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瞬きさくら  作者: はじ
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(2)瞬きさくら

「転校生! 入場ァ!」


 端沼が開けっ放しにておいた戸に呼びかけると、やや俯きがちになった女子が廊下から現れて、氷上を滑っているかのように摩擦を感じさせない歩調で教卓の横に着いた。


「さァ! 自己紹介だァ!」


 端沼がそう促し、教室中が彼女の言動に注目した。


「――、め――です」


 おそらくそこにいたすべての人が耳の横に手をやって眉を寄せた。明汰もそれに近いことをして、転校生がもう一度、同じセリフを口にしてくれることを期待した。

 しかし彼女はそれ以降、言葉を発するどころか唇すら動かさなかった。

 彼女はスカートの裾をわずかに握り締めた状態で、このまま時の流れが何もかもを推し進めてくれることを待ち望んでいるかのように黙然と足元を見つめ続けていた。

 無音の教室に、外から聞こえてくる山鳥の囀りが静かに響く。事態の進展を望む生徒たちは担任に、どうにかしろよ、という念を一斉に送った。

 平常なら絶対に受信することができないその念波を、今回ばかりは奇跡的に受け取ることのできた端沼は、「よ、ようし、先生が黒板に名前を書いてやろう」と、声を張ることも忘れてチョークを手に取った。

 端沼の野放図な文字が書き記した名前は、『たに 芽唯子』というものだった。

黒板に記されたその名前を見た明汰は、彼女の名前にただならぬ親近感を覚えていた。まるで自分の『ばし 明汰』と対をなす名前だと思ったからである。

 何か運命的なものの到来を実感しつつ、これはただの偶然の産物でしかないと、じわじわと高鳴っていく鼓動に言い聞かせた。


「――先生!」


 口火を切ったのは飯咲だった。気を利かせての行動なのかどうなのかは、彼女しか知りえないのだが、少なくとも彼女によって室内を満たしていた静寂は破られた。


「夜谷さんはどこに座るんですか?! 机が一つ足りないのは見て明らかですよね!」


「おおぅ!」と、端沼は今気付いたかのように驚嘆をもらした。


「すまない、夜谷! 今すぐ取りにいって来るから待ってるんだァ!」


 言うや否や、端沼は教室から飛び出した。

 たかたかっ、と端沼が廊下を駆けているのであろう足音を耳にしながら、残された生徒たちは、いまだに微動だにしない芽唯子のことを興味深げに観察する。明汰もその例に洩れることなく、教卓の横で彫刻のように佇んでいる芽唯子の外観を眺めた。

 服装は飯咲などの女子生徒が着ているセーラー服と同じである。それ以外に登場の際からとくに目を引いた部位といえば、肩に軽くかかる程度の長さを持った髪の毛だった。芽唯子の頭髪は丹念に擦りこんだ墨のような毛色で、窓から射しこんだ陽光がそこで反射し、黒いはずの毛髪を目映く発光させていた。それだけでも十分に見惚れてしまうのだが、何より彼女の髪を美しく見せる要因となっていたのは、その髪の毛が春雨に降られたかのような艶を保っていることだった。

 本当に呼吸をしているのか疑わしいほど身動きのない彼女であったが、開いた窓から風が吹き込むと、彼女の髪の毛はまるで絹糸のような光沢を放ちながら、きらきらと宙に散会し、風が止むことでまた元の位置へと舞い戻るのである。

 ――あれに、触ってみたい。

 性的な欲求とはまるで次元の異なるその願望を明汰は抱いた。

 それは、心から美しいと思ったものにできるだけ近づいてみたい、もしできるのなら、この手で触れてみたい、という隔てのない純粋な欲望だった。

 ここからでは届くはずもない芽唯子の髪の毛に、明汰が無意識のうちに手を伸ばそうとしていると、


「夜谷さんはどこから転校してきたんですかッ?!」


 同性の美貌に嫉妬した獣が吼えているかのような大音声で、飯咲が芽唯子に訊ねた。

 が、芽唯子は飯咲の姿をちらりと一瞥してまた顔を伏せた。


「無視! そうですか! そんなことをしちゃいますか! ならわたしだって言わせてもらいます! 他人を無視するような人は虫ケラ以下です! 夜谷さん、あなたは虫以下です!」


