第10話 恐怖の朝part4
窓の外から、小鳥の爽やかな鳴き声が聞こえてくる。
それに誘われるようにして、ふっと意識が浮上してきた。
――あぁ、これってきっと、もう朝だ。
目覚ましはまだ鳴っていないけれど、そろそろ起きて朝ご飯つくらなくっちゃね。
だけどなぜだろう、瞼が重い。それに身体も。
まるで何かが上に乗っかっているみたいに――重い?
こじ開けるように目を開ける。
見慣れている自分の部屋の、ベッドの上。
だけど真っ先に目に入ったのはそれじゃなくて、後ろから自分をすっぽりと抱え込むように回されている、太い腕だった。
これって……司先輩の腕だよね、もちろん。
でもなんで? ……あれれ、本当になんで?
えぇーっと、昨日は一体、何がどうしたんだったっけ?
「よいしょ」
とりあえず顔を洗って目を覚まそうと、その腕をどけて起き上がる。
次の瞬間、寝ているはずの先輩の太い腕が素早く動いた。
「わぁっ!!」
力任せに引き寄せられ、その厚い胸板で後頭部を強打する。
「い、痛いー!」
「起きたか、酔っ払い」
寝起きにだけ聞くことのできる、司先輩の掠れた声。耳元で囁かれ、思わずぞくりと身を震わせる。
この声、何度聞いてもセクシーすぎてドキドキしちゃうんだよね。
だけど今日は、なんかちょっと……不機嫌ぽくない?
とりあえず状況を把握したくて、先輩に背中を預けたままおそるおそる話しかけてみた。
「お、おはようございます」
「おはよう」
「あの……今日はいいお天気みたいですね」
「そうだな」
どうしよう、このいつも以上に感情のこもってない一本調子の声。――間違いなく不機嫌だ。
この腕も、抱きしめられているっていうよりは逃げないように捕獲されている感じだし……。
でもなんで? 私、昨夜寝る前になにか悪いことしてたっけ?
うーんと心の中で唸りつつ、なんとか昨日のことを思い出そうと試みる。
「昨日は……部活行きましたよね」
「あぁ」
「そのあと、清田主将の部屋にお邪魔して」
「そうだな」
うん。ここまではハッキリ覚えてる。そこからがちょっと曖昧だけど。
清田主将の部屋でちょっとだけ飲んで……そうだ、司先輩に写真のことがバレてしまって、先輩が怒って帰っちゃって、それから――
「……あ」
そうだ、見ちゃったんだ。司先輩が、本命の彼女さんと一緒にいるところ。
二人分のご飯を買って、仲良くマンションに帰って行くところ……。
鼻がツーンと痛くなる。
「思い出したか?」
「はい、全部」
「全部? ……どこまで覚えているか言ってみろ」
「つ、司先輩が、本命彼女さんと一緒にマンションへ入っていくところ」
先輩が分かりやすくため息をついた。
「たったそれだけか」
「え、他にも何かありましたか?」
「――ない、と思うか?」
一瞬の間の重たさに、慌てて腕の中で姿勢を正す。
「いっ、いえ! 全く思いません!!」
「だよな」
怖い。いつになく背後が怖い。
だれか助けてー! 昨日の出来事、ビデオに撮っていませんかー!?
「説明が面倒だ。少し待ってろ」
先輩が身体を起こし、テーブルに置いてあった携帯を手に取る。
「……あぁ、おはよう。まだ部屋にいるよな。ちょっと来れるか?」
一体誰に電話しているんだろう。来れるかって、どこに?
ものの数秒で、この部屋のインターホンが鳴る。
司先輩がドアに向かい、戻ってきた時……隣に、優しく微笑む昨日の天使がいた。
「おはようございます。初めまして、香奈ちゃん。お兄ちゃんがいつもお世話になってます」
「お、お兄ちゃん!?」
確かに、言われてみれば似てるかも。自然な茶色の髪の毛も、その全体的な美しさや雰囲気も……。 咲良さんの目は司先輩のきりっとした目とは違って、すごく優しいけれど。
「香奈ちゃんと私って同い年なんだってね。昨日はごめんなさい。私のせいで誤解させてしまったんでしょう?」
「え? い、いえ、そんな!」
慌ててぶんぶん首を振る。
なんでそのことを咲良さんが知っているの? 司先輩も。
「でも来て良かった。あんな熱い告白、初めて見たよ!」
「告白……ですか?」
「私だったら、あんなに大勢の人が見ている前では絶対に言えないもん。思わず叫んじゃうほどお兄ちゃんのことが好きなんだなって思って、感動しちゃった!」
咲良さんはうっとりとした顔で微笑んでいるけれど、何の話をしているのやら、ちっとも分からない。助けを求めるように司先輩に目を向けた。
「昨日、俺と咲良のことを誤解したお前は、飲み会の途中で清田主将の家のベランダから逃走した」
「ええっ!?」
「俺と部員たちで探しに行ったら、お前がグラウンドに降りる階段のところで泣いていて――」
なぜか司先輩が無表情のまま口ごもる。
「な、泣いていて?」
それから? それから?
