05 穏やかな一日(当日)
それから、僕らのクリスマス当日での出来事を少しだけ語ろう。
昨日、結局僕らはお昼頃に全ての準備をして再び集合した。二十五日のデートだったはずが、その前日からデートが始まることになったのだ。
一人暮らしの僕と家族と一緒に住んでいる姫川さんではそういった身軽さが大分違うのだが、今回は彼女も家族にきちんと許可を取ってきたらしい。どういう理由で外泊をする許可を取ったのかまでは、聞いても教えてくれなかったけど、僕のような男と一緒に過ごすことを許可してくれたのだとしたらびっくりだ。
そういうわけで姫川さんは、一日僕の部屋に泊まっていった。彼女を部屋に案内したことは何度もあるが、一緒に夜を過ごしたことはなかったので、正直かなりドキドキさせられることになった。
離れていた期間は結構短かったけど、それまでの時間が濃密だったからか、数日ぶりに見た姫川さんの動作一つ一つに目が釘付けになった。なんだか久しぶりにつきあい始めた頃の初々しい感じを味わえたような気がした。ちょっと距離があるんだけどかなり相手のことが気になっている、というような感じだ。
姫川さんが家に泊まっていくに当たって、問題になったのは寝床だった。僕の部屋にベッドが一つしか無かったし、予備の布団なんかもなかったから、寝る場所には頭を悩まされた。と言うか、寝る場所を巡って姫川さんに困らされたと言うのが真実だろう。もともと僕は彼女に自分のベッドを貸し与えるつもりでいた。
「姫川さんは、そのベッドを使ってくれていいよ。僕は、この辺で横になることにするから」
そう言って、何枚かタオルを重ねて作った即席の寝床を指さした僕に、姫川さんは言う。
「一緒に、寝ないの?」
ベッドに横になったまま端に寄って、ぽんぽんと自分の隣の空いたスペースを手で示した。ちょっとはにかんだような笑みを浮かべ、頬をほんのりと赤く染めてだ。湯上がりでまだ少し湿り気の残った、しっとりとした黒髪が姫川さんの周りにはふわりと広がっていた。そんな体勢のまま僕のことを無垢な瞳で見上げてくる彼女の姿は、とんでもない破壊力を秘めていた。
「……いや、さすがに、その狭いベッドで二人寝るのは、無理があるんじゃないかと……」
彼女の様子にかなり心を揺さぶられつつも、ここで負けてはいけないと、何とか言い訳を付ける。
「むー」
だが、その言い訳は姫川さんには満足のいく回答ではなかったようだった。口をすこしとがらせて呻く。僕を見上げた構図のまま、そんなことをされても可愛いだけなのだけど、彼女はとてもご立腹のようだ。
「言い訳はいいから、入る」
彼女の表情に胸をときめかせている間に、ベッドから飛び出してさっと僕の背後に回った姫川さんは、そのまま僕をベッドの中に押し込んできた。
「わ、わー、ちょっと……姫川さ……」
不意を突かれてベッドに倒れ込んだ僕は、文句の声を上げようとした。だが、その言葉は姫川さんの顔を見た途端に出てこなくなった。満足そうに笑みを浮かべて僕を見た彼女が、勢いよくぽすんと僕の隣に飛び込んでくるところだったからだ。
「一緒に、寝よ?」
僕が逃げないように腕を握って、横になったまま訴えかけるように言う。
「…………」
気が付けば、いつもは身長差があって若干の距離があった姫川さんの顔が、僕に目の前にあった。目をこらせば彼女の長いまつげや、きめ細やかな皮膚、形の良いぷっくりとしたピンクの可愛らしい唇まで、全てが見てとれる。僕の心臓は、いつもとは違うシチュエーションに早鐘のように高鳴っていた。観察するのに気を取られて、姫川さんの問いかけにも答えることができなかった。彼女が顔の前に来てしまった髪の毛を手で払いのける仕草すらも、艶めかしく感じられる。
「怜くんはいじわるだ」
だけど、姫川さんは答えを返さなかった僕が気に入らなかったようだ。ちょっと拗ねたように言うと、ごそごそと布団の中で動いてこっちに腕を伸ばしてきた。そしてぎゅっと抱きつかれた。寝間着代わりに姫川さんに貸した厚いシャツ越しに、彼女の体の至る所が僕に触れる。密着度はいつもの抱きしめの比じゃない。布団の中という、誰にも外から見られない環境だからなのか、あるいはそう言う雰囲気なのだからか、姫川さんは積極的に僕の方に身を寄せているようだ。
