう。
鞄を畳の上に置き、長押にかけられた二つの遺影に一礼する。
祖父はたいへん物静かだったが、厳しい人だった。
死ぬまで軍人、と口癖にしていて、過去の栄光に未だに固執していた。初孫の事実にも笑顔を見せた事など無く、ただひたすらに一番というものの素晴らしさを説いていた。
だからちょっとした反発心で、斜めに構えていた。
車には勝てないだなんて 本気で思っていた。
「にいちゃん」
事実は思い出す。
羽束師事実は思い出す。
まるで不確実の具現だ。
事実が皆本、母宮、喜先と別れて数分後。
帰路にある公園のベンチで、羽束師事実は座っていた。昼の太陽が焼いたオイルステインの木材は、陽も傾きかけているというのにまだそこだけ真昼間の主張を繰り返している。
誰もいない。子供の忘れた三輪車を見つけ、それに腰掛けなおす。それほど強くもない風に揺れるブランコを見ていたら 何故だか悲しくなった。
事実は考えたくない時にここへ来る。何も考えないようにする為に、あえて誰にも会わずに済むこの公園を選ぶ。
もし誰かといたならば。
もしその誰かに自分が涙なんて見せたなら。
きっとそれらはわざとだと言うだろうから。
張り詰めた意思も、いつも釣り上げられている目尻も、今はだらしなく弛緩している。いつもは静かに燃える青い炎を連想させる横顔も、まるで帰る場所を失った子猫を彷彿とさせた。
何も考えないなんて事を生き物 ましてや人間が出来るわけがない。何も考えたくないと心で念じていても、脳は勝手に景色から時間や景観を把握する。目を結んでも音が周囲を把握し居場所を決める。耳を塞いだって、鼻をつまんだって、口を閉じたって状況は変わらない。何一つとして何もしないだなんて、そんな夢物語を紡ぐわがままをまだ、生き物は許されていない。
だがしかし、平時にブレーカーが落ちる寸前まで動いている回路を少し弱める事は可能だ。事実が見て、聞いて、嗅いで、触れて 味わっている人生という不可思議な現象を、少し弱める事は可能だ。
特に最近は考える問題が多くて困る。根本は面倒を嫌う事実にしてみれば至極当然。考えなくても済むならば考えたくはない。
「……」
一点を見つめてはいるが、何も映ってはいない。意識の外にある瞬間を人間は憶えていられない。
彼は天才ではない。
「おれは、普通だ」
正確には
「おれが普通なはずなんだ」
ひどく暑い夕陽の中で、雰囲気に酔うわけでもなく呟く。
公園には当然人の気配がある。
入口は二つあり、植木に阻まれた道路に面する自転車防入柵に阻まれた箇所。そしてもう一つは金属フェンスの継ぎ目に。
彼女はそのどちらでもない。
ジャングルジムの中にいた。
「…… 」
「羽束師、事実 くんだったっけ」
制服を着ている。青い 水色の襟カバーが夕陽の朱に映えて、一枚の絵画を思わせる様相を掻き立てていた。
「あれ、違った?」
「そうだけど 誰?」
その彼女は事も無げに、もう体格的には狭い鉄の棒の間に腕を組みながら屹立する。まるで絶対防御を誇るイージスにも負けない強度を、その錆びてペンキも剥がれている網に託すように。
「初めまして。愛知、愛知祐」
「愛知? はぁ」
「君はわたしと初めてだろうけど、わたしは本当の意味では初めてじゃない。君の事は君の友達であって兄でもある いや、君の中で唯一といってもいいくらいの『人間』である今里真から聞いている」
事実の手に無意識の力が加わり、膝に悲鳴を上げさせる。
「兄ちゃんの 『友達』?」
「それは正確じゃあない。でもま、当たらずとも遠からずかな」
そう言うと愛知は手近な棒に手をかけ、ゆっくりと這い出ようと体を持ち上げた。しばし不気味な笑みを浮かべたまま、狭い空間で動き回る。
「……」
やがて動きが止まり、
「助けてくれない?」
仕方なく事実はベンチを後にし、嘆息を隠そうともせずジャングルジムに近付いた。腹のあたりだけで体重を支えていたからか、息の上がった愛知の手を掴んで外界への生還に手助けをする。
やがて久々の砂地へと足を下ろした愛知は、制服に引っ掛かった塗料の破片を軽く払い落とし、悪戦苦闘の終焉を告げる。
「ありがとう。初めて尽くしで悪い。ジャングルジムって初めてで、こんなに抜けるのに苦労するなんて思わなかったから」
「いや、いいけど。で、兄ちゃんの友達がどうしてここに?」
いや、どうしておれに?
