(1)瞬きさくら
焼かれるような刺激をまぶたに受けた明汰は、草花に四囲された濃密な香りに富む夢の世界から強引に引き上げられた。ゆっくりとまぶたを押し上げて半眼になると、そのわずかな隙間から猛烈な朝日とその温度が一瞬の間に眼窩の隅々まで満たす。明汰は慌てて掛布団の防壁を顔の前に作り出し、視神経を伝わって身体の奥底まで進行しようとする太陽の気配を食い止めた。そうすることで太陽の光熱からは逃れられたが、明汰はすっかり夢から覚めてしまった。
布団内部の暗闇には、温もりと一緒に夢の景色がまだ残っていた。その世界に再び身を沈めてしまおうかという誘惑に駆られ始めていた明汰の頭上から、
「もう朝よ! 起きなさい!」
母の声が朝日と同じような力強さを持って落ちてきた。明汰は飛び起きるようにして身を起すと、掛け布団の先から母の立ち姿が現れた。
「ほら、ぼさっとしてないで顔洗ってきなさい」
「んあい」
と、欠伸交じりの返答をしてから明汰は布団から抜け出、後頭部から萼片のようにぴょんと飛び出した寝癖を手で撫でつけながら洗面所へと向かった。
ヒトデのような蛇口を捻ると、清廉な朝の大気によって冷却された水が流れてくる。それをお椀にした両手にとどめ、八分ほど満ちたところで寝ぼけた顔面へ一息にぶつけた。まぶたから重みがなくなり、緩んでいた頬がぎゅっと引き締まる。ようやく覚醒を始めた意識を携えて顔を上げると、正面にある鏡に頭を爆発させた自分の姿が映っていた。
今日は一段とすごいなぁ、と心中でぼやいていると、
「明汰ぁ、はやく朝ご飯食べなさい」
母の急かす声が台所から聞こえてき、明汰は濡れた手で寝癖に応急処置を施してから食卓へ足を向けた。
正方形の卓上には、三人分の朝食が所狭しに並んでいた。その一辺に座っていた父親の照夫は味噌汁をズズっと啜り手元の朝刊に目を通したまま、「おはよう」と短く言った。明汰はさらに短く「おはよ」と返し、自分の席に着いた。
白飯と味噌汁、卵焼きなどのなかに大好物の焼き魚を見付けた明汰は、心のなかでグッと拳を握りしめた。くんくんと鼻を鳴らしてみると、どうやらそれはヤマメのようでさらに強く拳を握りしめてから、箸に手を伸ばす。黒焦げの二歩手前まで焼かれたヤマメの骨を器用に抜き取り、箸で身をほぐして口へと運ぶ。うすい塩味が口内に満ち、川魚特有の淡白な香りが鼻から抜けていった。
続いてもくもくと湯気を立てる白米をかき込んでいると、台所から現れた母が、読み物と食事を同時にこなす照夫を見てむっと唇の結びを荒波のような波状にした。
「お父さん。行儀が悪いから、どちらかにしてください」
毎度注意をしても止めない照夫に、呆れがちな溜息をついて母は座卓に着く。そして、ご飯、おかず、味噌汁、と綺麗な三角食べをする明汰のことを見ながら、どうしてズボラなこの人からこの子が生まれたのだろうと首をひねった。
母がそのようなことを考えているとは露とも知らない明汰は、均等に朝食を食べ終えて空になった食器を重ねて台所へと運んでいった。水の張られたタライに食器を浸けこみ食卓へ取って返すと、父をじっと睨んでいた母が戻って来た明汰に向かって訊ねた。
「学校の準備はちゃんとやった?」
下手なことをいうととばっちりを食らう思った明汰は、実はまだ準備が残っていたのだが、「うん、もうバッチリ」と言った。
「今日から二年生なんだから、しっかりするのよ」
言って母は茶碗から手を離し、明汰の頭の上を指さす。母の指先をたどって頭上に手をやると、旋毛の右斜めくらいの位置に、何だかごわごわとした感触があった。
「うわっ!」
飛び上がらんばかりに驚いて洗面所へと走って行った息子を見送った母は、口に含んだお茶で口内を濯いでいる夫に視線を戻し、うっすらと笑みを浮かべた。やっぱりあの子は、この人の子どもだ、と。
