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04 すべての結末(前日)

 結局。

 僕が自分に自信が持てなかったことが、今回のすれ違いを生み出した原因なのだろう。

 それを、姫川さんが言った、たった一言だけで僕は悟った。全ては僕の思い込みだったのだ。

 姫川さんが言う、0と1の世界を見ないようにするためのハグ。毎日大学終わりにそれすることで彼女は安心することができ、心の平穏が保たれるらしい。言ってみれば、彼女は僕という存在が彼女にとってなくてはならないもので、彼女をつなぎ止めるものなのだろう。現に、僕と付き合いだしてからの姫川さんは、以前よりよく笑うようになったし、いろいろな事に興味を持つようにもなった。

 姫川さんは僕に依存することで、この世界に対して正面から向き合うための力を手に入れたのだ。彼女は僕なしでは、生きていくことができないのだ。

 いつしか、そんな風に思っていた。

 思ってしまっていたのだ。

 僕とは違う世界を見て生きてきた彼女を、この世界に引き戻し、楔となってつなぎ止めている。そんなよく分からない優越感にも似た何かが僕の心の中にあった。

 つきあい始めてから、姫川さんはいままでよりももっと可愛らしくなった。僕が見ている限りでもそう感じていたのだが、それは僕以外の人間から見ても同じ事だったらしい。0と1の世界しか見えていなかった頃と比べて、人間らしさが増したことが原因かもしれない。はたまた、恋をする女の子は可愛くなっていくのかもしれない。

 とにかく、だんだんと姫川さんが可愛くなり、それに従って周囲にも認知されていくことが恐ろしかったのだ。今はまだ、僕の腕の中でほんわりした安心しきった笑顔を浮かべてくれる彼女が、いつか他の誰かにも同じ笑みを浮かべているのかもしれないことが、どうしようもなく怖かった。いろいろな人に出会い、もっと良い人を見つけた姫川さんが、僕の元からいなくなってしまうのではないか。そんな不安にいつも駆られていた。

 可愛くなっていく姫川さんと、いつまでも変わらない僕。

 その二つの間に、どれだけ頑張っても埋められないような深い溝があるような気がして。僕はその底の見えない深淵を、懸命に見ないようにしながら、心を虚構で塗り固めていった。そうすることでしか、自分の心を守れないような気がしていたから。

 彼女は僕に依存しているから、決して僕のそばを離れていったりしない。

 そう考える僕の方が、彼女に依存している事に気がつかなかった。

 姫川さんがどれだけ大切に思ってくれているかにも気がつけなかったのだ。

 ――会いたいよ!

 受話器の向こうで、泣き叫ぶように声を張り上げ、姫川さんが叫ぶ。

 たったそれだけで。

 嘘と見栄で濁り、固まっていた僕の心は粉々に砕かれた。

 それほどまでに、彼女の言葉は僕の心の奥深くまで突き刺さった。そうして思い出すのは、僕らがまだつきあい始めた頃のこと。彼女が僕の心に打ち込んだ杭。その穴からまるで吹き出すかのように、忘れていた感情が蘇ってくる。

 初めて会った高校生の頃のこと。

 僕ら二人が仲良くなった頃のこと。

 一年越しに再び再開した時のこと。

 ひまわり畑の中で、もう一度彼女に告白した時のこと。

 忘れかけていた彼女と過ごした思い出が、僕の心の中からあふれてくる。

 ――彼女と僕は釣り合っていないのではないか。

 そんなことを考えてしまった日から、忘れてしまっていた彼女への思いが、再びこみ上げてくるのを感じた。

 僕が本当に弱かったから、彼女を苦しめてしまっていた。彼女は何も悪くなくて、僕が彼女のことを信じ切ることができなかったばかりに、傷つけてしまっていた。

 そのことをようやく理解したとき、無性に姫川さんに会いたくなった。会って、すべてを謝りたくなった。

 携帯を握り締めたまま家を飛び出す。姫川さんとの通話はまだ繋がったままだったけれど、もうスピーカーを通しての彼女の声なんて聞きたくなかった。姫川さんの言うような0と1の世界の話では無いけれど、電話越しに聞く彼女の声など、所詮はデータに過ぎないのだから。

「今行くから!」

 僕はもうすっかり星が瞬いている夜空に向かって、喉も枯れろとばかりに叫んだ。僕のこの声が電話越しなんかじゃなくて、直接伝わって欲しいと思った。いつの間にか通話は切れていた。

 気が付けば、平成天皇の誕生日をお祀りする日はとっくに終わっていて、今度はキリストの誕生日を祝う日の前日になっていた。

 クリスマス・イブだ。

 せっかくの二人で過ごす初めてのクリスマスだというのに、僕らはいったい何をしていたのだろう。たった一日、いつもと違う日を過ごしただけですれ違って。そのことのあほらしさに、思わず乾いた笑いがでてしまった。

 不思議なことに、昨日までの僕を縛り付けていた重い鎖はすっかりと取り払われ、いまでは姫川さんのところまで一直線に飛んでいけそうなほど、心が軽かった。

 この時間ならば、姫川さんは自宅の近くにいるだろう。そう思って駆けつけた先で、彼女は僕を待っていた。

 そこは、いつも姫川さんを送って帰るとき、最後のハグに使っている小さな公園だった。姫川さんは自宅住まいのため、家の前で抱き合っていればご両親にも見せつけてしまうことになるし、往来の真ん中でやるのも何となく伝聞がわるい。姫川さん自身はそんなことを全く気にとめない様子だったけど、さすがに僕がそれはまずいと思った。だから彼女の家から一番近いこの公園で、僕らはいつも別れを告げる。