「ちょっと君らに救いをあげようと思っただけ。そう頑なに警戒するなんてショック」
「救い? それは兄ちゃんの、あれに関する 」
途中で事実の眼前に愛知の人差し指の内側が入り込んだ。
「君、本当に賢いんだね」
「……?」
「あれ。まだ確定できない人間に対して言葉を、主軸をぶらして会話の中で確証を得る。コミュニケーションっていうものをちゃんと武器として利用できている。ひどく正しい、ひどく残酷な攻撃」
言葉は続く。
「相手に失礼のないように、警戒され返さないように。会話の間で自分の持ってる情報と相手の情報を照らし合わせて自分の立ち位置を決める。わたしがどんな人物で、それに対してどういう人物で接すればいいのかを、誰にも気付かれずに出来る」
「それは 」
「そう、それが当たり前! そんな当たり前の事も出来ない自分以外が憎くて悔しくて仕方がない! 何も考えずにいられる人間と呼ばれる周囲が気に食わない!」
捲し立てられた事実に、事実は見失う。
「君はどちらかと言うとあの先輩に近い位置にいる。でもあっちより遥かに今里真に近い。生活も、時間も、密度も、築き上げてきた関係として、君は近い」
「先輩って、皆本っていう」
「あぁ、ごめん。忘れてくれ。そんなに大事じゃないんだ、そこは。大事なのは君が持つ関係。今里真と羽束師事実の関係。わたしの危惧はそこにある」
事実は聞いた事も無い鍔鳴りを耳にする。
「君は正義のヒーローだ。それは間違いない」
言葉を 息を、嚥下させられる。
「わたしは、いや、全ての死んでいないだけの人間は君が怖い。どうしたって辿り着けない遥の向こうで君が鎮座しているんだ。そしてもし、もしもそこに辿りつけたのなら 君に言われるはずだと思い込んでいる! そう、それは『悪は滅びるべきだ』って!」
愛知の人差し指がゆっくりと下がり、事実の喉元を経て胸へ。腹を登って臍を過ぎ、そして戻ってきて 心臓を刺す。
「この世に最もいらない人種。それが正義のヒーローだ」
突きつけられた刃先は止まらない。
「いればいいのにと望まれているのに、実際にいれば悪として断罪される。世界平和を本当に望んでいるのは保険屋だけで充分なのに、一点の曇りもない最強にして最悪の武器が、君の持つ『正義』という信念だ」
「おれは 」
「言い訳は見苦しいよ。誇るといい。わたしを困らせるのは後にも先にも君くらい。珍しい。滑稽でもあるが、君は無くてはならない存在でもあるが、それ故に存在を許されない」
世界のマナーを守れても、ルールと相容れない。
「本当は分かっているんだろう? こんな世界に自分が似合わないって。似合うべきはずの自分が似合わない状況がおかしいって。もっと分かりやすく、もっと綺麗に言い換えよう。君は !」
「や やめろ!」
正義の行う土壇場での懇願はすぐに打ち破られた。
「幸せになるべき人間が、そうならない世界を壊したいんだ」
絶命に等しい宣告。薄く、それでいて確実に刻まれていた事実の傷跡に、白刃は確実に突き刺さった。
化膿しても見ないふりを続けていた傷跡に、泥を塗られた。
「正義と悪は紙一重。それは真理だよ。実行力の無い身分なだけで、君はどちらにでもなる資格がある。世界を変える手段が無くても目的がある」
突き刺さっていた指は優しく胸板に添えられ、慈しむのに似た愛撫を繰り返す。
「君は現れてしまったわたしの、もう一つの可能性。正義か悪かを判断されていないだけで、自分でも決めかねているだけで、君の持つ価値は変わらない」
並び立てられる。攻め込まれる。取り囲まれる。
「本当の正義が、本当の悪になると君は知ってしまったんだね」