「あー、姫川さん。その体勢だと、僕も君もとっても寝にくいと思うのですけれども……」
僕に押しつけられる彼女の体の柔らかさや、女性らしい体の起伏に今にもどうにかなってしまいそうだった。意図せずして、怪しげな日本語が発せられていた。
こんなに可愛い姫川さんを僕は未だかつて見たことがない。数日ぶりだからか、いつもより甘えん坊になってるのかもしれなかった。とにかく、一挙一動のすべてが可愛く思えて仕方がないのだ。僕の目や感覚は既におかしくなってるみたいだった。いつもと変わらない行動のはずのことすらも可愛く見えて仕方なかった。姫川さんを前に、萌え死んでしまいそうだ。
「だめ。離さない」
「んーと、わかった。一緒にベッドで寝ることを約束するから、離してくれない?」
「や」
僕の訴えには耳を貸してくれないようだった。駄々っ子のように、僕に抱きついたままぶんぶんと首を振って、さらに締め付けるかのようにきつく腕を回してくる。いつの間にか足まで僕の体に巻き付いていた。このまま僕が布団を出ても、姫川さんはぴったりくっついて落っこちないかもしれない。
「今日は怜くん、私のこと姫川さんって五回呼んだ。だから、その罰としてぎゅっとしたまま寝るの刑」
僕の胸に顔を押し当てたまま、姫川さんがくぐもった声で言った。いつもよりも刑が重いのは、数日離れていた分を加味してのことだろうか。姫川さんは、今までの分をまとめてチャージしているのかもしれない。
「…………」
そんなことを考えてしまって返事をしなかった僕を、姫川さんは今度は怒らなかった。その代わりか、何も言わずに僕の腕を取ると、自分の体の回りに巻き付けるように配置する。軽く力を込めてみると、僕も彼女を抱きしめている形になった。本当に彼女はこの体勢で寝るつもりらしい。まったく、なんて可愛いんだろう。
「今回のことは、僕のせいでもあるわけだし、この刑を慎んでお受けしましょうか」
僕がそう言って、きゅっと姫川さんを抱きしめる。
「えへへ」
彼女が僕の顔を見上げて、幸せそうに笑った。
恐らく僕らはこうやって一度離れたことで、よりお互いのことを考え、気持ちを再確認することができたのだろう。これまでの関係のままだったら実現していなかっただろう、こんなことも僕らは今やってしまっている。それはきっと、僕らの絆が強まったことの証なのだ。
僕らはお互いを見合って笑い合った。そうしてどちらからともなく目を閉じた。
ちなみに。えっちなことは何もなかった。
そんなこんなで、僕らはクリスマスの朝を二人でベッドの中で迎えることになった。目を覚ました僕は、すぐに姫川さんが体にしがみついていないことに気がついた。さすがに抱きついたまま朝まで寝ることは困難だったのだろうか、少し布団をめくってみると僕の方を向いたまま手足を曲げて小さくなった姫川さんがすやすやと眠っていた。彼女の長い漆黒の髪が、白いシーツの上で艶やかに広がっている。普段姫川さんが起きるらしい時間まではまだ少し時間があったので、僕は彼女を起こさないようにして観察してみる。
小柄な姫川さんには僕のシャツは大きすぎたようで、長袖の先からは指先がほんの少ししか顔を出していなかった。首回りもかなりぶかぶかなのか、寝崩れて胸元まで大胆に露出してしまっていた。あどけない表情で、安心して眠る幼子のような姫川さんは僕の心にクリーンヒットしていた。赤ちゃんの肌のようにつやつやで張りのある頬は仄かにピンクに色付いている。僕が見ている前で、姫川さんの口がもごもごと小さく動いた。
「……れ、い、く、ん……か」
声にならない口の動きをじっくり観察しながら、彼女が言おうとしていた言葉を読みとる。姫川さんの夢の中に僕が出てきているのだろうか。手足を少しだけきゅっと動かしたところを見ると、また抱きついている夢でも見ているのかもしれなかった。そんな彼女のいじらしい様子にも、僕の胸はときめいた。姫川さんと一緒にいると、胸の高鳴りが納まることがなかった。