 虫ケラより下層に置かれては黙っていられなかったのだろう、芽唯子は俯いた姿勢のままで小さく囁いた。


「見たから無視じゃない」


 たしかに芽唯子は飯咲のことを一瞬だけ見たので無視とは言わないなぁ、と明汰は納得する。


「ほほー、言うじゃないの、転校生!」


 反抗されて何故か嬉しそうな表情になった飯咲がさらなる痛罵を浴びせてやろうと口先を動かす寸前で、机と椅子の一式を抱えた端沼がよろよろと戻って来た。


「こら飯咲! 転校生をいじめちゃダメじゃないかァ!」

「いじめてませーん、挑発していただけでーす」


 たしなめられた飯咲は、そっぽを向いてそう言った。

 あまりにも頓着のない飯咲の開き直りぶりがよほど可笑しかったのか、仁兵衛はぷるぷると肩を揺らして笑いを堪えているようであった。平素の明汰も飯咲の明け透けな言葉に頬を緩めるくらいの反応を示していたはずだが、今の彼にはそこでなされていたほとんどの会話が耳を素通りしていた。

 明汰の瞳には、芽唯子だけが映っていた。

 まるで時が止まってしまったかのようであったが、胸のなかでは心音が力強く唸っている。それを押しとどめる術を知らない彼は、刻一刻と大きくなっていく鼓動をどうすることもできずに放置して硬直していた。だから彼は、芽唯子の席が自分の真後ろになったことに気付くのに一歩遅れた。


「よぉし、夜谷! お前の席はここだァ!」


 端沼はそう言って明汰の背後の空間にどっかりと机を置いた。その音で明汰は我に返り、音もなくこちらへと向かってくる芽唯子を見て、ますます身体を固めて鼓動を高鳴らせた。

 芽唯子が着席すると、端沼が今日の予定を快活に喋り出す。このあと、校庭で簡便な始業式をやり、教室に戻って今年の日程といった印刷物の配布、それから解散という段取りであるらしい。明汰は自分の背後に芽唯子がいると思うと、それだけで緊張してしまって端沼の話を頭にとどめることができなかった。


「おい、明汰!」


 肩を小突かれハッとして顔を向けると、仁兵衛が立っていた。


「ボケーッとしてっと置いてくぞ」


 教室にはもう自分と仁兵衛しか残っていなく、端沼の話をまったく聞いていなかった明汰は、突然、生徒たちが消えたのかと思い違いをして「うわっ」と仰天した。そんなとぼけた反応を見せた友人に、仁兵衛はハァと呆れがちな溜め息を吐いた。


「もうみんな校庭に行っちまったよ。残ってるのは俺とお前だけ」

「校庭? え、あ。そっか」


 今になって理解に及んでいる明汰を催促しながら仁兵衛が言った。


「お前って、偶に呆けてるよな」

「そう?」


 明汰は身に覚えがないという風に首を傾げ、足早に教室を後にした。

 校庭には彼ら以外の生徒と教員が集っていた。叱責するような視線を寄越す校長の横を小走りに抜けて明汰と仁兵衛は所定の位置に着く。

 九十二名の全校生徒を前にした校長は、かまぼこのような口髭に拡声器を押し当てて喋り出す。その内容が、髭の擦れる雑音によってなかなか要領を得ないのはいつものことで、それを知っている生徒たちは真剣に聴いているように装いながら近隣の友人の尻を叩いてからかったり、小声で会話を交わしたりしていた。

