第35話 夏合宿(5)
結局、バレーのトーナメントは、1位4年生、2位2年生、3位1年生、4位3年生の順に決まった。
あいかわらず自分勝手な泰吉先輩は、『俺は3年じゃない』と言い捨ててさっさとどこかへ行ってしまい、残りの3年生たちが渋々バーベキューの準備へと向かう。
他の学年のみんなはまた自由時間となり、各々好きなように過ごすこととなった。
「運動すると暑さ倍増だな。ゴムボートでも借りて海にでようぜ」
「おぉーいいね」
「おい、間宮! ちょっと海の家行って借りてこい」
「はい」
4年生の先輩たちは、どうやら今度は沖に出て遊ぶみたいだ。
「香奈も来いよ」
「いえ、私はここで荷物番でもしておきます。咲良ちゃんももうすぐ戻ってくるだろうし……」
咲良ちゃんはさっき偶然中学時代の友達に会ったらしく、今はその子たちのところに少し話しに行っている。
「荷物といっても、クーラーボックスに入ったビールぐらいだろ? 誰ももっていきやしねぇって」
「そうかもしれないですけど……本当にやめときます。私、海はちょっと苦手で」
「苦手?」
「泳げないんです」
子供のころ従姉が住んでいる島に遊びに行き、すぐ目の前に見える小さな島まで泳いで渡ろうとして途中で足がつってしまったことがある。
その時溺れかけた恐怖からすっかり海が苦手になってしまい、今では小さなボートはもちろん、フェリーなどに乗るのも辛いぐらいだ。
底が見えていて足のつく場所なら、大丈夫なんだけど。
「嘘つけ。お前に限って泳げないわけがねぇだろうが」
「いえ、本当に」
「分かったからさっさと乗れ、ほら」
「ひっ! まっ、待ってください! 分かってないです! 分かってないですよ、ちっとも!」
全く信じてくれない4年の先輩たちに、無理やりボートに乗せられる。
どうしよう、恐いんだけど!
海に入ってなくても、こうしてボートに乗っているだけで、すでに怖いんだけど!
助けを求めて司先輩や小太郎たちの姿を探したけれど、こんな時に限って近くにいない。
容赦なく沖へ向かうボートのへりに全力でつかまり、とにかく落ちませんようにと必死で祈る。
だんだん海の色が変わっていく。
底の見えない、おぞましい色へと変わっていく。
吸い込まれそうな青にクラリとめまいを起こした時、突然ボートが大きく揺れた。
「んぎゃーっ!!」
「うぉっ! びっくりしたぁっ!!」
大きな水しぶきがかかり、たった今水に飛び込んだ先輩やボートに残っている先輩たちが一斉に私を振り返る。
「急に大きな声出すなよ、香奈! ビビるだろ!」
「すっ、すみません! 急に揺れたからっ」
「……もしかしてお前、本当に泳げないのか?」
「本当ですよ! バリバリのカナヅチですよ。さっきそう言ったじゃないですか!」
見てよ、この手足の震え! 生まれたての小鹿なみだよ、もう!
「マジで? 香奈にも苦手なスポーツがあったのか?」
「いやいやどうせあれだろ?『私、バタフライはちょっと苦手で』とかってレベルだろ? こいつに限ってカナヅチのわけがねぇじゃん」
「意外と犬かきかもしんねぇぞ?」
「やべぇ、香奈の犬かき超早そう!」
先輩たちがげらげらと笑いだす。
もう好きなだけ笑っていいから、お願い、船だけは揺らさないでぇ!
海を見るのが怖くてギュッと目を閉じる。するとますます揺れを敏感に感じてしまい、慌ててまた目を見開いた。
「――んじゃあ、とりあえず泳がせてみっか」
「だな」
先輩の言葉に、はっと我に返る。
「ええっ!? ちょっと! え!?」
「行くぞ! せーのっ!」
「ヒイッ!!」
高々と担ぎあげられた、と思った瞬間。
ブン、という音と共に身体が宙を舞い、勢いよく海の中へと投げ込まれた。
「――ガホッ! ゲホッ!」
恐い、恐い、助けて!