そうこうしているうちに、姫川さんがセットしていた携帯のアラームがなった。ぴくりと身じろぎをした彼女の意識がゆっくりと覚醒する。僕は彼女が目覚めたのを確認すると、アラームを止めた。姫川さんが少し伸びをしながら体をおこした。まだ眠たいのか、しきりに目をこすりながら大きなあくびを一つ。そこでようやく、起きた場所がいつもと違うことに気がついたようだった。きょとんとしながらあたりの様子をうかがっていた姫川さんは、ようやく隣に僕がいることに気がついた。
「あ……」
今の一連の流れを、僕が全て余すところなく見ていたということに気がついたらしい姫川さんが、小さく悲鳴を上げて固まった。
「おはよう。それと、メリークリスマス」
彼女の可愛らしい様子を見させてもらって非常に満たされた気分になった僕は、笑顔で言った。
「……おはよう」
さっきよりも頬を赤くした姫川さんが、恥ずかしそうに返事をして、顔を着ていたシャツの襟の中に隠そうとした。
「……っ!!」
その瞬間驚いたように、顔を上げる。姫川さんは目を丸くして僕の方を見た。
「怜くんの、匂いがする……」
まるでそれが世界で初めての発見であるかのような驚愕の表情を浮かべていた。その後、姫川さんはくんくんとあたりの匂いを嗅ぎ始めた。自分の着ていたシャツの袖口から始まり、自分の寝ていた辺りやかけていた布団、一緒に使った枕まで匂いを嗅ぐ。
僕はそんな姫川さんの様子をあっけにとられて見ているしかなかった。定期的に洗濯はしているものの、長く使っているものだからやっぱり結構匂いはついているだろう。
「えーと、あんまり嗅がないでもらえると、うれしいんだけど……」
なんというか、姫川さんにそんなに熱心に嗅がれるのは恥ずかしかった。
「だって。怜くんの匂い……好きだから」
今度は自分の髪の毛の匂いを嗅いでいた姫川さんが、幸せそうな笑顔で答える。どうやら、彼女の髪の毛にも僕の匂いが移ってしまったようだった。同じ布団で寝たからからかもしれない。
「……そう。臭くないなら、いいんだけど」
彼女のうれしそうな表情を見ていたら、僕が恥ずかしがっているのは些細なことのように思えてくるから不思議だった。
「そうだ、今日は僕から君にプレゼントがあるんだ。クリスマスだからね」
放っておけばいつまでもそうしていそうな姫川さんはさておき、僕はせっかくクリスマスの当日は朝から一緒にいることが出来たのだから、プレゼントを渡すことにした。昨日の夜は姫川さんと一緒に寝たから枕元に準備しておくことは出来なかったけど、朝起きたらプレゼントがあるっていうのはなんだかワクワクする感じだ。小さい頃はサンタさんからプレゼントもらった、ってはしゃいだのを僕は覚えている。
僕は立ち上がると、部屋の隅に隠しておいたプレゼントを持ってくる。きちんとラッピングされた、大切な彼女へのプレゼントだ。
彼女にそれを渡そうと考えたところで、不意に姫川さんが立ち上がった。
「待って。私も、怜くんにプレゼントある」
そう言って昨日の時点で持ってきてあった荷物の中から、かわいらしい袋に入れられた何かを取り出す。
「時間、なかったからあんまり良い物じゃないけど……」
プレゼントを手に持った姫川さんが、もじもじしながら恥ずかしそうに言った。
「ううん。姫川さんがくれた、という事実だけでそれはもう最高の贈り物だから」
正直な話、僕だって数日前にやっとプレゼントを用意していないことに気が付いたくらいなのだ。姫川さんが何も準備をしていなくても不思議ではないと思っていた。今日は僕だけがプレゼントを渡して、その見返りにびっくりしたような表情と彼女の笑顔が貰えればそれでいいと考えてしたのだ。だから、このプレゼントは僕にとってはサプライズも同然だった。
「……ありが、と」
ふと、ここで姫川さんの様子がおかしいことに気が付く。何故か彼女が俯いているのだ。
「どうしたの? 大丈夫?」
僕の問いかけに姫川さんは、こくんと頷くことで答えた。そしてその拍子に落ちる一粒の雫。それが表すことの意味を、僕は理解することが出来なかった。
