釣り対決part2(2)
沖に出るまでが大変だった。
スピードを上げた船が波にぶつかり弾むたびに、香奈ちゃんから断末魔のような悲鳴が上がる。
弾き飛ばされないよう必死にしがみついていたせいか、最初のポイントに着いた時点で香奈ちゃんはすでに戦闘不能の状態だった。
「はい、タナ25メートル」
そんな香奈ちゃんを顧みることなく、船長の声を合図に先輩たちが素早く仕掛けを落とす。
「――おっしゃ、早速来た!」
「こっちもだ!」
次々といい型のアジやメバルが上がり始める。
「清田、このアジ何ポイントだ?」
「アジか。アジ茶漬けが食いてぇな。一匹5ポイント」
「このでかいメバルは?」
「煮つけが最高。10ポイント」
「お前の苦手なサバ一匹」
「当然0ポイントだろ」
どうやら清田先輩の好物かどうかで、ポイントが大きく違ってくるらしい。
順調に数を伸ばしていく泰吉先輩の姿を見て、香奈ちゃんがよろよろと体を起こす。
なんとか自分の竿まで移動するものの、海を見ないよう四つん這いになっていては、餌を仕掛けに詰めるのさえ一苦労だ。
「香奈ちゃん、大丈夫?」
「うん、なんとか。ごめんね小太郎、私のことは気にせず、釣りしてて?」
香奈ちゃんがもたついているうちに探知機で見つけた魚の群れが移動してしまうらしく、また次のポイントを探して船が大海原を走り出す。すると当然ながら香奈ちゃんは船に全力でしがみつき、絶叫する――これを一体何度繰り返しただろうか。
香奈ちゃんの顔色は真っ青で、もう起き上がる気力もない。
どれだけ時間が残っているのか分からないが、泰吉先輩が釣り上げた魚は軽く20匹を超えていて、追いつくことも不可能だ。
「香奈ちゃん、もうやめようよ」
「……小太郎?」
「これ以上無理する必要ないって。先輩の写真なら咲良に言えばもらえるだろうし、試合のビデオだって先輩自身が何かしら残していると思うよ。船長に言って、俺たちだけ先に帰してもらおう?」
「小太郎……」
香奈ちゃんがじわりと目を潤ませる。するとそこに、不機嫌さ丸出しのしゃがれた声が割り込んできた。
「何が『咲良』だ、のろけやがって。おい香奈、お前いつまで寝てるつもりだ。そんなんじゃ海嫌いを克服できねぇぞ」
「泰吉先輩、これじゃ香奈ちゃん、ますます海が怖くなるだけですって」
「あぁ? お前らがいちいち甘やかすからこうなるんだろうが。――おい香奈、さっさと起きろ。釣らねぇと本気でコレ沈めるぞ!」
泰吉先輩が海の上で司先輩の写真を振り、香奈ちゃんを脅す。
「泰吉先輩、もう本当に――」
「……なんで、ですか?」
ふいに聞こえた小さな冷たい声に、口をつぐむ。
その声の元をたどると、香奈ちゃんが目に涙をいっぱいに溜め、横になったまま泰吉先輩を睨みつけていた。
「どうしてそんなに、意地悪ばっかりするんですか」
「あ? なんだよ、なんか文句あんのか」
「あるから、今こうして言ってるんじゃないですか」
いつもの柔らかな声ではなく、怒りを多分に含んだ低い声。
明らかに様子の違う香奈ちゃんに、ほかの先輩たちもやっと竿を置き、なんだなんだと近寄ってきた。
「おい、どうした香奈?」
「……先輩たちも酷いですよ。わざわざ小太郎と二人で来させたのは、いつもの釣り道具を持ってきてないことが私たちにバレないため――つまり、私が船はダメってことをみんな知っていながら無理やりこれに乗せるためですよね?」
「えーっと、ごめんね香奈ちゃん。正直船はダメっていうことは聞いていたけどさ、まさかそこまで怖がるなんて思ってなくて」
翼先輩が取り繕うように言って苦笑する。でも香奈ちゃんはニコリとも笑わない。
「その怖がる私をほったらかしにして、今の今まで釣りを楽しんでいたくせに。――その大量の魚、一体誰がさばくと思ってんですか?」
「……ごめん、香奈ちゃん」
「まぁ、そう怒んなよ、香奈。ちょっとしたいたずらだろ?」
清田先輩がとりなすように言って香奈ちゃんの前に腰を落とす。
香奈ちゃんがふっと冷めた顔で微笑んだ。
「へぇ、いたずら。これ、ちょっとしたいたずらだったんですね。じゃあ私もたまにはやり返そうかな。――清田先輩、この前麗子さんに内緒で看護師さんとコンパしましたね?」
「お前、なぜそれを!?」
「メアドを交換したFカップ美女、美穂さんとはその後いかがですか――って、麗子さんに聞いてみようかな」
「うん、すまん香奈。俺が全面的に悪かった!」
「中野先輩、この前雄大君のロッカーに部内恋愛もののエッチなビデオ入れたの先輩ですよね。雄大君が持ち主探してたんで、今日先輩だったって教えときます」
