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  遠距離恋愛(3)

後半、少し小太郎視点が入ります。

「おーい、香奈。……香奈!」

 ほっぺたをムニッと掴まれ、はっと我に返る。

「お前、何ぼんやりしてんだよ。昼飯食わねぇの?」


 法学部の講義棟から一番近い学生食堂の中。

 いつの間にかすっかり食べ終わったらしい守が、いぶかしげな顔で問いかけてくる。

 私の隣にいる七海ちゃんまで眼鏡の奥から心配そうにこちらを見ているのに気づき、慌ててごめんと謝った。


「お前、東京行ってからずっとおかしいぞ。絶対あっちでなんかあっただろ」

「そんなことないって」

「バレバレなんだっつーの、小太郎たちも心配してたぞ。ってことで、今日部活終わったら小太郎んちに集合な」

「え、今日? もしかしてお酒飲むの?」

「おう、もうこれ決定事項だから。俺、朝からバイクおいてバスで来たし、お泊りセット持ってきたし。なんなら俺が香奈んちに泊まって、朝までじっくり話聞いてやろうか? ほらあれだ、パジャマなんとかってやつ」

「パジャマパーティは女の子同士でやるものだよ。守を部屋に泊めるわけないじゃん」


 さりげなく隣の七海ちゃんに目を向ければ、髪の毛とメガネで表情は見えないものの、やっぱり悲しそうに俯いている。


 守のバカ、鈍感! なんで七海ちゃんの気持ちに気付かないのよ。

 もし万が一私の勘違いだったら大変なことになっちゃうから、私からは何も言えないけどさ。


 それにしても……心配してくれるのはありがたいけれど、あんまり人に話したくはなかったんだけどなぁ。でも酔いすぎると大げさにグチってしまいそうだから、最初に素直に話しておいた方が無難だろうか。


「ごめん、とりあえずこれ返してくるね?」

ため息を一つつくと、食べきれなかったお昼ご飯のトレーを手に立ち上がった。








「ビール回った? 香奈の酒もあるな。じゃあ乾杯すっか! うぃーっす、お疲れ―!」


 守の声を合図に、みんなでお酒の缶を合わせる。

場所はいつもと同じく小太郎の部屋。そしてメンバーも小太郎、守、育太と私。毎度おなじみの四人組だ。


「かーっ、美味い! やっぱ練習の後のビールは最高だな」

「守は練習があってもなくても飲んでいるくせに。せっかく引っ込んだお腹がまた出てきちゃうよ?」

「俺の腹事情はどうでもいいんだよ。それより香奈の話だろ」

「だから、別に大丈夫だって」

「まぁまぁ、そう言わずにさ。ここのところ香奈ちゃんが時々ボンヤリしているのって、先輩のことで何か少しでも気になることがあるからなんだろう? サクッと話してみなよ。結構すっきりするかもよ」


 自分ではいつも通りのつもりだったけれど、小太郎たちには思っていた以上に心配をかけていたらしい。 

 人にべらべら話すようなことではないけれど……確かに、一人で悶々としているよりはすっきりするかもしれない。


「……先輩には絶対言わないって約束してくれる? でも、本当に大した話じゃないんだよ?」

 そう念を押してから、順を追って話し始めた。


「向こうでね、先輩が新しいチームの人に紹介してくれたの。そしたら、みんなあらかじめ私のことを聞いていたみたいで……」

「先輩が香奈ちゃんのことを事前に話していたってこと?」

 小太郎が意外そうに聞き返してくる。

 やっぱりそうだよね。司先輩って、普段自分のことをほとんど話さない人だもの。


「うん、そうみたい。それでね、主将の松岡さんとその奥さん――亜紀さんっていう人なんだけど、その 二人が、『遠距離で寂しいと思うけど、応援しているからがんばってね』とか、『卒業後こっちに来たらマネージャーの仕事を手伝ってね』なんて優しいことを言ってくれてね、すごく嬉しかったの」

「うん……それで?」


「試合の開始時間が近づいたから、私は先輩たちと別れて上の観客席に行ったんだけど、そこに4人の女の人が来て……。偶然私の席の近くに座ってね、その中の一人、ヒナさんっていう可愛い人が、司先輩を指さしながら『あれが私のダーリンだよ』みたいなことを言い始めてさ」

