第21話 男の純情、女の打算
8月に入ると、午前中の練習でも一層うだるような暑さになってきた。
3週間後に迫った秋季リーグ戦開幕に向け、週3日の割合で午後にも練習が行われるようになり、ますます部活一色の毎日だ。
1年生もそれぞれのパートが正式に決まり、今はもう秋季リーグ戦でのデビューに向け、実戦的な全体練習にもしっかり混ざって頑張っている。
中でもOL(オフェンスライン)育太とRB(ランニングバック)小太郎の成長は著しくて、秋季リーグでの活躍が特に期待されている。
QBの翼先輩とRBリーダーの司先輩は小太郎が希望するだけアフターに付き合い、他のRBのメンバーも含めて根気強く指導をしてくれていた。
「お疲れ様でした!」
今日もどのパートよりも遅くアフターを終えた小太郎たちに飲み物を差し出すと、小太郎が申し訳なさそうに微笑んだ。
「ありがとう、香奈ちゃん。いつも遅くまで付き合わせてごめん。腹減っただろ?」
日が暮れてボールが見えなくなるまで続けられていたため、もうすっかり晩ご飯の時間だ。
お腹がすいて耐えられなくなった守は、一足先に帰っている。
「そんなの全然気にしなくていいよ。試合も近いんだし、せっかく先輩たちが付き合ってくれるんだから、思う存分練習しておきなよ!」
試合での不安や緊張を少しでも和らげるためには、めいっぱい練習を重ねて自信をつけるのが一番だもんね。
「おい、そろそろ部室に戻るぞ」
「はい! あ、司先輩ありがとうございます!」
先日、司先輩の目の前で段差を踏み外して大ゴケしてしまったせいか、先輩がさりげなく私の荷物の一部まで持って行ってくれる。
残りの荷物を慌ててまとめると、ダッシュでその後ろ姿を追いかけた。
「司先輩、お腹減りましたね!」
「あぁ」
「今日も遅くまでご苦労様です。一年生のみんなの秋季リーグ戦でのデビュー、すごく楽しみです。何人ぐらい出られますかねぇ」
「さぁな、試合の状況にもよると思うが」
うーん、こうして隣を歩いても、本当に嫌な顔をされなくなったなぁ……。入部した頃なんて、私が視界に入るだけでも嫌そうに目をそらしていたのに。
ところで、さっきから小太郎が微妙に距離を置いて後ろを歩いているのは何故だろう。こっちに来て一緒に歩けばいいのに。
「――おい、お前がこの前話していた育太の女って、あいつのことか?」
「えっ?」
司先輩の視線の先を追うと、暗くてよく見えないけれど、確かに育太と髪の長い女の子の姿が見える。
「あ、そうですよ、きっと! 育太のことを待っていたんですかね」
二人でいる姿を目撃するのは初めてだ。
邪魔するのは申し訳ないけれど、ここを通らないと部室に帰れないんだから仕方がないよね。
ドキドキしながら歩いていると、ふいに司先輩が私の腕を掴み、立ち止まった。
「……司先輩?」
先輩は黙ったまま、じっと前を見つめている。どうしたのかともう一度育太たちに目を向けた時、女の子の少し苛立ったような声が聞こえてきた。
「だから、どうして話だけでもしてくれないの? まだ聞いてみてもいないんでしょう?」
「何度頼まれても、それはできない。申し訳ないが他をあたってくれ」
「どうして? ちゃんとできない理由を言ってよ!」
――これって喧嘩? でもなんで? 二人は上手くいっていたんじゃないの?
一方的に責められている育太は怒るでもなく、ただ静かに彼女を見下ろしている。……ううん、分かりにくいけれど、少し悲しそうな目をしてる?
