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てらけん  作者: あんぱん
6/10

聖人君子柿本君

 後日、柿本君を含めたラボメンバー全員でサトシの所へ赴いた。新聞の切り抜きが貼ってある引き戸をゆっくりとあけ、恐る恐るサトシがいるかを尋ねた私たちは本棚の奥にいるであろう彼の存在感に気おされていた。特に私は前日訪ねた際に飛んできた怒声が今での頭に響いていた。

女の学生が「先生、3年生が来ました」と本棚ではなく作業中のパソコンに向かって言うと、やけに抑揚のある「はい」という声が聞こえた。この関係はなんなのだろうと首をかしげていると、ごそごそと音の後本棚の向こうからずんぐりむっくりとしたサトシが出てきた。彼はフードの付いた灰色のジャケットに下はジャージという、休日のおっさんのような出で立ちだった。サトシを挟んだ向こう側には私の身長くらいの大きさの窓から講義が終わったであろう学生たちがわらわらと家路もしくはサークルへと赴く姿が確認された。そう、今日は紛れもない平日である。えほえほと咳をしてサトシは赤くて分厚い本を本棚から取出し

「きみ、あの…この本の第一章の部分を印刷してきてくれ」

というとまたえほえほ言いながら本棚の向こう側に戻り、印刷室のカギと印刷機のカードを渡してきた。それを受け取ったのは辻野君という同期である。赤い本の表紙には英語で『The Cell』と書かれており内容はもちろん全部英語である。サトシ曰く週に二回英語の学習会を行うので各々しっかり訳してこいとのことだった。私は英語が大の苦手であり、正規の英語の単位を落としていた。そんな私が留年を経験しなかったのは、大学側が救済処置として用意した再履修クラスのおかげである。つまり私の英語力は三年間かけてほとんど成長していない。そんな私をよそに柿本君はぺらぺらと本をめくるとこのくらいなら何とかなりそうだなと言って印刷されていく紙をホッチキスで留めていった。彼の真似をしてみたが私にはさっぱりで、図を見て、DNAの話ということしかわからなかった。恐らく他の人も同様であろう。サトシ研に配属されたという時点で基礎学力の低さはある程度保障される。

研究室に戻る時、しばらくは沈黙が続いていたが紅一点の海路さんが「今日先生体調悪いんかな」といったことから、サトシの人間性が話題に挙がった。そこで私は先日研究室を訪ねた時のことをみんなに話した。

「怒鳴りかー。そんなんされたら私学校来なくなるかも」と彼女がため息交じりに言うと柿本君がそんなことはないよ彼だって人の血が通った人間だよと彼女を慰めていた。つくづくなぜ彼のようなエリートが暗黒組に配属されたのか私は不思議に思って訪ねてみた。

「僕はね、人工臓器の研究がやってみたかったんだ。ここでの基礎研究を生かして将来研究職に就くのが僕の夢なんだよ。確かにサトシ研は黒いうわさが絶えないらしいけど、僕の代で嫌な流れを止められたらいいなって思ってる。みんな大丈夫一緒に頑張っていこうね」

聖人君子という理想の人物を指す言葉があるが、柿本君はこれに十分あてはまると思う。私と辻野君そして海路さんみんな柿本君について行こうとこの時決心していた。彼ならひねくれにひねくれているというサトシの心をほぐすことができるかもしれないと誰もが疑わなかった。

印刷を終え研究室に戻る私たちに、サトシはたかが印刷でいつまでかかっとるんだと怒声を浴びせてきた。柿本君以外の三人は慣れない鳴き声でやる気がガクッと下がったのに対し、柿本君は怪訝な表情を浮かべることなく私たちの代表して謝罪していた。その日はこれで解散となり、私たちはサトシ研のすぐ下にある談話室に移動した。

「柿本君すまない。本来ならば雑談をしていた私のせいなのに…」

彼はたいしたことないさ、明日から頑張ろうねと言って帰って行った。今になって思うとあの時の柿本君は例えるなら、野原に降り積もりたての新雪のような純粋な心の持ち主だった。しかし周知の通り、雪の上を歩くときれいな雪道は少しずつ歪んでいき最終的には泥道となんら変わらない悪路と成り果てる。もちろんこの場合きれいな雪原の上を汚い長靴で踏みにじりまくったのは言わずと知れたサトシである。


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