「はぁ? 何だそりゃ。やっぱり先輩が向こうで女作ってたってことかよ」

「バカ守、司先輩がそんなことするわけないだろ」

「いや、分かってるけどさ」

 小太郎に叱られた守が、もごもごと口ごもる。


「多分、女の人が一方的に好きなだけだと思う。ただその時に、私の話なんかも具体的にでてきてね、二つ年下だとか、同じ大学だってことまで知ってたの。チームの人にいろいろと聞きだしてもらったって言ってた。……ヒナさん、2年間も遠距離で続くわけがないって……もう手は打ってあるしって言ってたの」

「手?」

 育太が眉を寄せる。


「うん、今度の金曜日にチームの歓迎会があって、そこで司先輩を亜紀さんから紹介してもらえることになってるって言ってた」

「亜紀さんって主将の奥さんだよね? でもその人は香奈ちゃんと司先輩のことを応援してくれているんだろう?」

「うん。私と会った時には、亜紀さんすごく優しい笑顔で『頑張ってね』って言ってくれていたの。だから驚いちゃって……。ヒナさん、マネージャーの仕事を手伝ったりもしているみたい。『これからは毎週練習の手伝いに行きますって松岡さんに伝えたら、下心が見え見えだって笑われた』って言ってた。――これって、亜紀さんも松岡さんも、ヒナさんの気持ちを知っていて応援しているってことだよね?」

「……まぁ、普通に考えればそうなるよな」

 守が言いにくそうに、そう答えた。


「松岡さんと亜紀さんだけじゃなく、チームの人たちもみんなすごく私に優しくしてくれてたの。これからよろしくねって挨拶してくれて……。でも実際は、陰でヒナさんに協力して色々と先輩から聞きだしている人や、松岡さんや亜紀さんのようにヒナさんの応援をしている人がいるんだって思ったらさ、なんだかすごくもやもやしちゃって。みんな本当は、私のことをどう思っていたのかな、なんて」

「……そっか。そんなことがあったから、香奈ちゃん少し落ち込んでたんだ」

 小太郎の優しい声に、一気に気が緩んだ。


「金曜日の飲み会の時ね、ヒナさん司先輩の隣でお酒を飲みすぎて潰れたフリをするんだって言ってた。お持ち帰りしてもらうのって、嬉しそうに話してた」

「それが『手』ねぇ。たまにいるんだよね、自分ならどんな男も落とせると思いこんでる自信過剰な女の子。――もしかして香奈ちゃん、司先輩がその女になびくかも、なんて心配になっちゃった?」

「ううん……それは思わなかった」

「おっ、成長したね。司先輩の想いがようやく通じたって感じかな? 咲良から聞いたよ。司先輩、香奈ちゃんのご両親に挨拶に行って、二年後一緒に暮らすことを許してもらったんだろう? 香奈ちゃんも司先輩のご両親に会ったんだって?」

「うん」

「マジかよ! もうそこまで話が進んでいるのか?」


 驚く守の隣で、小太郎がククッと笑いをこらえる。

「香奈ちゃん、先輩の家の玄関でいきなり腰抜かしたらしいね」

「だってめちゃくちゃ緊張しながら玄関に入ったらさ、いきなり咲良ちゃんが、パンパーンってクラッカー鳴らすんだよ? 香奈ちゃんの緊張をほぐすために熱烈な歓迎の意を表してみた! なんて咲良ちゃん笑ってたけど、こっちは動揺しすぎて必死に覚えてた挨拶の言葉が全部飛んじゃったよ」

 私のビビリっぷりに先輩のお父さんやお母さんまで笑ってくれて、すぐに和やかな雰囲気になれたのはありがたかったけどさ。


「でもまぁ、そんなこともあったから今回先輩の気持ちを信じられたんだ?」

 まだ笑っている小太郎に、うん、と頷く。

「……うちに挨拶に来てくれたときね、どうして2年も先の話を今決めておく必要があるんだってお父さんに言われたの。そしたら先輩が、『今はっきりとした約束を交わしておかないと、香奈さんが余計な不安を抱えて上手くいくものもいかなくなってしまうかもしれない。マイナス要素は可能な限り潰しておきたいんです』って言ってくれて……。先輩はそこまで考えてくれているのに、ヒナさんのような人が一人近づいてきただけで私が早速不安になって先輩の気持ちを疑っちゃうなんて、先輩に対して失礼すぎだよね?」