「お兄ちゃんに慰められた香奈ちゃんがいきなりグラウンドに駆けだしてね、真夜中のグラウンドのど真ん中で、『司先輩が大好きだー』って叫んだの!」
「えぇー、まっさかぁ!」
いくら酔っぱらっていても、そんな恥ずかしいことするわけないよね!
笑って否定してみたけれど、ふと頭の中を何かの光景がかすめていく。
真っ暗なグラウンド。
ポツポツと灯る外灯。
遠目に見てもかっこいい司先輩。
そして――――階段の上で身をひそめるように小さく膝を抱えて並んでいる、何者かの影。
「あぁっ! なんだか本当にそんなことがあったかもしれないような気がしてきました!」
「だから、やったと言っているだろうが」
司先輩が呆れたようにため息をつく。
うわぁ、本当にやっちゃったの!? グラウンドの中心で、大好きだーって?
「ぎゃー、恥ずかしい!! 今日どんな顔をして部活に行けばっ!?」
「こっちのセリフだ」
「で、ですよね。……すみませーん」
あまりの申しわけなさに、へなへなとベッドに座り込む。
――だめだ。今日という今日は立ち直れない。
部活で嬉々として待ち構えている先輩たちの姿が目に浮かぶ。
ぜったい練習開始前とかアフターの時間に、思う存分いたぶられるんだろうなぁ。
そして不機嫌さマックスになった司先輩に仁王立ちされるんだ、きっと。
『平川、グラウンド10周走ってとっとと消えろ!』なーんて……。
でも、そもそもなんでこんなことに……っていうか、何か大切なことを、まだたくさん忘れているような気がするんだけど。
「お兄ちゃん、私、今日用事があるからそろそろ帰るね」
「あぁ」
「香奈ちゃん、本当にごめんね。また遊びに来てもいい? 今度は香奈ちゃんに会いに」
「あっ、はい! もちろん!」
「ありがとう。じゃあ、またね」
手を振る咲良さんがドアの向こうに消える。
隣に座っていた司先輩がごろりとベッドに寝転がり、頭の下で腕を組んだ。
「あの……先輩?」
先輩がその姿勢のまま、視線だけこちらに向けてくれる。
「分からないことが、いっぱいあるんですけど……」
「なんだ」
「先輩、最近何かずっと怒っていましたよね? それって、どうしてだったのかなって」
司先輩がなぜか無言のまま、私の目をじっと見つめてくる。
1秒……2秒……3秒……
緊張のあまり息苦しくなって、ぱっと先に目をそらした。
「あの、やっぱり、あの時赤くなったりしたからですか? いちいち男の裸見たぐらいで赤くなるなって言ってたし……」
ちらりと様子を窺うと、先輩はまだ黙ったまま私を見ている。
そしてやっと、口を開いた。
「教えない」
「えっ、どうしてですか?」
「酔っ払っている時のお前に、もう全部話したから」
そ、そんなぁ! いつも朝起きたら覚えてないって知ってるくせに!
「もう一度だけ教えてもらえませんか? その、教えてくれないとダメなところを直せないし、いつまでもうじうじ悩んじゃうし!」
「好きなだけ悩んでろ」
うぅ、冷たい。今日は特に冷たいよ。
やっぱり私のこと嫌いなの? それとも、みんなの前で私に『好きだ』って叫ばれたことがそんなに嫌だった?