洗面所の鏡に向かった明汰は、頭部から小枝のように突き出したいくつもの髪束を見て「うわー」と小さく呟いた。いつもなら濡れた手を通すだけで直るのに今日の寝癖は手強いな、とそれら小枝をもぐように湿らせた手で丹念に揉んだ。二度目ともなると大方の寝癖は静まったのだが、一束の毛だけが昆虫の触角のように飛び出していて、どのような手を尽くしてもそれだけは納まらなかった。
いっそのこと切ってしまおうか、と洗面台に置かれた散髪ハサミに手を伸ばし掛けたが、それだと今日は良くても明日が大変だと思いとどまる。櫛を使ってみたり、父の育毛剤を垂らしてみたりしたが、何をやってもその一本は屈強な樹木のように折れることがなかった。
そうこうしている間に時間は刻々と過ぎていき、もうどうにでもなれっ! と明汰は開き直ってそのまま登校することにした。
駆け足で自室に戻り、詰め襟の制服に着替え、斜め掛けの鞄に急いで荷物を押し込める。「明汰ぁ、時間よ!」という母の呼び声に「分かってる!」と大声を返して部屋を後にした。
ばたたた、と大きな足音を立てて廊下を渡って玄関に到着すると、そこには大きな背中をもぞもぞと動かしながら草履を履いている照夫がいた。
明汰はそっと父の横に座って自分の履物に足を通す。もうそろそろ家を出なくては、友人との待ち合わせ時間に遅れてしまうというに、明汰は横目でこっそりと父の様子をうかがっていた。
紺色に染め抜かれた羽織。その肩口に緑色の二重線。
それは、里にある樹木の管理を生業とする『樹守り』の仕事着であり、さらに肩を奔っている二重線は、里中の木の生長をすべて把握している者だけが袖を通せる由緒あるものである、と明汰は母から聞かされていた。
昔から言葉数が少なく何を考えているのかよく分からない父ではあるが、幼い頃は肩車をされながら里中の樹木を見て回ったことをぼんやりと記憶していた。
林立する樹木を太い指でさしながら、父はその木の特性や習性について事細かな解説をしてくれた。それがどのようなものであったかは、もう埃をかぶってしまっていて思い出せないけれど、父の肩から眺めた明澄な景色のことはよく覚えていた。
どんなに頑張って跳躍しても届かなかった木葉に、そこからなら簡単に触れることができた。いつもより強く風を感じることができ、それに匂いが付いていることを知った。首を伸ばせば里の際まで遠望することができ、山の端で煌めく落日は目が焼けるほど綺麗だった。
しかし中学生になった去年を境にして、父と会話を交える機会もすっかり減っていき、どことなく距離も感じていた。
間近で見てみると着物には裂け目を縫い合わせた跡が所々にあり、もしかしたら意外と過酷な仕事なのかも知れないと、明汰は漫然と思った。いつまでも家を出ない明汰に気付いた照夫は、ゆっくりとした動作で太い眉を上げ、胃の腑に響くようなずっしりとした「どうした?」という声を喉から発した。
その荘重な声音に明汰は少しだけ緊張しながら口を開く。
「あのさ、お父さん……」
「なんだ?」
「仕事、楽しい?」
明汰の問い掛けに父親は答えることなく立ち上がり、戸を引いて外に出て行ってしまった。空腹で目覚めた熊のようなその後姿を、明汰はまんじりと見つめる。飛び石の上を大股で歩いていた父は門柱に差し掛かる手前で突然立ち止まり、快晴の空を仰ぎ見て、まだ框に腰を据えていた明汰に届くか届かないかくらいに調整された声量で、「まぁまぁかな」と言った。
「え、なに?」
聞き返した明汰をやはり無視して、照夫は角を折れて歩き去って行った。
父は何と言っていたのだろう? と腕組みをして考えていると、背後から、「早く行きなさいっ!」という母の怒声が響いてきて慌てて駆け出した。
照夫が向かった先とは逆方向に折れて、友人との待ち合わせ場所を目指して全力で走る。春先の早朝はまだ空気が冷えていて、疾駆する明汰の頬を冴えた冷風が掠めていった。左右の竹垣越しには、自分の家とよく似た切り妻屋根の平屋が間隔を置いて並んでいて、その黒々とした瓦の一枚一枚に曙色の明かりが落ちてまるで天を翔る龍の鱗のように輝かせていた。
