散歩しようよ幽霊世界
どんよりとした曇天は、そのまま地上の世界から鮮やかさを取り除いてしまったらしい。 日光が重い雲のフィルターを通って地表へと届くせいか、世界そのものがモノトーン調に作り変えられてしまったかのような、重苦しさを漂わせた一日だった。
梅雨に映えるという紫陽花の花でさえ、この曇天と雨模様ではくすんで見えてしまうだろう。
「麻衣ってさー、好きな人とかいないのー?」
「私は別にそーいうのいらないから」
雨の中をビニール傘が二つ寄り添い、時たま楽しげにぶつかっては雨の雫を散らせながら、帰り道の誰もいない遊歩道を進んでいた。
「もー、そういう事ばっか言ってると一生彼氏なんかできないよ?」
「好きでもない彼氏なんている必要ないでしょう」
「付き合ってみたら以外と好きになるかもしれないよ?」
髪を後ろで纏めた千智は麻衣の無愛想な返事も意に介さず、ひたすら機関銃のように言葉を紡ぎ出して行く。
麻衣の方は相槌を打ったり、適当な言葉を返すだけだ。
傍からみれば一方的な好意の押し売りに見えるこのやりとりも二人にとってはいつものことであったし、千智も麻衣の無愛想な返事は不器用さゆえの性格であって悪気などないことも知っている。
麻衣の方も、表情や態度にこそ出さないが千智の存在が好きだった。自分からは話したがらず、いや話せないと言うべきか、友達と呼べるような存在が他にいなかった麻衣にとっては、ありのままで接してくれたのは彼女だけだったということもある。
千智が小さい頃に話しかけてくれて、そして今現在まで親友としての縁を切らないでいてくれることは、麻衣にとっては何よりの絆の証であると同時に、それに甘え続ける自身への葛藤となって少しずつ心を満ちていくようだった。
変わらなきゃ、と思ったことも二度三度ではないものの、まぁそれも勇気のいることだろう。 麻衣にはそれが欠けていた、というだけの話である。
それでも、試みてはいたのだ。
「千智は」
千智の話が一段落したところで麻衣は彼女を見据えた。千智は首を少しだけ傾げると、大人しく麻衣の言葉を待つ。
二人の足はいつの間にやら止まっていて、水溜りから撥ねる水滴が誰にも気づかれない程小さく、高く放物線を描いて二人の足を少しずつ濡らしていく。
(私と一緒にいて良かったと思う?)
彼女は言いかけた言葉を結局飲み込んだ。一緒にいる時間が経てば経つほど、その問いは心の中で反響して大きくなっていくにも関わらず、それでも麻衣はその答えを聞くことができなかった。
「私と会わなければ、千智は他の友人とより良い学校生活を送れているのではないか」 と千智にそう問いかけることができないのは、その疑問を肯定されることへの恐れがあったからだろう。
麻衣にとっては、千智は無二の親友であると同時に自分に手を差し伸べてくれた拠り所であり、救い主だった。 だからこそ千智の隣にいるのが自分でなくて他の人だったら、と思うのが怖い。
「千智は、毎日幸せそうでいいわね」
結局本当に聞きたいことを聞けないまま言葉を濁して、二人は再び歩き出した。
「何それ」
あははっ、と千智が可笑しそうに笑う。
「幸せに決まってるよ」
ビニール傘から真っ直ぐに手を伸ばして千智は言った。 しとしとと降り続ける雨の雫が手の甲に当たって、砕けて流れ落ちていく。
「私一瞬だって、後悔したくないんだ」
滴り落ちる雫を眺めながら、それでもどこか遠くを見ているような、そんな目で千智は続ける。
「もし明日死んじゃうとしても、ああ、こうしておけば良かった。 なんて思っちゃったらさ。自分の今迄に100点つけられなくなっちゃうよ」
「――そんなに上手くいくものかしら?」
ややあって、少しばかり皮肉を込めて麻衣が答えた。
「後悔しないように、と思ってしたことでも、もしかしたらそのせいで後悔することになるかもしれないじゃない? 」
踏み出せない自身を肯定する為の尤らしい理由付けだ。 麻衣自身、心の中でそう思っている。
「でもしなかったことで後悔するのは私は嫌かな。 あの時やっておけば良かったって、ずっと思い続けるなんて 」
そう言って千智は濡れた手を拭うと、照れ臭そうにはにかんだ。
