ルシア
雨が降っていた。
ダズは雨水が伝い、風でガタガタと音を立てている窓に触れながら外を眺めていた。
(昨日の夜風からすると今日は晴れのはずだが…)
ダズは昨晩の風の感覚を思い起こした。冷たいがどこか温かみのある、優しい静かな風だった。そしてその風を受けて、明日はきっと晴れだろう、と思ったことも、確かな記憶として蘇った。
しかし、そんなダズの記憶とは裏腹に、外は一向に落ち着く気配を見せない。それどころかだんだんと嵐の激しさが増していくようにさえ、ダズには思えた。
窓の向こうでは、木々がこれでもかというほどに傾き、葉が雨風に抵抗できないまま無残に散り、雨が滝のように地面に叩きつけている。
ダズは何か嫌な予感を感じた。
雨や風の具合がひどく悪いからというわけではない。ここカルダール王国は地球の割れ目の底―簡単に言えば谷底に位置しているため、気候は予想通りにいかないことも珍しくはなかった。 この国で産まれ育ったダズは、そのことを十分わかっていた。だから突然嵐が来たとしても、いつもなら冷静に対処できていたのであった。
しかし、今回は何かが違った。
何か…今までにない何かが、雨に紛れて迫ってきているのだという根拠のない不安と恐怖を、ダズは感じていた。
その時、倒れかかった木々の間を縫うようにしてこちらへと駆けてくる黒い人影が見えた。
(父さんだ。)
その黒い影の正体が自分の父親であることがわかったダズは、慌ててタオルを手に取って玄関のほうに向かった。
間もなくして、ギーッという玄関の木の扉の開く音と共に、雨で濡れた黒い雨合羽に身を包んだダズの父―ダレンが現れた。雨合羽のフードで顔が隠れていて表情が見えない。
玄関の扉が閉まって雨音が遠のくのを待ってから、ダズは声を掛けた。
「おかえりなさい」
ダズの言葉を聞いてか聞かないでか、ダレンはおもむろに口を開くと、
「大変だ…」
と言って、急いで雨合羽を脱いだ。そして雨水が飛び散るのにも構わず、それを放り投げると、足早に自分の書斎の中へと入って行った。
普段は冷静沈着な父が、これほどまでに慌てている様子を初めて見たダズは、押し寄せる不安を紛らわすことがますます困難になった。
ダズはダレンの後を追って書斎の中へと入った。
ダレンの書斎に入ると、右手には大きな本棚があり、辞書、小説、図鑑など、多種多様な書物が所狭しと並んでいた。左手には何もなく、木でできた壁がむき出しになっている。正面には机があり、小さな電球といくつかの書物やプリント類が壁に沿って並べられていた。
ダレンはその机用の小さな木製椅子に腰をおろし、俯くような格好で固まっていた。
「どうしたんですか、父さん」
ダズが尋ねると、ダレンはすぐさま振り返った。そしてそこにいるのが我が息子であるということを確認すると、ようやく肩の力を抜いた。
しかし、その時初めて父親の表情を見たダズは驚いた。青白いのだ。頬から唇に至るまで、全てが青白かった。
「いや、なんでもない…。」
ダレンは小さく呟いたが、ダズの耳には届かなかった。
無理もない。いつも自信と威厳に満ち溢れている父のこんな表情を、ダズは今まで見たことがなかったからだ。
ダズはしばらく呆然とその顔を見ていたが、父の手が何かを握り締めていることに気づいた。
「それは何ですか…?」
ダレンははっとした様子で、何か握ったままの拳を自分の背中側へと回したものの、ダズの真剣な眼差しを見て、また自分の前の方に戻した。そして、そのごつごつとした手をゆっくりと開いていった。
「これは…」
父の手の中から現れたものを見て、ダズは息を呑んだ。
「そう、母さんの形見の玉石、ルシアだよ。」
ダレンは少し落ち着きを取り戻したのだろうか、静かにゆっくりと言った。大きな手のひらの上で、小さな青い石が、鈍い光を放っていた。
それを見た瞬間、ダズの脳裏に母の声が聞こえた気がした。
『ルシアが輝くとき、人間界に災いが訪れるでしょう。』
「こうなったら、お前にも話しておかねばならんだろうな。」
