第25話 心にしみる優しさ
バタン、と大きな音を立ててドアが閉まる。
――怒らせた。先輩、さっき本気で怒ってた。
じわ、と涙がにじんできて、まくらに顔を押し付けた。
『大丈夫です、大したことはないんですよ』そう言いたかったのに、体に力が入らない。
心配をかけるつもりなんてなかったのに。怒らせるつもりも――。
今日は先輩に会いたくなかった。
一人でいっぱい泣いて、心の中で暴れているものを全部洗い流してしまいたかった。
『――香奈ちゃん、俺本気だから。司よりも絶対、大切にしてあげられる自信がある』
あんなにカッコいい泉川先輩から人生初の告白をされたというのに、考えるのは司先輩のことばかり。
どうして昔の彼女を見ただけで、こんなにショックを受けているんだろう。
後輩としてちょっと親しくなれたからって、いつの間にかその先まで勝手に夢見てしまっていたのかな。
バカみたい。そんなことありえないのに。
先輩が私のことを一人の女の子として見てくれることなんて、この先も絶対にありえないのに。
シャツの袖で涙をふき取り、大きく深呼吸をする。
早く泣き止まなきゃ。先輩が戻ってきた時に、目が赤いのがバレてしまう。
最近、なんだか泣いてばかりだ。大学に入ってから――ううん、この部活に入ってから、急に涙もろくなった気がする。前はこんな風に泣くことなんてほとんどなかったのにな。
ぼんやりとした頭で、心を落ち着けるために全く別のことを考えてみる。
そうだ、明後日の試合でデビューするみんなのことでも考えていればいいじゃない。
まずは小太郎、きっと少し緊張しているだろうな。とうとう憧れの司先輩と一緒に、あのフィールドに立つことができるのだから。チーム1位と3位、俊足二人の組み合わせなんて、ものすごく楽しみすぎる。
育太は真面目だから、今頃アメフトのビデオを見ながら黙々とイメトレでもしているんじゃないだろうか。ダンベルを軽々と振りながら。
そして守は……アメフトの勉強と称して、アメフトのゲームをのほほんと楽しんでいるに違いない。
一年生部員一人一人の行動を想像してみると、自然と気持ちが楽になってくる。
うん、大丈夫だ。体はきついけど、まだまだやれる。頑張れる。
全身に少しずつ力が戻ってくるのが感じられる。
ちょうどその時インターホンの音が響き、よろめきながら起き上がった。
「……はい」
誰だろう。司先輩にしては帰りが早すぎるよね。
「香奈、俺。大丈夫か?」
「育太?」
急いで玄関のドアを開ける。すると育太と小太郎が心配そうな顔でそこに立っていた。
「香奈ちゃん大丈夫? 顔が赤いね、熱でも出た?」
「あ、うん。そうみたいなんだけど大丈夫だよ。ごめんね、心配かけて」
「飯は食えた? 薬は?」
「食欲は全然なくて……。薬はさっき司先輩が様子を見に来てくれて、今買いに行ってくれてる」
「そっか、司先輩が。それなら大丈夫だね」
小太郎が安心したように微笑む。そして持っていたコンビニの袋を差し出してきた。
「これ、体調が悪くても食べられそうなものを買ってきたから、食欲出たら食べなよ。一年全員からの差し入れ」
袋を覗くと、食べきれないほど沢山のヨーグルトやプリン、レトルトのおかゆに混ざって、なぜかスティックチーズの燻製まで入っている。
「これ、守の?」
「そう、あいつ香奈ちゃんの部屋で見舞いついでにずうずうしく飲むつもりだったみたいでさ、みんなにバレて袋叩きにされた上に追い返されたんだ。本当はここにビールも入っていたんだけど、それはさすがにいらないだろうから抜いておいたよ」
守の見事なマイペースっぷりに笑ってしまう。
「ありがとう。もしかして、みんなで買いに行ってくれたの?」
「あぁ。午後からミーティングになってさ、それが終わってから全員でそこのコンビニに寄ったんだ。みんなも心配していたよ。毎日の練習で疲れがたまっていたんだろうって。ゆっくり休んで」
「明日も無理せず休めよ」
「うん……。ありがとね、小太郎、育太。明日もし行けなかったら、みんなにもお礼を言っておいてくれる?」
「わかった」
じゃあね、と手を振りドアを閉める。山盛りの差し入れを冷蔵庫にしまうと、ベッドにどさりと倒れこんだ。
一体何のウイルスと戦っているんだろう。ちょっと歩いただけで目が回るし、頭はズキズキして体がふらつく。
でも今は、心がすごく温かい。
こんな時だからこそ、みんなの優しさが身に染みる。
しばらくその感動を噛みしめていると、ガチャッと玄関のドアを開ける音がして、司先輩の声が聞こえた。
「入るぞ」
「あっ、はい」
慌てて布団にもぐりこむ。なんとか『ずっと寝ていました』という形を作った時、ドラッグストアの袋を手にした司先輩が部屋に入ってきた。
先輩、まだ怒っているのかな?
