第28話 約束の行方
「司先輩!!」
F大との試合を終え、グラウンド横の広場に移動してやっと腰を下ろした時、平川が氷の入ったビニール袋を持って駆け寄ってきた。
「お疲れ様でした。テーピング外しますか?」
「あぁ」
平川が目の前にひざまずき、強い痛みのある足首を気遣いながらテーピングをはがしていく。
腫れあがった足首を見て一瞬辛そうに目を細め、そっと氷を押し当てた。
「先輩……めちゃくちゃかっこよかったです。ありがとうございました」
平川が少し照れたような笑顔で見上げてくる。
「お前も、お疲れさま」
そう答えると、本当に嬉しそうに微笑んだ。
今日も平川は、明るい笑顔のまま忙しく動き回っていた。つい昨日まで高熱を出していた人間だとは思えないほどに。
こいつの、人に弱さを見せまいとする根性と責任感は本当に大したものだと思う。
試合中俺の足の状態を見て驚いた時も、平川は目に涙をいっぱいに溜めたまま歯を食いしばって泣くのを堪えていた。
余計なことは一切口にせず、ただ自分にできる役割をきっちり果たそうとした。
「四年生の先輩たち、みんなすごく嬉しそうですね」
「あぁ、今日は派手な飲み会になりそうだな」
「司先輩はお酒禁止ですよ。怪我の回復が遅れちゃいますから……。帰り、翼先輩が司先輩の車を運転してくれるって言っていました。病院に寄ってから帰りましょうね」
「分かった」
それじゃあまた後で、と立ち上がった平川が、何かに気を取られたかのようにすっとその笑みを消す。そして自分の首に巻いていたタオルを取ると、氷の袋を固定するように俺の足首に巻き始めた。
「平川?」
「司先輩、彼女さん、何か用事があるみたいですよ」
「彼女?」
平川の視線を追って振り返る。そこに一年半ぶりに会う女の姿を見つけ、思わずその名を呟いた。
「……真由」
「このタオル、そのまま使ってくださいね。彼女さん待ってますよ、ほら!」
平川が早く行ってやれとばかりに急き立てる。
「お前――」
どうしてお前が真由のことを知っているんだ? ――そう尋ねようとしたものの、周りの先輩たちが真由に気付き騒ぎ始めたのを見て、立ち上がる。
笑顔のまま目を伏せた平川のことが気になりながらも、真由の元へと向かった。
「――いきなり、ごめんなさい」
以前より少し大人びた笑顔で真由が微笑む。
「少しだけ、話せる?」
何かあるたび簡単に泣き出す真由は、俺の表情を見ただけでもう涙ぐんでいる。
興味津々の眼差しを向ける部員たちの前では、こいつと話したくなかった。
「とりあえず、向こう行くぞ」
少し離れた人目につきにくい場所へと足を向ける。真由は黙ってついてきた。
「……何の用だ?」
高校で同じクラスだったこいつと付き合い始めたのは、高校3年の夏頃から。
2年近く付き合っていたものの、大学が違う上に真由の家が門限に厳しく、部活をしている俺とはなかなか会う時間が取れずにいた。
それを理由に別れたいと言い出したのは、こいつのほうだ。
「ごめんね、いきなり来たりして迷惑だった? ……試合、すごかったね。久しぶりに司がタッチダウン取るところを見て、感動しちゃった」
「…………」
「怪我、大丈夫? ……あの……私ね、ずっと司に会いたかったの。今更って思うかもしれないけれど、どうしても司のこと忘れられなくて……」
泣き出した真由を見て、ため息をつく。
「お前が、別れたいって言ったんだろう?」
「そうだけど……本当に別れたかったわけじゃないよ? あの頃、なかなか会えないのが寂しくて、なのに司はいつもそっけなくて……司の気持ちを試すように別れたいって言ってしまったけれど、本当にそうしたかったわけじゃない。――司だって、本当はそのことに気付いていたんでしょう?」
うるさく騒ぎながら近寄ってくる女とは正反対の、素直で大人しくて、よく泣く女。
付き合っていた頃はその弱さも含めて好きだったし、自分が守ってやりたいとも思っていた。
それなのに、今の俺はこいつの涙を見ても全く感じるものがない。
気に掛かかるのはむしろ、簡単には泣かないあいつの、さっきの笑顔で――
「お前が俺を試していることには気づいていた。それでも、もう別れた方が互いのためになると思ったから別れた、ただそれだけだ。俺の中ではもう完全に終わってる。――悪いけど、急ぐから」
振り返ることもなく、早足に部員たちのいる広場へと向かう。
すぐに分かるはずのジャージ姿が見えないのに気付き、小太郎を捕まえた。
「平川はどこへ行った」
「えっ、俺は知りませんけど」
「あぁ、香奈ならさっき顔洗ってくるって言って水飲み場に行きましたよ。ほら」
指差された先、50mほど離れた水飲み場に、確かに顔を洗っている平川の姿がある。
そして、その後ろに立っているのは――
「泉川?」
あいつ、まだ平川につきまとっているのか?