「高校2年生の、青っちい理想論だけどねっ!」
丁度それぞれの帰り道に差し掛かったところで、千智は話を締め括り、麻衣の方へ右手を一杯に伸ばして、手を振った。
「また明日ね」
二人はいつもと同じように、今日もまた別れの挨拶を口にした。
――カハッ、と小さく血を吐き出して、麻衣は道路に身を横たえていた。 撥ね飛ばされた衝撃のせいか、体の感覚は全く無くなっている。
人を轢いたことに気付いた車はどこかへ逃げてしまったらしく、夜になってから少し勢いの弱くなった雨の音だけが、今彼女が聞き取れる音の全てだった。 ただ、それすら街のどこか遠くから聞こえるように弱く、遠い。
(死ぬのかな)
頭の中で弱く響いた自分の声を振り切ろうと全身に力を入れてみても、体は動いてくれない。 というよりも動いているのかどうかすら麻衣にも分からない。 分かるのはぼやけた視界を染める紅色から相当な出血をしているだろうということだけだ。
どれだけの時間そうしていたのか、いつの間にか時間の感覚まで失った麻衣は目の前の水溜まりに自分の血が混じりあって行くのをただ眺めるだけしかできなかった。
血を流しすぎたからか、それとも命の火が消えようとしているのか。 だんだんと視界が暗転していく中でふと、水溜りの中の携帯電話に気づいた。 正確には携帯電話自体ではなく、そこに括り付けられた千智とお揃いのキーホルダーにだが。
反射的、と呼ぶにはあまりにも弱々しく、頼りないものの、その手は確かに動いていた。 死にかけた身体が感覚を返さなくとも、彼女自身の意思の力によって、遠く暗い視界の先で確かに指先が、キーホルダーに触れた。
そのまま照明を落としたように真っ暗になった視界の中で、千智のはにかんだ笑顔だけ、最後にはっきり思い出すことができた。
「こっちの世界へようこそ」
大声で誰かを呼ぶ声に麻衣が再び目を開けると、そこは彼女自身が轢かれた事故現場だった。轢かれた状況をすっきり覚えてられるわけがないのだが、それでもそこは轢かれた場所だ。 麻衣の目の前には、救急隊員に囲まれた彼女自身がいるのだから。
傷ついて血を流し、ピクリとすら動かない。
夜だというのに、既に周囲は野次馬で一杯だ。
救急車で運ばれていく自分、それを立って見ている自分。
認めたくなくとも、自身が置かれた状況を薄々理解し始めたその時に、背中を何かに突っつかれた。
麻衣がびっくりして振り返ると、繁華街で悪友同士で連れ立って歩いていそうな軽薄な服装をした青年が一人、麻衣を見下ろしながら仁王立ちしていた。
「無視するなよ、あんたに言ったんだぜ」
青年は白い歯を覗かせて笑う。
当然といえば当然なのだが、助けを求めるように周りの人を見渡してみても、野次馬達は二人に全く気がつく様子などない。 野次馬達の目の焦点は皆、青年と麻衣の向こう側の、遠ざかる救急車へと結ばれている。
「えっと、ど、どなたですか?」
自分が死んだかもしれない、ということは麻衣を酷く動揺させていたが、その声音は初めて話す相手には落ち着いているように聞こえるだろう。
だがそれでも、語尾を伝って僅かに漏れ出た動揺を青年はめざとく拾い上げたらしい。
「幽霊」
青年はニヤニヤしながら一言、そう答えた。 そしてそのまま二人の間に流れる、沈黙。
しとしとと降り続ける雨の音と、微かに合間を縫って聞こえる野次馬達のひそひそ話だけが響く、気まずい間である。
青年の表情は相変わらずニヤニヤしたままなのだが、見下ろす目線はもう説明は終わったと言いたげだ。 それに自分で幽霊と言うだけあって、青年の身体は傘も差していないのに全くどこも濡れてはいない。 まぁ、それは麻依自身も同じなのだが。
幽霊になったなら全くの無意味なのだろうが、青年が何も言わないのをいいことにたっぷりと麻依は深呼吸をしてみた。 生きていた時幾度となくやったその行動のおかげか、いくらかは落ち着けたような、そんな気がする。
「えーっと…」
言いながら麻衣は改めてどんな質問をすればいいのか迷ってしまった。
私は幽霊になったんですか? そんなことは聞くだけ無駄だと、麻衣は自分でも思う。 どんなことを聞けば、この気不味い空気を打破できるだろう?