優しく愛でられていた愛知の右手が突如として変貌し、食らいつく。
息を感じるほど近く、耳元で嘯かれる。
「邪魔すんなよ。お前もわたしと同じだ」
すぅっと。
気配が離れていく。
「……待てよ」
待ってほしくなんかない。これはただ自分のプライドを守る為に口にした、パフォーマンスとしての制止。
地面に這いつくばり、許しを乞い、頭を下げて、地面とキスをする。
数刹那前の願望ではない。これまで築き上げた事実でもない。
圧倒的にそこに滞在する事象としての真実。
「待ってくれよ」
制止は願望に引き継ぎ、事実を介して真実へと変貌を遂げる。そしてそれは救済へと進化し、断罪を同時に引き起こす。
正義なんて必要ではない。もしも正義を望んでいるのであれば、そこには悪がいる。その悪とは、他ならぬ正義を望んでいた自分自身なのだから。
一歩前を走る、その背中は自分に似ているんだ。
「あいのう、ゆう」
「気安く呼ばないでほしい。虫唾が走る。自己嫌悪、同属嫌悪、同族嫌悪、道徳嫌悪。ま、好きに誤魔化しなさい。それが通らない事は、それが罷らない事実はあなたが一番分かっている」
倒れ伏し、土下座に近い形を取る事実の後頭部に愛知の髪が垂れ下がる。柳よりも枝垂れた、何もいない賽の河原に佇む二匹の泥鰌。
「物語に登場する当たり前すら許されない自分自身を以て悪とするならば、差し詰め君は正義の味方。それでいいんじゃない?」
一匹は死のうとも地上に這い出、
「おれは正義なんかじゃない。普通のはずの、ただの『人間』だ」
一匹はより住みやすく泥を綺麗にしようとした。
「だったらおれは正義なんかじゃない。正義じゃなくたっていい。おれや、母宮さんや、喜先さんや皆本先輩や、それと 兄ちゃんが幸せであればいい」
残酷に差別し、選別し、抜き取った一部の人間だけが理想であればいい。
幸せになるべき人間だけが幸せであればいい。
「愛知、愛知祐。お前は完全なる悪だ。でもそれはおれとどこも違わない」
事実は燃える。青く、冷淡で、しかしそれでいて赤い炎よりも熱く。
「おれがお前と同じ、お前の可能性の一つだったとするなら、俺とお前が違う部分はただ一つ」
地面を踏みしめ、対峙する。悠久より長く、初発より短い。眼と眼、顔と顔。双方同じ場所に、同じ土俵に上がる。
「ハーメルンよろしく個人を救うか、それとも個人以外を救うか それだけだ」
「ご明察」
愛知が自らのうなじに両手を入れ、枝毛の無いロングの後髪に風を入れる。広がった髪は獅子の鬣を思わせる威嚇力を持って、事実に反する。
「君の道は遠く、険しい。わたしの道は見えず、厳しい。ほらやっぱり。あなたはわたしを困らせる。どういうつもりか知らないけど、今里真に絡むのはもうやめて、すっきり世界でも救ってなさいな」
「断る。救った世界を見せたい人間がいない正義なんて、それこそ 悪と一緒だ」
違いない。
その時、本当に愛知は心の底から笑ったのだろう。
不謹慎にも事実はその笑顔を可愛いと思った。綺麗だと、爛漫にして天真だと、そう感じてしまった。
3
「事実に会ったんだって?」
「まぁ、うん」
「そりゃあ良かった。あいつすごいんだよ。ボクは車に勝つのを諦めたのに、あいつは勝つまでやったんだ。自慢なんだ。あいつがボクを好きでいてくれる事は、ボクの自慢なんだ」
土曜日の昼過ぎ、太陽は傾きを始めたが気温は留まる事を知らないロケットのようにぐんぐんと、どうどうと、上がっていく。
今里が座る縁石ももちろん熱い。アスファルトの反射熱も加味し、湿気がまとわりついて、日本の夏という素晴らしい文化の反対側だけが光る。