道は少しずつ勾配を増していき、明汰の脚を疲弊させる。ここで歩みを緩めてしまえば、待ち合わせに遅れてしまうため、休みたがっている脚を明汰は懸命に動かした。
坂の頂点まで上がると右手には目を見張るさくら並木が、左手には凝縮された木立が堆く居並んだ丘が現れる。鼻先をかすめるさくらの花びらを払いのけながら、明汰は左側の丘を縦に割るようにして伸び上がっている石段に向かう。
石段の最下段には、一人の少年が腰かけていた。明汰は息を整えてから、呆けた顔をして短髪をがりがりと掻いているその少年に呼びかける。
「ごめん、仁兵衛! 遅れた!」
「ん? んー、まぁいいんじゃねーの」
まだ寝ぼけているのか反応の芳しくない仁兵衛のもとまで歩み寄った明汰は、「のんびりしていると遅刻するよっ!」と急き立てる。仁兵衛はやおら腰を上げて、正面に広がっているさくらの群生を指さした。つられて明汰もそちらに目をやる。
「さくらは春になると花を咲かせるけどさ、他の季節は何やってんだよって思わねぇ?」
仁兵衛の真意を汲みかねた明汰は、「いや、別に」と時間を気にしながらおざなりに返答する。仁兵衛は明汰の気掛かりをまったく意に介さない様子で、声を沈めて続けた。
「俺たちはほとんど毎日、学校に行ってるってのにさ、こいつらは春だけ咲けばいいんだぜ? 何だかとても理不尽だよな。そう思わねぇか、明汰?」
賛同を求めて顔を向けてきた仁兵衛に、明汰は悪戯っぽい笑みを返す。
「それなら仁兵衛も春だけ登校すればいいじゃん」
「そりゃー名案だな」
言うに反して学校の方角へと歩み出した仁兵衛に続いて明汰も歩き出す。
風に吹かれて宙を舞っている濃桃色の花びらを、仁兵衛は手の平でバシバシと叩いたり蹴り付けたりして、地面へとはたき落としていた。仁兵衛はさくらにただならぬ恨みでもあるのだろうか? そう思いながら明汰は、彼を真似するようにして目の前で浮揚しているさくらにすっと指を伸ばしてみた。花びらはひらりと身をかわし、吹き上げた風に乗って丘の上へと舞い上がっていった。
「今日から、二年生だね」
何気なく明汰がそう投げかけると、仁兵衛は感慨もなさそうに「そうだなー」と返事をし、手を水平に薙ぎ払って辺りに舞っているさくらを一掃して言葉をつなげる。
「つってもさ、教室の場所も変わらなくて、生徒の顔ぶれは同じなわけじゃん。結局さ、今までとなぁんにも変わらねぇよな」
仁兵衛の物言いに明汰はとくに返答をせず、花弁がびっしりと張り付いて桃色の絨毯のようになった道を見下ろし、それから目を逸らして歩いた。
さくらが風に吹かれて舞う度に地面は色付いていき、目にも鮮やかな様相になっていく。さくら色に輝く地面はとても幻想的で美しく目に映るが、その色合いが増していけばいくほど、脇で樹立するさくらの木は丸裸になっていく。
仁兵衛はああ言っていたけれど、春というその間しか注目されないさくらは、とても寂しい植物なのではないかと明汰は思った。
うねる道に従って進んでいくと、長らく続いていたさくら並木が途切れ、そのさきに平べったい校舎が姿を見せた。周囲を木立に囲まれた校舎は、その古めかしい佇まいも相まってまるで森林の一部であるかのようにも見えた。
両脇に菜の花を従えた勾配の軽い坂道を下っていくと、地面から突き出した二本の木製の柱が現れる。その片側には学校名が記された表札が掲げられているのだが、長年の間、雨風にさらされ続けているため、そこに明記されている名称を判読することは容易ではない。
「とうちゃーく」
仁兵衛が声を間延びさせてそう言うと、カーンと予鈴の鐘が鳴り、明汰は焦って辺りを見回す。芝草が一面に広がる校庭には二人の姿しかない。どうりで登校している生徒と出会わなかったはずだ。明汰はまだ鐘の余韻を残している校舎に向かって一目散に駆け出した。
