遠距離恋愛(4)
「なぁ、香奈。司先輩から今日の飲み会のことで何か連絡あったか?」
「ううん、ないよ」
「本当に?」
「うん。いちいち飲み会のことぐらいで連絡こないって」
金曜日の午後。昨日からやたらと落ち着きのない守が心配そうに聞いてくる。
一体何を気にしているんだろう。確かに今日はあのヒナさんが言っていた飲み会の日だけれど、この前みんなに話を聞いてもらったせいか、私は前ほど気にしていないつもりなのだけど。
「あっ、七海ちゃん」
「おう」
「香奈ちゃん、守君、こんにちは」
金曜の午前中は別の授業を選択している七海ちゃんが、恥ずかしそうに微笑む。
「ここ座らない? 一緒に講義受けようよ」
そう言って隣の席を示すと、七海ちゃんが迷ったすえに、おずおずと近寄ってきた。
「あの、いいの?」
「もちろん!」
もう何度も繰り返しているやり取り。恥ずかしがり屋な七海ちゃんの、この少し困ったような照れ笑いがとても可愛くて、私は密かに大好きだったりする。
もし本当に七海ちゃんが守のことを好きなら、ぜひ上手くいってほしいんだけどな。今度こっそり、探りを入れてみようか。
「ねぇ、七海ちゃん。よかったら今度メールとかしてもいい? アドレスを教えてもらえたら嬉しいんだけど」
「あっ、うん、もちろん!」
慌てて携帯を取り出そうとした七海ちゃんの手が滑り、携帯が床へと落ちる。
「あっ」
「七海ちゃん、大丈夫?」
「う、うん、大丈夫。ごめんね」
「じゃあ、赤外線で――って守、なんで私の携帯いじってんの」
「いや、司先輩からメール来てないかなと思って」
「こんな昼間に来るわけないじゃん。仕事中だよ?」
彼氏からのメールを何度も新着確認しながら待ちわびる女の子のような守が鬱陶しくて、携帯を守とは反対側に置く。すると守はしぶしぶ、いつも通り昼寝を始めた。
どうも水曜日の飲み会以来、守の様子がおかしい気がする。あの日、守に何かあったのかな?
いつものごとく途中から記憶が飛んでいるけれど、小太郎から聞いた感じでは、特に変わった出来事はなかったように思うんだけど……。
ぼんやりとあの日のこと、そして今日の司先輩の歓迎会のことを考えているうちに講義はすすみ、終了の時間になった。
「守、起きて。部活行くよ!」
「うーん」
「はーやーく」
「んきゃっ!!」
なかなか起きない守の急所、脇腹をむぎゅっと掴むと、守が椅子から落ちそうな勢いで目を覚ます。
「その起こし方はやめろって!」
「だってこれが一番手っ取り早いんだもん。ねぇ、七海ちゃん?」
苦笑しながら見ていた七海ちゃんが、うんと頷く。その時、机の上にあった私の携帯がふいに鳴りだした。
「あれっ、司先輩からだ」
「えっ、マジで!?」
まだ仕事中の時間なのに、一体何の用事だろう?
携帯を耳にあてた私に、守がずいっと顔を近づけてくる。それを手で押し返し、少し緊張しながら呼びかけた。
「……もしもし?」
『お前、今どこにいる?』
「あの、たった今授業が終わったばかりで、まだ講義室に」
『そうか。――今夜、チームの歓迎会がある。帰りは遅くなるだろうし、多分電話にも出られない』
「……そうですか。分かりました、電話はやめておきますね。……楽しい飲み会になるといいですね」
モヤモヤした気持ちを抱えたまま、心にもないことを口にしてしまう。
するとなぜか司先輩がしばらく黙り込み、低い声で答えた。
『――引き留めろよ』
「……えっ?」
『それとも、本気で俺に楽しんできてほしいとでも思ってんのか?』
久しぶりに聞く冷たい声に、息をのむ。
『お前が本気でそう思っているのなら、俺はこのまま帰る』
――今、なんて?
