第14話 恐怖の朝part1
深い、深い海の底からゆっくりと浮かび上がるように、意識が少しずつ引き戻されていく。
ぱちりと目を開ければそこは見慣れた自分の部屋で、カーテン越しに明るい光が差し込んでいた。
「ふわぁ、よく寝た……」
ちょっと寝すぎちゃったのかな? 少し体がだるいみたい。
今何時だろ。もしまだ早い時間なら、いつものジョギングでひと汗かいて――
むん、と勢いよく起き上がる。体にかけていた布団がずり落ち、しわくちゃになったスーツが目に入った。
「……なにこれ」
なんでスーツなんかで寝ていたんだろう?
「昨日は……そうだ、新歓コンパがあって……ビールをいっぱい飲まされて……んん?」
なんだか記憶があやふやで、すっきり思い出すことができない。
必死に記憶をたどり、やっと断片的に思い出せたのは……真っ白でつややかなお尻、トイレで背中を擦ってくれた大きな手の感触、そしてこの部屋で誰かに話した、幸子の呪い――。
「……大変なことを、しでかしたような気がする」
ふらりとベッドを降りれば、テーブルの上に見慣れない字で書かれた置手紙があった。
『起きたら鍵を取りに来い。上原』
「上原って……司先輩? ――ってことは、ここまで運んでくれたのは司先輩ってこと!? うわぁ、大変だぁー!!」
アメフト同好会に入部して、まだほんの数週間――――早くも解雇の危機みたいです。
*****
冷たいシャワーに打たれ、身と心を清めたあと。
私は相当な覚悟をもって、司先輩の部屋のインターホンに指をのせていた。
絶対怒ってるよね? 間違いなく怒ってるよね?
あぁ、もう一度昨日に時間を戻せたらいいのに……。
先輩に会うのが怖くてたまらない。でも一刻も早く謝罪して、すっきり楽になってしまいたい。
「えいっ!」
ぐっと指の腹でボタンを押す。しばらくするとカチャッと鍵を開ける音がして、ドアが開いた。
「正気に戻ったか、酔っ払い」
司先輩がいつもの無表情な顔で見下ろしてくる。
先輩もシャワーを浴びたばかりなのかな? まだ髪が少し濡れていて、とってもセクシー……なんて現実逃避をしている場合じゃなくって!
「きっ、きき昨日は申し訳ありませんでしたっ!! あの、わた、わたわた、一体、何を!?」
あぁ、恐怖のあまりまともにしゃべれない。
「とりあえず入れ」
「えっ!?」
一瞬聞き間違いかと思ったけれど、先輩はさっさと部屋の奥へ入ってしまう。
――なんで? なんでいきなり先輩の部屋になんて上げてくれるの?
もしかして、私――――玄関先では話せないほどのことを、しでかした?
「……終わった、かも」
一気に絶望的な気持ちになりながら、先輩の後を追った。
司先輩の部屋は、とても男の人らしい、黒を基調とした落ち着いた部屋だった。
「そこに座れ」
「はい」
先輩は部屋の中央に置かれた小さなテーブルの前に私を座らせると、キッチンへと向かって歩いていく。
自分の部屋と同じ間取りでありながら、まったく違う雰囲気をもつ司先輩の部屋。本当ならいろいろと観察したいところだけど、もちろんそんな心の余裕などない。
「お前、なに正座してんだ」
お茶のボトルを二本持ってきた司先輩が、いぶかしげな顔で私を見る。
「あの、だって……私、相当ひどいことをやらかしたんですよね? 玄関先では話せないほどのことを」
「あぁ、そういうことか」
司先輩が私の正面にドカッと腰を下ろす。座っていてもやっぱり大きくて、その体格差がますます恐怖心を煽った。
「昨日のことは覚えていないのか?」
「はい、所々しか……。私、きっと具合が悪くなって、ここまで司先輩に運んでもらったんですよね? ご迷惑をおかけして本当にすみません」
「運んだのは俺だが、具合が悪くなったお前を介抱していたのは育太だ。礼ならあいつに言え」
あぁ、トイレの記憶は育太だったのか。かなり顔を合わせ辛いけれど、ちゃんと謝っておかなくちゃ。
「――平川、お前マネージャー辞めろ」
「え」
何の前置きもなく突きつけられた言葉に、頭が真っ白になる。
言われるかもしれないと、覚悟はしていた。だけど……こんなにもあっさりと言われてしまうなんて。
「……やっぱり私、昨日ものすごくご迷惑をかけてしまったんですね?」
自然と涙がにじんでくる。
でも、これもきっと女の弱さや甘えに含まれるよね。最後の瞬間まで、泣いちゃ駄目だ。
「そういう意味じゃない。お前、もともと希望してなかったのに清田主将に無理やりマネージャーをやらされたんだろう? 清田主将には俺から話してやる。だから、辞めろ」
司先輩の言葉は簡潔すぎて、そこに含まれた気持ちを読み取るのは難しい。
「昨日のことが理由でないのなら、なぜですか? ……やっぱり、私がいるのは嫌ですか?」