「あいつさ、昔、小学生の時かな。学校で一番喧嘩が強い奴にいじめられて、毎日殴られて、でも悔しいからって色んな拳法とか学んでさ、三年生の時にはもう誰よりも強かったんだよ」
「へぇ」
「そんでさ、そのまま中学校に入ったら負けん気も強くなってさ、ちょっとグレちゃって、喧嘩とかすごいして、そん時に母宮に会って、んで色々あってさ」
「うん」
「あの時はボクも苦労したよ。何でも一番じゃないと気が済まない奴だからさ。一番目立つって言って金髪にしてピンク色のジャージでピアス穴に懐中電灯ぶら下げて学校来たりしてさ」
「はは」
「挙句の果てには一番学校で勉強出来るようになって、訳も無く学校に住んだりとかして、将棋部に馬鹿にされたら将棋の大会にマスク被って乱入して優勝しちゃったり」
「はは」
「しかもそん時かぶってたマスクがミルマスカラスでさ、参っちゃうよなぁ」
今里の顔は明るい。心底、羽束師事実を愛している情念が伝わってくる。
「母宮にだけは喧嘩勝てなかったのに、卒業間近には引き分けまで持っていっててさ、母宮も母宮で暴走族 ほら、知らないかな。中学の時に国際会館のある公園のゴミ掃除してた暴走族。それ、母宮がやらせてたんだよ。あいつもあいつで変なやつだからさぁ」
対する愛知の顔は浮かない。口先だけで返答し、愛想を笑い、合いの手を入れる。
「母宮も妹には頭が上がらないし、そういうもんなのかなぁ。そういえば祐って兄弟、姉妹いるの?」
「一人っ子。というか、……まぁ、うん。一人っ子」
「そっかぁ。ボクと一緒だ。家の中に同世代の人間がいるってどんな感じなんだろうなぁ。毎日友達と話すのが楽しいように、毎日が楽しいのかなぁ」
日差しはじりじりと二人を焼く。今日も今里は狐坂の上で眼下に広がる景色を見る。そこに現れた愛知と話し、帰りたくなれば帰り、会いたい人間がいれば会いに行く。
まさに自由。通すべき、通しても良い欲求で全てを満たす。
「君は 」
「ん? なに?」
話の寸間に入り込み、愛知が言葉を発する。
生まれた日の歌をもう一度、世界を揺らすような大きな声で。
「もう死にたくは、ないんじゃないかな?」
問いかけに、今里は目線を持っていたジュースに落とした。
「そうかもしれない。今までだって、間違った人生なりに楽しい事はいっぱいあった。多分、憶えていない事だっていっぱいある」
自分を取り巻く環境が、人間が、いっぱいいる。
「だからってボクだけが幸せになるなんて、おこがましいと思うし、わがままだとも思うよ。でもそれは違うって祐が教えてくれた。誰かの幸せを考える前に自分の幸せを考えなきゃいけないって。幸せの意味を、到達点を、過程を、何がどうなっているのかを考えなきゃいけないって」
とつとつ、と言葉は続く。
「自分の幸せすら分析できない人間に他人の幸せなんか分かるはずがない。幸せになりたいっていうのは、人間の目的だ。生きるのはあくまで手段で、それが目的に入れ替わってる奴の方がおかしいんだって」
「わたしは、何もしていないよ」
「何もなんて事はないよ。いるだけで何かをしているんだ。世界の全てが一定にして変わらないのと同じ。何が起こっても結局は何も起こっていないのと一緒。でもそれはもっとマクロの視点で考えるべき問題だ。大事な人が死んだって、その人物を知らない人からすれば人が一人死んだってだけの数字でしか、情報でしかないんだから」
意思は共有なんてされないんだから。
「まったく、こんな簡単で大事な事になんで気付かなかったんだろ。ほんのちょっと、視点を変えるだけなんだけど、変える事すら出来なかったんだから」
愛知が自分の持っている紙パックのコーヒー牛乳のストローを一度、噛んだ。