「司先輩はそういうのを好まない。だから言えない」
「上原さんが本当に嫌がるかどうかなんて、聞いてみなきゃ分からないじゃない! 私がアメフトの人と仲良くなったって友達みんな知ってるの。今更コンパのことを上原さんに聞いてさえもらえなかったなんて言ったら、私がみんなに怒られちゃうよ!」
――コンパ? あの子、司先輩とのコンパを育太に頼んでいるの?
でもなんで? あの子は育太が好きだったはずだよね。だからこそ育太に声をかけてきたり、食事に誘ったりしていたはずで――。
「ねぇ育太くん、私たち友達だよね? どうしてこんな簡単なお願いひとつ聞いてくれないのよ」
何度頼まれても、怒られても、育太は頑なに断り続けている。
これって多分、私のせいだ。
私が前に、司先輩のトラウマや妹さんのことを育太たちに話したから……だから育太は気を使って断ってくれているんだ。
小さなため息をつき目を伏せた育太を見て、我慢できず駈け出した。
「香奈!?」
育太が驚きの声を上げる。
「ごめんなさい、あの、話が聞こえちゃって。どうしてそんなに司先輩とコンパしたいのか分かりませんが、司先輩は本当にそういうの好きじゃないんです。人づてに頼んだりされるのは一番嫌がると思います。だから育太を責めずに、自分で聞いてみてください」
不機嫌さを隠そうともせず私を見つめ返す彼女に、悲しい気持ちでいっぱいになる。
どうか私の勘違いでありますように。ちゃんとこの人が、育太のことを好きでいてくれますように――。
そんな願いも虚しく、返ってきたのは優しさの欠片もない、冷たい声だった。
「あなたには関係ないでしょう? 私は友達の育太君に頼んでたんだから。――ねぇ育太くん、春の試合を見て、私も友達も上原先輩の大ファンになったの。育太君に頼むのはこれで最後にする。お願いだから一度だけ聞いてみてよ」
あぁ、やっぱり……。この子が好きなのは育太じゃない、司先輩だ。
涙がじわりとにじんできた時、すっと誰かが隣に立った。
「そういうことは直接俺に言って来い。こんなくだらない話で俺の後輩をわずらわせるな」
冷ややかな眼差しと低い声にひるむこともなく、その女の子が極上の笑顔を見せる。
「上原先輩! あの私、人文学部一年の――」
司先輩はその呼びかけも笑顔もあっさり無視して、育太に向き直った。
「育太、悪かったな」
「いえ。俺のほうこそ、すみません」
その言葉にかすかに微笑むと、先輩が部室に向かって歩きだす。
その姿を呆然と見ていた彼女が、綺麗な顔をゆがめて育太を睨み付けた。
「もう、かえって印象悪くしちゃったじゃない! 最初から素直に聞いてくれていれば、こうはならなかったのに……本当に使えない人!」
あっさりと背中を向けて立ち去る彼女に、胸が詰まって言葉が出てこない。
「……育太……余計なことして、ごめんなさい」
――使えない人、だなんて。
話に割り込まなきゃよかった。司先輩のトラウマのことも話さなきゃよかった。
そうすれば少なくとも、あんなに酷い言葉を育太に聞かせなくてすんだのに……。
俯いて、泣きそうになるのを必死に堪える。涙がぽたぽたと地面に落ちたとき、だれかが優しく頭を叩いた。
「育太、香奈ちゃん、今日は楽しく飲もうか」
「……小太郎?」
「あぁ、そうだな。行こう、香奈」
いつの間にかすぐ近くに立っていた育太と小太郎が、かわるがわる頭をポンポン叩いて慰めてくれる。
ますます泣きそうになったけれど、急いで涙を拭い、顔を上げた。
「うん! それじゃあ、まずは晩ご飯からね」
「あぁ」
「腹減ったなー、何食べたい? 二人とも」
夜空に綺麗な三日月が見える。
耳にはにぎやかな虫の鳴き声。
いつも通り笑顔で接してくれる二人に感謝しながら、すっかり暗くなった道をまた歩き始めた。