(3)瞬きさくら
始業式から一週間の時が流れた。
心身ともにだらけていた春休みの日々を引きずり浮足立っていた生徒たちの雰囲気は、平常通りに授業が開始されたことで渋々と落ち着いていった。その変化は正しく四季の変容と似ていて、あんなにも凍えてしまうほど寒かった日々が、いつの間にやら陽だまりが満ち満ちた陽気になっていたかのような自然な推移であり、生徒たちもその適応に気付くことなく、学校教育にほだされていったのであった。
しかし、明汰だけは一週間前から何も変わっていなかった。
どうしても背後にいる芽唯子のことを意識してしまい、座りが悪そうにそわそわしているばかりで、授業の内容は一切頭に入っていない。緊張のあまり異常なほど喉が渇き、授業中に先生に断わって席を立ち、手洗い場まで水を飲みに行ったこともあるほどだった。
銀色の蛇口から流れ出る水にかぶりつくようにしてガブガブと飲み下し、胃を水分で満杯にする。これほど飲んでおけばもう喉は渇かないだろうと安心して席に戻れば、今度は水の飲み過ぎが祟って突き上げるような尿意がやって来、また席を立って先生と生徒から失笑を買う、といった体たらくをほぼ毎日演じていた明汰をついに見兼ねた仁兵衛が、その日の帰り道、呆けて隣を歩んでいる明汰に言った。
「明汰。お前さ、どうしたいんだ?」
「え、何が?」
緩やかな傾斜を描く坂道を上がりながら明汰は反問する。語調は意外としっかりしているのだが、その瞳は坂の頂上付近に密生している林の方を眺めていて心此処に在らずを体現している。
いつまでもぼやぼやとしている友人に軽く苛立ちを感じ始めていた仁兵衛は、それを紛らわすかのように頭をがりがりと掻いて、「転校生のことだよ」と付け足した。
『転校生』という単語に明汰は過度な反応を示した。まるで本人が目の前にいるかのように身体が鯱張り、足取りが覚束なくなって道に転げていた石ころでつまずきそうになる。そんな明汰の様子を見ていた仁兵衛の口から、「はぁ」と、それを聞いた第三者も一緒くたになって脱力してしまいそうな溜め息がこぼれた。
「お前さ、転校生のこと好きなんだろ?」
「え、えっと……」
口籠って言葉を濁らせる明汰に、仁兵衛の怒りはついに臨界点を超え、「アァァァアッ!」と、山の峰々に向かって吠えんばかりの叫びを上げた。
「え、え? どうしたの、仁兵衛?」
自分の煮え切らない態度が怒りの原因になっているとはちっとも思っていない明汰は、砂利を蹴とばしながらぐんぐんと坂を上がっていく仁兵衛のあとを慌てて追った。
「仁兵衛、どうしたの? え、なんでそんなイラついてるの?」
「何故でしょうね不思議ですね」
矢継ぎ早にそう言った仁兵衛の脚はさらに速度を増していき、早足と駆け足の中間くらいの速度で坂の頂点目指して驀進していく。明汰も遅れまいと仁兵衛の傍らに着いて横目で彼の顔色をうかがうが、憮然とした横顔からでは言外の感情を読み取ることができそうになかった。
道脇に顔を並べている菜の花は、何とも言えない速度で坂道を上がる彼らのことを笑うかのように風に吹かれて上下に頷く。その頷きは、通り抜けていく風とともに隣の花へと伝播していき、辺りの菜の花に微笑みの波紋が一斉に広がった。
草花たちは笑っているが、仁兵衛は憤然とした歩調で坂の頂上に到達した。その二秒後に明汰も肩を揺らして到着する。
仁兵衛は歩みを止めずに道を進んでいくが、適度に体を動かしたことで熱した体温と怒りの判別がつかなくなったのか、さきほどまで抱いていた憤怒はどこかへ行っていた。いまだに事を理解していない明汰が、心配と不安をない交ぜにした表情を向けてくるのが何だか可笑しくなり、仁兵衛は口先を尖らせて明汰に言う。