「祐、ありがとう」
「出来ない、っていうのは、わたしはおかしいとは思わないよ」
グロスがストローにつかないように、唇の内側だけで愛知は甘い、甘い飲料を流し込む。
「やらないのは別にいい。怖いのは、死んだ方がマシなのは、出来ない事にすら到達していない奴でしょ。やれば出来る、はやってないのと同じだけど出来ないのとは違う。やれば出来る人間は出来る。でもやった事も出来る事も無い人間が世の中、増えすぎただけだよ」
「それが一番、始末に負えないよね。出来るのにやらない人間と、やるけど出来ない人間はすごくタチが悪いけど、やらないし出来ない奴が多いから」
アスファルトの上をアリが一匹、歩いている。今里はアリがもし、こちらを見て何かを考えていたならば、と妄想に思考を割き始めた。
「プライドすら無い生き物が多くなっちゃったから」
日差しは本当に強い。じっとしているだけで肌の表面が色素を増していくのが分かるくらい、陽光は二人に降り注いでいた。
だからまだ死ねない。まさかこんな時期に自分の葬式を手間取らせるなんて、そんな不誠実で面倒をかける迷惑を今里はしたくなかった。
「喜先、さんだっけ。君の同級生の」
「うん、え、うん。喜先さん? 喜先さんがどうかした?」
「あの娘はそろそろ気付くんじゃないかな。伸び代がすごかったし、ベクトルが一番君に沿っていたと思う」
「そうかなぁ。真面目なんだよ、喜先さん。ボクなんてほら、不真面目だし。根が不謹慎でできてる」
「それはどっちかっていうと母宮くんの方だと思うけどね。まぁ、あの女の子には見えていてもおかしくないよ。でもどうだろ。見ちゃったら一緒にこっち来るかも。それは、ねぇ?」
「どうかした? 祐」
「いや、それは面倒だなって。君が死ぬのは君にだけ許された道だし。あの娘はもっと生きなければいけないし、母宮くんは止まらないと。羽束師くんは笑わせないとダメ。あの先輩は……うん、あの先輩は君とはまったく逆。自分以外を殺さないといけない」
「物騒だなぁ。祐はいつも物騒だ」
「別に自分から外に出す必要は無いよ。自分の中だけで終わらせて、自分一人でまずはやんないと。周りはそれから。行動に移すかどうかを決めるのは周りだし」
車が一台、目の前を通り過ぎる。ランドクルーザー型のどっしりした通過音と共に、窓を開け放っていた運転席の男がこちらを見て薄ら笑いを浮かべている。
どう見えるか。この二人を値踏みする。
「別にさ、物騒でも大袈裟でもないよ。これを大きい問題だと取り上げる方がおかしい」
愛知が口火を切る。
「当たり前の事を当たり前に。不必要で面倒な回り道を近道に。それだけだよ」
「だって祐が言うのはなんでも極論だからなぁ」
「それは認めるけどね。ほら、ツケがたまってる店で一気に大金払うのに似た感覚。ちょっと戻り過ぎたし多めに進んでおく感じ」
「正論ってやつ?」
「それにすら届いてないくらいだけどね。わたしが見る世界と、周りが見るわたしの見る世界とを一致させる。それは補い合って完成するものなんかじゃない。進化? そんな感じ。いい言葉だね。進化って。進んでいくっていうのが特に」
「一つになるって事?」
「違う違う。今里真、一人一人が完成しないともう前には進めないって事。出来ない存在を人間だなんて呼んじゃうのはやめるって事。何か一つでいいし、命をかけて出来るって言える誇りを一つ持つ事」
「ははぁ。分かりやすいね。でも分かってはくれなさそうだ」
「一人になれば焦ると思うけどね。一人だけが突出するから周りに反感を買うんだよ。一人だけが取り残されれば嫌でも区別される」
「出来る人と出来ない人?」