「っ! どこか痛いの!?」
理由を察することが出来ず、慌てる僕。嬉し涙だったらプレゼントを交換した後に出てきそうなものだし、今までの姫川さんの様子からは何も前兆らしきものを見いだすことはできなかった。
「大丈夫……だから。ただ、やっと怜くんに隠し事しなくてすむと思ったら嬉しくて」
ゆるゆると、姫川さんが頭を上げた。目尻には涙の跡が残っているが彼女は笑顔を浮かべていた。
「それって……」
僕が心当たりを胸に問いかけると、彼女はこくんと頷いた。
「この前ね、怜くんにお電話しなかった日に私ね、大学のお友達と一緒にプレゼントを買いに行ってたの。ホントは怜くんにも報告したかったんだけど。お友達が、内緒にしてた方がいいって。隠し事しててごめんなさい。……嫌いに、ならないで」
姫川さんはプレゼントを持ったまま、静かに言った。その指先は微かに震えていて、表情も不安そうにゆがんでいる。
だけど、僕の心はそんな彼女の様子に対して、かなり穏やかなものだった。いまはもう姫川さんがどこかに行っちゃったりしないってことが分かっているから、彼女が僕に秘密の一つや二つを持っていようが関係なかった。
「姫川さんは、そんなことで僕が嫌いになるとでも思ってるの?」
僕は敢えてちょっと怒ったような口調で言った。
姫川さんの肩がびくりと震えて、おずおずと僕の表情を窺う。
「だって……一昨日、凄く怒ってた。私が、内緒にしてたこと」
僕の顔色を窺いながら、姫川さんは小さな声で言った。
「それは……僕も、姫川さんがいなくなっちゃうんじゃないかって不安だったから。嫌いになったから怒ったわけじゃない」
諭すように、努めて穏やかに彼女に説明する。
「じゃあ……」
ぱっ、と姫川さんの表情に喜びの色が広がる。
「当たり前だよ。そんなことじゃ嫌いになったりしないし、むしろほっとして、もっと好きになりそうなぐらいだから。こっそりプレゼントを用意してくれてたなんて、すっごく嬉しいもの」
「ホントに?」
「ああ、ホントにホント。絶対に嘘じゃない」
「……うん」
ぐすりと姫川さんが鼻をすする音が響いた。さっきまで笑顔でいた姫川さんがまた俯きそうになっていた。
「もう、ほら泣かないの」
僕は、姫川さんに近づくと頭をそっと撫でた。彼女のサラサラした細い髪は、いつでもしっとりとした感触をもたらしてくれる。一緒の布団で寝たせいか、若干寝乱れて絡まった髪を優しく櫛削る。
姫川さんはぐずぐずと鼻をすすっていたが、やがて僕を抱き締めるように腕を回してきた。堪らなくなって、僕も彼女の細い体を力一杯抱きしめる。
まったく、姫川さんはなんて不器用な生き方しか出来ないのだろうか。きっと、彼女の友達はプレゼントの内容は最後まで秘密にしておくのがいいよ、とか言ったのだろう。何もプレゼントを買いに行ったことまで秘密にする必要はどこにもなかった。それを姫川さんは買ったこと自体を内緒にしようとして、すれ違ってしまったのだ。その友達もよもや、プレゼントが原因で二人の関係に陰りが出るとは思ってなかったに違いない。
「姫川さんのプレゼント、空けてもいいかな?」
彼女を抱きしめたまま、後ろ手に姫川さんの手からプレゼントを受け取る。
「大した物じゃないけど、いいよ」
腕の中で姫川さんが頭を上げて、僕を見上げて恥ずかしそうに言った。ほっぺたや目がちょっと赤くなってはいたけれど、彼女はもう泣いてなかった。
袋の中には、真っ赤なマフラーが一本。ちょっとほつれとか、皺が寄ってしまっているのは、それが手作りである証だ。
「頑張ってお手本通りに作ったんだけどね、あんまり上手にできなかったの」
「ううん。そんなことない。手作りマフラーなんて貰ったことないからすごい嬉しい。ちょっと歪でようが不格好だろうが、毎日付けていきたいぐらい」
「それは……ちょっと、困る」
姫川さんが笑顔で眉をしかめた。褒められて嬉しいのと毎日付けられるのが恥ずかしいのの半々といった気持ちだろうか。
「もっと上手なの作るから、それまで待ってて。それは外に、付けてっちゃダメ」
「えー。これで十分なのに」