『講義室はどこだ』
「7……7204です」
『今すぐ出てこい』
「おい香奈、どしたっ!?」
守の声にも振り返らず、携帯を握りしめドアに向かって走る。
学生たちで溢れる廊下を急いで見回すと、司先輩が明らかに不機嫌な顔で窓際に佇んでいた。
「……どうして? 何でこんなところに……お仕事はどうしたんですか!?」
「有給。前に言っただろう、GW期間中、全員有給消化のために交代で休みを取るって。今日取る予定だった同期と休みを代わってもらった」
「そう……なんですか? でも7月に帰るからGWは帰らないって……」
まだ入社したばかりで、ここに来る旅費だってバカにならないはずなのに。
まさかとは思うけど、私がいじけたりしていたせいで先輩に気をつかわせてしまったの?
でも、先輩がそんなことを知っているわけないよね?
「お前が帰ったあと、火曜の夜から立て続けにこっちの連中から電話があった。みな全く同じように仕事はどうだって話から入り、最後にさりげなくおまえとのことを聞いてくる。上手くいっているのかって」
「私とのことをですか? ……なんでだろう」
「決定的だったのは、木曜の明け方に入っていた、自称お前からのメール」
「自称、私?」
「見るか?」
司先輩が自分の携帯を操作し、私に手渡してくる。そこに書いてあったのは――
* * * * *
司先輩へ
金曜の飲み会、ヒナって女に気をつけて。
可愛い見た目に騙されてはダメ!
お酒の勢いで浮気しちゃったら、私も誰かと浮気しちゃうから。
香奈より
* * * * *
私なら絶対に使うことのない絵文字が大量にちりばめられているのを見て、思わず脱力してしまう。
確認するまでもなかったけれど、発信元を見れば、やっぱり守の携帯から送られていた。
「守ってば……いくら酔っていたにしても、バカっぽすぎる」
「お前が言うな。自分だってその日の記憶が途中から飛んでいるくせに」
「えっ、どうしてそれを!?」
「お前に直接聞いても肝心なことは答えないだろうと思って、昨夜小太郎に電話して話を聞いた。いいかげん、酒飲んだあとに逃走したり暴れたりするのはやめろよ。一昨日も潰れるまで守と勝負したあげく、二人して小太郎たちに背負われて帰ったんだろうが」
「すっ、すみません」
「ついでに、部のやつらがお前との仲を聞いてきた理由もわかったぞ。お前、水飲み場で一人、タンクに向かってぶつぶつ話しかけていたらしいな」
「え、そんなことしてましたっけ?」
「雄大が目撃して、東京で俺と何かあったんじゃないかと小太郎に相談してきたらしい。それを見ていた部員が話を広げて、おせっかいなやつが俺に電話をかけて来たんだろ」
「あの、本当に重ね重ね申し訳ないです」
「それから――」
「まだあるんですか!?」
永遠に続きそうなお説教に、思わずポロリと本音がこぼれる。
司先輩から冷やかな目で睨まれ、慌てて姿勢を正した。
「ごめんなさい、続きをお願いします!」
「……あの試合の日、何があった?」
「あ……」
「あの日、お前の様子がおかしいことには気づいていた。だが、またしばらく会えなくなるせいかと思っていて……。守のメールに出てきたヒナって女のことを副将に聞いたら、チームに時々出入りしている女で、あの日観客席にいるのを見かけたと教えてくれた。――そこで何かあったんだろう? 今日の飲み会のことを守が警告してきたことも含めて、お前が動揺するような何かが」
「……あの、小太郎に昨夜電話したんですよね? その時には、何て……?」
「この件については、お前に直接聞けと言われた」
そっか、私が口止めしてたから。
「なぜ隠す? 嫌な思いをしたなら、その場ですぐ俺に言えよ!」
