第24話 モトカノ登場
残暑の厳しい8月の終わり。
清田主将たち最後のシーズン、秋季リーグ戦の開幕がいよいよ二日後に迫っていた。
しかも初戦は、まだうちが一度も勝ったことのないというあの因縁のF大学。
この数年間、打倒F大の目標を掲げて練習に打ち込んできたというだけあって、先輩たちの気迫は怖いほどに高まっている。
暑さから少しでも気の抜けた動きを見せる部員がいれば、容赦なく叱責の声が飛ぶ。
それでも部員全員がこの試合にかける思いは同じだったから、不満の声なんて全く出ていなかった。
――身体が変だな。なんだか今日、少し調子が悪いかもしれない。
すごくだるい。これって夏バテ? それとも、なったことはないけど熱中症にでもなりかけているのかな……。
清田主将の『絶対焼くな』の指示に従い、こんな気温の中でも私は長袖を着こんでいる。
頭には帽子、首にはタオル、わずかに出ている肌には強力な日焼け止め。
ぱっと脱いで薄着になれたら、少しは暑さもマシになるのだろうけれど。
何とかいつも通りの仕事をこなし、全体練習が終わる。
アフターなら少しぬけても大丈夫だろうし、一度涼しいところで休憩してこよう。今倒れたら、かえって迷惑かけちゃうもんね。
スポーツドリンクを飲み、クーラーボックスからアイシング用の氷を取りだしてお気に入りの休憩場所へと歩き出す。
汗を拭いながらふとグラウンドの上を見上げた時、白いワンピースを着た華奢な女の人がこちらを見下ろしているのに気が付いた。
誰だろう、あの女の人。ものすごく綺麗……。
ずっとグラウンドを見ていたみたいだけど、誰かの知り合いなのかな。
なんとなく気になりながらも、とりあえず日陰に移動し濡れタオルで氷を包む。それを首にあてると、横になって目を閉じた。
「ふわぁ、気持ちいい……」
今が一年でもっとも大切な時期。こんなところでバテるわけにはいかない。
先輩たちはまだアフターで練習するだろうし、私も少し休憩したら戻らなきゃ。
「香奈ちゃん」
ふいに名前を呼ばれ、慌てて目をあける。
「あ、泉川先輩、こんにちは」
「大丈夫? 具合でも悪いの?」
「あぁいえ、少しバテちゃっただけなので大丈夫です。ラグビー部も、もう練習は終わりですか?」
「うん。今日は午前中だけ」
「じゃあ同じですね」
そう言って笑うと、泉川先輩が私の隣に腰を下ろした。
「――さっきさ、アメフトの練習見てる女の子がいたの、気づいた?」
「あぁ、もしかして白いワンピースを着た女の人ですか? 見ましたよ、とってもきれいな人でしたね」
「あれ、司の彼女だよ」
さらりと信じられない言葉が出てきて、耳を疑う。
「――え?」
泉川先輩は動揺する私をじっと見つめ、また口を開いた。
「あぁ、彼女ではないか。モトカノだ」
「でも……司先輩って、女の人嫌いなんじゃ?」
「いや、別に女の子全部が嫌いってわけじゃないよ。あいつが嫌いなのは男に群がってくるタイプの女の子とか、男子部のマネージャーをする女の子とか――これはもう大丈夫みたいだけどね」
泉川先輩のフォローも、耳をかすめるようにして通り過ぎていく。
そっか……司先輩って、彼女いたんだ。いや、あれだけかっこいい人なんだもん、むしろいなきゃおかしいと思う。
だけど――その相手があんなにも完璧な女の人だったことが、すごくショックで堪らない。
やっぱり司先輩にとっての恋愛対象って、あれぐらい綺麗な女の人たちなんだ。
「香奈ちゃん、大丈夫? ……香奈ちゃん?」
「――え?」
名前を呼ばれていたことにやっと気付き、顔を上げる。
「泣きそうな顔してる。そんなに司が好きなんだ?」
何気ない一言に、思わず息をのんだ。
「……好きじゃないですよ。前にも話した通り、部活に恋愛を持ち込んだりしないって司先輩と約束してますから」
「約束してたって自然と好きになるのはどうしようもないだろう? いつも隣のグラウンドから香奈ちゃんの様子を見ていて、そうなんじゃないかなって思ってたよ」
私って、そんなに分かりやすかったの?