そう言って、僕はマフラーを自分の首に巻き付ける。姫川さんの作ってくれた赤いマフラーは、首をぐるっと一周してもまだまだ余裕があるみたいだった。
「長すぎた?」
そんな様子を見ていた姫川さんが、ちょっと落ち込んだように言う。
「いや、ちょうどいいでしょ。こうするには」
残ったマフラーを姫川さんの首にそっと巻いた。これでちょうどいい長さになった。
「ほら、相合いマフラーの完成」
「むー」
抱き合った格好のままだからちょうどいい長さに思えたが、姫川さんが横にいるとしたらちょっと短いような気もする。抱きつき専用マフラーなのかもしれない。
「怜くんは、何くれたの?」
マフラーを首に巻かれたままぐるりと腕の中で一回転して僕に背中を預ける形になった姫川さんが、ベッドの上に置きっぱなしになっていたプレゼントの包みを見つめる。中途半端に短い相合いマフラーのせいで、取りに行こうにも僕から離れられないようだ。
「僕の方こそ、大した物じゃないよ」
電車ごっこみたいに二人で連なったまま移動した僕らは、ベッドに腰掛けて包みを開けることにした。僕が座った膝の上に、姫川さんがちょこんと腰を掛ける。彼女の重さなら、あと十人のっても耐えられそうなぐらいに軽かった。
「開けていい?」
「うん」
雑貨屋さんでしてもらったクリスマス包装を丁寧に開けると、中から製品の箱を取り出す。本格的ではあるものの、どちらかと言えば玩具みたいな箱だ。
「カメラ……?」
姫川さんが外箱に描かれている写真を見て言った。
「うん、カメラ。でも、ただのカメラじゃないよ、トイカメラだ」
「トイカメラ?」
「そう、トイカメラ。普通のカメラとはちょっと違って、個性的な写真が撮れるカメラだよ」
簡単に特徴だけ説明する。あとは口で言うよりも使って貰った方が早いからだ。
「んー?」
僕が上げたプレゼントがちょっと珍しかったのか、しげしげと箱を眺め回す姫川さん。僕が買ったのは初心者の姫川さんでも使えそうな、ちょっと安いやつで、外箱に描かれているのはすべて英語だ。日本語の取扱説明書も付いていない。
「ほら、開けてみて?」
「うん」
放っておけばいつまでも眺めていそうな姫川さんを促して、箱を開けてもらう。
中から出てくるのは、僕の手のひらぐらいの大きさの白いカメラだ。黒も有ったんだけど、姫川さんにあげるのならば白いほうが似合うと思ったからこちらにした。今時珍しい銀塩カメラなので、外見は本当に玩具か、昔懐かしい雰囲気の漂うカメラのように見える。骨董屋に置いてあっても違和感を覚えないかもしれない。
「ん」
そっと手に取った姫川さんが、ファインダーを覗き込んで僕の方を振り向く。ポーズを取ってということらしい。とはいえ、まだシャッターを押しても写真が撮れるわけではない。カメラを構えた姫川さんもこの上なくかわいらしいかったのだが、彼女ががっかりする前に教えて上げる。
「フィルム入れないと使えないよ」
「フィルム?」
きょとんとした顔で聞き返す姫川さん。フィルムってほとんど見ないものだから、今時の小学生ぐらいならば知らなくてもおかしくはないけれど、姫川さんも知らなかったらしい。
「これこれ。これは三十六枚撮りのフィルムって言うんだけど、これをカメラに入れないと写真が撮れないの。デジカメでいうメモリーカードみたいなものかな。三十六枚撮ったら一杯になっちゃうから、新しいのに入れ替えるんだよ」
今回買ったカメラは、ちょっと探せば売っているような一般的な35mmフィルムが入るようなモデルだったから、あらかじめいくつか用意しておいたのだ。フィルムっていうのも味があって良いけど、撮れる枚数がデジカメなんかよりも圧倒的に少ないから困ってしまう。
「ちょっと貸して?」
「うん」
姫川さんを膝に乗せたまま、彼女の足の上でカメラの背面を開く。フィルムのセットの方法は、昔やったことがある程度だったからちょっと自信がない。
「これを、ここにはめて、びろびろをこの隙間に入れればいいんだよ」
一つ一つのやり方を姫川さんに教えながらやっていく。
「フィルムは、光に当てちゃうと感光しちゃって使えなくなっちゃうから注意してね。最初のうちは僕も一緒に見ててあげるから」
