第12話 重なる手(2)
待ち合わせ時間の少し前。
居酒屋近くのパーキングに車を止め、平川の携帯に電話をかける。
いつもは異様に早く出るくせに、今日はなぜか呼び出し音のまま。久しぶりに昔の仲間と会って、携帯の音も聞こえないほどに盛り上がっているのかもしれない。
向こうから連絡してくるまで待つことに決めると、近くにあった自販機で飲み物を買い、ガードレールに寄りかかった。
平川が生まれ育った小さな町の、大みそか。もっと静かなものかと思っていたが、意外と人通りは多いようだ。
吐く息は白く、外気にふれる肌からはあっという間に熱が奪われていく。
温かい缶コーヒーを手にしばらくのあいだ通行人を眺めていたが、女の二人連れに絡む酔った男たちを見て、何となく嫌な予感が頭をよぎった。
酒は飲むなと言っておいたが……あいつ、変なやつに絡まれたりしていないよな?
待ち合わせ時間は過ぎたことを確認し、もう一度電話をかける。しばらく待って留守電に切り替わると、飲みかけの缶を捨て、店へと向かった。
「いらっしゃいませ! 何名様ですか?」
「すみません。連れを探しにきただけなので」
店員の案内を断り、店の奥へと向かう。
ふとどこからか平川の声が聞こえた気がして足を止めると、トイレへと続く細い通路の先に、道をふさぐように立つ男と平川らしき小さい女の姿が見えた。
「平川、このあと2次会どうするの?」
「あの、今日は用事があるので、もう失礼します」
あからさまな男の態度に気付いているのかいないのか。平川があっさりと切り捨てる。
こいつがこの状況をどう切り抜けるのか見てみたくなり、少し離れた場所で壁に凭れた。
「あれ、そうなのか? せっかく久し振りに集まったんだから、まだ帰るなよ」
「でも、もう約束してあるので……。すみません」
「そっか。じゃあさ、今度大学で一緒に飯でも食わないか。色々と話したいこともあるし」
「……話したいこと、ですか?」
「とりあえず携帯の番号とアドレス教えてよ」
平川の明らかに乗り気ではない態度に気づかぬはずもないのに、男は慣れた様子で自分の携帯を操作し始める。
平川はしばらく黙りこんでいたが、やがて諦めたように自分のバックへと手を伸ばした。
「香奈」
「――っ!? 司先輩!!」
呼びかけるやいなや、素早く男の横から顔を覗かせた平川が満面の笑顔で駆け寄ってくる。
一人取り残された男が、俺を見てわずかに目を見開いた。
毎日のように大学の講義で顔を合わせる、同じ学部の男――こいつ、平川の先輩だったのか。
「司先輩、わざわざお店の中まで探しに来てくれたんですか?」
「あぁ。お前携帯どうした。かけても出なかっただろうが」
「えっ、本当ですか!? ……あっ、席に忘れてきちゃったみたいです。すみません」
バックの中を確認した平川が、申し訳なさそうに頭を下げる。
「いま急いで取ってきますね」
「――もういいのか?」
まだ呆気にとられている様子の男を一瞥し尋ねると、平川が今思い出したといわんばかりに男を振り返った。
「岡野先輩、ごめんなさい。あの、何か話があるんですよね? 携帯とってきましょうか?」
「……いや、大したことじゃないし、もういいよ」
平川がほっとしたように微笑む。
「そうですか。あ、そういえば岡野先輩って、司先輩と同じS大経済学部の3年生なんですよ。お互い顔見知りだったりしますか?」
「いや、全く」
説明が面倒で即答する。今後親しくする気などさらさらないし、相手の男も当然そうだろう。
「俺も、知らないな」
「そうなんですか? あっ、紹介するのを忘れてました! あの、こちらは元陸上部の岡野先輩です。 そしてえっと、こちらはアメフト部の上原司先輩で、あの、わ、私の――」
「おい、もう行くぞ」
まったく空気を読めていない平川の紹介を途中で打ち切ると、なぜか平川が悲しげな顔で俺を見上げてくる。
「……じゃあ、みんなに挨拶だけしてきます」
「あぁ、外で待ってる。別に急がなくていいから、ゆっくり話してこい」
肩を落とす平川にそう声をかけると、平川の顔にまた笑みが戻ってきた。