「で、どうなんだよ。はっきり言っちまえって、『夜谷芽唯子さんのことが大好きで大好きで仕方ありませーん!』ってさ」
仁兵衛の不作法な言い方に明汰はさっと頬を赤らめて、芽唯子の顔を脳裏に描く。
第一印象で際立っていた髪の毛もそうだが、この里の子にはない気品のようなものがあの目鼻や動作から漂っていて比類のない存在だと明汰は思う。
あれから彼女としたやり取りと言えば、印刷物の受け渡しくらいのものであったが、儚げな表情で中庭のさくらを見つめている芽唯子を見る度、明汰はじりじりと焦げるような痛みを胸のうちに感じるのであった。
芽唯子のことを思い出しただけでも胸に痛みを覚えた明汰は、唇の上下をもごもごと動かすようにして仁兵衛に言い返す。
「好きかどうか……自分でもよく分からないんだよ」
「――あ、夜谷だ」
仁兵衛が道の先を指さすと、明汰はまるで猫に睨まれたネズミのように全身を硬直させてその場に立ち止まる。焦点の合わない目で正面の道をたどるも、そこに芽唯子の姿を見ることができず、頭の回転も鈍ってしまっているのか今の状況をまったく理解できなくなり、茫然自失の寸前にまで差し迫っていた。予想していたものより遥か上の反応を示した明汰を覚醒させるため、仁兵衛は蝋人形のようになった彼の頬をべしべしと叩いて呼びかける。
「おい、明汰! ウソだよ、ウソ! おーい!」
十秒ほど外界からの刺激を遮断していた明汰は、突然、頬に痛みを感じて飛び上がった。
「おっ、やっとこの世に戻って来たか」
快活な声で笑っている仁兵衛から明汰はやっと事態を悟り、なだらかな額に深いしわを寄せた。
「仁兵衛、からかうなよっ。僕は真剣なんだって」
仁兵衛はぷっと息を吹きこぼし、「分かってんじゃん」と言って言葉を繋げる。
「そこまで想ってるなら、お前は転校生のこと好きなんだろ」
今初めて自分の気持ちに気が付いたかのように明汰はあんぐりと開口し、「やっぱそっか」と呟いた。そんな友人に仁兵衛は苦笑し、杉林に囲まれた道を再び歩き出した。
道を行くに連れて木々は背を伸ばしていく。周辺を満たす空気はわずかに湿気を帯び始め、服からのぞいた肌にひやっとする冷気を寄越した。夕暮れにはまだまだ時刻があるが、大気は着々と夜へと移行しているようである。
「で、どうするつもりだよ?」
杉の樹冠から射しこんだ太陽に目を細めた仁兵衛は、どうせまた訊き返されるんだろうな、と一秒先の展開を予測しつつ明汰に訊ねた。案の定、それだけでは理解が及ばなかった明汰は、「どうするって何をさ?」と、無邪気に首を傾いで訊ね返してきた。
「お前さ、勉強できるわりに察しが悪いつーか、想像力がないっつーか。まぁ、いいや」
顔を目掛けて飛んできた羽虫をはたき落として仁兵衛は続ける。
「夜谷に歓迎会を断られてから、会話すらしてないんだろ? これからどうやって関係を進展させていくつもりなんだよ? 付き合いたいんだろ? あわよくばチュッチュ、チュッチュ、と人目をはばからず接吻としゃれ込みたいんだろ?」
「いやぁ、僕はそんな、付き合いたいとかはなくて……」
紅潮させた顔をさっと林側に向けた明汰を難詰するようにして仁兵衛が言い寄る。
「じゃあどうしてーんだよ。仲良くお話しできるお友達になれりゃいいのか?」
「僕としてはそれでも構わな――」
明汰が言い切る前に、額に手を当て大仰に空を仰いだ仁兵衛は「かー」と、痰を切るような声を出した。
「お前はそれでも男か! え、コレは何のためにココに付いてんだ!」