「うおっ、それだけは勘弁してくれ! あいつマジで冗談が通じねぇんだよ! ごめん香奈、俺はお前を船に乗せるのは可哀想だと止めたんだが、先輩たちに脅されて仕方なく」
「仕方なく? 苦しむ私を見て一番笑っていたのは、どこの誰でしたっけ」
「えっと、もしかしたら僕だったかな? ……ごめんなさい」
横たわったまま淡々とキレる香奈ちゃん。そしてその周りで体を縮め、ぺこぺこと頭を下げる先輩たち。
めったに見れないその光景を唖然として眺めていると、この場でただ一人『反省』という言葉とは無縁の強者が、ケッと鼻で笑った。
「お前ら情けねぇな。なに香奈相手にヘコヘコしてんだよ」
「おい、泰吉。もうやめろって」
「お前の海嫌いを治してやろうっていう俺たちの優しさだろうが。むしろ感謝しろ」
「はぁ? そんなの絶対嘘ですよ。いつもいつもいつもいつも! 泰吉先輩は意地悪ばっかり!!」
突然声を荒げた香奈ちゃんに、みんながびくりと肩を揺らした。
「司先輩がいなくなった途端にパシリの回数が急増するし! 自分が暇だからってしょっちゅう夜中までゲームの相手をやらされるし!」
「あぁん? 暇なのはお前だろ! 俺がわざわざ貴重な時間割いて付き合ってやってんだよ!」
「嘘ですよ! こっちが部活の先輩だからって刃向わないのをいいことに、めちゃめちゃ私で憂さ晴らししてるじゃないですかっ! 明け方の4時まで無理やりゲームに付き合わせたあげく、居眠りして負けた私に「罰ゲームだ」って油性ペンで眉毛つなげて買い出しに行かせたのは、どこのどいつですか!」
「泰吉、さすがにそれはやりすぎだ。――っていうか香奈、お前もそこは断れよ、一応女なんだからよー」
「断ったらヒゲも追加するって脅されたんですよっ!」
助け舟? を出した清田先輩に、香奈ちゃんがガブリと噛みつく。
そういえばついこの前、香奈ちゃんが眉間を真っ赤にはらして部活に来ていたことがあったような……。なかなか落ちなかったんだな、油性ペン。
「もうアッタマきた! ひどい仕打ちにもずっと耐えてきたのに、よりによって司先輩を冷たい海の底に沈めようだなんてっ! やってやろうじゃないですか! 釣ればいいんでしょ、釣ればっ!!」
香奈ちゃんが勢いよく体を起こす。
海を目にした瞬間ブルッと体を震わせたものの、何かを探すように船に目を走らせ、「船長!」と叫んだ。
「あの救命浮き輪、貸してください!」
「お、おう。これか?」
ロープ付きのオレンジの浮き輪を受け取った香奈ちゃんが、おもむろにライフジャケットの上からそれを被る。
「すみません、このロープをどこか、絶対ほどけないように結んでもらえますか!」
「了解」
船長が素早くロープを固定する。
それを何度か強く引いて外れないこと確かめた香奈ちゃんが、涙目のまま「落ちない、沈まない、大丈夫! 落ちない、沈まない、大丈夫!」と繰り返し、竿のところまで這っていく。
そして震える手で餌を詰めはじめた。
「清田先輩、残り時間は!?」
「えっ? あぁ、部活に間に合わすなら、あと30分てとこだな」
「今さら追いつけるわけないだろうが、バーカ」
「うるさいんで、ちょっとどっかに沈んでてもらえますか? ヒキガエル先輩」
「何だと!? てめぇ調子のんなよ、香奈!!」
泰吉先輩もむきになって釣り竿を手に取った。
「大人げないな」
「本当ですね」
清田先輩があきれ顔で首を振り、中野先輩が全くだと言わんばかりに頷いている。
でも俺に言わせれば、全員そろって大人げない。
「よーしきたっ! アジ、トリプルゲット!」
「おっ、香奈15ポイント!」
「くそっ、またサバかよ!」
「泰吉0ポイント」
「メバル大、ダブルでどうだ!」
「香奈、20ポイント!」
香奈ちゃんがすごい勢いで巻き返していく。それでもその差はすでに開きすぎていて、なかなか追いつくことができない。
「ざまーみろ。いつまでも情けねぇ面で寝てっからだ! 思い知ったか、ブース!」
「くぅーーっ!」
残り3分。勝利を確信した泰吉先輩がケケッと笑い、すでに限界まで顔色を悪くした香奈ちゃんが悔しげに唸る。
「まだ終わってないですよ! 勝負は最後の1秒までわからないもん! きっと今に見たこともないぐらい大きなタイが……んんっ!?」
「どうした、香奈? うおっ!」
みんなの注目を一身に集め、香奈ちゃんの竿が大きくしなる。
「な、なにこれっ!」
「絶対逃がすなよ、香奈! 大物だ!」
「おっ、折れるー!」
「無理に巻くな! 糸が切れるぞ!」
騒ぎを聞きつけ、船長が網を持って走ってくる。
「なんだ? なに釣った!?」