「すげぇな、司先輩。本気でお前のことが好きなんだな。……やべ、惚れ直した。そのセリフどっかにメモっとこう。いつか使えるかも」

「ちょっとやめてよ」

 本気で携帯を取り出した守から、慌ててそれを奪い取る。

「やめとけって、守。その言葉お前には全く似合わないから」

「だな」

 小太郎の言葉に育太が頷く。

「そんなことねぇし! 超似合うし!」

「人の言葉盗む前に、まず女作れよ」

 育太の冷静な突っ込みに、守がうっと言葉を詰まらせた。


「それにしてもさ、そのヒナって人、間違いなく司先輩の一番嫌いなタイプだよな。いくら主将の奥さんから紹介されたとしても、そんな見え見えの手で近づいたら先輩に相当手厳しく拒絶されるんじゃない? ほら、俺らの前の代のマネージャー候補みたいにさ」

「私たちの前の代? あぁ、司先輩にこっぴどく言われて辞めちゃったって人のこと?」

 もうずっと前に、清田先輩の部屋で聞いたことがあったような……。


「そうそう」

「なんだよそれ。俺聞いたことねぇんだけど。育太知ってるか?」

「いや、俺も初めて聞いた」

「俺らの前の代のマネージャー候補の中に、あきらかに司先輩狙いの女の子がいたらしいんだよ。仮入部期間が終わってもなんとかその子だけは残っていたんだけど、ある日とうとう司先輩本人に『先輩の好みの女の子ってどんなタイプですか?』って聞いちゃったらしくてさ。『化粧塗りたくって男子部に男作るために入ってきたお前とは正反対の女』ってばっさりやられて、速攻やめたらしい」

「司先輩怖っ! でも確かに、香奈と付き合う前の先輩はそういう女嫌いのイメージが強かったよな。あの頃は女のマネージャーってだけで香奈も相当冷たくされてたし。そりゃヒナって女もぐっさりやられるわ」

 うーん、それはそれでちょっと可哀想な気も……。


「あと香奈ちゃんが気になっているのは、チームの人たちの本心だっけ。俺思うんだけど、その主将と亜紀さんは、特別にヒナって人のことを応援しているわけじゃないんじゃないかな?」

「えっ?」

「一応知り合いか友達ではあるんだろうけどさ。普通、自分たちを信頼して大切にしている彼女の話をしてくれた司先輩の気持ちを無視して、いきなり他の女とくっつけようなんて思うかな。チームの主将に選ばれるほどの人物が」

「あー、確かに。そりゃないかもな、信頼関係が崩れそうだし」

 小太郎の言葉に守が頷く。


「いくら色々突っ込んで聞かれたにせよ、あの司先輩がそこまで香奈ちゃんことをみんなの前で話したのは、もう本命がいるから他の女は必要ないっていう女除けの意味が強いと思うんだ。そのヒナって人は思い込みが激しそうだから効果がなかったのかもしれないけれど、他の部員たちにはちゃんと伝わっているんじゃないかな。だとしたら、亜紀さんがヒナって人に頼まれてした『司先輩を紹介する約束』も、しつこく頼まれて仕方なく、こちらが新入部員の上原さんですよ、みたいな軽い紹介に止めるつもりで応じたものだったのかもしれないよ?」


 それは全然考えてみたことがなかったかも。ヒナさんの嬉しそうな様子から言って、紹介=恋人になるお手伝いって意味だとばかり思っていたから……。

 でももし本当にそうだったのだとしたら、話は全然違ってくるよね?