股間を触ろうとする仁兵衛の手を明汰は必死に振り払いながら語気を強めて言い返す。
「僕はそれでもいいんだよ! 仁兵衛には関係ないじゃないか!」
「あー、そんなこと言っちゃいますか、明汰さん」
仁兵衛は急に白々しい口調になって言い始める。
「本当にいいんですかー。あなたそんな性格じゃ一生女子と仲良くできないですよー。今ここで一歩を踏み出さないと、死ぬまで女の子と手を繋げないような臆病者になってしまいますよー」
「そんなこと――」
と言い掛けた明汰は、自分が異性と仲睦まじくしている様子を想像してみようとした。が、視界に濃霧がかかったかのように不明瞭な像しか結ぶことができなくて、仁兵衛の物言いにぐうの音も出なかった。
反論できなくてむっつりと黙り込んだ明汰を嘲笑うようにして仁兵衛が言う。
「そうだな。とりあえず転校生と会話することを目指せよ」
押し黙りながら小さく頷いた明汰の背中を仁兵衛は思い切りよく叩いて、
「ま、頑張れよ。俺は応援すっからさ」
友人を鼓舞する一言を投げかけた。
「うん、ありがと、がんばる」
明汰は仁兵衛の協力に素直に感謝を表わす。しかし気分は、どうやって芽唯子に話し掛けようか、と頭を悩ませていたため、憂鬱であるとも言えた。家路を進む足の動きは鈍くなり、心なしか全身も重く感じた。そのように伏し目がちになって歩行していた足下の視界に鮮やかな桃色が飛び込み、明汰はゆるゆると顔を上げる。
道の脇に生えているさくら並木にはもう心許ない花しか咲いていなく、花弁を散らしたさくら木から死を連想した明汰は、背筋をわずかばかり泡立てた。それに対して前方に伸びている道には、まるで桃色の苔が異常繁殖したかのように舞い散ったさくらが張り付いている。その対比に、明汰は名状しがたいうら寂しさを感じていた。
ついこの間まで注目の的であったのに、今となっては見る影もない。彼らがどんなに名声を取り戻そうと足掻いても、自分を煌びやかに魅せてくれていた装飾は他のものに渡ってしまっていて、もう取り返しはつかない。芽吹き始めた葉ざくらに甘んじながら、また一年後を今か今かと待ち望むしかない。
「おーい、明汰。おいてくぞー」
さくらの絨毯を蹴り上げながら進んでいた仁兵衛は、立ち止まっている明汰に気付いてそう叫んだ。明汰は手を上げて「いま行くー」と、地に並んださくらを気遣うようにそっと足を運んで友人のもとへと向かって行く。しかし、いくら気にかけようとも道一杯に敷き詰められた花びらを足蹴にしなければ先へは進めない。明汰は、少しでも踏み付けている時間を短くしようと足運びを早めるが、一足ごとに胸の底に心苦しさが堆積していき、ついに耐え切れなくなってそっと背後の足跡を顧みる。超然と拡がっている桃色の絨毯には、土足で踏み入られたかのように茶色い斑点が点々と縦断し、その泥土は自分の踵へと接合していた。
永遠に綺麗なものなんてないのだと、振り返った情景から今更のように実感する。そもそも永続する美というものが仮にでもあるとするならば、それは現状抱いている『美』という概念とは天地ほどの隔たりを持ったものになっているだろう。いつまでも際限のない事象はただの延命措置であり、いつ何時消え失せてしまうとも限らない、儚く、脆く、朧げで半透明的なものこそに、人は美意識を感じるのだろう。
いつもの待ち合わせ場所である石段に到着すると、そこで仁兵衛と別れて明汰は自宅へ坂を下りて行く。急な坂を転げてしまわないよう気を配っている頭のなかでは、芽唯子のことが大半を占めていた。
――なにを切欠に話し掛けよう。そもそも僕と話しをしてくれるだろうか?