おそるおそる様子をうかがっていると、司先輩が一瞬冷たい眼差しを向け、ほら、と体温計を手渡してくる。
「あ、ありがとうございます」
計っている間の沈黙が重たい。やっぱりまだ不機嫌そうだ。
ピピッという電子音が聞こえ、司先輩が無言で手を差し出してくる。自分で確認もせず体温計を渡すと、それを見た司先輩が眉をひそめた。
「39度6分。――お前、バカだろ」
うわ、そんなにあったんだ。どうりできついと思った。でもバカって……何でバカ?
ちょっといじけながら先輩を見上げる。
「ここまで高ければ、普通は早く楽になりたいと医者なり薬なりを考えるものだろうが。寝てるだけで治るか、バカ」
またバカって言われた。でも先輩が来てくれるまでは、本当に何もできないぐらいにきつかったんだもん。
落ち込みながら頭まで布団にもぐろうとした時、また先輩が口を開いた。
「今から病院に行くか?」
「いえ、大丈夫です。おかげさまでだいぶ元気になりました」
「どこがだよ」
呆れたような声。でもさっきまでよりは、ほんの少し柔らかくなったような……。
ちら、と先輩の様子をうかがう。うん、さっきほどは怒ってなさそうだ。
「何か食えそうか」
「いえ、今はなにも……」
「じゃあ、とりあえず薬飲むぞ。起きられるか」
「はい、すみません」
先輩が薬2錠とスポーツドリンクの入ったペットボトルを差し出してくる。それをありがたく受け取って飲むと、またベッドに横たわった。
「適当に食えそうなものを買ってきたから、冷蔵庫に入れておくぞ。熱が高いから水分はこまめに取れ。明日になっても下がらないようなら病院に行くからな」
行くからなって……先輩が連れて行ってくれるって意味なんだろうか。
「聞いているのか?」
「あっ、はい」
先輩が袋を手にキッチンへと向かう。
「勝手に開けるぞ」
「はい、すみません」
冷蔵庫のドアがキュッと開いた瞬間、がさがさしていた音が一瞬止まった。
「あの、ついさっき小太郎と育太がみんなからの差し入れを持ってきてくれて」
「――考えることは同じだな」
あ、ちょっと優しい声。残念ながらここからでは顔が見えないけれど、もしかして今微笑んでいたりするんだろうか。
荷物を入れ終え、先輩がまた戻ってくる。
「司先輩、いろいろとありがとうございました。あの、お薬代とか」
「いい」
間髪おかずにきっぱりと拒絶され、もうそれ以上は言えなくなる。
「……本当にすみません、助かりました。でもあの、もう本当に大丈夫なので、先輩にうつらないうちに――」
また怒られるのが怖くて、目をそらしたまま一気に告げる。
少しの沈黙の後、司先輩の静かな声が聞こえてきた。
「お前にとっても、大事な試合だったんじゃないのか」
「えっ」
「必ず勝って、最高にいい気分で送り出してやりたい、そう言わなかったか」
「あ……」
「お前が来なければ部員全員が困る。明日は休め、そして明後日の試合には体調を万全にして戻ってこい」
司先輩がすっと立ち上がり、部屋を出ていく。
その背中を見つめながら、このみっともない泣き顔を見られなくてよかった、と心から思った。