生きている頃は話す相手など家族か千智以外に居なかったから話の内容なんてほとんど千智に任せておけばよかった。
だが今は麻衣自身の力でなんとか会話の第一歩を踏み出さなければいけない。
「こ、これから、何かあるんですか?」
冷静な言葉使いとは裏腹に、麻依は失敗した、と思った。 同時に恥ずかしい気持ちでいっぱいになる。
いくら相手が得体の知れない相手だとしても、自分からの第一声にはもっとマシな挨拶なり質問なりがあったはずだ。 これでは会話の成り立たない残念な人だと思われてしまう。
麻依の気持ちを汲み取ってくれたのか判然としないものの、青年は麻依の危惧した部分には触れずに答えてくれた。
「そうだなぁ、とりあえず周り、見渡してみ」
はぁ、と間の抜けた返事をしながら麻衣は言われた通りにぐるりと視点を巡らしてみる。
「なんか見えっかな、言葉にできねぇけど、ソレっぽい奴」
道路や家々、散り始めた野次馬達、降り続ける雨粒に街灯…の下、ああ、確かにそこに"ソレ"はいた。
街灯の下にいる筈なのに、ソレは黒い闇に覆われて、纏った闇は霧のように発散されて電灯の灯りと混じりあう。
明かりの一部分だけがぽっかりと光を失ったように、そこは闇に浸食されているようだった。 いや、されていた。
ヒトガタの切り絵に見える"ソレ"は麻衣の方へとゆっくり歩みよっているようだった。
「アレって、何…」
言葉を遮って走るぞ、と青年は言い、いつの間にやら掴んでいた麻衣の手を一息に引き寄せた。
ぐいっ、と勢いよく引っ張られたせいで麻衣は転びそうになる。
(死ぬのもそうだけど、まさか死んでから男の人と手を繋ぐなんて思わなかったな)
他に考えることがあるだろうに、野次馬達を縫って走りながら麻衣はそんなことを考えていた。
「そろそろ撒いただろ」
青年は周囲を一通り見渡してから掴んでいた手をぱっと離した。
しとしとと降り続く雨音、弱々しい電灯の光を反射させて、水溜りがきらきらと光っている。 毎日千智と一緒に通っていた遊歩道は、今はたったそれだけの世界になっていた。
流石に麻衣もこの時には自分が全く濡れていないことに気づいていたので、雨に打たれ続けるベンチにもおかまいなく座った。
運ばれて行く自分自身を見なければ、きっと今でも自分が死んだ、だなんて信じようとしなかっただろう。
「アンタが見たアレな、何だと思う?」
声を張り上げたわけでもなさそうなのに、青年の声は大きく、ハッキリとしていた。 背中越しのその声は沈鬱な雨音を掻き消して、響く。
「悪霊…とか」
少なくとも麻衣の目にはアレが良いモノには見えなかったから、恐らくはそういった類なのだろう。
自分から聞いた癖に、青年は背を向けたまま鼻で笑った。
「まぁ実際俺もよくわかんねーんだけどな、多分だけど、この世界のシステムなんだと思う。 ただ少なくとも、悪霊じゃない」
怪訝な表情を浮かべる麻衣をちらりと見つめ、青年は人差し指を立てて説明を始めた。
「アレに捕まるとな、消えてなくなっちまうんだよ。 成仏なのか、生まれ変わるのか、もしかしたら本当に消えちまうのか。 ――とにかく、未練のある奴にとっちゃ、大問題だ」
「未練?」
生きていた時の癖だろうか、青年は座ったままの麻衣に人差し指を向けて、拳銃の形を作った。
「そう、俺達が今ココに存在してる理由だよ」
バンッ、と青年は指を弾いて、笑った。
心当たりはあった、だけどその未練が麻衣自身を未だここに存在させる理由だとするには、それはあまりにもちっぽけなのではないかと、麻衣自身は思う。
「今日死ぬって分かってればなぁ…」
――千智にありがとうと伝えたい。 もっと言えば、大事な、かけがえのない存在なのだと伝えたい。
いつか言おう言おうとして結局言えなかった言葉。 最期、伝えれば良かったと後悔した想い。
項垂れる麻衣を尻目に青年は大袈裟に溜息をついた。