転入から一週間経ったいまでも、生徒たちと会話を交わそうとしない芽唯子とどうすれば親交を深めることができるのか。うんうんと唸りながらあれこれ思案しているうちに、明汰は自宅付近にまで接近していた。
波打った屋根瓦に赤みがかった落陽が反射し、元の漆黒は暖色を帯びていた。冬季と比べ日は大分延びた。これから夏に向けて昼の時間はまだまだ延長していく。空気はさらに熱気を含んでいくだろうし、木々の色合いは刻々と深まっていくだろう。安閑としていると春は瞬く間に過ぎ去って夏がやってくる。その頃には芽唯子とふつうに会話できる程度には関係を進展させていたい。ささやかな目標を掲げ、明汰は自宅の敷地に入った。
建て付けの悪い引き戸をガタガタと言わせながら開き、夕食の香りが充溢している家内に向けて「ただいまー」と、帰宅を告げた。
「おかえりー」
上り框に腰かけて履物を脱ぎながら母親の返事を背に受け、小鼻をぷくっと膨らませて夕食はなんだろうと明汰は密かに推理を楽しむ。
鼻腔を満たしたのは嗅ぎ慣れた味噌汁の香り。台所から響いてくるまな板を小気味良く叩く音。溶岩のように煮えたぎった鍋の唸り声。それだけの要素で解答を得ることは到底叶わないのだが、髪先から指先まで満たしてくれるこの暖かさを毎日感じることができるのなら、たとえ食卓に粗末なものが並んでいようと明汰は満足だった。
思わず微睡んでしまいそうな心地を胸に、明汰は自室へと足を向ける。北側の一室である自分の部屋は、夏は蒸し風呂、冬は野ざらしの雪原という両極端な環境であるが、春と秋だけはなんの苦難もない、むしろ快適な空間だと言えた。
小学校入学を期に父が黙々と作製した杉の机に鞄を置き、明汰は四畳半の中心に仰向けになった。
ほつれた畳の個所から藺草の甘い匂いが湧き立ち、半開の窓からむせ返ってしまうほど草花の余情を湛えた春風が染み入るように吹き込んでくる。今まぶたを落としてしまえば、間違いなく深い眠りに落下してしまい夕食まで寝込んでしまうだろう。そう危惧した明汰は、頭に芽唯子のことを思い描いて半覚醒状態を保持する。
芽唯子を思い出せば、必ず初見の際に抱いた感動が甦ってくる。
どのような状態でも艶を手放さない黒髪は、金属の光沢にも似た頑強さを放っているが、ひとたび風に吹かれれば漲っていた緊迫は瞬く間に融解し、雨露に濡れそぼったしなやかな蔓と化す。外因によって刻々と変貌する髪の毛に対して当人の変化は驚くほど乏しい。
相貌には恒常的な無表情が幕を落とし、時たま思い出したかのように実行される瞬きが起こる以外、彼女の顔に主だった変容は訪れない。言葉を投げかければ何らかの反応は返えしてくるのだが、それは髪に付着した枯葉を振り落すかのような壁を感じる応対だった。
当然、剥き出しの刃のような花織と反りは合わなかった。歓迎会を拒まれたことを聞かされた花織は烈火のごとき怒りを毛穴という毛穴から噴出させ、芽唯子へと向かって行くのを仁兵衛と一丸になって止めたという一触即発の場面もあった。それから、あからさまな衝突は今のところ勃発していないが、花織の気分次第で明日にでも起こる可能性を十二分に孕んでいる状態である。
そのようなこともあり、教室の空気には、まるで大気に火薬が混じっているかのような緊張感が行き交っていた。大部分の生徒は、花織の機嫌を損ねないために芽唯子から距離を置き、事がどのように進展していくのか遠巻きに見守るといった対応を取っている。明汰と仁兵衛も花織の動静に神経を逆立てるといった日々が続いていた。
芽唯子との良好な交遊を望むには、そのような煩瑣な問題も解決することになるのだと思い、まだ行動に移してもいないというのに疲労感がどっと明汰の四肢関節を襲った。畳に身体がめり込んでいくかのような意識の低下から逃れるようにして、肺から鬱屈を吐き出していると、廊下の床板が軋む音が畳を伝って明汰の耳へととどいた。
上半身を起こして振り返ると、帰宅した照夫がちょうど部屋の前を通過して洗面所へ向かうところで、明汰はとっさに父を呼び止めた。襖枠の外まで半身が行きかけていた照夫は、息子の声に引き返して仏頂面をぬっと部屋へ入れた。
どうして父を呼び止めたのか自分でも図りかねていた明汰は、「お、お帰り」と無難な言葉で場をやり過ごそうと思った。
照夫は「ああ」と平常通りの無感動な返事をし、それから明汰が口を開かないので洗面所へ足先を向けようとしたところで、明汰から何かを感じ取ったのか捻りかけていた体躯を戻した。
「明汰、なにか用か?」
まさか父の口から気遣うような言葉が飛んでくるとは思ってもみなかった明汰は、まごつきながら父に相談してみようと思い立ち、直接は気恥ずかしかったのでなるべく迂遠な経路をたどるようにして訊ねた。