「わかった」
「セットが完了したら、このつまみをぐるぐる回してフィルムを引き出していくんだよ」
「うん」
姫川さんによく見えるように実演しながら、フィルムの一枚目が出てくるところまでゆっくりと回す。
「ちなみに、撮った写真はすぐには確認できないからね。使い切ったら、カメラ屋さんに持って行って現像してもらうんだ」
「それぐらい、わかってるもん」
ちょっと口をとがらせた姫川さんが言う。でも、彼女の視線はずっと僕の持っているカメラに釘付けだ。
「ほい。これで準備完了。あとは、このシャッターを押すだけで写真が撮れるよ。やってみて」
僕がカメラを差し出すと、姫川さんは僕の膝からストンと降りた。いつの間にか彼女にまで巻いてあったマフラーを外したらしい。トトトと、ファインダーに僕の姿が収まるぐらいまでカメラを構えたままバックをしていく。真剣になって片目を瞑りながらファインダーをのぞき込んでいる姫川さんは、とっても嬉しそうに見える。クリスマス直前にも色々あったけれど、こんな風にまた一緒に過ごせるのだから本当に良かった。
「撮るよ」
「うん」
彼女に付き合って、カメラ目線でちょっとポーズなんかも決めてみる。
「はい、ちーず」
姫川さんの合図と共に、カメラがパシャリと音を立てた。いったいどんな写真が撮れているのだろうか。全部撮りきって、現像してみるまで分からないというのも久しぶりで、なんだか新鮮だった。
クリスマスのデートは、お昼を過ぎてから始まった。とはいえ、すでに朝から存分に楽しんでいるから僕らには何の不満もない。一緒にゆっくり朝ご飯を食べて、出かける準備をして、二人そろって家を出た。
姫川さんを三割増で可愛くするぐらいの薄い黄色のワンピースの上に、もこもこのファーがついたコートを着た姫川さんの胸元には、首から下げられるようにストラップをつけたカメラが下げられている。暖かそうなムートンブーツを履いて、マフラーと手袋も装備する完全防備体制の姫川さんは抱きしめ心地が良さそうだった。
クリスマス前日までゴタゴタとしたことになっていた僕らには、デートコースを決める暇など無かったので、今日は二人でぶらぶらと歩き回りながらプランを考えることになった。僕としては姫川さんさえいれば、たとえそこが暗い洞窟の中だったとしてもデートコースになりえたし、彼女の思いも同じようだった。
そんなわけで、僕らは近くの駅前にある大きなショッピングモールに行くことにした。そこならば、何をするのか決まっていない僕らにも丁度よく、いろんなお店がたくさん集まっているからだ。モールの中央には、クリスマス色に染め上げられた大きなイルミネーションのツリーもある。デートスポットとしてはかなり悪くなかった。楽しそうに笑みを浮かべながらモールを行き交うカップルに紛れて、僕らもクリスマスのムードや浮かれた雰囲気を楽しんだ。
「来年は、もうちょっと計画的に前もってプランを作ってからクリスマス迎えようね」
モールの中のレストランで夕食を取った後、再びぶらぶらとウィンドウショッピングを楽しんでいた姫川さんに僕は言う。
「ううん。こういうのも嫌いじゃないよ」
なんて言葉を満面の笑みを浮かべて返してくれる姫川さんだけど、それにだまされちゃいけない。彼女にとっては、きっと僕さえいればプランなんてなくてもいいのだ。僕も姫川さんさえいれば、そこは天国と同じになるからわかる。
こういう僕らは一緒にいるだけでいい、みたいな気ままデートも悪くはなかったけど、やはりせっかくのクリスマスはピシッと決めたいという思いもある。こういうときぐらい、僕もできるアピールが必要だと思うのだ。
「でも、来年は楽しみにしてる」
嬉しさを体いっぱいで表現するように、ぽんぽんと軽くステップを踏みながら姫川さんが言った。僕を振り向く彼女の表情は明るい。胸元に下げられたらプレゼントのカメラも一緒に跳ね動いている。もう今日のデートだけでフィルムの残りが五枚になるまで、姫川さんは気になった物に対してカメラを向けていた。その大半が何か商品を見ている僕で、純粋に風景や物を撮った写真が少ないのはご愛嬌だろう。本当はカメラを向けられるのは好きじゃないんだけど、姫川さんが楽しそうにしている今日は特別だ。僕が姫川さんを撮ってあげたこともあった。