「カーッ、今更後悔したって遅いんだよなぁ。 生きてるうちに済ませておけば、すぱっと天国行けただろうに」
天国があんのか知らねーけど、と付け加えて、青年は無遠慮に麻衣の隣に腰掛けた。 もし生きてる人にこの光景が見えるのなら、幽霊だとは分からないだろう。
麻衣も青年も、外見上は生きていた時と全く何一つ変わらない。
「あなたにはきっと分からないでしょうね。 私の気持ちなんて」
自身ではちっぽけな理由だと思っても、他人に言われるとそれはそれで腹立たしい。
「そう怒んなって、本当のコトだろ?」
「だったら、あなたはどうなの? どうしてココにいるの?」
目も合わせずに、膨れっ面のまま麻衣は聞いた。
「んー、俺は馬鹿だし喧嘩も毎日のようにしてきたけどよ、俺は自分が歩いた生き方には後悔してねぇよ」
「答えになってない」
睨めつけた麻衣の視線を受けて、青年は苦笑いしてからまた溜息をついた。 どうやら根負けしたらしい。
「俺、通り魔とやりあって死んだんだけどよ。 死ぬ寸前にいろいろあったわけよ。 で、まぁいろいろとな、誤解させちゃったみてーだから、なんとかしてぇと思って仕方なくずっとここにいるんだよ」
青年が言葉の中で濁した"ここにいる理由"を麻衣は詮索するのやめた。
ほんの少しの沈黙。
「なんとかできるの?」
「いーや、少なくとも今はできてねぇな」
「どれくらいここにいるの?」
「…さぁ、覚えてねぇな」
ぷっ、と麻衣は吹き出して、そして腹を抱えて笑った。
「さっさと成仏すればいいのに」
「お前に何が分かるんだよ」
今度は青年が睨む番だった。
「まぁ、お互い頑張ろうぜ」
青年は別れ際、麻衣へそう言ってベンチを後にした。
頑張れ、と言われてずっと座っているワケにも行かず、麻衣は青年とは反対側へと歩き出した。 当てがあるわけでもなかったが、何となく学校へと行ってみる気になったのだ。
家には帰りづらい、というのも理由としては強かったが。
幽霊といっても、空を飛べたりするわけでもなければ、壁を通り抜けられるわけでもない。
麻衣は思いっきり正門に額を打ち付けてから、そのことにようやく気づいた。 濡れたり痛みを感じたりはしなかったものの、動かそうと渾身の力を込めて門を引っ張って見てもびくともしなかった。
物を動かしたりできないということは、生前に持っていた幽霊のイメージからすれば酷く不便に思えてくる。
麻衣は仕方なく正門をよじ登り、どこか開いているドアか窓はないかと校舎をぐるぐる回ることにした。
雨の降る夜の校舎は不思議な空間だった。 校舎の白い壁が闇の向こうに吸い込まれていくようで、少しだけ、麻衣の不安な気持ちを逆撫でた。
「こら、早く帰りなさい」
例え幽霊になっていたとしても、いや、死んでいたからこそと言うべきか、いきなり声を掛けられて麻衣は心臓が止まるほど程びっくりした。 だがまぁ、幽霊だから心臓はもうないのだが。
麻衣の前にも、後ろにも人影はない。 おい君、ともう一度声をかけられてようやく、声の主が2階の半開きの窓からこちらを覗いていることに気づいた。
声の主と目があって麻衣は改めて驚いた、お互いのあっ、という間の抜けた返事が、二人が知り合いであることを物語っている。
「佐久間先生…?」
「もしかして吉川か?」
麻衣が先生の訃報を聞いたのは1年生の丁度終わり頃だった。
担当は世界史だったが、麻衣が先生の授業を受けていた時間は短い。
期間にして僅か三ヶ月と少々、それ以降先生は学校へ来ることはなく、後日学校から生徒達へ先生は体調を崩したと説明があった。 ただ、それだけだ。
生徒達も当初こそそれなりに話題にしたものの、それから1ヶ月が経つ頃には生徒の興味は新しく配置された若い臨時教員へと移っている。
学校側が重い病であると説明しなかっとはいえ、そもそもいい歳した世界史の先生へと向けられる興味なんてたかが知れているのだ。
まぁそれでも、少なくとも麻衣は顔を見て名前を思い出せる程度には、佐久間の事を覚えていた。