「神様一生のお願いです! どうか私に、大きな大きな真鯛をくださいっ!」
黒い魚影が、ゆらりと海面に近づいてくる。
「うわっ、でかっ! なんだこれ……エイか!?」
船長がニヤリと笑う。
「違う。これは――ヒラメだ!」
「おおーっ!! すげぇ、香奈!」
香奈ちゃんが自分の身長の半分はあるかというようなヒラメを掴み、よろりと立ち上がる
「巨乳好きの清田先輩! 巨大ヒラメのお造り何ポイントですかっ!」
「1000ポイントッ!」
「テメェきたねぇぞ、清田! 弱み握られてるからって!」
「泰吉先輩、約束ですよね。とっとと渡してもらいましょうか! さぁ、さぁ、さぁ!」
「くそっ!」
真っ青な顔で迫る香奈ちゃんの気迫に負けたのか、泰吉先輩がいつになく素直に写真とDVDを差し出す。ヒラメをぽいっと投げだした香奈ちゃんが急いでタオルで手を拭き、それをもぎ取った。
「よ、良かったぁ! でも私、もう限界で……うぷっ」
香奈ちゃんが口元をおさえる。そして――
「うぇぇぇっ!」
「あっ、バカ! 海だ海っ! ギャーッ!!」
泰吉先輩が悲鳴を上げてのけぞった。
* * * * *
「――よく眠ってますね、香奈ちゃん」
ひと仕事……いや、ひと騒動終えた、港からの帰り道。
穏やかな顔で熟睡する香奈ちゃんをバックミラー越しに眺め、その隣に座る人に声をかける。
「フン、出すもんだしきって、すっきりしたんだろうよ」
やや疲れた顔の泰吉先輩が、不機嫌そうにそう答えた。
「あいつら、臭いから向こうの車に乗れとか言って追い出しやがってよ。こんな格好でどうやって自分の部屋まで帰れっていうんだよ」
「よかったら、俺のタオルを貸しましょうか? とはいっても小さいフェイスタオルしか持ってきてないんで、ろくに隠せないとは思いますけど」
笑いをこらえ、改めてミラー越しに泰吉先輩の姿を眺める。
くたびれた白のTシャツに、下はオヤジくさい柄のトランクス。
なんとも情けない格好の泰吉先輩が、ふてくされたように窓の外へと目を向けていた。
「でも、船長がたまたま予備のTシャツと下着を持っていてくれて良かったですね」
「よかねぇよ、イソ臭ぇ。香奈のヤツ上から下まで思いっきりぶちまけやがって」
「意地悪ばっかりするからですよ」
「フン。これぐらいの方が、ちっとは気がまぎれんだろ」
「……ひょっとして、最近司先輩がいなくて香奈ちゃんが落ち込んでいたから、ちょっかいを出していたとでも?」
「当然だ」
いや、どう考えても嘘だろ、それ。
むしろ邪魔者がいなくなったとばかりに、嬉々として呼びつけているとしか思えない。
でもまぁ、眠りこけて倒れてきた香奈ちゃんに黙って肩を貸してやるあたり、ちょっと微笑ましくもあるんだけど……。
カーステレオから流れる切ない恋の歌を、小さく口ずさむ。
『――あのね、車の中で会話が途切れても緊張しなくて済むように、今一番お気に入りのCDを持ってきてみたんだ』
まだ付き合い始めたばかりの頃――初めて二人で遠出した日の咲良の笑顔を思い出し、自然と笑みがこぼれた。
少し天然が入っていて、どこまでもまっすぐな性格をした女の子。
今やけに会いたく感じるのは、香奈ちゃんの熱い想いにあてられたせいだろうか。
ふと、静かすぎる後ろの二人が気になってミラーを覗く。
寝ているとばかり思った泰吉先輩はしっかり起きていて、その肩で眠る香奈ちゃんに何か小声で話しかけているようだ。
ぐっすり眠っているはずの香奈ちゃんに、一体何を?
気になってBGMの音量を下げてみると――
「バーカ、ブース、まな板、チービ」
……全く、どこまでも大人げない。
呆れた溜め息が聞こえたのか、泰吉先輩がじろりとこちらを睨んできた。
「おい、小太郎。部活終わったら速攻で清田の家に戻ってこいよ。今日は釣った魚で飲むからな」
「あの魚、全部食べきれますかね」
「他の部員も呼べば、いくらでも食べられるだろうが」
「いやでも、香奈ちゃん一人であの大量の魚をさばくのは――」
「んなもん、一晩中でもやらせておけばいいんだよ!」
あぁ、またそんな冷たいことを言う。いつか本気で嫌われてもフォローしませんよ?
でもまぁ確かに、こんな風に賑やかに、そして慌ただしく毎日を過ごしていれば、司先輩不在の2年間もあっという間に過ぎていくに違いない。
「今日はあまり香奈ちゃんに酒を飲ませないでくださいね。胃が荒れていると回りが早そうですし……俺、司先輩からお目付け役を頼まれているんで」
「ケッ」
知ったことかとばかりに顔をそむける泰吉先輩の肩の上で、香奈ちゃんがスピーッと平和な寝息をたてた。
【釣り対決part2(完)】