第2話 空気の読めない男と女
気持ちのいい青空を見上げ、朝の爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込む。
――うん、今日もいい天気。11月に入ったとはいえ、まだまだ過ごしやすい気候だな。
マンションの階段を駆け下りると、部室へと急いだ。
先日行われた秋季リーグ最終戦をもって、四年の先輩方は引退となった。
そのあまりの寂しさに、先日の打ち上げではつい酔っ払って泣いてしまったほど。
でも卒業式までは時々練習に顔を出してくれるらしいし、卒業後も試合の応援には来てくれると言っていたから、たまには会うこともできるよね。
たくさんの荷物を抱え、今日もガチャガチャとにぎやかな音をたてながら走ってグラウンドへ向かう。
すでに一年生の部員たちが揃っていて、グラウンドの整備や練習の準備を進めていた。
「おはよう、みんな! 今日も早いね」
「おはよう、香奈」
「おう、香奈! 今日はいつもより遅いな。寝坊したのか?」
「ううん、ちょっとぼーっとしてて出遅れちゃって」
うわぁ、思い出しただけで顔が赤くなりそうだ。
だめだめ、部活への恋愛持込み禁止! 練習中は気持ちを引き締めていかなくちゃ。
「おはよう、香奈ちゃん。髪が乱れてる。思いっきり走ってきただろう?」
「え、そんなぐちゃぐちゃになってる?」
小太郎の指摘に、慌てて頭に手を伸ばす。
荷物を抱えたままでは手が届かずもたもたしていたら、育太が巨大な手で髪を直してくれた。
練習の開始時間が近づいて、先輩方がどんどん集まってくる。
新しく主将となった3年の片倉章吾先輩、同じく副将になった司先輩、相馬直之先輩も登場。
その3人と共に、本来なら引退したはずの4年生、ぴょん吉こと泰吉先輩が偉そうにグラウンドに降りて来た。
「おう、香奈。今日も変わらずブサイクだな」
「そんなの一生変わりませんよ。泰吉先輩、引退したくせに毎日練習に来るのやめてくださいよね。あと私をパシリに使うのも!」
「あぁ? お前が『寂しいですぅ、辞めないでくださーい』って鼻水垂らして縋りつくから、仕方なくコーチに就任してやったんだろうが」
「な、泣いたのはおもに清田主将たちに対してですよ! だいたい、単位が足りなくて卒業できないってこと、なんで隠してたんですか!」
そう、泰吉先輩は卒業に必要な単位が足りず、もう一年大学生をすることになったのだ。
しかも、ちょっとどころじゃなく足りないらしくて、3年の時点でもうみんなと一緒に卒業できないことは決定していたらしい。
何も知らなかった私はうかつにも、泰吉先輩にまで『行かないでー』と泣きながら縋ってしまったようだ。
もちろん大量のお酒を飲まされた私には記憶がなくて、後から司先輩に聞いた話だけど。
「そろそろ練習始めるぞ!」
章吾先輩の太い声を合図にあちこちで「集合!」の声が上がり、部員たちが駆け寄ってくる。
章吾先輩は司先輩と同じ3年生で、ポジションはディフェンスライン(DL)。
180センチあまりの身長に、太マッチョと呼ぶに相応しい盛り上がった筋肉。
一番のトレードマークは短く刈り上げられた明るい茶髪と、練習中は外されているいくつかのピアス。その上、なかなかの美形さんだ。
そんな章吾先輩は最近までずっと居酒屋でバイトをしていたから、私が参加した清田主将の家での飲み会で会うことは少なかったけれど、たまに参加する時には焼酎の一升瓶を肩に担いでやってくる。
私と同じ法学部。学内で見かける時には必ず隣に色っぽいお姉さんがいて、しかも毎回別の人。
育太もかなりの悪役レスラーっぷりだけど、どことなく遊び人の雰囲気を漂わせている章吾先輩は、完全にあっちの世界の人って感じだ。
性格は豪快で親しみやすく、確かに主将というポジションが向いているのかもしれない。
そしてもう一人、新しく副将になった相馬先輩は理学部の3年生。
ポジションはレシーバー(WR)。
高校ではバスケ部のキャプテンを務めていたらしく、メガネの似合う知的で優しい先輩だ。
新体制を決めたのは、もちろん清田元主将たち。
豪快で親しみやすい性格の章吾先輩を新しい主将に。口数は少ないけれど努力家で練習態度に厳しい司先輩と、細やかな心遣いのできる相馬先輩を副将に。
卒業できなかった暇人、さびしがりやの泰吉先輩が(本人の希望で)コーチに就任し、3年生QBの山下先輩と1年生RBの小太郎が主務を兼ねる。
まだ新体制になってほんの数日だけれど、なかなかいい組み合わせなんじゃないかな。
緊張感のある良い雰囲気のなか、順調に練習が進んでいく。
いつものようにホイッスルを使って練習の合図を送り、お水の巨大タンクを抱えて走り、「平川!」の声が掛かるたびにテーピングとコールドスプレー、エアーサロンパスを持って駆けつける。
12時半を過ぎた頃やっと今日の練習が終わって、リラックスムードのアフターの時間になった。
「――5分休憩。平川、エアー」
ランニングバック(RB)の後輩たちに指導していた司先輩が、ショルダーを取ってTシャツ姿になる。
「先輩、どこか怪我でも?」
「肩」
そういえばさっき全体練習でディフェンスの先輩とぶつかった時、少し痛そうにしていたっけ。
「あ、私やりますよ」
Tシャツを脱いだ先輩の肩に、後ろからエアーサロンパスを吹きかける。
「氷で冷やしますか?」
「いや、そこまではいい」
振り返った司先輩の裸の上半身がもろに目に入り、慌てて視線をそらす。
その時、空気を読めないおばかな子、守とばっちり目が合った。
「あー、香奈が司先輩の裸みて赤くなった! やーらしー!!」
「なっ! 何言ってんの! バカじゃない!?」
ほんとに何言っちゃってんの! 司先輩はそういう冗談嫌いそうなのに!!