 その公園の隅あるベンチの上で、姫川さんはうなだれたように頭を垂れて、力なく座っていた。姫川さんがいつも普段着的に着ているような服ではなくて、ちょっと出かける時に着るような服なのが、少しだけ気になった。

 僕が迷わず彼女の方へと進んでいくと、足音に気がついたのか、姫川さんがゆっくりと頭を上げた。彼女の瞳は涙に濡れていた。

「どうして……?」

 僕を認めた姫川さんが、ぽつりと投げかけるように言った。

 対する僕は、何も返すことは出来なかった。何を言っても、ただの言い訳にしかならないことを僕は自分でも分かっていた。

「……怜くんは、私を、見捨てたりしないよね?」

 不安に揺れる彼女の瞳が、僕の胸を叩く。

「なんだか、怜くんが、遠くへ行ってしまいそうな気がして、怖いよ」

 震える声で、姫川さんは言葉を紡いだ。

「キミならば、私の全てを受け止めてくれると思ってたのに。そんなキミに合うように頑張ってきたのに、ダメだったのかな」

 姫川さんの頬を、涙が伝う。

 全ては、僕らがお互いに掛け違っていた。ずれたままのボタンに気がつかなくて、そのまま正しいように見せかけられていただけだった。

 そうして今、ようやく僕らはその掛け違いに気がついたのだ。

「ごめん」

 自然と、口から言葉が出ていた。

「僕も、怖かったんだ。君がどんどん可愛くなっていくのを、僕から離れて行ってしまっているように感じてた」

 姫川さんが驚いたように顔を上げる。あの顔はおそらく、ぜんぜん気がついていなかったという顔だ。

「キミも、なの?」

 彼女の動きが止まる。涙を湛えた瞳が、驚きに見開かれていた。

「うん。僕も、姫川さんから連絡が無かったのが、怖かったんだ。きっと、これから先、何か変化が起こるんだって思って。君が、僕の前からいなくなってしまうんじゃないかって思って」

 この二日間、姫川さんを思って悩み続けてきたこと。その全てを、彼女に打ち明ける。

 僕らの掛け違いは、同じ不安から生まれたものだと分かったから。

 もう、怖いものなんてないように思えた。

「……怜くんに、嫌われちゃったのかと思ってた。私は0と1の世界が見えて、キミには見えない。私が変で、キミが普通。そんなだから、また離れて行ってしまうような気がしてたの。怖かったよ。寂しかったよ」

 僕は、これ以上彼女に何も言わせまいと、駆け寄った。

 抱きしめる。

 姫川さんの小さな体は、小刻みに震え続けていた。十二月の後半という季節における寒さだけではない、僕がどこかに行ってしまうかもしれないという恐怖に、彼女は身を震わせていた。

「……ごめん。……ごめん。僕はどこにも行ったりしないから。姫川さんのそばにずっといるから」

「もう、どこにも行っちゃダメだよ?」

 ぎゅうっと抱きしめた姫川さんは、安心したように僕の体に顔を押しつける。長く長く、抱きしめることでようやく、彼女の震えが少し収まっていく。

 ずっと一人で、人とは違う世界を見てきた彼女に、この世界を見せたのが僕だった。だから、彼女にはこの広い世界の中でたった一人、僕しか心の底から頼れる人がいないのかもしれない。さながら卵から孵ったばかりの幼い雛が、初めて見た人を親だと思い込むように、姫川さんは僕といることで安らぎを覚えているのだろう。僕にできることは、そんな幼い雛鳥のような彼女が、僕の元で立派に成長していく姿をじっと見守ることだったのだ。成長した鳥はやがては親の元を離れていくが、姫川さんはずっと僕のそばにいてくれるはずなのだから。それを僕は誤解してしまっていた。

 他の人には見えない世界が見えていると言うことは、どれだけ不安になるのだろう。自分の見ている世界が、他の誰にも見えていないことを知った時、どれだけの恐怖を覚えるのだろうか。

 人と同じ世界しか見えていない僕には想像もできないものを、姫川さんは感じてきたのだろう。僕の役目はそんな彼女をそっと優しく受け入れて、包み込むような安心をあげることだったのだ。

「どこにも行かないよ。一緒にいる。約束するよ」

 彼女のふわふわとした髪の毛をそっと右手でなで下ろしながら、僕は言い聞かせるように優しく言った。

「ん」

 と姫川さんが、安堵の吐息を漏らす。

 姫川さんが、僕を抱きしめるのは一人になってしまうことに対する不安の裏返しだ。そのことに、僕はようやく気がつくことが出来たのだった。


「明日は、何時集合にする?」

 姫川さんの様子が大分落ち着いた頃、僕は尋ねた。

「……今日のお昼からが良い」

 腕の中で顔を上げた姫川さんが、恥ずかしそうに囁いた。驚いた僕が彼女の方をじっと見つめると、姫川さんはかぁっと赤面させた。

「それは……よく、ご両親と相談してからにしようね」

 僕は、そんな可愛らしい仕草をみせる姫川さんを前に、ただ困ったように笑みをうかべることしかできなかった。

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