「わかりました。ありがとうございます」
足早に座敷へと向かう平川を残し、先に店を出た。
「――わぁ、今年もいろんなお店が出てる! 先輩、何から食べましょうか」
居酒屋を出て、適当に時間を潰したあと。
平川の案内で、町のはずれにあるわりと大きな寺へと向かった。
平川いわく、『夜店の種類が多いわりには人が少ないんです』とのことだったが、確かに歩きにくいほどの人ごみではない。人の流れにのり、ゆっくりと店を覗ける余裕がある。
「美味しそうなものばっかりだぁ」
暖かそうなコートに身を包み、マフラーと手袋で完全防備した平川が、白い息を吐きながら頬を緩める。
「お前、さっき晩飯食ってきたんだろ?」
「夜店グルメは別腹です」
こいつは小さいくせして、よく食べる。清田主将に鍛えられたせいもあるだろうが。
それでもなかなか太れないのは、毎日部活で身体を動かしているせいなのか、もともとの体質のせいなのか。
「カウントダウンまではまだ少し時間があるし、色々見てみましょうよ!」
「そうだな。はぐれるなよ」
「あっ、ちょっと待って下さい!」
平川の手をとり歩き出すと、平川がぴたりと立ち止まる。
そして繋いだ手を一度はずして手袋を脱ぐと、自分のコートでその手をごしごしと拭き、恥ずかしそうにまた差し出してきた。
「あの……なんか、手袋をつけていたらもったいない気がして」
思わず口元が緩む。
温かな手を握り、ダウンジャケットのポケットにつっこんだ。
今年も残すところあとわずかとなり、除夜の鐘が鳴り始めた。
夜店が放つまばゆい光が、凍てつく寒さを和らげてくれる。
隣にいるのは、鼻先を赤く染めつつ美味そうに食い続ける、色気のない女。
「あ、先輩、あそこにぜんざいがありますよ! あったまりそう!」
「まだ食う気か?」
「これで最後にします。もうすぐカウントダウン始まっちゃうし。……あっ、そういえば私甘いのダメなんだった」
残念そうに肩を落とした平川の手を引き、店へと向かう。
「たまにはいいだろ、食っとけよ。――どこかに座って休憩でもするか」
さっそく買ったぜんざいを手に、人ごみを抜けて夜店の裏に出る。少し離れたところにちょうど座れそうな階段を見つけ、並んで腰を下ろした。
「うわ、温かくて美味しい! 先輩も食べませんか?」
「甘そうだな」
「激甘です」
「じゃあ、いらない」
「そうですか? すごく美味しいのに」
平川はぜんざいに何度も息を吹きかけながら、幸せそうな顔で食べ始める。
「……司先輩、なんか大学生っていいですね」
「なぜ?」
「だって、こんな時間に外を歩いていても誰にも怒られないし……。私、夜こうして食べ物を買う度に、初めて夜遊びをした時のことを思い出すんです」
「夜遊び? お前が? いつの話だ」
「中学2年生の時です」
平川が俺を見上げ、楽しげに微笑んだ。
「あの頃、部活をやっていたせいもあって食欲旺盛でですね、ある日の夜中、お腹がすきすぎて目が覚めちゃったんです。それで台所に行ってみたんですけれど、なにもめぼしいものが見つからなくて」
「それで?」
「少し迷ったんですけれど、思い切ってこっそり家を出てですね、コンビニまで肉まんを買いに行くことにしたんです。――家からコンビニまでは歩いて15分。あの頃の私って、けっこうビビりでですね、もしも途中で知らない大人や警察に見つかったら補導されちゃうかもって思って、怖くなっちゃって。悩んだ末に、誰もいないタイミングを見はからって電信柱や物陰へとダッシュを繰り返しながらコンビニまで行くことにしたんです。――結局誰にも見つかることなく、無事肉まんをゲットして家まで帰ってこれたんですよ」
「……それから?」
「え、そこでお終いですけれど?」
お前、それのどこが夜遊びだ。単なる買い出しじゃねぇか。
制服でもない限り、中学生が夜道を歩いているだけで補導されることなんてそうそうないだろうし、そんな変な行動をしている方がよっぽど怪しく見えたに違いない。
「家に着いた時にはかなり冷めちゃってましたけど、あの時の肉まんの味は忘れられません。なんかちょっと、大人になれたような気もしました」