「そうか、お前も大変な思いをしたなぁ」
麻衣の話を一通り聞いて、窓から首だけを出した佐久間がうんうんと頷く。
「ねぇ、先生ってどうして、ここにいるの?」
膝を抱えて佐久間を見上げながら、麻衣は聞いた。 青年の言ったことが本当なら、先生にもきっと未練があるのだろう。
「ああ、ここにはそんな長くはいないよ、君達が卒業するのをまだ見てからね」
「ははっ、私は卒業できないけどね」
"君達"と言った佐久間の言葉を優しさと受け止めて麻衣は笑った。
「生徒想いなんだ。 人気、なかったのに」
麻衣の余計な一言に気分を害するでもなく、佐久間も笑った。
佐久間先生の笑うところを初めて見たな、と麻衣は見ながら思う。 何故だか、雨の音が優しく感じられた。
「私は教師になりたかったからなったのであって、生徒の人気者になりたいだなんて思ったことはないね。 ついでにいえば私は生徒想いですらないよ」
「幽霊になってまで卒業するとこ見ようとしてるのに?」
純粋に、不思議に思った。 たかだか三ヶ月しか、それも授業でしか関わらなかった生徒達の卒業を見守るのは生徒想いだからだと、少なくとも麻衣にはそうとしか考えられなかった。
「責任だよ。 教師という職の」
「責任って。 もう死んじゃってるのに」
1階を巡回する警備員が、麻衣の頭上を通り過ぎていった。
警備員の持つ懐中電灯の明かりが、時たま窓の外を舐め回すと、雨が光を受けて輝く。
「人は人からいろいろなことを学ぶ。 学校は勿論、社会に出てもそれは変わらないんだ。 教える人間が代わるだけでね」
「でも先生って授業のこと以外何も教えてないよね」
「いいんだよ、それで。 私が教えるべきことは、教師として教えるべき所はそこなんだから」
それに、とそこまで言って、先生は少しだけ顔を顰めた。 それを言うべきか、逡巡しているかのように。
膝を抱いたまま言葉を待つ麻衣に、先生は淋しげに笑ってみせてから言った。
「まぁ、勉強が本分と生徒達には言うんだが、君達にはもっと"別のこと"を友達や生徒同士学び合い、そうして見つけあって欲しいんだよ。 その未来を生きていく為に。 学校というのはそういう場であるべきだと、私は思うんだがね。 教師というものが勉強という名で知識を教えるのは…あくまでその一助だよ」
話をしている二人には、もうその未来はないのだ。 佐久間にも、麻衣にも。
麻衣は佐久間が淋しげに笑った意味が分かった気がした。
「――きっと、先生の言いたいことは伝わってるよ」
「伝わってるか分からないから、君は今も幽霊になってるんじゃないのかい?」
先生の言葉は、小さく、鋭く麻衣の胸中へと突き刺さった。
「吉川、大事なことだ。 大切な人には言葉で伝えなければ、伝わったかどうかで悩むことになるのは自分自身だよ。 今みたいに」
いつの間に2階へ上がったのか、警備員のモノらしい懐中電灯の明かりが徐々に佐久間の方へと近づいてきていた。
「でも、どうすればいいの?」
「もうどうしようもないかもしれないし、まだ間に合うかもしれない。 私達はこの世界のことなんて何も知らないからね」
バンッ、と窓が勢いよく閉められた。 閉まる瞬間、顔を出したままの佐久間の顔がグニャリとゴムのように変形したように見えた。
驚いて麻衣が立ち上がった時には、もう佐久間の姿は窓の向こうへと消えてしまった。
窓の向こうでは若い警備員が降り続く雨にうんざりしたように首を振る姿だけがかろうじて見える。
――もう佐久間の姿も声もしなかったので、麻衣はまた一人歩き出した。
意外と、未練を持った幽霊は多いようだ。 雨の中だと尚更よく分かる。
雨の中でも濡れない幽霊と数人すれ違った麻衣はそんなことを思いつつ、道路を一人歩いていた。
ふと、誰かがいることに気づいて立ち止まる。
フードをすっぽりと被った誰かが、電柱に寄り掛かって壁の絵を見ていた。
背丈は、麻衣よりも低い。