そう言うと、ダレンは混乱している様子のダズに構うことなく、なお光り続けるルシアに目を向けながら語り始めた。
―お前の母さん―ユリアは、15年前に病気で他界した。私やお前とは違って、明るくて快活な女だった。
ユリアが死んだときお前はまだ2歳だったから、今はもうお前の中のユリアの記憶はほぼないに等しいだろう。ただ1つお前の知っているものがあるとすれば、ユリアが大切にしていたこのルシアぐらいだろう。
ルシアはまるで深い深い海の底の水を瞬時に固めてしまってできたかのように、神秘的な青い色をしている石だ。見る人全ての心を奪ってしまうほどの美しさを持っている。だから、私はこれをいつも肌身離さず持ち歩いていた。
ああ、すまない。それは別にどうでもいいんだ。
本題はこれからだ。
ダズ、もしかしたらお前には以前にも話したことがあったかもしれないが、ユリアには魔女の友人がいたんだ。ユリアは魔女に自分のことをあまり人には話さないでほしいと言われていたようで、私ですらその魔女のことはほとんど知らない。
だが、ユリアがよく話してくれたことが1つだけある。それが、このルシアという名の石のことだ。
ルシアは魔女がユリアにくれたたった1つの贈り物だったらしい。本来、人間と魔女が会うことは不可能だが、これを持っていることでユリアはいつでも魔女に会いにいくことが出来た。どんな成り行きでユリアがこれを得るに至ったかまでは知らんが…。とにかく、ユリアは魔女に会うときはいつもこれを持って、魔女の住むサルシアの森に行っていたのだ。ユリアはルシアのことを「悲しみの石」だと言っていた。何故かは知らない。もしかしたら、ユリアが教えてくれた、『ルシアが輝くとき、人間界に災いが訪れるでしょう。』 という魔女の言葉に関係があるかもしれないが…。詳しい事はよく分からない。
ただ、これらの事から1つ言える事は、このままでは人間界が危険だということだ。ユリアが生きていた頃も、ルシアが急に輝きだすようなことなどなかったから、これはきっと大変な事態なのだ。
しかし、このまま私が悩み続けたところで何も変わらない。この状況を乗り切るには…
「ーサルシアの森に行って、魔女に会わねばならない。」
そこまで一気に話してしまったダレンは、ひとつ大きな息をつき、息子の真っ黒な瞳を真っ直ぐ見ると、再び口を開いた。
「明日の朝、私は一人でサルシアの森へ行く。」
それまで黙ってダレンの話を聞いていたダズだが、この言葉には反応しないわけにはいかなかった。
「そんな…!危険過ぎます!相手は魔女。いくら母さんの友人であったとしても、知らない人間の男に対して何をするか知れません。…俺が行きます!!」
「お前が行っても同じことだろう。」
「しかし…!!」
ダズは言葉に詰まった。なぜなら、あることを言うべきか否か迷ったからだ。しかしダズは意を決して言った。
「…しかし父さんは心臓を悪くしてるのだからそんなことをすれば…」
「何故そのことを…?」
ダレンは鋭い目つきでダズを見た。
ダズの瞳が一瞬泳いだが、すぐにダレンの瞳を捉えた。
「薬が置いてあるのを見たんです。医者にも詳細を聞きました。すべて知っています。余命が残り少ないことも…。」
「…」
ダレンは何も言わなかった。ただ黙って耳を傾けていた。何を考えているのか、その無表情な顔からはダズには少しも分からなかった。
「父さんが魔女に会いに行ったとしても、もしも魔女に会う前に父さんの身に不幸があったら、この世界は救えない…。…だから、俺に行かせてください。」
ダレンはなお沈黙を守った。しかし、しばしの沈黙のあと、重たい口を開いた。
「わかった。だが出発は明後日にしてくれ。頼む。」
ダレンは苦しそうな声で言った。
「はい。」
ダズは、自分が魔女に会いに行くこと、人間界を救わねばならないということへの責任を、ダレンの想いを感じながら、噛み締めるように答えた。
雨はなお降り続けていた。