 校長の話に耳を澄ませているのは、教員たちと入学したての小学一年生たちである。

 里唯一の教育機関であるこの学校は、小学一年生から中学三年生までの子どもたちが集められている併設型の小中一貫校である。各学年の生徒数は平均して十名程度となっていて、その年によって子どもの数はまちまちであるため、なかには三人しか生徒のいない学年もある。

 今年入学してきた小学一年生は、比較的多く十一名いるようであった。

 仁兵衛や他の友人と尻叩き合戦をしながら、明汰はその緊張し切った一年生たちの様子をうかがってみたが、そこにいるどの顔にも見覚えがあった。前から二番目の女の子は、近所に住まう片貫さんの末っ子。その後ろは、名前は分からないが昔遊んだことがある。残りの子も、里にある川や山のどこかで見かけたことがあった。

 明汰は仁兵衛の尻をはたきながら、さり気なくその視線を最後尾で立っている芽唯子に向ける。芽唯子はやはりそこでも俯きがちの姿勢のままで屹立していた。

 芽唯子のことを盗み見ていた明汰を目聡く見つけた仁兵衛が、額をぶつけるようにして顔を寄せ小声で言った。


「明汰、転校生にホレたのか?」

「え、えーと。分かんないや」


 釈然としない明汰の返答に仁兵衛は「お前らしいわ」とにしにし笑う。むっとした明汰は仁兵衛の尻を思いっきりよく引っぱたき、それが予想外の衝撃だったのか、嫌らしく笑っていた仁兵衛は「ぬんっ」と力士が気合でも入れているかのような低い呻き声を出した。

 それと期を合わせるようにして校長が握った拡声器から一際大きな雑音が吐き出され、明汰と仁兵衛はさっと正面を向いて背筋を正す。


「以上で――、入学式兼始業式――の言葉とさせ――ます」


 要所要所で差し挟まれる髭の擦過音で最後まで締まらない感じではあったが、今年の入学式と始業式はつつがなく終了した。それが分かった瞬間、生徒たちは虫かごから飛び出すバッタのように校舎へと向かって歩き始めた。

 明汰は仁兵衛と放課後は何をして遊ぼうかという話しをしていたが、正面を行く芽唯子の背中を見ていたら、どこか上の空の反応になってしまった。その態度に仁兵衛は訳知り顔で頷き、「今日は転校生の歓迎会でもやるかー?」とわざとらしく大声で言った。

 近くを歩いていた何人かの生徒がこちらを向いたが、芽唯子はこちらを振り返らなかった。何処からともなく現れた飯咲花織が明汰たちの前に腕組みをして立ち止まり、慇懃無礼な調子で言う。


「それ、いいわね! あの転校生いい性格してるからね、出る杭は早めに打っておきましょう!」

「どんな歓迎会するつもりだよ……」

「なに、文句あるの?」

「いや、文句っつーかさぁ」と仁兵衛は助けを求めて明汰に視線を流す。

「えーと、花織ちゃん。普通の歓迎会をしようよ」

「ふんっ、明汰くんは相変わらず甘いわね。そんなんじゃいつの日か糖尿病になって死ぬわよっ!」


 花織は高飛車にそう言って、「まぁでも、やるっていうんなら私も手伝うわよ」と、意外に乗り気であるようだった。朝の様子から花織は芽唯子のことが嫌いなのではないかと内心で心配していた明汰は、その気苦労が早々に解けて朗らかな気分で教室に戻った。

 自分の席に着く際も後席にいる芽唯子のことが気になって仕方がなかった。これは仁兵衛が言っていた通り恋なのだろうか? 制服の背面に芽唯子の存在を感じながら明汰は自問してみた。

 それが恋なのかはまだ分からないが、間違いなく意識はしている。そう言えば、自分は恋らしい恋をしたことがなぁ、と明汰は今までを振り返って思い返す。

 小学校三年生の頃、花織に恋心らしきものを抱いていたような気もするが、あれは花織の強引さに口答えができず従っていただけのような気もするので、恋とは何か違うと思う。あとは――と、明汰は頭のなかにある記憶を矯めつ眇めつ眺めてみたが、それらしきものを見いだせなかった。