そりゃ、ものすごく恥ずかしかっただろうし、司先輩がそんなの喜ぶわけないって分かってるけど……そこまで露骨に嫌がられたら、さすがにショックかも。
思わず肩を落として項垂れる。その時、司先輩が身体を起して私に向き直った。
「とりあえず、お前タックル禁止」
「タックル禁止? それも何か今回のことに関係があるんですか?」
「さぁな。理由は自分で考えろ」
「うーん、やっぱり危ないからですよね? でも私、そんなにヤワじゃ――――はいっ、タックル禁止、了解です!」
冷たい眼差しに、敬礼でもしそうな勢いで背筋を伸ばす。
でもどうして急にそんな話がでたんだろう? 私ってば、昨日酔っ払ってみんなにタックルしまくったんだろうか。……あのラインの先輩方に?
「それからお前、あの写真のどこに興奮できるポイントがあるんだよ」
「あの写真?」
あの写真って、どの写真? 興奮できるポイントって…………まさか!?
「な、なんでそのことを知ってるんですか!?」
「お前が言ってた。私、エロくて変態なんです、盗撮した裸の写真見て興奮しちゃうんですって」
うわぁーん! なに自己申告してんだ、酔っぱらいの私! よりによって先輩本人に言うなんて!
「はっ、恥ずかしすぎて、もうお嫁にいけません!」
お嫁どころか、この奇跡的なお付き合いだって終わっちゃうよ!!
あまりのショックに勢いよく枕に顔を突っ伏す。その時、司先輩がまた口を開いた。
「それ、俺が治してやる」
「えっ?」
「赤面。嫌なんだろ?」
「ほ、ほんとですか!? でもどうやって?」
「お前、今日から一週間、俺の部屋に泊れ」
「……え?」
「どうせ毎日見るなら写真じゃなくて実物にしろ。一週間もあれば慣れるだろ? とりあえず、部活行く前に風呂入るぞ」
司先輩が私の腕を取り、バスルームに向かって歩き出す。
「ちょ、ちょっと待って下さい! なんで私まで連れていくんですか?」
「一緒に入るからに決まってんだろうが」
「…………えぇーー!?」
平川香奈、19歳。
好きな人の裸体を見てうっかり興奮してしまったばっかりに、1週間の合宿決定。
大人への階段を、2段飛ばしで―――――――――――――って!!!
*****
「む、無理です、無理です!! ギブギブギブ!!」
暴れる平川を脇に抱えると、平川が俺の腕を必死な顔でタップする。
「うるさい。時間がなくなる」
「嫌です! 無理です! 助けて幸子!!」
半泣きでじたばたと暴れる姿は、風呂に入るのを全力で嫌がる猫そのもの。
「本当にダメなんですってば! そ、そんなことしたら――そんなことしたら、司先輩が絶対に後悔しますよ!!」
予想外の言葉に、足を止めて平川を見おろす。
「なんで俺が後悔するんだ」
「そ、それはですね、もし一緒に入ったりなんかしたら……私が、絶対に鼻血を出すからです!」
「……は?」
平川がまるで重大な秘密を打ち明けるかのように、真剣な顔になる。
「単なる脅しじゃないですよ! 私、中学の修学旅行で女の子の友達と一緒にお風呂入った時、恥ずかしくてのぼせて鼻血出したことがあるんですから! 女の子の裸でそれなんだから、司先輩と一緒に入ったりなんかしたら間違いなく出ますよ! 出まくりですよ!!」
「お前……どんな脅し文句だよ、それ」
思わず噴き出す。すると平川がぽかんとして動きを止めた。
「つ、司先輩が噴き出した……」
「話はそれだけか? じゃあ、入るか」
まだ笑いながら歩き出す。
平川がはっと我に返り、またじたばたと暴れだした。
「絶対嫌です! そんな姿見られたら嫌われちゃう! 100年の恋も冷めちゃいますよ!? 司先輩のあるかないか分からないようなほんのちょびっとの恋心なんて、跡形もなく消えちゃいますからー!!」
「消えねぇよ」
「えっ?」
よく聞こえなかったらしい平川が、半泣きのまま俺を見上げる。
「それぐらいで、消えたりしない」
平川が息をのんで固まる。
その隙に、一気に風呂場へと連れ込んだ。
こいつの俺限定らしい赤面がたった1週間で治るなどと、最初から思っていたわけもなく。
むしろ逆に悪化したそれが完全に治るまで、という名目で、半同棲生活が無期限に延長されていくことにこいつが気づくのは、もうすこし先のこと――――。