壁の絵はアメリカの黒人大統領に追い立てられる貧民達がデフォルメされている。 少年はそれをずっと見ていた。
「フゥズゴナ…セイブアス...?」
絵に溶け込むように描かれた文字を、麻衣は何気なしに呟いた。
「|フゥズゴナセイブアス(who's gonna save us)」
麻衣の言葉に反応して、フードの少年は口を開いた。
「アメリカのパンクバンドの曲でさ。 いい曲なんだよね、お姉さん、知ってる?」
「ううん、知らない」
そもそも音楽を聞かない麻衣が知るはずもない。 ついでに言えば英語の意味もよく分からない。
「どういう意味なの?」
その題名に、少年がこの絵を見続ける意味が込めてあるような気がした。
「"誰が我々を助けてくれるんだ?" かな」
そう言った少年のフードが僅かに揺れて、整った鼻筋が垣間覗いた。
どこかで見たことがあるような気がする、と麻衣は思った。
「もしかして、どこかで会ったことあります?」
「さぁ、どうだったろうね、そう思うのは僕等はどっか似てるからじゃない?」
麻衣には少年が少しだけ笑ったように見えた。
「お姉さん、いつまでここにいるつもりなの」
「わかんない、でも私にはやることが残ってるから」
「ああ、そう。 でもここでやれることなんて高が知れてるけど」
「それでも、今更だけど、やっぱり後悔してるから」
遅すぎるけど、と誰に対するでもなく、自嘲気味に麻衣は笑った。
一方少年は面白くないらしい。 ポケットに手を突っ込んで、口をへの字に曲げていた。
「お姉さん、この世界ってさ、誰も助けてくれないよ」
何を言い出すのかと麻衣は戸惑った。 少年が何を言いたいのか分からない。
「この世界って、今の私達のコト?」
「全部だよ、全部。 生きてる奴等も僕達も含めて、この世界全部」
麻衣にはまだ、言ってる意味がよく分からなかった。
「――言ってる事が良く分からないけど、私は友達に助けてもらったと…思う」
戸惑いながらも答えた麻衣の脳裏に千智の姿がチラつく。
「それ、助けてもらったと思うじゃん? 実際は違うんだよ。 利用されてるって言えばいいのかな。 僕がそうだったし」
フードの下から覗く口元は嘲笑とも冷笑ともつかないが、彼は微かに笑っていた。
「助ける、なんて言ったって本当は別の目的があるもんなんだよね。 優越感に浸りたいとかさ。 貴方の為ですよ、とか言いながら自分の幸せの踏み台にしてるんだよ」
その言葉を聞いて、麻衣は初めて怒りを感じた。 大切な人を穢されたかのような、そんな気がしたのだ。
「そんなことない」
「あるね。 死んでからも皆を見続けて出た答えなんだから、確実だよ」
「私は幸せだったわ。 利用されてるなんて思ってないし、思わない千智はそんな人じゃない」
「自分も他人もハッピー、なんてのは偶然、利害が一致したってだけなんだって、事情が変われば立場も変わる」
「それでも…仮にそうだったとしても、どちらもが幸せだったなら、それでいいでしょう?」
分からないかな、と大仰に肩を竦めて少年は深い溜息をついた。
「じゃあ、なんでお姉さんはココにいるのさ」
「僕達がここにいるのも、結局は"本当に幸せになる為に必要だったこと"をやり残したからだろ」
麻衣はもう答えなかった。 いや、答えられなかった。
「今居るココは地獄だよ。|幸せになれなかった奴(負け犬)の巣窟なんだ。 ここに残っててももう何もできやしない、触れることも、伝えることも。 できるのは未練に縋り付いてひたすら|望む(足掻く)ことだけだ」
口論は、独白に変わっていた。
「足掻いて結局諦めて、生まれ変わって惨めな気持ちもリセットされて、そうして結局地獄に戻って来るんだよ」
「そんなこと分からない」
麻衣の怒りはいつしか、悲しみへと変わっていて――
少年の口許からもいつの間にか、笑みは消えている。
「そんな世界じゃないってんなら、救ってみてくれよ。 僕の未練を、あんた自身を」