たしかに、好きになるのはどうしようもなかった。
やめようって思っても、どんどん、どんどん先輩に惹かれていって。
約束は絶対に守るつもりだったけど、自分の心の中にだけ留めておけば許されるって思ってた。
司先輩に気付かれたらお終いなのに……ちょっと近づけたからって、浮かれすぎていたのかな、私。――泉川先輩にもバレてしまうほどに。
「……そろそろ練習に戻ります」
いたたまれない気持ちになって立ち上がった私の腕を、泉川先輩がグッと掴む。
「そんなにきついならさ、司なんてもうやめちゃえば?」
「え?」
「やめて、俺なんかどう? 香奈ちゃん」
急に真顔になった泉川先輩の言葉に、頭の中が真っ白になった。
*****
「おい小太郎、平川どこ行った」
「えっ、さっき向こうの日陰で休憩してくるって言ってましたけど……遅いですね、俺見てきましょうか」
「いや、いい。自分で行く」
そのままグラウンドの脇にある芝生の場所へと向かう。
あいつ、今日は朝から様子がおかしかった。顔色も悪いし、どこか動きも鈍かったように思う。
体調が悪いなら早く上がれと言いたかったのに、清田主将につかまって余計な時間を食ってしまった。
緩やかな斜面の上に立ち、木陰へと目を向ける。
――いた。平川と……泉川? あいつ、なんで平川の腕なんか掴んでいるんだ。
「おい、平川!」
声をかけると、平川が大きく肩を揺らして振り返る。
その気まずげな顔に、そして隣でうっすら笑みを浮かべる泉川に、わけもなく苛立った。
「お前、具合悪そうだったけど大丈夫なのか?」
二人に歩み寄りながら尋ねると、平川が慌てて頷く。
「すみません、大丈夫です」
その返事とは裏腹に、やっぱりどこか調子が悪そうで、いつものような明るさが見られない。
どうしてここに泉川がいるのかは知らないが、平川は単に具合が悪くて休んでいただけなのだろう。
「顔色が悪い。今日はもういいから上がれ」
「……はい」
しばらく迷い、平川が素直に頷く。泉川がやっとその腕を放した。
「香奈ちゃん、またね」
平川は黙ったまま頭を下げると、俺のもとに駆け寄ってくる。グラウンドへと続く斜面を登りながら、その様子をうかがった。
「家まで一人で帰れるか?」
「はい。ちょっとバテただけなので大丈夫です。……すみません、こんな大事な時期に」
「いや。気をつけて帰れよ」
なぜか平川が泣きそうな笑顔になる。
「お先に失礼します」
「……あぁ」
その笑顔が、やけに目に焼き付いた。
――その日の夕方。
体調の悪そうだった平川の様子をみるため隣の部屋を訪ねると、インターホンを鳴らして返事を待った。
「おい、平川、いるか?」
何度か鳴らしてみたが返事がない。さっき自分の部屋から平川の携帯に電話をかけてみた時も同じで、呼び出し音はなるのに、全く反応がなかった。
元気になって出かけているのならいいが、部屋で倒れている可能性もある。
ドアを数回、強く叩く。
「おい、平川!」
しばらく待っていると中から鍵を開ける音が聞こえ、すぐに何かが倒れるような大きな音が響いた。
「お前、大丈夫か?」
ドアの前に倒れている平川を起こして額に手を当て、その熱さに驚く。
「熱が出たのか、何度だ?」
「……わかりません」
「は?」
「あの、うちまだ、体温計なくて」
「……薬は」
「それもないです。あの、先輩にうつるといけないので、もう……」
起き上がる力もないくせに俺を押しのけようとする平川に、思わず声を荒げる。
「こんな状態になっていながらなぜ言わない! 俺に言いにくいなら、小太郎や育太に電話すればすむ話だろうが!」
平川がびくりと体を縮める。
抱きあげて部屋に入ると、ベッドの上に下ろした。
「あの、先輩、本当にすみません……でも、小太郎や育太にも、絶対にうつしたくないんです。明後日のデビュー戦のために、今まであんなに頑張ってきたじゃないですか。司先輩にとっても、明後日のは一番大切な試合で……。私は寝ておけば治ります、だからもう……」
俺に怯えつつも何とか追い返そうとする平川に、自分でも不思議なほどの苛立ちがこみ上げる。
なぜもっと頼らない。なぜいつもいつも自分を犠牲にして人のことばかり優先する。
「――薬を買ってくる。寝て待ってろ」
怒りを押し殺し、声をかける。
「先輩……」
まだ何か言いたげな平川を無視し、足りないものを用意するため部屋を出た。