「早くカメラ屋さんに持って行きたいな」
姫川さんがカメラの後ろの小窓から見える、フィルム残量をじっと見つめながらつぶやく。デジタルカメラと違って、撮った写真をすぐには確認できないし、構造的にファインダーにうつった光景をそのままそっくり写真として切り取れるとも限らない、不安定なカメラ。言い換えればそれがカメラの個性と言うことになるわけだけど、姫川さんはそんなじゃじゃ馬みたいなカメラをたいそう気に入ってくれたようだった。少しでも空いた時間があれば胸元のカメラを触っている彼女を見れば、そんなことはすぐに分かる。あれだけ喜んでもらえるのなら、贈った方としてもこれに勝る物はないほど何よりの嬉しさだ。
「さて、そろそろ十時になるし、帰る方向で行きますか」
時計を確認した僕は、カメラを構えながら前を歩く姫川さんに声をかけた。
出来ることならば、クリスマスの夜もずっと姫川さんと過ごしたいという気持ちはある。だけど彼女は昨日のお泊まりをする条件として、今日はちゃんと帰ってくるということを両親と約束してきたらしい。一回僕の家に着替えなどの荷物を取りに帰って、それから自宅に戻らなくちゃいけないので、そろそろ引き上げないと今日中に帰れなくなってしまうのだ。
「……うん」
姫川さんもどこか名残惜しそうに、モールを見つめて頷く。僕だってもっと一緒に歩きたい。でも今日の帰宅が遅れたせいで、次回からお泊まり禁止とかになったらもっと困るのも事実だ。ほとんど毎日会っている僕らだけど、一緒にいられる時間は長ければ長いだけいい。とはいえ、時間ぎりぎりではないから少しぐらいゆっくり帰ったって問題はないはずだ。
「ほら、忘れないうちに帰り道にモールの中心に行こう」
そこにはモールのシンボルとも言える大きなツリーがある。今回のメインでもあり最大の見せ場でもあるそのクリスマスツリーを、僕らは敢えて最後に残してショッピングモールを楽しんでいたのだ。せっかく新しいカメラを手に入れたのだから、早くからツリーの近くに行って思う存分写真を撮れば良いのに、とも僕は思ったのだが姫川さんが最後にしようと決めた。やっぱり最後の大舞台にツリーを持ってくるのがデートの流れとしてふさわしいと考えたのかもしれない。
「うん」
姫川さんが気持ちを切り替えたように元気よく頷いた。そしてそのまま、僕の手を取ると一目散にモールの中央に向かう道を進んでいく。周辺の店を見ている間にも、ちらちらとその大きなクリスマスツリーが目に入ってきていたので、彼女が急いでそこに向かいたくなる気持ちは僕にも十分理解できた。近くに行くと思うとそれだけでわくわくするのだ。
「「…………」」
ツリーの下についた僕らは、二人そろって惚けたように無言で上を見上げていた。それは建物三階分ぐらいある、モールの天井に届きそうなぐらいとても大きなクリスマスツリーだった。新しいショッピングモールであるため、最新式のツリーが導入されているらしい。大きく末広がりに張り出した作り物の枝には無数のLED電球が付けられていて、赤や青といった基本的な色に留まらない様々な色を演出していた。ちかちかとランダムに輝く無数の光がツリーの表面をランプする光景は、ずっと見ていても全く飽きない美しさがある。
「すごい……」
姫川さんが、ぽかんとした表情でツリーを見上げていた。
「ほんとだね……」
そういう僕もすごい以外の感想がほとんど言えず、同じようにツリーを見上げているだけだったけれど。ちょっと見ればツリーの周りに集まってるカップルたちも、最初はこのすごい光景にみんな驚いてほとんど無言で見上げている人たちが多かった。クリスマスツリーはもう珍しいものではなくなったから、外に出ればあちこちで光り輝く様子を目にすることはあったけれど、これほどまでに綺麗なツリーを見るのは初めてだった。
「写真、撮らなきゃ」