「いや、生きるべきか死ぬべきか」
そして今里はまた手を叩いて笑うのだ。
「ほら物騒だ」
愛知は笑わずに返す。
「ありがとう」
眼下の街は、もうカンティードが燃やし尽くしてしまった街。再建には程遠い、焼け跡の街。
今里は早く秋にならないかと望む。
それまでは後夜祭の雰囲気を楽しむしか、ないのだから。
4
羽束師事実が母宮の家のインターフォンを鳴らすと、女性の中でも更に甲高い声が、小さいスピーカーを音割れさせた。
「事実じゃん! 月助! 月助!」
しばらく遠く、声が鳴る。もはや家の中から聞こえる声の方が大きいくらいだ。微笑ましくその一連の関係に接し、事実が所在無さげに頬を掻く。
「月助、事実! 事実だって!」
「分かってるよ、分かった! 騒ぐなよ、そんなに」
今日は休日である。羽束師事実は意外とオシャレするのが好きなので、今日は螺旋状に模様が入っているタイトな七分袖の白いシャツに、メッシュ素材を使った涼しいサルエルパンツを履いていた。外に履いていけるようなシックなサンダルとさっぱりしながらも主張するピンクのトイクロックが今日のワンポイント。
ポケットに手を突っ込んだまま、炎天下に数分。やがて玄関の扉が開いて、母宮が出てきた。
「すまん、羽束師。入ってくれ」
「ほら事実!」
母宮は部屋着だろうか、グレーのスウェットを履き、少し着古したオレンジのシャツを着ていた。そして腰に絡まりつく日呼がワンポイント。
「相変わらずですね」
「お前も分かっててやるなよ」
苦笑する事実。母宮の妹は兄が連れてくる友達が絶対的に『好き』なのである。それは一種のブラザーコンプレックスと言えるくらいに兄を尊敬しているからであり、たまに訪問した際に二人が在宅だと、必ずこのように絡まって迎えられるのである。
「いいじゃないですか。仲良いって」
まだ腰に組み付いたまま喜ばしい悲鳴を上げ続ける日呼を剥がそうと躍起になる母宮を羨ましく思いながら、玄関アプローチに続く門を開ける。
「月助! 事実!」
「分かってるよ、分かってる! いいから離れろ、暑い!」
オフだからか、日呼は化粧もおとなしめで全体的にやぽったい。薄手でサイズが大きいパーカーを着ている為に、母宮も力がうまく伝わらずに苦労している。
やがて諦めて引きずりながら家の中へと入る。リビングに通され、親の不在を告げられる。
テーブルに二人が向かい合って座ると、日呼は事実の隣で行儀悪く膝を抱えて椅子に乗り、他愛も無い質問を繰り返していた。
やがて盆に麦茶を四杯揺らして母宮が戻ってくる。
「一つ多くないですか?」
何気なく事実が指差し、透明なグラスに目をやる。
「多くない、から面倒な話になる」
母宮が腰かけ、自分の隣に余るはずのコップを置いた。丁寧にコースターをかませる。
不審がって一口、二口と麦茶を流し込んだ事実だったが、疑問はすぐに解消される。
「ん、ん? 喜先、さん。だっけ」
リビングの扉を開けて入ってきたのは喜先明日香だった。
「母宮さん、どういうことです?」
「いや、話せば長くなるというか、何と言うか。昨日、あのミーティングのあと、こいつうちに泊まったんだけど、いや、そういうんじゃなくて、まぁ、なんだろうな」
要領を得ない解答に、さらに疑問を投げかける。
「泊まった? 喜先さんが? 母宮さんの家に?」
「端的に事実を言うならな。でも見ろ」
母宮の目線につられて事実も喜先の顔に注目した。
表情を感じ取ろうとして、すぐに異変を察知する。
「……?」