最後の言葉は、まるで懇願だった。
「僕の未練は、こんな世界の終わりを見れないこと、だから」
言い終わる前に麻衣が走り去って行くのを黙って見届けて、少年は電柱を背に座りこんだ。 歯を食い縛って、辛い記憶を、堪えた。
「俺だって、好きでこんなのになったわけじゃない」
少年の呟きは、誰にも届かないで闇に溶けていく。
雨雲は未だに垂れ込め、弱くなりはしても雨は未だに町に降り続いていた。
ひたすらに麻衣は走っていた。 夢中で闇を駆け抜け、曲がり角で転んでもすぐに立ち上がって、何かを振り切るかのように走った。
そうして、見知った家の前に辿り着いてやっと止まった。 それでもまだ、怒りは収まらない。
千智の部屋からは、閉じたカーテンからはまだ明かりが漏れていた。
届くかどうかなんて分からないけれど、それでも麻衣は力一杯叫んだ。
「千智のお陰だから! あの時、あの時話しかけてくれたから! 同情からだとしても! 救われたのは確かだから!」
どんなに叫んでも、部屋からは何の反応もない。
「一言も言えなかったけど、私は千智と出会えて良かったから!!」
麻衣は何度も、何度も叫んだ。
「さっきからウルセーんだよ!!!」
どこか遠くから、男のがなり声が響いた。 それきり、また闇は元の静けさを取り戻した。
冷たい風が吹きつけては、麻衣の体を舐めるようにしてすり抜けていく。 結局、いつまでそうしていただろう。
そうして風が道路の向こうを覆う闇へと吹き去っていくと同時に、"ソレ"は現れた。
闇より暗い瘴気を纏って、"ソレ"はいつしか麻衣の横に立っていたのだ。
『諦めは、ついたの?』
"ソレ"は微笑んでいた。 その口は何も喋らなくても、言いたいことは不思議と分かった。
「なんでかな? なんでこんなことになっちゃったんだろう?」
麻衣は千智の家を眺めたまま私へと聞いた。 きっと生きていたなら泣いていただろうに、死んだ今となってはそれすら叶わない。
『抗いようのないことだってあるわ。 でも後悔はしているけれど、少なくとも不幸ではなかったじゃない』
黒い自分は何もせず、ただすぐ傍で佇むだけだ。
『私達は努力したんだよ。 きっと生きていられたなら、いつも心の中で燻っていたコトを伝えることが出来た…それぐらいにはね」
心に響く麻衣自身の声音は優しく、慈愛に溢れている。
『でも…そうはならなかったの、もう伝えることができないのなら、既に伝わっていることを祈って諦めるしかないわ』
それきり、麻衣の影は何も言わなかった。 雨はいつしか止んでいて、夜の闇は徐々に雲のフィルターを通して少しづつ白く染まり始めていく。
「――ねぇ、最期に私の住んでいた街を見たいな」
溜息を一つついてから、街で一番高い建物になる筈だったビルを指差して麻衣は言った。 街で一番高く、そして唯一の総合病院の隣にできるはずだったそのビルは白み始めた夜明けの世界の中でひっそりと、孤独に聳え立っていた。
ビニールシートの壁を潜り抜け、 階段を登りきった先に出た屋上は文字通り壮大だった。
遮る物のない風景には曇り空と、濡れて光る灰色の街、そして、街を囲む山々。
この光景を目に焼き付けようとぐるりと風景を見渡した時にようやく、屋上にもう一人いることに気づいた。
青年は少し驚いたような表情をしたものの、すぐに片手を挙げて笑顔で麻衣を迎えた。
「よう、あんたを待ってたんだ。 いつか来ると思ってた」
どくんと心臓が高鳴ったような、そんな気がした。
「いい景色だよな、自分がデカくなったみてぇな、そんな気分になる」
「――うん」
二人並んで灰青色の薄曇を眺めながら、青年は口笛を吹いたりしていた。 どちらからも言葉は出ない。
麻衣はそんな雰囲気にややもして、青年へと向き直った。
「ごめんなさい。 私、ここで終わりにする」
「知ってるよ、そうじゃねぇかなって思ってたんだ」
えっ、と麻衣は青年の顔を驚いて見つめた。 それでもただ青年は空を見たまま、言葉を紡いだ。