普通じゃない行動も、こんなバカな言葉ですらも可愛いと感じてしまうから重症だ。
中学2年生の頃の平川。写真も何も見たことはないけれど、容易に想像できる気がする。きっと変な男に声をかけられる心配もないほど、子供っぽい『男』に見えたに違いない。
だが、今は――。
「もう、一人では行くなよ」
「えっ、どうしてですか?」
「変なやつとかがいたら、危ないだろうが」
不思議そうな顔をした平川が、数秒たってから嬉しそうに頬を緩める。
「あの……ありがとうございます」
そしてその締まりのない顔を隠すようにまた食べ始めると、空になった容器を下に置き、ペットボトルのお茶に口をつけた。
「先輩は、今日の初詣でどんな願いごとをするんですか?」
「さぁな。お前は?」
「そうですね、今年は誰も怪我をしないように、とか……司先輩の就職が無事決まりますように、とか」
普段俺が就職活動をしていても、俺から話さない限り平川は気を使って何も尋ねてこない。だが本当は、それなりに気になってはいたんだろう。
「もし……俺が県外に就職するって言ったら、どうする?」
ずっと聞きたくて、でも聞けないままでいた質問を口にする。
意外にも平川は驚くことなく、少し困ったような顔で微笑んだ。
「清田主将たちから聞きました。司先輩が、東京に本社のある大手家電メーカーに就職が決まりそうだって。その企業の持っている社会人チームで、アメフトを続けて欲しいと言われているって」
「お前はそれでも平気なのか?」
穏やかな笑顔で答える平川に、何とも言えない苦い感情がこみ上げる。
離れがたくて迷っているのは、俺だけか?
「……平気なんかじゃ、ないですよ?」
平川がぽつりと呟く。
「先輩がいなくなっちゃうなんて……毎日会えなくなっちゃうなんて、悲しいです」
「平川……」
「でも、私のことは気にしないでください。これは司先輩の一生を左右する大切な選択なんだから、絶対妥協したりしちゃだめです。先輩の希望する道に進んでください。――私が、追いかけますから」
迷いなく放たれた言葉に、一瞬耳を疑う。
「……追いかける?」
「はい。もし先輩が東京に行くのなら、私も東京で働けるような就職先を探します。さすがに同じ会社や隣の部屋は無理だろうけど、お休みの日ぐらいは会えますよね?」
急速に満ちていく安堵感に、小さく息を吐く。
それを見た平川が、なぜか泣きそうな顔になって視線を落とした。
「あの、やっぱり追いかけるだなんて迷惑だったですか? 私、ストーカーみたいですよね」
「……なんでそうなるんだよ」
俯いてしまった平川の頭を掴み、顔を上げさせる。
「勝手すぎるとは思うけど……俺がどこに就職しても追いかけてこいよ。――お前がいない生活なんて、静かすぎてつまらない」
平川が目を瞠り、きゅっと唇を噛みしめる。
「き、気持ち悪くないですか?」
「あぁ」
「うっとうしくもない?」
「もちろん」
今にもこぼれそうになっていた涙を指で拭い、そのまま唇にキスをする。
遠くから、新年を待つカウントダウンの声が聞こえてきた。
「……甘すぎるな」
唇をわずかに離しそう呟くと、平川が潤んだ瞳のまま恥ずかしそうに笑う。
「激甘ですよって、ちゃんと言ったのに。お茶、飲みますか?」
「いや、まだあとで。――年が明けたな。明けましておめでとう、平川。今年もよろしく」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
ふれればふれるほど、もっと欲しくなるのはなぜだろう。
唇を合わせながら、ふとそんなことを思う。
こんな風に感じたのは、こいつが初めてだ。
一緒に暮らしているというのに、どれだけ近くにいても、何度ふれても、まだまだ足りない。満足することがない。
平川の手が何かを探すように動く。そして初めて自分から、地面に置かれていた俺の手にその小さな手を重ねてきた。
ただ手を重ねただけ。それでも、ためらいがちに触れる温もりになぜか胸が熱くなる。
こいつだけは、失いたくない――。
絡めた指を強く握りしめながら、そう思った。