沈みがち、とでも表現しようか。目線は下を向いたまま、しかしそれでいて何も見ていないかのような、空虚な瞳。恐らくシャワーも浴びていないのだろう、少し脂でまとまった前髪はセットもされずに顔の半分を隠しており、手はバランスを取る不随意行動を止め、まるで音を立てずに座敷を歩く舞妓を思わせる足取りで椅子に向かう。
やがて移動する、と呼ぶにはおこがましい程の時間をかけて椅子に手をかけ、引く。
座ってもこちらを見ようともしない。麦茶に手をつける事もなく、弛緩しきった、疲弊しきった面持ちを隠さない。
「これ、どういう……?」
「分からん。晩飯食うまではいつも通りだったんだが、よく分からんうちにこうなった。喋りもしねーし、朝飯も食ってねぇ」
自作した燻製使った特製のベーコンエッグだったのによ、と母宮が吐き捨てる。
さすがに服装は昨日とは違う。事実はそれをどこかで見たように思い、すぐに日呼のものだと気付いた。
「事実、あの人、日呼が着替えさせたんだよ! ね、ね」
「う、うん。そうか」
にんまりと月を思わせる笑顔の日呼に、事実はぎこちなく笑い返す。
それにしてもこれはおかしい。あれだけ元気に躍動していた少女が、たった一晩で蛻になっている。
「なんか今里の見ていたものは、とか。猫がガムをうんちゃらかんちゃら言ってたけど、さっぱり分かんねぇ」
「兄ちゃんが見ていたもの?」
「そう言ってたな。でも内容聞こうにもこいつがこれだし、つうわけでお前を呼んだわけだ」
「呼ばれても、ですよ。おれは昨日初めてこの人に会ったし、付き合い自体は母宮さんの方が長いでしょ」
氷が融解し、組み合わさったパズルが一つずれる音を立てる。
「いや、俺もこいつとそんなに仲良かったわけじゃないし。クラスでもあんま目立たねーし、昨日初めてあんな喋るこいつ見たくらいだもんよ」
「そうなんですか? 元気とか、そういうんじゃなく?」
「そうだな。いや、静かってわけでもねーし、笑うし喋るんだけどよ。なんていうか、自分が無えっていうか、自己主張が薄いっていうか……」
太陽の光は今、燃えるほどにリビングの窓から差し込んでいる。ともすれば平和にすら見えるこの光景で、四人の人間は言葉を歌う。
「へぇ。すごい感情豊かでしたけどね。おれは昨日見て、そう思いました」
だから気付く。そうあるべくして、そこに辿り着く。
「そりゃあ 」
母宮の眼が何かを、確かに捉えた。
「 ?」
訝しむ事実。風も無いはずの室内で、相手にされない日呼の楽しげで不思議な花畑だけが木霊する。
「母宮さん」
「ん、あぁ。そうだな。そういう事だ。昨日、お前は喜先を見た。でも俺の知っている喜先とは違う人間だ」
「はぁ、 はぁ?」
突如、会話はキャッチボールから牽制球へと変化する。
「厳密に違う人間じゃあない。でも俺とお前の中にいる人間は同一人物じゃない。それは真贋とか印象とか、そういう回りくどいもので、でもすんげー単純なはずで 」
「ちょっと、母宮さん 」
明らかに様子がおかしい。寒くなんてあるはずないのに、母宮の指先は振動病のように震え、伝染した力量はコップと机を打楽器と昇華させる。
そして日呼が叫ぶ。
「月助!」
「 日呼ちゃん!?」
怒声ともとれるほど大きい声量。引き裂かれた静寂。
日呼の声に三途から引き戻された母宮の焦点が、右往左往と行き戻りを繰り返し、やがて落ち着く。着地点の安否すら気にしないまま。
「は ハァ、くそ! ハァ、いや、すまん。ちょっと頭が痛いわ」
「どうしたんですか、急に。母宮さん、ちょっと」
汗すら滴り、動悸も明瞭なほどおかしい。
「事実、これはやばい。猫はガムを食べない そういう事か」
「だから何が 」
「うるさいッ!」
発せられたのは喜先の口、喉、腹。
「喜先さん、喜先 」
一人、着いていけない事実だけが無為に椅子の端を握る。