「で、どういう終わり、なんだ?」
「どういう終わりって?」
麻依は言葉の意味を少しの間考えて、結局諦めた。
青年が顔を顰める。
「諦めて消えんのかってだよ」
麻衣を見下ろした青年の姿は、大空をバックにするには軽薄すぎる服装のせいか麻衣には酷く滑稽に見える。
まるで昔小さな頃に見たことがある、空の上を漂う城を冒険するアニメのような光景だ。 ただアニメにするには、柄物のジャケットは余りに不似合いなのだが。
――なんというか本当に、大空へと連れていってくれそうな気がする。
ふと心の中で思った時にやっと、麻衣は自分の顔が赤くなっていたことに気づいた。
「いや、ここで景色を見てから、そのまま成仏して生まれ変わろうかなぁと思って...」
慌てて顔を背けながら小声で呟く。
「諦めんの? なんでよ」
青年は顰めっ面のまま、さらに顔を近づけて聞いた。
「つまり、お前さんは諦めて、生まれ変わって今度こそはリベンジしよう。 と思いましたと、こういうことか?」
先生と出会った事、フードの少年との会話など、青年と別れた後の出来事を聞いて、青年は呆れたように言った。
「まぁ、そうだろうな。 俺みたいなやつの方が奇特なんだろうな」
「…気付いた時には遅すぎることもあるんだよ」
ああ、と青年が納得したように何度か頷いたのが、麻衣には意外だった。
屋上の縁から足をブラブラとさせている麻衣の隣では、同じように黒い自分が何も言わずに佇んでいる。
まるで、犯人を連行する前に話をさせる刑事のような、そんな様相だ。
黒い自分は青年には見えないようで、青年は最初に出会った時と同じく、ポケットに手を突っ込んでどこか遠くの風景を見ていた。
「確かに、時がくれば分かることでも、その時はもう遅すぎるんだよな」
穏やかな朝だ。 湿度が少しばかり高いことを除けば、雨上がりの涼風が心地いい。
「だけど、あんたはまだ間に合うぜ」
「えっ?」
「岐路だよ、ここが」
一際強い風が、屋上を撫でつけながら麻衣の黒髪を巻き上げる。
「"あんたの"岐路さ、決めるのは俺じゃない」
病院の窓の高層階の一つを青年が指差す。 その窓の向こうには見知った髪が、顔が、体が、自分自身が居た。 そしてその横には家族と、千智がいた。
「――生きてたんだ、私…」
青年は答えない。
「なんで、教えてくれなかったの?」
「羨ましかったからな、"俺達"はここで知るには遅すぎたから」
青年は遠くの風景に視線を移して淋しげに笑った。
麻衣はそれでもまだ、躊躇していた。 自分だけが帰路につけるということに罪悪感があった。
「迷うくらいなら戻れよ。 千智が言ったように、自分の人生に100点をつけなおしに」
――ゆっくり、ゆっくり深呼吸して、麻衣は立ち上がった。 先ほどまで隣にいた|黒い自分(諦念)はいつの間にか、何も言わずにもう何処かへと姿を消していた。
「…うん」
ビルから一歩を踏み出す前に青年の方へと麻衣は向き直った。
青年と向かい合い、見上げる。
「ずっと千智のこと、見ていてくれたんだ」
「ああ、言いたいことがあったけど、それももう良さそうだし…これで俺も本当の意味で成仏できそうだわ」
丁度遠くの雲間で太陽の光が差込み山々を照らし出していた。 濡れた世界が光のベールを受けてキラキラと輝くその様は、心に刻みつけるには相応しい程の自然の産物だろう。
「あんたがここに来たこと、それがずっとここで足掻いてた俺への奇跡だよ」
麻衣は病院へと向き直った。 お互い別れの言葉もなく、背を向け合う。
――呼吸が、鼓動が、大きく聞こえる。
――渾身の力を込めて、麻衣は飛んだ。
読んでくださってありがとうございます。
以下言い訳です。
あらすじはすいません、纏める努力が足りないです。
というよりそもそも、書こうと思って小一時間ほどあらすじと睨めっこしていたのですがどう上手くまとめていいか分からなかったのです。
申し訳ない。