「ありがとう、小太郎。そうだね、悪い方に考えるのはもうやめておく」

 本当のところがどうなのかってことは、いくら考えても分からないんだもん。

 亜紀さんたちを疑って鬱々と悩んでいるよりは、本当に応援してくれているのだと信じて過ごす方がずっといい。


「――なぁ、最初から先輩に全部ぶちまけておけば、話は早かったんじゃないか?」

「ぶちまける?」

 唐突な守の言葉に問い返す。

「要するに、そのアホな女が一人で引っ掻き回して騒いでいるだけだろう? だったら司先輩に言いつければいいじゃん。こんなこと言ってるブスがいるの、不愉快だからどうにかしてよって」

「ブスって……いや、守らしいけどさ」

「俺が司先輩の女なら、速攻で言いつけてやるね」

 なぜか得意げに胸を張る守に、守を除いた三人が噴き出した。


「ごめん、守。今女装したお前が司先輩に『あの女どうにかしてよ』って迫る姿を想像しちゃってさ」

「私も!」

「気色悪ぃな、マジで」

「何だよ、人がせっかく手っ取り早い解決策を提案してやったのによ! でも、俺が司先輩の彼女か……悪くないな、それ」


 まんざらでもない様子の守に、また笑いがこみあげてくる。

 やっぱり私には、ここが一番居心地いい。

 何があっても無条件に信じて味方してくれる仲間がいて、思いっきり笑うことができて……。


「まぁとりあえず、バカな女は勝手に自滅するから無視ってことで! ほら香奈、つまんねぇことは忘れて楽しく飲もうぜ!」

「そうだね、楽しく飲もっか」

 なんだかんだ言って面倒見のいい守の言葉に、笑って頷く。


「そういえば、もう来週が新歓コンパだよな。香奈ちゃん、今年の2年の余興について何か聞いてる?」

「ううん、何も」

「無難なところでアレじゃね? ほら定番の、女装して歌とダンス」

「女装って、もしかしてミニスカートとか履いちゃうの?」

「そこは外せねぇだろ?」

「うーん、雄大君がそんなの応じるかなぁ。絶対嫌だって言いそうな気がするけど」

「俺もそう思う。香奈ちゃんの前では絶対やらないよ、あいつ」

「うん、雄大君結構シャイだから、女の私の前では女装とか嫌がりそうだよね」

「一体どうしたらあいつがシャイなんて発想が出てくるんだよ。お前、目がおかしいんじゃねぇか?」


 みんなでワイワイ話しながらお酒を飲む。

 くだらない話で盛り上がれば盛り上がるほど、お酒の量も増えていく。

 もう明日の授業と部活のことなどどうでもよくなってしまう程度に飲んだ頃、赤ら顔の守がすくっと立ち上がった。


「おい、バッティングセンター行くぞ!」

「え、何をいきなり。今から行くの?」

「おう! ――いいか、香奈。己の弱さを吹き飛ばすには、打って打って打ちまくるしかないんだよ!」

「はい?」

「ってことで、行くぞ!」

「えー」


 変な元野球部スイッチが入ってしまった守に文句を言いつつも、みんなが苦笑しながら立ち上がる。

 幸いバッティングセンターは大学のすぐ近くにあるため、ふらつく足でも難なく到着することができた。


「香奈、お前はそっちだ。いいか、今から俺がお手本見せてやるからな」

 赤ら顔の守が私用にと時速70キロの子供向けマシンを指さし、自分はもっと早い球の出る打席に入る。

 やがてカキーンという音を響かせ、守がボールを軽々と飛ばし始めた。


「さすが元野球部。上手く飛ばすなぁ」

 小太郎がめずらしく守をほめる。

「いいね、私もやりたくなってきた!」

 早速時速70キロの打席に入り、マシンに100円玉を投入する。

 しっかり狙って撃ってみたけれど、なかなか気持ちよくは当たらない。


「難しいなぁ」

「おい香奈、持ち手はこう。んで、こう振る」

「うん」

 自分の分を打ち終えた守が真面目にレクチャ―してくれる。すると少しずつ、球がバットの中心に当たり始めた。


「よし香奈、その調子だ! いいか、ホームランボードをよくねらえ! あの丸い板をヒナって女だと思って打ち砕け!」

「えー、それはさすがに感じ悪くない?」