 明太が追想に耽っていると、前席から印刷物が回ってきた。それを受け取った明汰は、ごくりと生唾を飲みこみ、緊張しながら上半身を捻って芽唯子へと印刷物を回した。

 ぼんやりとした調子で窓辺の中庭に植えられたさくらを見据えていた芽唯子は、がちがちに強張った明汰の手から印刷物を受け取り、再び視線をさくらへと戻した。

こっちのさくらは桃色が濃いんだ。芽唯子がそんなこと思っているとは露知らず、明汰は初接触に手応えを感じていた。


「よっし、それじゃあ解散だァ」


 端沼が勇み叫んだとほぼ同時期にして身を乗り出してきた花織は、配布された印刷物に目を通している芽唯子を一見し、明汰に耳打ちをする。


「どうするの? 歓迎会やるのなら、話は早めに通しといた方がいいわよ?」

「え、まだ場所も決めていないし……そんなに急がなくてもいいじゃないかなぁ」

「何を暢気なことを言ってるのよ。善は急げって言うでしょ、明汰くん。この諺の意味はね、どんなことで急いでやれば善行になるってことなのよっ!」

「それだと意味が変わっちゃわないかな?」

「バカね。言葉の意味なんて時代とともに刻々と変化していくものなのよ! さぁ、そんなことはどうでもいいわ――」


 一発かましてきなさい! と花織から後押しを受けた明汰が背後の席に振り向くと、そこには芽唯子の姿はもうなかった。


「いつの間に!」


 花織もまったく気付かなかったようで、芽唯子が煙のように消えてしまったことに心底驚いているようだった。そんな二人を傍から見て呆れながらやって来た仁兵衛が、「お前ら何、たらたらしてんだよ」と毒づくと、それが気に障った花織は声を荒げて言う。


「うるさいわね。ならあんたが行ってきなさいよ」

「へーへー」


 仁兵衛は花織の怒気を面倒くさそうに受け流し、


「明汰、行くぞ」


 そう明太に呼びかけて一緒に教室を辞して芽唯子を追った。

 下駄箱で芽唯子を掴まえることができた。


「夜谷さん。こいつから話しがあるってさ」

「えっ?!」


 仁兵衛が伝えてくれるものだとばかり思っていた明汰は、唐突に矛先を向けられて心底焦った。動揺のあまり視線をきょろきょろと動かしていると、芽唯子に不審な目を向けられ、しどろもどろになりながら口を開いた。


「あのさ、僕はあの、夜谷さんの前の席に座ってた日橋って言うんだけどさ。あの、あの――」


 なかなか本題に入らない明汰に業を煮やした仁兵衛は、彼の背中を肘で突く。明汰は多少よろめきながらも仁兵衛の示唆するものを理解して、腹にぐっと空気をためた。


「まだ日程とか場所とかは何も決まってないんだけど、今度さ、夜谷さんの歓迎会をやろうってことになった、んだ」


 歓迎会と聞けば芽唯子の表情が少しはほころぶと期待していた明汰であったが、いくら待っても鉄面皮のように閉ざされた彼女の顔にいよいよ不安が募らせ、横にいる仁兵衛に助けを求める。仁兵衛は、明後日の方向に顔を向けていて、あくまでも知らん振りを決め込むようだった。

 どうしたものかと明汰が窮していると、漂白されたバラのように色素の薄い芽唯子の唇から消え入りそうなほど幽かな声が聞こえた。


「行かない」


 芽唯子はそう置き残し、開口された大扉から外に出て太陽の光のなかに融けていった。


「フラれたな、明汰」


 茶化すような仁兵衛の声が聞こえたが、頭が真っ白になってしまった明汰には、それが言語となってとどかなかった。




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