どこか焦りにも似た感情に駆られて、自然と足が動き出す。
今までに、もう何度も感じたことのあるこの苛立ち。認めたくなくて放置していたが、これだけ大きくなってしまったらもう受け入れざるを得ないだろう。
自分でもよく分かっている。きっとこれは――あいつに対する、独占欲だ。
別に、平川に女としての強い魅力を感じているわけじゃない。
単純で騒々しくて、くるくると表情を変える忙しいやつ。あんなに小さな体して、男に引けを取らない体力と、弱さを見せまいとする根性を持っている。
仲間想いで、酔っ払えば吐いて潰れて奇行に走る、迷惑極まりない女。
それでも、俺はあいつが気になって仕方がないらしい。
どんなに適当にあしらっても笑顔で駆け寄ってくる、あいつのことが。
俺は多分、あの小さな野良猫みたいな女の一番の飼い主になりたいんだ。
あいつに餌を与える人間は多いが、戻ってくるのは俺の元でなければ気がすまない。他の誰のものにもしたくない。
女癖の悪い泉川にも、ラグビー部にも渡してたまるか。
足の痛みをこらえ、水のみ場の前で話す二人へと近づいていく。
俺に気付いた泉川が微かに笑い、人差し指を立てて口元に当てた。
――どういう意味だ? 黙って見てろということか?
両腕を組み、二人から少し離れたところで立ち止まる。俺に背を向けている平川は深く俯いていて、泉川のしぐさにも、俺がいることにも気付いていない。
「どうして……どうして、女の子なんかに生まれちゃったんですかね?」
やっと聞き取れるほどの弱々しい声で、平川が呟く。
「もしも私が男の子だったなら、心から尊敬する先輩と一人の後輩として、フィールドで一緒に戦うことも出来たのに……こんなに厄介な感情を抱えることも、なかったのに」
厄介な感情? それって、まさか――
「司は香奈ちゃんのことを結構気に入ってると思うよ。約束したからって、そんな必死に隠さなくても大丈夫なんじゃない?」
泉川が、何食わぬ顔して俺の話を出す。
「いいえ。司先輩が嫌いなのは嘘をつくズルい女の子だから……。『女のマネージャーとしてではなく、新入部員の一人として扱ってほしい』そう私がお願いしたから、先輩は私を後輩の一人として受け入れてくれたんです。それなのに今更女の子に戻るなんて――受け入れてもらった今になって『やっぱり好きです』って言うなんて、絶対にズルすぎます。私自身が許せません」
同じパートの上の人間として、こいつに慕われているという自覚はあった。
だがこいつの態度は、いつも部員全員に公平なもので……。はっきり「好き」とまで意識されていたとは、全く気が付かなかった。
それにしても、『ズルすぎます、私自身が許せません』――か。
あまりにも真っ直ぐな平川らしい言葉に、内心苦笑した。
「それじゃあ司に気持ちがバレたら、本当にアメフトは辞めるつもりなの?」
「はい」
白々しい泉川の芝居に気付くことなく、平川が一瞬の迷いもなくきっぱりと答える。
「そっか……。じゃあ香奈ちゃん、早速アメフトは辞めて明日からラグビー部においで。うちの部にはそんな変な約束持ち出す人間なんていないから。――お前もそれでいいんだよな、司」
「えっ?」
小さな声を上げた平川が、勢いよく後ろを振り返る。
俺の姿を見て、呆然と目を見開いた。
「……ど、して?」
「司に全部知られちゃったね。香奈ちゃん」
「いつから……いつから、聞いていたんですか?」
泉川の言葉など耳に入らない様子で、平川が呟く。