「お父さんってさ、どうして、お母さんと結婚したの?」
夫婦の成り立ちを矢庭に訊ねられて照夫は毛虫の眉を持ち上げたが、それ以上の反応は示さずにへの字に結んでいた口を解いた。
「一番近くにいた女の人が母さんだったから」
「それ、お母さんが聞いたら怒るかもよ」
明汰は薄く笑って言った。
「そうか……」
照夫は肥えたどんぐりのような双眸を天井の角に向け、
「昔から俺に構ってくれたから、かな」
いつも以上に言葉を濁してそう言った。
その顔の横にぶら下がっている福耳が真っ赤に染まっているのを見て、ここまで感情を面に出した父を見るのは初めてかも知れないと、稀有なものを拝めたことに明汰は微笑の色を濃くしてさらに追及する。
「もしかして、お父さんとお母さんって幼馴染?」
照夫は熱くなった耳の温度を確かめるかのようにごつごつとした指で軽く触れ、苦虫を噛むように口を咀嚼させながらわずかに頷いた。
両親の由来を初めて聞いた明汰の胸に、新鮮な果汁を一飲みにしたかのような爽快さと、喉を抜けた果物の甘味が口腔を漂っているかのような陶酔が一緒くたになって飛来した。もしかしたら、自分も芽唯子とそういった仲になれるのではないかという、蜜柑のような甘酸っぱい想像が拡がったのだ。
「じゃあさ、結婚することはどっちから言い出したの?」
仁兵衛には羞恥のあまりああ言ってしまったけれど、芽唯子と結婚とまで欲張らずとも懇意な付き合いをしたい。そこへ至るために少しでも参考になりそうな情報は集めておこう。そのように思って訊ねたのもたしかに理由のうちにあったが、それは蝶が描く円周ほど小さなもので、本当は両親のことを知りたいと思ったからだった。
明汰の問い掛けを受けた照夫は、辛辣な苦難に耐えているかのような渋面を寄せた。その反応から鑑みて、婚姻を持ちかけたのは父からなのだと明汰は推理し、「どうやってお母さんの気を引いたの?」といよいよ核心に迫る質問をした。
照夫はどうしてそこまで話さなければならないのだ、と無遠慮な息子をどんぐりの瞳で睨みつけたが、ここまできたのならもう行くところまで行ってしまおうと諦めにも似た気持ちを携えたのか、求めるような視線を寄越す息子に静かに言った。
「ずっと母さんのことを観察してだな、母さんがそのとき一番求めているものをあげ続けた」
「贈り物をいっぱいしたってこと?」
「物だけじゃなくて、もっといろんな『もの』だ」
そこまで言ってもう尋問はこりごりだと、照夫は一方的に話を打ち切り、身を引いて襖枠の外へ出て行った。
明汰は再び身を畳みに横たえ、板張りの天井に付いた魚の目のような木目を眺めて、「一番求めてるもの、かぁ」と小さく呟く。
芽唯子は何を求めているのだろう。目を閉じて考えを回らせてみたが、会話もままならないのにそんなこと分かるわけはずがない。その思考は早々に放棄して、父が言っていたもっといろんな『もの』とは具体的にどういったものを指しているのだろうかと、ほつれた藺草をぶちぶちと引き抜きながら漫然と考えてみる。
――物じゃないってことは、喜ぶようなことをして上げたってことだよね。
芽唯子が喜ぶようなこととは、なんだろう? さまざまな想像を飛ばしてみたが、氷像のように変化の乏しい彼女の表情をなかなか解かすことはできなかった。
そうして、あれやこれやと頭のなかで試みている間に、食卓から夕食の完成を告げる母の声がとどいたため、明汰は思考を引きずり部屋を後にする。
南瓜の煮物を口に含み、もう十分なほど時間をかけて咀嚼していた明汰のことを母が行儀が悪いと叱責する。咀嚼の速度にまで口を出され、むっとしたがこの場は早々にやり過ごして部屋に戻った方が得策だと思い、残っていた味噌汁を流し込むようにして食べ終えて部屋へと戻った。
夜風にあたりながら再び思考に没頭しようとして横になる。すると骨の髄から日中の疲れがどろどろと溢れてきて、満腹も相まって明汰は夢中へと引きずりこまれていった。
夢のなかは白かった。
地平線まで広がる銀世界のような美しさを包含したその白さは、天穹を厚く覆い隠す雲海のようでもあり、不均一な濃淡を揺らめかせながら明汰の視界を埋め尽くしていく。
やがて白さの陰影に曙光を浴びたかのような赤み射し込み、上気した頬のように淡い朱色が雲に宿る。
この景色は、ずっと昔に見たことがある。
隣には、そう、お父さんがいた。
あれはたしか、一瞬の出来事で――
力を帯びていく赤色から当時の記憶を探り出そうとしたが、それは、瞬く間に姿を変えて明汰を深層下へと沈めていった。