これが最後になってしまうのなら、ちゃんと司先輩の顔を見てその気持ちを聞いておきたい。
しばらく互いに黙ったまま見つめあった後、先輩がまた口を開いた。
「お前、6年間も陸上を頑張ってきたんだろう? なぜその努力を無駄にする」
「――えっ?」
「お前の部屋にあった写真を見た。あれだけの成績を残しておきながら、なぜ人の世話ばかりをするマネージャーなど引き受けるんだ。陸上にしろ他のスポーツにしろ、お前の速さと体力があればいくらでも活躍の場があるはずだ」
それって……私のことを心配してくれているのかな? 邪魔だからってわけじゃなく。
「アメフトに興味があるのなら、女でも安全に参加できるタッチフットボールという競技がある。この大学にはないが、誰でも入れるクラブチームが県内にあるようだ。そこに行ってみたらどうだ」
先輩がパソコンからプリントアウトしたような紙を差し出してくる。それを受け取りながら、また涙がじわりと滲んできた。
――あぁ、本当だ……泉川先輩の言う通りの人だった。
言葉はきつくてそっけないけれど、面倒見のいい優しいヤツだよって……。あんなに嫌がっていた私のことまで、ちゃんと考えてくれていたんだ。
嬉しくて、嬉しくて、なぜか胸が苦しくなる。
「……司先輩、心配してくださってありがとうございます。でも私、このまま続けさせてほしいんです」
黙って先を促す先輩に笑いかける。
「私、陸上は自分の意思で始めたわけではないんです。母に唯一許してもらえたスポーツがそれだったから始めただけ。確かに6年間必死に頑張ったけれど、本当はいつも、どこか物足りなさを感じていました」
タイムが縮まればもちろん嬉しかったし、結果を残せたという達成感も得られた。
それでも、本当にやりたかったものはこれじゃないのにって、どこか冷めた気持ちでいたのも確かで……。
「大学に入って、やっと母から解放されて、今度こそ自分のやりたいことをやろうと思いました。スポーツは好きだからまたしたいけれど、次は仲間との友情を深められるような団体競技がいいな、人と争うのはあまり好きじゃないから、レギュラー争いが激しくないようなものが何かないかなって考えていました」
そう、あの日清田主将とともにグラウンドの上に立ち、司先輩の走りに出会うまでは。
「清田主将に勧誘されて、たしかに最初はあまり乗り気ではなかったけれど、だんだん先輩たちに仕事を任してもらえるようになって、仲のいい友人もできて、ちゃんとチームの一員として認めてもらえたような気がしたんです。自分がプレイヤーとして活躍することはできなくても、違った形でチームに貢献できて感謝してもらえるのって、すごくやりがいのあることだと思ったんです」
今までの6年間が無駄になるとも、もったいないとも思わない。
それがあったからこそ、私は今まさに、理想の居場所を手に入れることができたのだから。
「私、BLACK CATSの個性豊かなメンバーが大好きです。今から他のチームに移りたいとは思いません」
「……後悔しないんだな?」
真っ直ぐに見下ろしてくる司先輩の目を見つめ返し、きっぱりと答える。
「はい」
「……わかった」
一気に緊張が緩む。
正座していた足が痺れていることに気付いて、そっと足を崩した。
「司先輩、先輩の部屋って、落ち着いていてすごく居心地がいいですね」
余裕が出たとたん周りの景色がはっきりと見えてきて、思わずきょろきょろと部屋の中を見回してしまう。
ベッド、テレビ、テレビ台などの家具や家電は殆ど黒一色で統一されていて、適度な綺麗さで片付けられていた。
「お前の部屋は最悪だな」
「本当に最悪ですよ。私、物心ついてからずっとあんな物に囲まれているんです。恐ろしいことにいつまで経っても慣れないし、愛着もわきません」
「確かに、あそこまでいくと呪いのようだな」
先輩がふっと微笑んだのを見て、思わず息をのむ。
「わ、笑った!!」
「は?」
「初めてですよ、先輩が私に笑顔を見せてくれたのって!!」
「そうか? ま、最初で最後かもな」
「ああっ、また笑った、フンって笑った! すごい、ダブルだ!」
「うるさい。お前もう自分の部屋へ帰れ」
調子に乗りすぎたのか、司先輩の声がぐっと低くなる。
「す、すみません、朝からおじゃましちゃって」
おたおたと立ち上がり玄関へと向かう。
最後にもう一度先輩を振り返ると、あらためてお礼を言った。
「先輩……本当にありがとうございました」
昨日のことも、そして今日のことも。
「あぁ」
いつも通りの、そっけない返事。
でもその声が今までよりずっと身近に感じられて、頬がしまりなく緩んでくる。
私はとても幸せな気持ちで、先輩の部屋を後にした。