海水を飲みながら、必死にもがく。
「なーにふざけてんだよ、香奈……って、え、まじで泳げねぇの?」
「うわ、やばっ!!」
「香奈っ!!」
誰かの腕が身体に巻きつく。
「悪かった! 落ち着け、もう大丈夫だから!」
いやだ! 恐い! 早く水から上がらなきゃ!
唯一すがることのできる誰かの腕を掴み、なんとか水から這い上がろうともがくけれど上手くいかない。
――苦しい、怖い、誰か助けて!
「香奈、落ち着けって! くそっ!」
「ゲホゲホッ! ゴホッ!」
「藤野、かせっ!」
力強い声と共に、ぐっと誰かの身体に引き寄せられる。
「香奈、暴れるな」
――この声……司先輩?
「落ち着け。もう大丈夫だから、首に腕を回せ」
不安定だった体をしっかりと支えてもらい、やっと少し力が抜ける。
先輩の首に腕をまわすと、肩の上に頭をのせてゴホゴホと咳き込んだ。
「大丈夫か?」
耳元で聞こえる司先輩の声に、首を縦に振って何とか答える。
「悪い、香奈。まさかここまで泳げないとは思わなくて」
「すまん」
先輩たちの声に、今度は首を横に振った。
「このまま戻って、少し休ませる」
「あっ、あぁ。……悪かったな、司」
「香奈、背中に回れるか」
他の先輩にも手伝ってもらい、何とか先輩の背中側に回る。
おんぶしてもらうような格好でしっかりとつかまりなおすと、先輩はそのまま砂浜へと向かって泳ぎだした。
「……先輩、ごめんなさい。もう大丈夫です、歩けます」
浅瀬に着き、私を背負ったまま歩き出した先輩に声をかける。
「いい。そのまま休んでろ」
先輩は恥ずかしくないのかな……そう思いつつも、まだ体がだるくてその言葉に甘えさせてもらう。
先輩は人の多い砂浜を通り抜け、そのまま合宿所へと向かった。
「本当にもう大丈夫です。ありがとうございました」
合宿所の入り口でそう声をかけ、下ろしてもらう。
入口から一番近い食堂に入り椅子に座ると、奥で準備をしていた3年の先輩たちが様子を見に来てくれた。
「あれ? 二人とも、どうしたんですか?」
「ちょっと具合が悪くなっちゃって……」
「お前が? めずらしいな、なんか飲み物でも持って来てやろうか? 先輩もどうですか」
「私はいいです。すみません」
海水を飲み込んでしまったせいか、今はちょっと気持ちが悪い。
「俺もいい。――準備は進んだか?」
「はい。大丈夫です」
「先輩、肉がすっげぇ大量にありましたよ!」
「なぁ、そろそろあっちで炭も準備した方がいいんじゃね?」
「おぉ、そうだな! じゃあ司先輩、失礼します」
3年生の先輩たちが忙しそうに厨房へと戻っていく。
「なんか……みんな意外と楽しそうですね」
「そうだな」
「あの、先輩さっきどこにいたんですか? ボートに乗る前は近くにいなかったのに」
「海の家に行ってた。お前がボートに乗せられてるのを見て、小太郎と育太が焦ってたぞ。あそこまで泳げないのならきっぱり断われよ」
「泳げないってちゃんと言ったんですよ。でも信じてもらえなくて……」
あぁ、小太郎たちが気付いてくれて、本当に良かった。
先輩が追いかけてきてくれなかったら、もっと危ないことになっていたかも……。
魂までのみ込みそうな青い海を思い出し、ぞっとする。
「そう言えば、最初に助けてくれたのって藤野先輩だったんですね。私、焦ってたからよく分からなくて」
「お前、あいつの頭つかんでめちゃくちゃに暴れてたぞ」
「うわぁ……」
ごめんなさい、先輩。思いっきり恩をあだで返しちゃったよ。
もとはといえば海に落とした先輩たちが悪いんだけどさ。
ちょっと凹みながら、食堂のテーブルに体を預けて休む。
あぁでもない、こうでもないと賑やかに準備する先輩たちを眺めているうちに、少しずつ体調も元に戻ってきた。
時計で時間を確認し、屋上に干してある洗濯物のことを思い出す。
「先輩、本当にありがとうございました。私はもう大丈夫なので、先に戻っていて下さい」
「お前は?」
「私は今のうちに洗濯物を取りこんできちゃいます。このあとバーベキューだし」
「手伝う」
「えっ、でも」
「いいから、さっさと行くぞ」
「……はい」
そんなに心配をかけちゃったのかな?