「お前な、小学生じゃないんだから」
小太郎にも呆れ顔を向けられているというのに、守は全然気にしない。
「だって見てみろよ、香奈の顔!」
無理やリ頭をつかまれ、伏せている顔を持ち上げられる。
「ほーら、サルみたいだろ!?」
「やめてってば、離してよ!」
「サルのケーツー! わはははは!」
むっかぁー!!
「やめろって言ってんでしょーっ!!」
「おわぁ!」
しつこい守をタックルで倒し、馬乗りになる。そのまま思いっきり守のわき腹をくすぐってやった。
「ごめんなさいは!?」
「ギャー! やめてー!」
「ごめんなさいはって言ってんの!」
「ギブギブ! 俺、本当にそこ弱いんだって! ギャーッ!!」
守が再び悲鳴を上げた時だった。
「いい加減にしろ! 守、平川、グラウンド3週!」
司先輩の鋭い声が飛ぶ。
「げっ!」
「どうして私までですか!?」
どう考えたって、悪いのは守だったよね!?
そう抗議しようとしたけれど、司先輩の明らかに不機嫌な顔を見て口を噤む。
怖くて言葉に出せない分、思いっきり『なんで! どうして!』と目で訴えてみた。
「――いちいち男の裸を見たぐらいで顔を赤らめるな」
えぇ、悪いのはそこ!? ――そんなぁ!
「む、無理です。これは生理現象ですもん! お水を飲んだらトイレに行きたくなるのと同じでっ!」
「香奈ちゃん、その例えはちょっと」
苦笑いする小太郎。
「いいからさっさと走ってこい!」
司先輩の冷ややかな言葉に落ち込む私を見て、守が笑いをかみ殺す。
「守、お前がスタートして30秒後に平川がスタート。平川に抜かれたらもう3週追加するからな」
「えぇっ、絶対抜かれるに決まってんじゃないですか!」
「マネージャー相手にハンデもらうことを恥ずかしく思え! さっさと行け!」
守が泣く泣く走り出す。そして、30秒後――
「平川、スタート」
守への怒りを胸に、全速力で駆け出した。
*****
「香奈のヤツ可哀想に。お前のこと意識しまくってて可愛いじゃねぇか。まぁ俺は好みじゃねぇけど」
話を聞いていたらしい章吾が、指のテーピングを剥がしながら楽しげに笑う。
「そういやあいつ、最初の頃は部員のパンツ姿目にする度に泣きそうな顔してたっけな」
泰吉先輩がそう言って、遠くを走る平川に目をやった。
怒りで気合十分な平川が、何度も後ろを振り返る守との差をあっという間に詰めていく。
そして、そんな平川に声援を送るラグビー部の部員たち。
「ほんと、女にしとくのがもったいないねぇな、あのスピードと体力。司、今度こっそりつかってみようぜ」
「一発食らって終わりだろ」
「まぁ、確かに」
章吾が笑いながらメットを手に立ち上がる。
「俺、用事あるからそろそろ上がるわ。――あんまりイライラすんなよ、司。面白すぎるから」
章吾が俺だけに聞こえるように言い、階段を上って行った。
「司先輩! 走り終わったからアフターに参加してもいいですか?」
平川が頬を赤く上気させて駆け寄ってくる。
「あぁ。守は?」
「3週追加で、まだ走ってます!」
得意げな笑顔。
「山下先輩! 私も入れてください!」
平川は休憩も取らず、小太郎たちのいるランニングバック(RB)の列に加わる。リーグ戦の間は遠慮してRBのアフターに参加しなかったせいか、やけに嬉しそうだ。
ショルダーもつけていないあいつのために、同じくショルダーをはずして休憩していたディフェンスの部員たちが立ち上がる。
「セット! ハットハット」
クォーターバック(QB)山下の声に平川が走り出し、ボールを受け取ってディフェンス目指してつっこんでいく。
一人目は上手くかわしたものの二人目で捕まり、そのまま肩の上に担がれた。
「上手くなったな、香奈!」
「わぁ!」
「相変わらず軽すぎだろ。ほーら、高い高ーい!」
「ひえぇぇ! 投げないでーっ!」
――あんまりイライラするなよ、か。
こんなのは、あいつが入部した頃から続く当たり前の光景だ。付き合う前も後も、平川の俺や部員に対する態度は全く変わっていない。
だが――
俺が眺めていることなど気付きもせず、平川は真剣な表情でクォーターバック(QB)からのアドバイスを聞いている。そんな姿を見ていたら、小さなことでイラついている自分が馬鹿らしくなってきた。
――まぁ、あいつに普通の女の行動を求める方が間違いか。
ショルダーとメットを手に立ち上がる。
「小太郎、悪いが今日は先に上がる」
「はい。お疲れ様でした」
小太郎が少し苦笑しながら頷いた。