しばらくして、姫川さんが思い出したようにカメラを構える。と、そこで残りの枚数が少ないことに気がついたのか少し困ったような顔を僕に向けてくる。
「最初からこっち来ておけば良かった、かもしれない」
どうやら、五枚しかクリスマスツリーの写真が撮れないことがご不満らしい。
「でも、こんなのはじめに見ちゃったらそこでいっぱいフィルム使ちゃって、他の写真が撮れなかったんじゃない?」
だが、僕の言うことも一理あると思ったのか、姫川さんが「むぅ」と唸る。こんなことならば予備のフィルムも準備しておけば良かったんだけど、姫川さんが気に入って使ってくれるかどうか分からなかったので、一つしか買ってなかったのだ。
こんなとき、大幅に規模が縮小してしまったフィルムが簡単に手に入らないことが苛立たしい。
「まず、二人が写ってるのから撮る」
姫川さんはそう言うと、近くにいたカップルのところへと足を進めていった。今時珍しいフィルムカメラに驚いている二人に、ボタンの位置を教えて戻ってくる。
僕はそんな彼女の様子をどこか成長した我が子を見るような目で見ていた。僕と仲良くなる前の彼女はあまり人と積極的に話をするような性格ではなかった。特殊な病に犯されている彼女は自分が特異であることを自覚していて、敢えて一歩引いた壁を作って接していたのだ。
付き合うようになってからは、僕の前ではかなり笑顔を浮かべるようになってきたけれど、まだ他人には壁があり、自ら話しかけにいくようなことはほとんどなかった。それがどうだろう、写真を撮ってもらうために自らお願いしに行ったのだ。
正直なところ、僕は驚いていた。それから、彼女が自分の苦手を押してでも写真を撮ってもらうことをお願いに行くぐらいにはカメラを気に入ってくれたことが嬉しかった。
「もっと、こっちだよ」
そんなことを考えていたら、彼女が呼んでいることに気が付かなかった。ちょっと怒ったように頬をふくらませている。
「ごめん、ちょっとぼーっとしてた」
素直に謝って隣に並ぶ。カメラを託されたカップルも少し待たせてしまったようだ。軽く会釈をしてお願いする。
「はい、では撮りますよー。はい、チーズ!」
シャッターが押される寸前、僕は手を伸ばして姫川さんの手を掴んだ。突然のことに驚いたようにビクリと肩を震わせる。だがその後、きゅっと握り返してくる。横目にちょっと口の端を綻ばせているのが見えた。僕らはしっかりと握りあって、僕らはお互いを確かめあった。
カメラを返してもらった後、残りのフィルムを消費してしまおうと、姫川さんがカメラを持ってツリーの周りをぐるぐると回って写真を撮るのに付き合う。撮りたい光景が見つかる度に嬉しそうに歩みを進めるのだけど、僕が後ろから付いてきていないことに気がつくと、途端に迷子になった子供のようにキョロキョロと僕の姿を探す彼女はとても可愛かった。
「しってる?」
残りの四枚をすべて取り終えて、ほくほくした笑顔を浮かべながら返ってきた姫川さんが訊いた。
「何を?」
僕らは初めのように隣り合ってツリーを見上げたまま会話を交わす。
「このクリスマスツリーね、とっても楽しそうなの」
「楽しそう?」
姫川さんの言ってることがよくわからなくて、彼女の方に視線を移す。ツリーの煌めきをその瞳に映したまま、姫川さんは言葉を紡いだ。
「0と1がね、とっても楽しそうに踊ってるんだよ」
彼女の言葉にドキリとさせられる。僕が見ているこの景色は、決して彼女と同じ物ではないのだ。最近では0と1で世界が覆い尽くされるほど酷く見えることはなくなったようだが、それでもまだ少しは見えるらしい。
だから、彼女には全然面白いものではなかったのかと思ったのだ。でもよく彼女の言葉を確認して、僕は安心した。見える物は違っても、確かに楽しんでくれているようだったから。
「……そっか」
「うん。電気がついたり消えたりするのは0と1が踊ってるみたいなんだよ」
そう楽しそうに言う彼女の声色に、悲嘆の色はなかった。
「帰ろっか」
しばらくして、僕は訊く。
「うん」
返事と一緒に僕の手を握ってくる。
姫川さんがにっこりと微笑んで、僕らのクリスマスデートは終わった。
[了]