部活の時にはめずらしい先輩の気遣いを感じ、頬がしまりなく緩んでくる。
屋上へと続く階段を上りドアを開けると、どこか懐かしくて切ない色を湛えた夕暮れ時の夏空が、視界いっぱいに広がった。
「まだ暑いけど、気持ちいいですね」
両手を上げ、思いっきり伸びをする。
洗濯物がもう乾いているか手で触って確かめると、海を見渡すことのできる屋上の柵へと近づいた。
「司先輩、みんな楽しそうですね」
沖の方では、まだ何艘かのゴムボートに乗った部員たちが遊んでいる。
楽しげに笑いながらオールで相手のボートをつついたり、水を掛け合ったり。
最初はほんの小競り合い程度だったのに、見ているうちにそれがだんだんとエスカレートしていった。
「一体何をやっているんですかね? ボート対抗、騎馬戦みたいな感じ?」
どうやら、最後までボートの上に人が残っていたチームが勝ちということらしい。
海に飛び込んだ攻撃部隊らしき部員たちが、敵チームの攻撃部隊と闘ったり、敵のボートを下から揺らして上の人を引きずり落とそうとしたりしている。
そしてボート上の部員たちは自分の手足を使い、相手チームの攻撃部隊を必死に追い払おうとしているみたいだ。
「ああっ、ひどい! 泰吉先輩ってば、オールで人の頭をつついてますよ! うわ、小太郎が泰吉先輩の餌食に! おおっと、間宮君が後ろからこっそりボートに上ってぇ……えっ、泰吉先輩相手に、まさかのジャーマン・スープレックス!?」
背後から泰吉先輩の腰とお腹をがっちり両腕でホールドした間宮君が、思いきり後ろに反り返って自分ごとボートの外へと身を乗り出す。
二人は派手な水しぶきをあげて、青い海にのみ込まれた。
「すごい……下剋上ですね。間宮君てば勇気あるなぁ」
「何か恨みでもあったんだろ」
いつもより柔らかな声につられ、隣にいる司先輩を見上げる。
その顔に楽しげな笑みが浮かんでいるのを見て、どうしようもなく心が沸き立った。
「……司先輩。私、みんなや司先輩と一緒に合宿に来られてすごく嬉しいです。……アメフトに入って、本当に良かった」
もうすぐ先輩がいなくなる――そう考えると堪らなく寂しくなってしまい、最近は一人で落ち込むことも多かった。
だけど、そんな後ろ向きな気持ちで過ごしていたらもったいないよね。
一緒にいられる今この時を、もっと大切にしなくっちゃ。
「もう、来年ここに司先輩はいないけど……私、この合宿のことは忘れません」
そう言って先輩に笑いかけると、少し照れくさくなって柵から離れ、干してある洗濯物へと手を伸ばした。
乾きの早いジャージはサラリと肌に優しくて、腕いっぱいに抱えるとお気に入りの柔軟剤の香りがする。
いつの間にか隣に来ていた司先輩が同じように手を伸ばし、手伝ってくれた。
「ありがとうございます」
「――来年」
「えっ?」
「来年も来るから」
「え、でも……先輩は仕事ですよね?」
「この時期、好きな時に一週間の夏季休暇がとれるらしい。それを合わせれば大丈夫だろ」
「本当に? わぁ、嬉しいです! すごく嬉しい! ありがとうございます!」
来年もまた一緒に参加できる。
思ってもみなかった嬉しい知らせに、つい大きな声を上げてはしゃいでしまう。
すると見上げていた司先輩の顔がふいに近づき、唇同士が軽く触れ合った。
驚きに固まる私を見て、司先輩がふっと微笑む。
「お前一人でなんて、心配すぎて行かせられない」
一体どこまで、先輩のことを好きになってしまうんだろう――。
恥ずかしさから目をそらした私を優しく咎めるように、大きな手が頬に添えられる。
いつでもまっすぐに見つめてくれる綺麗な瞳が、またゆっくりと降りてくる。
高まる鼓動を痛いほどに感じながら、そっと目を閉じた。