「喜先、お前が言ってたのはこれか。これなのか?」
無言で、喜先は母宮に対して首肯した。涙が一雫、二雫、灰色のシャツに円を作り出す。
抑えきれない感情の爆発を必死に自分の体内だけで押さえ込んでいる風にも見え、その危なっかしさが事実を更に不可思議の奈落へと突き落としていく。
「母宮さんも、喜先さんも、何言ってるのか分からないですよ。おれの頭の上で会話しないでくださいよ!」
「事実、お前には分からないのか? すごい単純な事だ。簡単も簡単だ。正論ってやつだよ。極論でも何でもいいんだ。それは真理で、正しい」
説明を、垂れ流す。
「だから何も言えないんだよ! 気が狂いそうだ。今里の奴、あいつは中途半端に頭が良いから、訳の分からねぇ理屈こねくり回して、それがこれか。喜先、お前、よくも 」
「母宮くんの思ってる通りだと思うよ。私も同じ。簡潔で、簡単。だから非の打ち所が無くて、でもすごい深く見える」
深淵を覗くものは、だなどと他愛も無い例文を引っ張り出すまでもなく、そこにあるから。
「事実、あのさ、今里はもうどこにもいないんだ」
それは最悪の通告だったのか。そして最後でなければいけないかったのか。
「兄ちゃんがどこにもいないって……?」
「そのまんまだよ、そのまんま。正確にはあいつっていうのはあいつの中にしかいない。だからそもそもいなかった。いると思ってただけだ。俺達が、勝手に」
レジュメのはずが、受け取れない。
「意味が分かりません、兄ちゃんは、だって、いるし 」
「お前の中にな。だけどそれは俺の今里じゃあない。もちろん、こいつでも皆本先輩やらでもない。お前の中にだけいる」
だから、
「だから猫はガムなんか食べない」
「 ……ッあ」
そして事実は走り出した。一目散に、逃げるように、母宮の家を飛び出していく。乱暴に、蝶番の悲鳴が聞こえそうなほどドアを開け、サンダルに足を通して我武者羅に。
残された三人。母宮は笑っている。笑っているのだろうか。僅かに口角が上がってはいるが、それを笑っていると判断する人間が果たしているだろうか。
喜先は変わらず何も見ていない眼から涙を流す。無着色の、水色の血を流す。
「月助、喜先さん」
日呼だけが、生きている。
「難しい事は分からないけど、正しいとか、そういうの、分からないけど」
太陽と月が入れ替わる狭間で、見ている。
「何だかすごい分かるよ。月助がすんごい事決めたって事。喜先さんが逃げなかったって事。分かるよ。だから月助も、事実も、喜先さんも、好きだよ」
慰めにもならない賞賛は逆に二人を削っていく。がりがりと、じくじくと、見えない心を掘削していく。
そしてそれよりも二人が思い描いた『答え』が、中身を抉る。
「日呼、お前もすごいな。大体、頭の良い奴は馬鹿に足元掬われるように出来てる。救われる、かな。やっぱ俺とか、あいつみたいに、中途半端な奴はダメだ。変に目端が利くから、こっちが近道なんじゃないかって、そう思っちまう」
こんなに簡単な事が正解な筈ないって、疑う。
「母宮くんも、もう『止められない』んだ?」
「そう、だなぁ。もしこれが今里の知ってる、今里の見ている事なら、それは止められないなぁ。困った。俺ら、本当に意味なんてあんのかね」
不遇にも、タイミングが合った。呼応した様々な現象と仮説が、状況と課程が、ぐるぐる螺旋を描いて不時着する。
何も出来ない。何かが出来るだなんておこがましい事を、恥ずかしくて言えやしない。
自嘲は自虐と非なるものだ。
今年の夏はひどく、蝉がうるさい。そっとしておいてほしいのに、寝かせてはくれない。
縄跳びしかしてません。