強い口調に、思わずびくりと肩が揺れる。
でも司先輩が怒るのは当然かもしれない。
何かあれば一人でため込まずにすぐ伝えるよう、何度も言ってもらっていたのに。
「すみません、こんな大事になるとは思ってなくて。でも……言う必要はないかなって思ったんです」
司先輩の目がさらに冷たくなり、慌てて付け足す。
「大丈夫だって、分かってたから! ……あのヒナさんって女の人が一方的に先輩のことを気に入っているだけで、先輩の気持ちは変わらないって思ったから。……気付かないうちにボーっとしちゃって周りに迷惑をかけてしまったけれど、別に不安になっていたわけじゃないんですよ? ただ、ちょっと……遠距離は続かないとか色々言っているのを偶然聞いちゃって、嫌だなってもやもやしていただけで」
また怒られるかと、ビクビクしながら司先輩の反応を見る。
「……それでも、次からは必ず言え。お前が一人で嫌な思いをすること自体が嫌だ」
さっきよりは穏やかな声で、でも心底嫌そうな顔でそう言われ、お説教中にもかかわらず頬が緩んだ。
「今日、先輩たちの歓迎会だったんですよね? 休んでしまって大丈夫なんですか?」
「戻って欲しいのか?」
「いえ、そんな意味じゃ……。ただ、今回のことで先輩がチームの人と気まずくなってしまったら申し訳ないなって思って」
「大丈夫だろ。飲み会ならしょっちゅうあるし、別に今日休んだぐらいどうということはない。その女にも、はっきり迷惑だと伝えておく」
「迷惑って、何もそこまで」
「迷惑以外の何物でもないだろうが。そんな女がいるところにお前を連れて行けるか」
どうしちゃったんだろう。なんだかやけに先輩が心配性になっている気がする。
そんな戸惑いが伝わったのか、司先輩が私を見て小さくため息をついた。
「小太郎の背中で泣くぐらいなら、俺に直接文句を言えよ」
「……? 泣いてませんよ?」
「――もういい。それより守は? 一緒に授業を受けていたんだろう?」
「あれ、そういえば変ですね、まだ出てこないなんて」
先輩と共にすっかり人気がなくなった講義室の入り口に近づき、ひょいと中をのぞきこむ。
その途端慌てて首をひっこめ、後ろにいた先輩の腕を掴んだ。
「先輩ダメです! 今おそらく守にとって人生初の記念すべき瞬間を迎えているようなので!」
「は?」
「七海ちゃんが泣いていて、守が顔を真っ赤にしてました!」
「……部活行くか」
先輩がくるりと踵を返した。
「先輩、もしかして今日、練習を見てくれるんですか?」
「あぁ」
「わぁ、みんな絶対喜びますよ!」
「俺とお前が別れたという噂は消えるかもな」
「――え?」
「俺が遠距離になって早々、二股をかけたという噂も」
「……あの、改めて色々とご迷惑をかけていたみたいで……すみませんでした」
恐ろしい。噂って本当に恐ろしい。
タンクに向かって語りかけるという私の痛い姿が、一体どうして、そんな超具体的な別れ話につながってしまったんだろう。
「小太郎が、今日後輩たちも呼んで飲みましょうと言っていたが――」
「そうなんですか?」
「途中で抜けるからな」
「……? 分かりました。何か用事があるんですね。ご実家ですか?」
「お前、絶対分かってないだろう?」
先輩があきれ顔で立ち止まる。
「お前も抜けるんだよ。せっかく二人で過ごせる貴重な時間が減る」
見つめあったまま停止すること、数秒間。
やっとこの衝撃的な言葉が本当に司先輩の口から出たのだと理解した脳が、猛烈な勢いで心臓を打ち鳴らし、頬を火照らせる。
「……えっと、あのっ……分かりました」
先輩が私をじっと見おろし、また足早に歩き出す。
その背中を、両手で胸を押さえ、よろめきながら追いかけた。
【遠距離恋愛 完】