「――どうして女の子に生まれちゃったんですかね、のあたりからだ」
平川が絶望的な顔になり、うなだれる。
その肩に、これ見よがしに泉川が腕を回した。
「と、いうことだから。俺がもらっても構わないよな? 司」
このからかうような笑顔。答えなど絶対に分かっているくせに――。
平川の肩に回されていた腕を、遠慮なくひねり上げる。
「痛てっ!」
「お前にも、ラグビー部にもやるわけないだろ」
「ふーん、何で?」
ニヤニヤ笑う泉川を殴りたくなる衝動を押さえ、平川の細い腕を掴む。
「お前には関係ない。――平川、ちょっと来い」
まだ呆然とした様子の平川は、抵抗することもなくふらふらとついてくる。
泉川の姿が見えない場所まで来ると、手を離して平川と向き合った。
「――平川、お前、あの賭けでの約束を覚えているか」
「……っ、はい」
一瞬息をのんだ平川が、覚悟を決めたように表情を引き締める。
「部活に恋愛を持ち込んで俺に不快な思いをさせない、その約束を破った時には潔く退部することを誓う――お前、そう言ったよな」
大きな目には今にも落ちそうなほどの涙がたまっている。それでもやはり平川は歯を食いしばり、きっぱりと答えた。
「言いました」
「――俺は、嫌な思いをしていない」
「えっ?」
「お前に想われても、不快じゃない。だから辞める必要はない」
「……それって?」
「だが、お前と今すぐ付き合う気もない」
平川が小首を傾げて考え込む。そして納得がいったように頷いた。
「つまり、私は司先輩に振られたけれど、部活は辞めなくてもいいってことですか?」
「振った覚えもない。お前次第――いや、お前と清田主将の頑張り次第だな」
「……あの、意味がよく分かりません」
困ったように眉を下げる平川に、つい口元が緩む。
「お前が頑張って俺好みの女になったら、付き合ってやる」
別に、今のままのこいつでは付き合いたくないというわけじゃない。
常にジーパンTシャツ、子供っぽい性格のこいつに女としての魅力はほとんどないが、入部した頃に比べれば別人のように変わったし、まぁ、それなりに可愛くもある。
だけどこいつは目標があればとことん努力できるやつだから、もう少し清田主将と共に頑張ってもらおうじゃないか。
他の男に行きさえしなければ、急いで手に入れる必要もない。
平川は驚きに目を見開いたまま固まっていたが、はっと我に返ると急に顔を赤らめ、モジモジと動きだした。
「つ、司先輩の好みの女性って、どんな人ですか?」
本当に素直だよな、こいつ。
「色気のある女」
あえて一番難しそうな課題を与えると、平川がパカッと口を開け、分かりやすく衝撃を受けたようだった。
また涙目になってしばらく考え込んだ後、おずおずと顔を上げてくる。
「司先輩、先輩に40ヤード走で勝ったら、では駄目ですか?」
どこまで体育会系なんだよ。それじゃ、待つ意味が全くないだろうが。
「だめだ。大体お前、俺に勝てるとでも思ってんのか?」
「かなり難しいとは思いますが、色気を身につけるよりかは、遥かに実現可能な気がします」
真顔で答える平川に、思わず吹き出しそうになる。
「司先輩、私……お色気、頑張ります」
「俺が卒業するまでに間に合えばいいな。――そろそろ戻るぞ」
「あわわっ、片付け忘れてたっ! 私先に行きますね、先輩!」
少し前まで絶望的な顔をしていたのが嘘のように、平川が満面の笑顔を見せる。
そして、勢いよく駆け出した。