牛のようにのんびりとしていた仁兵衛も鐘の音を耳にしすると、一刻の猶予も許さない事態であることを察したらしく、
「おい! 明汰おいてくなッ!」
先行する明汰に向けてそう叫んだ。
「喋ってないで走りなよー」
明汰は振り返ることなく背後の仁兵衛に言って、蜂の巣のような下駄箱に履物をしまい学内用の履物を代わりに取り出す。
「待て! 俺だけ遅刻にさせるつもりか! 裏切りは許さんぞ、明汰!」
「別に許してもらわなくていいからー」
「この薄情者めっ!」
もう廊下の遥か先にまで行ってしまった明汰を全速力で追いかける仁兵衛。自慢の脚力を最大限に発揮したおかげか、明汰が教室の木戸に手を掛けたときには、もう彼の横に息を荒げながら立っていた。
二人が教室に踏み入ったその瞬間に、カンカーンという本鈴が学校中に打ち鳴らされた。
「よし、間に合った!」
仁兵衛は戸からすぐの自席に素早く着いた。続いて明汰も、窓側列の最後尾という最も競争率の高い席に腰を落とした。
担当教師の端沼はまだいないようだった。明汰は呼吸を沈めながら、それなら急いで来なくてもよかったなぁ、心中で呟いて教室内を見渡した。
小学一年生からずっと授業を受けてきた教室。一列に三つの机が並び、それが四組という形態もずっと一緒である。教室自体が小作りであるため、机同士の間隔はさほど気にならない。
中学生になったからといって生徒の顔ぶれも変化はなく、小さな頃からよく見知った十二名がそれぞれ手持無沙汰な様子で着席している。
机の数も、花瓶の位置も、黒板の汚れさえもまったく変わっていないような気がする教室に、仁兵衛は嫌気が差しているような口振りであったが、明汰はそれほど嫌悪していなかった。むしろ、安定した日常に異質なものが飛び込んできて滅茶苦茶にしてしまう方が恐ろしく思った。
明汰が肩から下ろした鞄を机の横にある鉤に引っかけていると、教室正面の木戸が開いて、痩せ細った大根みたいな端沼が教室に入って来た。
「よーしよし、みんな来てるなァー!」
強風が吹けばぽっきりと折れてしまいそうな痩身から、どうやってあれほどの大声を出せるのだろう。明汰は人体構造の不思議についてあれこれと勘案を回らせる。
「先生! 遅刻ですよ!」
あともう一歩で解答に手が届きそうな気がしていた明汰の隣席から、女生徒の叱責が飛んだ。
「すまん! 飯咲! 今日は仕方なかったんだァ!」
端沼は教卓に頭をぶつけんばかりに低頭する。それを見た飯咲は、端沼に負けず劣らずの声を張り上げて言う。
「言い訳なんて通用しませんよ! 先生は私たちの貴重な時間を奪ったんです! 言わば泥棒です! 時間泥棒です!」
「すまん! この通りだァ!」
端沼は臆面もなく教卓に額を擦りつけて謝罪をしてみせた。それでも飯咲は容赦せず、さらに弁舌を鋭くして言った。
「なら盗んだ時間を返してください!」
無理難題を押し付けてくる飯咲に、「ど、どうすればいいんだァ! 時間はどうやって返せばいいんだァ!」と端沼は頭を抱えて真剣に苦悶し始めた。
担任のその体たらくに、いい加減付き合っていられないと思ったのか、最前列に座っていた男子生徒が天を突く槍のように片手を上げた。
「先生、そろそろ止めにしましょう」
冷然とした彼の語調に、さらに攻め入ろうと目論んでいた飯咲は思わず口を噤んだ。
それを切欠にして、場は一転して静まっていく。生徒から指摘を受け、さすがに行き過ぎたことを知った端沼は、ゴホン、と実際にそう口にしてから話し出した。
「今日は、みんなに嬉しい報告があるんだァ!」
「子どもがハイハイするようになったァ! とかの私事は報告しなくていいですよー」
端沼の口調を真似した仁兵衛が最後列からそう茶々を入れる。
「それもあるがァ!」
「あるのかよ」
という仁兵衛の呟きをかき消すようにして、端沼は今朝一番の大声で言い放った。
「――転校生だァッ!」
2年前くらいに書いていたものを発掘したので投稿したいと思います。