「バカ、そんな肉食系女子相手に遠慮してっと、司先輩をがぶりと食われちまうだろうが!」

「むむっ、それはイカン!」

「行け! 狙え! 打ち砕け!」

「――いける気がする」

 左手に持ったバットをすっとホームランボードに向けて伸ばし、意識を集中する。


「さぁこい! ――ていっ!」

「うおっ、香奈おしい! もう一本!」

「香奈ちゃん、ほどほどに……」

「おおっ! 今度こそ行ったかもっ!? ――よっしゃあ!」


 ネット中央の的へとぐんぐん伸びていくボールに、歓声を上げた。






 * * * * *





「……香奈ちゃん、大丈夫? 気持ち悪くない?」


 どうやら俺の背中でうとうとしているらしい香奈ちゃんに声を掛けると、うーん、という眠たげな声が返ってくる。


「ごめんね、小太郎。急に具合悪くなっちゃって」

「あれだけ飲んだ後に暴れればしかたがないよ。でもぐるぐるバットはもう禁止ね。香奈ちゃんはいいけど守は重いんだからさ」

「……ごめんなさい」


 久しぶりにバッティングを楽しみ打席から出て来た俺と育太が目にしたのは、エアホッケーのゲーム台に両手を広げて突っ伏している香奈ちゃんと、バット片手に床に伸びている守の姿だった。


 どうやら俺たちがいない間に守と香奈ちゃんで激しいホッケーの勝負をし、勝った香奈ちゃんは酒がまわって動けなくなり、負けた守は罰ゲームのぐるぐるバットの途中でやっぱり潰れて意識を失ったらしい。


 とりあえず二人とも俺の部屋で休ませるため、香奈ちゃんは俺、守は育太が背負い、部屋に向かっているところだ。



「……ねぇ、小太郎。今日楽しかったね」

「そうだね。元気が出たみたいでよかったよ」

「小太郎、いつもごめんね?」

「俺は何もしてないよ」

「小太郎も、育太も、守も大好き」

 小さな子供のような香奈ちゃんの言葉に、思わず頬が緩む。

「ありがとう」


「あのね、咲良ちゃんも小太郎のことが大好きなんだって」

「……そう?」

「大好きで大好きで、毎日が幸せすぎて怖いぐらいだって」

「……そっか」


 なぜか背中の香奈ちゃんが、ひくっ、ひくっと泣き始める。


「香奈ちゃん、どうした?」

「小太郎、本当によかったねぇ」

「うん?」

「小太郎じゃなきゃダメな人、ちゃんといたね。嫌な思い出、全部吹き飛ばしてくれる人……」


 その言葉に、あの夏の日の香奈ちゃんの涙を思い出す。

 そして今、俺にありったけの愛情を傾けてくれる、咲良の笑顔を。


「小太郎」

「……ん?」

「私ね、咲良ちゃんの気持ちがよく分かるよ。大好きすぎて、幸せすぎて怖い気持ち」

「……」

「先輩と一緒に暮らしてるとき、ずっとそうだった」

「……うん」

「先輩に会いたいよ」

「……」

「寂しい」

「……うん」

「ほかの女の人が先輩のそばにいるなんて嫌だ」

「……うん」

「ずっと一緒にいたいのに……遠すぎるよ」


 普段は決して聞くことのない香奈ちゃんの弱音に、胸が熱くなる。

 これまでにもこんな風に声を殺し、部屋で一人泣いていたんだろうか。


「あと少しだよ。大丈夫、7月なんてあっという間に来る。……香奈ちゃん?」

「もう寝てる」

 黙って隣を歩いていた育太が、香奈ちゃんの様子を見てそう答える。


「……仕方のないこととはいえ、香奈ちゃんが可哀想で見てられないな」

「あぁ」

「育太、お前は大丈夫か?」

「ん?」

「揺れてる香奈ちゃんを見て……辛くなったりはしてないか?」


 こうして面と向かって育太の気持ちを確認するのは、初めてかもしれない。

 育太がじっと俺の顔を見て、苦笑する。


「そんなもん、とっくの昔にふっきれてる。相手は司先輩だ。二人で幸せになって欲しいとしか思っていない」



 それぞれの想いをのせ、時はゆっくりと流れ続ける。

 僅かに白み始めた空を見上げ、育太と二人、静かな街を歩き続けた。



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